一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『再婚生活』

2008-05-31 | 乱読日記

タイトルと異なり、中身は著者の「うつ」との闘病生活の日記になっています。

吾妻ひでおの『失踪日記』との対比に興味があって読んでみました。

本書は闘病記をふり返るのでなくリアルタイムで日記をつけそれが月刊誌に掲載されていたものです。
その点では『うつうつひでお日記』のほうに近いです。


両者の違いを一言で言えば、山本文緒氏の「まじめ」と吾妻ひでお氏の「罰当たり」。
これは山本氏がこのエッセイの仕事をしながらうつが悪化したのに対し、吾妻氏は入院中につけていた日記を

貧乏でヒマだったんで、これを漫画にして出したら食っていけないかなって思って

出版社に持ち込んだ、というもの。
なので、吾妻氏はホントになんにもしない(できない)日常をつづっています。

一方で山本氏は一時の中断はあるもののうつが悪化して入院しながらも連載を続けています。
本書にはしばしば

賞をもらい、山手線の円の中にマンションを買い、再婚までして

というフレーズが出てきます(この本を読むまで知らなかったのですが山本氏は直木賞作家だそうです)。
そして、秘書も雇い、札幌に夏用の仕事場を持ち、元気なときには買い物や夜遊びにも繰り出しと、経済的には不安がなさそうなところも吾妻氏とは異なります。


それがかえってよくなかったのかもしれません。

守るべき生活スタイルとかあるべき自分の姿へのこだわりが随所に見られます。
入院中にダイエットとか気にしている場合じゃないだろう、とか読んでいるほうが心配になるくらいです。

とはいっても、自分がそういう状況になったときに、「落ちるとこまで落ちて楽になっちゃえ」と開き直れるか、「ここでふんばって早く元の生活に復帰しよう」と考えるかというと、やはり後者を選びそうに思います。
まあ、吾妻しひでお氏もアルコール依存症で入院までしたくてしたわけではなく、結果的にそこで開き直れたわけですし、前者を最初から選べる人ならうつにはならないですよね。

結局、絶対値(あるべき自分の姿とか以前の自分)と比べすぎてもよくないし、変化(これができるようになった、あれができなくなった)にこだわりすぎてもよくない、というなかで、のんびりとではあるが回復を目指すというところに、うつの難しさがあるように思います。

そう考えると『問題は、躁なんです』で春日武彦先生が書いていた

うつが自然で躁が不自然、これが人の心の基本的な構図であるように思われる。

という言葉が思い出されます。


だとすると、「自然には逆らえない」くらいの気構えでいることが大事なのかもしれませんね。






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『ニッポンの小説 百年の孤独』(下)

2008-05-30 | 乱読日記
昨日の(上)を書いたのはかれこれ2週間くらい前だったのですが、そのあと肝心の本書の感想を書こうと思ってなかなかまとまらず、放っているうちにますますやる気がなくなる、という悪循環にはまり込んで、(上)のほうもドラフト状態のままほうっておきました。

まあ、誰に頼まれたわけでもないので、面倒くさければやめればいいのですが、書棚にしまうのもどことなく気が引けたままPCの脇に本書がドン、と鎮座しているのもどうも目覚めが悪いので思い腰を上げることにします。
なので、ちょっと温度が冷めてしまっている文章になりますがご容赦を。

本書は講義形式で著者がニッポンの小説について考える、という形をとっています。
 
話は近代日本文学(「ニッポンの小説」)に言文一致体という文体をもたらした二葉亭四迷から始まります。
この言文一致体がその後のニッポンの小説の文体の基本となっていきます。

 フタバテイは、新しい表現のツールを求めていた「ニッポン近代文学」に、裁量の武器を提供しました。
 「なにか」を表現したかった作家たちに、その「なにか」を表現することのできる言語を提供したのです。
 しかし奇妙なのは、その「なにか」がどのようなものであるのかは、実は問われなかった、ということです。
 いや、その「なにか」は「青春」であったり「近代人の内面」であったりすると近代史家は語ります。だがそれらを、「青春」や「近代人の内面」を描こうとした作家たちは、まず、「青春」や「近代人の内面」を描こうとしたのではありません。最初のうち、その「なにか」はなんでもよかったのです。
 その、なんでもいい「なにか」、ただし、新鮮で、手垢のついていない「なにか」を表現しようとして、若い作家たちはもがいていました。
 気がついた時には、その「なにか」は、明解な言葉として提示されていました。あとは、その「なにか」を表現する言語があればいい。そして言語はやってきたのです。

そうやって言語を獲得したニッポンの小説は「日本近代文学」になるとともに、その言語は「上手な文章」として特権的な地位を確立することになります。
しかしそれは、ニッポンの小説の発展を制約してきてしまっているのではないか、というのが著者の問題意識です。

これらの文章(注:島崎藤村から綿矢りさまでの4人の作家の文章)では、どの場合も、作者は、まずなにかいいたいことがあって、それからおもむろに、その内容を説明しています。そして、そのためには、言葉が必要だということになっています。もっと重要なのは、言葉というものが、細かく、ていねいに使われれば使われるほど、うまく説明ができる、ものだと思われていることです。

つまりニッポンの小説は、ニッポンの小説として確立された「小説として上手な文章」のもつ構造性(これはすべての言語がもっているのですが)に対して無批判である。その、表現したいことはすべて小説として表現できるという過剰な自信が、小説で表現したいことに制約を与えてしまってきたのではないか。

著者は自ら小説家として「ニッポンの小説」に対して違和感の正体をこのように解き明かしていきます。
結論を先取りしてしまいましたが、そこへの紆余曲折のプロセスが、思考実験として、そして昨日の冒頭の「ヴォイスを割る」実例とても面白く読めます。



僕自身は小説に対してはそのような違和感を持ったことはなかったのですが、世代的にはひとまわり上の全共闘世代のいわゆる左翼的な言辞には違和感を持っていたことを思い出しました(その関係で、演劇はずっと食わず嫌いだったりします。)。
また一方、それに対する右翼的な言辞にも左翼と共通の違和感を感じていました。
結局自らの言葉の構造性に無批判なところ(だからお互いに話がかみ合わないし、左翼同士ですらかみあわない)は共通していたわけです。

未だに強い言葉で熱く「正しいこと」を語られると、「ホントかよ?」と思ってしまうのは、このあたりの経験がベースにあるからかもしれません(なので「経営ビジョンの共有」なんて言われると、すぐ眉に唾をつけたくなってしまうんですよね・・・)。

もっともこれはサヨクなりウヨクなりの運動のありかたに起因するわけで、もとになる思想自体とは切り離して考えるべき問題です。
ということで最後も内田センセイのブログで締めます、最近の甦るマルクスというエントリから。

マルクスは私たちの思考に「キックを入れる」。
(中略)
マルクスを読んで「マルクスは何が言いたいのか?」というふうに訓詁学的な問いを立てるのは、あまり効率のよい頭の使い方ではない。
それよりはむしろ、「マルクスを読んでいるうちに、急に・・・がしたくなった」というふうに話が横滑りをし始めることの方がずっと楽しいことだと思う。
(中略)
マルクスを読んでいるうちに、私たちはいろいろな話を思い出す。
それを読んだことがきっかけになって、私たちが「生まれてはじめて思い出した話」を思い出すような書物は繰り返し読まれるに値する。
マルクスはそのような稀有のテクストの書き手である。

 

 

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『ニッポンの小説-百年の孤独』(上) 

2008-05-29 | 乱読日記

そもそものきっかけは、先日(といっても4/17のエントリなのでもう先月)ウチダ先生のブログ「ヴォイスを割る」 にあった、「私」のレベルをどこまで割れるか、すなわち「いまこの文章を書きつつある私のメカニズムそのものへの批評的自己言及」は難しいという話。

たしかに、自分を擬制的に「定型的なものいい」と「壊乱的なものいい」に二重化してみると、話はとんとんと進むけれど、最終的にこの言葉の基調音は「攻撃的で皮肉で嘲弄的な壊乱者」の批評性を上位においた秩序に帰着してしまう。
自己批評、自己否定の契機を自分は自分のエクリチュールにビルトインしていると思っている書き手のほとんどは実はただの「腹話術師」にすぎない。

つまりテキスト、語りの深度は、限りなく問いかけ続ける運動の中から生じる、ということなんだな、となんとなく考え、そういえばと東浩紀『存在論的、郵便的』を思い出したものの、広げてみると付箋がたくさんついていて、「ここを読めばポイントがわかる」なんて本ではないことも思い出し、まずはそこから始めようということに。
この本は全体が壮大な思考実験なわけで、再度斜め読みしてその一端にふれつつ、ああ、こういうことを書いていたんだったなぁ、とか以前はこんなのを読む気力があったな)と感慨にふける。

思考はplusを、すなわち「超」を扱う。デリダの「超」は存在者を転移=中継する(übertragen)。受容器(コーラ)として働くその「超」は空虚かつ中性的なものであり、ハイデガーの「超」、新しく出会う存在者をつねに自らの圏内へと置き換え同化し、まさにその置換作業によって自らをそれら存在者を超えたところに(über)据える(setzen)「超越論性」の運動がもつ、充溢した固有性を決してもたない。ハイデガーの思考は固有名を扱い、そこでは「思考」という哲学素もまた固有名化される。対してデリダの思考はコーラに曝され、そこでは「思考」という後はつねにブランクのまま放置される。その語はvouloir(*)の位相で相手と転移を起こすためのひとつの戦略拠点にすぎず、それゆえ自らは「何もvouloirしない」。以上がハイデガーとデリダ、存在論的脱構築と郵便論的脱構築とのあいだの理論的差異であり、またスタイル的差異である。
(* 間違っているかもしれない注:「欲する」という意味。ハイデガーにおいては存在者の領域に意志=感心が先駆する(さらに注:「ここで『関心』とは、存在者の場である世界全体を成立させながら、かつそれ自身すでに世界内に宿る現存在の自己言及的先駆性、つまり前掲図におけるクラインの管の循環構造を意味する」ああ、きりがない・・・)こととの対比)

そうこうしているうちに、内田先生のブログの最後に

「私」を割る技術の洗練について、さらに実例をおめにかけようということで、今度は高橋源一郎さんの『タカハシさんの生活と意見』の1頁を読む。これはあまりに凄い多元構造なので、残り時間ではとても解説できないので、また来週ね。

とあり、そういえば高橋源一郎の『ニッポンの小説-百年の孤独』も買ったまま読んでないことを思い出したというのがそもそものきっかけでした。


ということで、前置きが長くなりすぎたので、感想は次回に。 

 



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岸田屋

2008-05-28 | 飲んだり食べたり
ろじゃあさんのブログで『美味しんぼ』の山岡士郎と海原雄山の「歴史的和解」を知りました。


『美味しんぼ』といえば個人的には月島の居酒屋「岸田屋」。
かれこれ15年以上前(ひょっとしたら昭和の頃かも)に内輪でブームになっていて、週一回は通っていました。
で、なんでここが『美味しんぼ』なんだというと、連載の第5話目でここのモツ煮込みが取り上げられていたのです(詳しくは全巻全話がブログ形式になっている「美味しんぼ塾ストーリーブログ」参照)。


つながりがこれだけなんですが(汗)ろじゃあさんのブログを見てホント久しぶりに再訪しました。




店は月島の商店街にあります。
聞くところによると、元々は酒屋産だったのですが併設した立ち飲みコーナーが人気になってそっちが本業になったとか。

店内はこんな感じ(久しぶりなので無粋に写真など撮りまくってすいませんでした)





煮込みだけでなく他の料理も美味しく、なにより値段が安いのが魅力。
おとなしくつまんで飲むなら2000円もあれば十分です。

地元の常連客が多い(いつ行ってもいるオジサンとかいたなぁ)うえに我々のような隅田川を渡ってわざわざ来る客もいて、いつもにぎわってました。
開店も5時からなので、5時半くらいに行かないと第一クールに入れず、あとは上のように列に並ぶか、遅い時間に行くか(品切れになるおそれあり)ということになります。


相変わらずの行列に並んで、店に入ったのが8時半頃。

昔は娘さんがひとりで接客を取り仕切っていました。
彼女は親切なうえに非常に腰が低く、こっちが「そんなに気を使わなくてもいいですよ」と言いたくなるくらいのいい人でした。

その娘さんは結婚されて(そりゃそうだよな)今は関西在住だそうで、今は妹さんとアルバイト(推定)のお嬢さん2人(そろって美形)が接客しています。
ときたまおかみさんも顔を出します(この辺の話はおかみさんと昔話のなかで聞きました。)

残念なことにご主人がお亡くなりになってしまい、今は刺身系のメニューを扱っていないそうです。
更に残念なことに、当日煮込みは品切れ。
家族営業の店なのでそういうこともあるわいと、かわりにこれも美味しい肉豆腐




ぬた(箸つけちゃったあとの写真ですいません)




くさや(古い話ですが『がきデカ』で「慣れると美味しいくさやの干物」というギャグがありましたね)



などをいただきました。


昔と変わったところといえば、上に書いた以外には

1.生ビールを出すようになった
昔は瓶だけだったと思ったのですが。
小さいタンクが普及したのでサーバーを置くスペースができたのでしょうか。

2.トイレが改装された
昔は男子用の小便器しかなく、女性は厨房の奥の家のトイレをお借りするというシステムだったのですが、ついに普通の洋式便器になってました。
男の「大」は用を済ませてから、腹具合の悪い奴は連れて行かない、最悪の場合近くの公衆トイレを使う、という制約も趣のひとつだったのですが、実質的な改善も必要ですよね。


20年近く経って、いろんなことがあっても、変わらずに美味しいものを安く楽しめるという居酒屋の王道を行く店といえましょう。
いつまでもがんばって欲しいものです。

またときどき顔を出そうと思います。


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囚人のジレンマ

2008-05-27 | コンプライアンス・コーポレートガバナンス

toshiさんの昨日のエントリ内部統制報告制度と財務諸表の適正性確認義務との関係で、面白い話がありました。

財団法人日本証券経済研究所のHPに、ある金融庁(総務企画局)企業開示課長のM氏の講演録の話

「ストレートに言いますと、『内部統制は一切やる気がないので整備しませんでした。したがって内部統制には重大な欠陥があります。なぜなら、当社は上場したばかりで、コストもかかるし、赤字になって、会社にとってはマイナスだ。自分の営業スタイルは、こうすることによって粉飾決算を防ぐことができます』、こういうことが宣言できれば、そのとおりありのままに書けば、内部統制報告としては合格でございます。」

「気をつけていただくのは、その場合、内部統制には欠陥があるので、財務諸表が正しいかどうかというのは別途考えなければいけないので、『財務諸表には粉飾がありません。正しいんです。』ということは、経営者はどこかで説明をしないと、みんなは納得しないでしょう。その意味で経営者は必ず内部統制を整備すると思います。ただし、そのことと金商法24条の4の4とは法律的には別のことです。」

というくだり、について、toshiさんも疑問を呈しておられます。

私も素朴な疑問として、財務諸表の正確さについてどこかで(合理的に)説明できるのであれば内部統制を整備できているといえるわけで、その経営者が「内部統制には重大な欠陥があります」と公表すること自体がおかしいんじゃないだろうかと思いました(それってマイナス方向の誤解を誘うという意味で虚偽記載ですよね。)。
また、そもそも意図的に内部統制を整備しないとか重大な欠陥があると認識したうえで放置するというのは経営者にとっては(先に自社株を空売りしているのでない限りは)経済合理性がないように思います。

M課長のような例があるとしたら、合併かなにかで監査法人が変わるなどして今までのやり方がダメと言われたなど、監査法人から非常に厳格な基準を要求されて、「そんなのやってられまへんわ」と逆切れしたときぐらいではないかと。


で、そもそも何でこういう妙な議論が出るのかなと考えてみました。
本来そもそも「内部統制の整備」と「財務諸表の正確性の合理的な説明」というのは取締役レベルでは同じことのはずだと思うのですが、そこに監査証明という他人の目がはいることで「監査証明が出ない=内部統制に重大な欠陥がある」と遡及的に評価がされるあたりがややこしくなってしまうもとなのではないかと思います。
事前に問題は教えてあるから百点満点をとらなければいけないという試験だけど、採点する試験官には裁量の余地が残っているぞ、と脅かされているようなものですね。

ここが構造的には一種の「囚人のジレンマ」状態になっています

・お互いに評価基準が厳しいとコストばかりかかってしまう
・不正が発覚しない限りはお互いに評価基準を厳しくしない「協調戦略」が有効
・ところが片方が厳しい評価をして片方が甘い評価をしたときに不正が発覚すると、甘い評価をした方がより大きな処分を受け、場合によっては廃業とか上場廃止になってしまう。
・なので、相手を信用した場合のリスクが大きく、自己の損失を最小化するためには相手を信用しない戦略が有効

従来の会計監査も同じ構造なのですが、何しろ初めてだということ、評価が主観的なものにならざるを得ない部分が多いこと、さらに金融庁や証券取引所の「厳罰化リスク」(この意味では対金融庁のゲームでもあります)があり、「やってみないとわからない」というあたりが、MAX-MIN戦略をとらざるを得なくしているのではないかと思います。

「囚人のジレンマ」構造のゲームでいろんな戦略同士をコンピュータで戦わせた結果、(ゲームを複数回繰り返す場合の)一番有効な戦略は「オウム返し戦略」だったそうです。
これは、最初は協調から入り、相手が裏切った場合次の回では裏切りをする、というものが一番高得点になったそうです。

それと同様に最近の金融庁もあの手この手で「協調」のメッセージを送ろうとしているのかもしれませんが、企業や監査法人が今回のメッセージがが「最初の一手」と思うか、「この前裏切られたからなぁ」と思うかが微妙なところではあります。


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朝起きたら・・・

2008-05-26 | まつりごと

鹿沼市長は佐藤氏が初当選
(2008.5.25 22:55 msn産経ニュース)

土曜にゴルフ場でも選挙カーからの声が聞こえてきました。
広い市で人口密度が低いといろんなところを走り回らなくちゃいけないので大変だな~などと呑気に思っていたのですが、前市長が公共工事をめぐり暴力団組長と面会していた疑惑などがあり、けっこう注目されていた選挙だったようです(参照

結果は新人の佐藤信氏が現職を破って当選しました。

この佐藤候補の選挙カーの掛け声がふるっていて、「皆様のご支持を・・・」とか「あと一歩です」とみんな言うようなセリフにくわえ

「明日朝起きたらサトウシン、
 朝起きたらサトウシン、
 朝起きたらサトウシンをよろしくお願い致します!」

と連呼していました。

選挙カーは政策云々を語る目的でなく、投票所での記入の際のサブリミナル効果を目的としていることをこれほどはっきり言い切ったフレーズもないだろうと、ラウンド中の友人と大うけしました。
(昔の「8時だよ全員集合!」のエンディングの「歯磨けよ!」みたいですね)

そのおかげもあってかなくてか、サトウシンさんは見事当選されたようです。

サトウシン新市長が朝起きて真っ先に考える課題は何なのでしょうか。

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再生ゴルフ場

2008-05-25 | よしなしごと
久しぶりにプライベートのゴルフ。
なのでお気軽にネットで予約したところ。
破綻したゴルフ場を買い取ったファンドとかが稼働率を上げるためにビジターを呼び込みたいというニーズとネット予約がうまく一致したみたいですね。

今回は外資が買ったなかのひとつ。
どんな風に「再生」しているのか、上場させちゃって大丈夫?などという興味もありました。
予約サイトの評価や口コミを見ると、評価はまあ高いものの口コミは辛口のものが多め。

曰く、予約取りすぎで昼食2時間待ちだった。
曰く、グリーンキーパーがプレー中にもうろうろしていて目障り。
曰く、ティーグラウンドやグリーンが荒れている。
曰く、設備が古い。
などなど

もっともゴルフ場という商売は単純に言えば①稼働率を上げる(1日の組数を増やす)②単価を上げる③コストを下げる、というところが儲けの源泉です。
①のために早朝スループレーや薄暮プレーなども入れているところが多いので、待ち時間は仕方ないですし、コース整備をするのもプレーの合間を縫ってということになるので、仕方ないのかな、という感じではあります。


建物も、元は古いのは仕方ないにしても、ロッカールームやトイレなど多少手は入れており、これも個人的には及第点かなと。
逆に収益強化のために物販は強化していて、グッズ販売は街中のゴルフショップと同じくらいの値段です。一方でコース中の売店(自販機)の飲み物は500mlで250円としっかり足元を見てくれます。

人件費削減は徹底していて、スタート時もカートにバッグを載せておくから勝手に順番にスタートしてくれというだけで、何のブリーフィングもないのはびっくり。
カートにはいろいろ注意書きが書いてあるのですが、万が一事故が起きたときはゴルフ場側もまずいんじゃないかと心配になりました。

幸い今日は雨の予報だったのでキャンセルが出たらしく、昼食も40分とスムーズに回れました。
コースも早朝から薄暮まで酷使されている割にはよく整備されていると思いました。

フルに詰め込んだ場合にどれくらいになるのかはわかりませんが、今日くらいなら十分満足できるレベルだと思います。


若干の不満と言えば、ラフまでは手が回らないのか、伸ばしているというよりは延びているという感じで、逆にそれなりに難しくていいのですが、ときどきやたら深いところがあって、大体の落下点がわかっているのにボールが見つけられない、ということが何度かありました(逆にほぼ新品のボールをいくつか拾いました。まあ、フェアウエイに打てばいいんですけどね)。

そんなこんなでロストしたところの近くでドラえもんが描いてあるボール(ほぼ新品同様)を見つけました。
次のショートホールで「お願い、ドラえもん!」などといって使ってみることに。


ところがやはりウケ狙いなどという邪念が入るとろくなことはなく、案の定池ポチャ


あわれドザエモンになってしまいましたとさ・・・


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過剰反応

2008-05-23 | 余計なひとこと

こんなことが新聞ネタ、警察沙汰になる世の中というのはどうなんでしょうか。
警察だか教育委員会だかの発表なので脊髄反射的に記事にしてしまったんですかね。

小学校で実験中、塩化水素が漏れ出す…児童8人軽症
(2008年5月23日(金)18:53 読売新聞)  

23日午前11時20分ごろ、名古屋市 千種 ( ちくさ ) 区見附町、市立見付小学校(高桑恵一校長、児童数370人)の理科室で、6年生の児童が酸素の濃度を調べる実験をしていたところ、器具の接続を誤り、塩化水素が漏れ出した。  
近くにいた児童8人がのどの痛みやせきなどの異常を訴え、病院で治療を受けたが、いずれも軽症で間もなく帰宅した。
(中略)
本来なら、塩化水素は検知管内にある除去剤で取り除かれるが、誤って検知管を逆に取り付けたため、そのまま漏れだしたという。愛知県警千種署も詳しい原因を調べている。

そのうち

xx日午前10時30分ごろ、yy市zz中学の家庭科室で2年生の生徒がキャベツの千切りの実習をしていたところ、包丁の使用法を誤り生徒3人が指に全治3日の軽症を負い、病院で治療を受けたがまもなく帰宅した。
本来なら包丁はあまり大きく動かさずキャベツを持つ手の第一関節と第二関節に当てながら滑らすように使えば指を切ることはないが、今回事前の指導が不十分であったとしてyy警察署は担当の教諭から事情を聞いている。

なんてことになるのでしょうか。
そのうち理科や家庭科はビデオを見るだけ(家庭科は食べるだけ?)になってしまいそうですね。


危険な薬品を使うときには実験手順に注意しないと危ないとか、変な臭いがしたら注意しろ、ということを身をもって知っただけ良かったと思うのですが。

先生も事情聴取などにめげずに、無味無臭な危険物質こそ危ないこと(だから都市ガスはあえて臭いをつけていること)などについてこれを機会に教えてあげたらいいと思います。


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カイゼンの残業代のカイゼン効果に期待

2008-05-23 | あきなひ

トヨタ、「カイゼン」に残業代=QCサークルを業務と認定
(2008年5月22日(木)10:30 時事通信)  

従来は月2時間までとしていた残業代支給の上限を撤廃する。

流れとしてはそうなんでしょうね。
逆に「カイゼン」が得意なトヨタであればコスト意識が高まることでQCサークル自体の「カイゼン」につながるのではないでしょうか。


従来は従業員への分配はQCサークルによる付加価値をベースアップやボーナスという形で還元していた、という構造なのでしょうが、それが「きれいごと」「タテマエ」だ、という従業員の納得が得られなくなった場合には、残業代を支払え、という要求が遅かれ早かれ出てくるのでしょう。

また、一般的には上のような利益配分はうまく機能しない(公正な配分が難しい、経営者とのマインドとして配分したがらない)ので、労働基準法は労働時間で精算しろ、と決めているのだと思います。

そのほうが効率的になるという側面と、そうでない側面があり、なかなか難しい問題ではありますね。


裁量労働制が認められている弁護士についても、大手ローファームはタイムチャージで精算してきますが、同じような案件で報酬が大きく違う(単価が安くてもとても時間をかける人がいるとか)ということがあり、いまひとつ納得感がないことがあります(弁護士への配分はどうなっているんでしょうか)。

一方で、役人は国会の会期中は議員の質問への回答作成のために深夜まで待機しているということが通例のようです(特に民主党はギリギリまで質問提出をしないことが多いとか)。
少なくとも上級職の職員は役職がなくてもこれに対して上限なしで残業代が出るという話は聞いたことがないのですが、これもきちんと払え、ということになるのでしょうか。

そうすると、「行政改革」を叫んでいる国会議員も、国会質問をギリギリまで引っ張らずにきちんと「○日前の×時まで」に提出することが求められるようになります。
前倒しにすることで各党や議員のスタッフにサービス残業をさせるわけにはいかないとなると、最終的には国会議員自身も常に問題意識を持って効率的な仕事に取り組まざるを得なくなります。


うーん、それはいいかもしれませんね(笑)

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「買収仲介」と「コンサル」

2008-05-22 | あきなひ

脱税:買収仲介で3億円、コンサル社長を告発…東京国税局
(2008年5月21日 15時00分 毎日新聞)

関係者によると、04年に健康補助食品「BOWS」を販売していた「バリアスラボラトリーズ」が、企業買収仲介会社などを経営する男性に売却された際、番場社長があっせん。手数料など約9億円を手にしたとみられるが、税務申告せず、所得税約3億円を脱税したという。

本件は脱税なのでしょうが、そもそもこれって有価証券の媒介になる(=金融商品取引業の規制にかかる)という論点があります。

「M&Aアドバイザー」という名目で実質は仲介(報酬体系が成功報酬だったり)というのが昔からあって、でも金融商品取引業者(昔で言うと証券業者)登録をしないでいてもなんとなくまかり通っていたのですが、そっちの切り口から金融庁も突っ込んでくれると、線引きがはっきりして面白いんじゃないかと思います。
まあ、本件は単発の取引で「業として」ではないのかもしれませんが。

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リーチ

2008-05-22 | まつりごと
Obama Declares Nomination Is "Within Reach"
(May 22, 2008 NYT)

この見出しを見て、マージャンの「リーチ」を連想してしまいました。

(ちなみに中国麻雀ではリーチ(漢字表記では「立直」と書かれています)というのはないらしいので(参照)、もともと英語が語源なのかもしれません)


でもリーチだけでは上がったわけではなく、更に相手が振込むか自分が自摸ることが必要です。
ヒラリー・クリントンが振りこむのを期待するわけにも行かないので、オバマ氏が上がるまでにはもうしばらく時間がかかりそうですね。


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「せんとくん」

2008-05-21 | よしなしごと

天漢日乗経由のネタ です。

私は知らなかったのですが、一部でその大不評が話題になっているらしい平城遷都1300年祭のオリジナルキャラクター「せんとくん」

確かに「微妙」などというレベルを超えたインパクトがあります。
こちらに4ポーズの絵柄があります)

「鹿と大仏」をそのまま合体させたコンセプトと妙な写実性は、クローン全盛のご時勢にふさわしいというかなんと言うか・・・


これに反対する奈良県在住のデザイナー達が「クリエイターズ会議・大和」を立ち上げ、独自のキャラクターを募集した結果600件以上の応募があり、そのうち30件でWeb投票を行っています(候補作はこちら)。

ただ、新しい候補作も「鹿」や「大仏」をモチーフにしたものが多く、目新しさには欠けます。
また、素人目には携帯ストラップやぬいぐるみ・着ぐるみなどへの展開が難しそうな細かい絵柄が多いのもどうなんだろうと思います。


私が面白いと思ったのは(天漢日乗さんと同じ)平城京をそのままキャラクターにしたこれ

 

色を変えて平安京とか藤原京などのシリーズにするのも面白いかもしれません。


または「キモかわいい」系のこれ

 

頭のツブツブの部分と耳たぶの部分が商品展開上の可能性を感じさせます(遷都記念にふさわしい商品かどうかはさておき)。


おまけに「せんとくん」のネーミング自体にもこんな話が
ぼくが元祖「セントくん」 奈良「平城祭」と同名
(2008年4月18日 9:40 神戸新聞)


このへんのごたごたは、そもそも平城遷都1300年記念事業協会のシンボルマーク自体が





 








ちょっと待った












 




になっているあたりにも遠因があるのかもしれません(そんなことはないか(笑))。


 

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外交問題以前に教育の質の問題では?

2008-05-20 | よしなしごと

竹島「固有領土」で確認指示=事実なら是正要求-韓国大統領
(2008年5月19日(月)14:30 時事通信)

で、日本はと言えば

解説書への明記は検討中 竹島で文科次官明言避ける
(2008年5月19日(月)18:42 共同通信)

銭谷文科事務次官は19日の記者会見で日本海の竹島(韓国名・独島)を中学校社会科の学習指導要領解説書に「我が国固有の領土」と明記する方針を固めたことについて「書くか書かないかも含め検討中で、明確に言える状態ではない」と明言を避けた。竹島が中学校のすべての地図帳で領土として明記されていると指摘し、「これに基づいて指導されている。日本の領土を正しく理解することは大変重要」と述べた。

外交問題以前に、「竹島は日本固有の領土です」と記憶させることが中学校社会科の内容だとすると、そのほうが問題なのではないかと。

「47都道府県の名前と場所がわかる」というような「知っている」レベルのことは小学校でやればいい話で、中学生、それも「ゆとり教育」をやめて「考える力をつける」というのを目標にするのであれば

  • 竹島については領有権の争いがある
  • 日本は固有の領土として主張しているが、韓国は反対している
  • 日本の主張の根拠はこれこれ
  • そもそもなんでこんな小さい島の領有権が問題になるか→領海と排他的経済水域などの背景がある

というあたりをきちんと教えるべきで

<問題>竹島は日本固有の領土ですか?
<正解>はい

という答えができればいい、というものではないんじゃないでしょうか(そうやって教えたはずの「都道府県」も、宮崎県の場所がわからない高校生が半分以上いるらしいですからどこまで意味があるかという問題は置いておくとしても)。


日本の主張とともに争いがあることも教えれば、韓国も文句の言いようがないと思います。



一方で「学校裏サイト」などが問題になっているくらいですから、中学生にもなれば、独立した当事者間に争いが起きるということは十分承知しているわけで、特に「社会科」の教科書には実社会ではあまり見られない「一義的に正しいこと」だけしか載っていなくてそれを無理やり覚えさせるのでは、興味の持ちようもなくなると思います。


外交問題の前に文部科学省や教育者側の教育に関する感度のほうが心配です。
 

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サザン活動休止宣言

2008-05-19 | よしなしごと

サザン 区切りの無期限活動休止宣言
(2008年5月19日(月)06:02 スポーツニッポン)

桑田は「これからは、やりたい時に喜んでやらせてもらう宣言だし、モチベーションが上がらない時は、ごめんなさい、あえてやりません宣言なんです」とし「決して暗い話ではない」と強調。「サザンという屋号を下ろすことは絶対にない」と解散は否定している。

サザンくらいの大御所になるとそれで飯を食っている関係者が多いので、毎年アルバムを出す、とかツアーをやるなど自らの意思にかかわりなく恒例行事化してしまっていることを見直そう、ということでしょうか。

記事には「08年内の活動をもって無期限で活動を休止する。」とあります。
既に年間スケジュールが決まってしまって、すぐには休止できないあたりからその辺の事情がうかがわれるような。


組織全体としては仕事をルーティンにしてしまう方が予測が出来て管理もしやすいの反面、自主性や独創性が損なわれるのではないか、ルーティンによりかかる人ばかり集まることにならないか、という問題意識は企業にも共通かもしれません。

スケジュールがガチガチに管理されている大企業のトップなどは、従業員とのコミュニケーションをはかる機会がほとんどないので、会合などで情報収集をすることになり、結果「ジジ殺し」の活躍するチャンスが出るなどということもこれあり。

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A生命さんゑ

2008-05-18 | よしなしごと
休日をのんびり過ごしていると、インタホンが鳴った。

マンションのエントランスのところはカメラつきなので、モニターの画面を見ると、見慣れない40歳がらみの女性の姿。

 「A生命です。今回担当が替わりましてご挨拶を・・・」

A生命は社会人になりたてのころ、さほど親しくもなかった高校の同級生が訪ねてきて、新入社員研修の一環として営業をやらされているということで勧誘を受けた。
この研修の営業成績で配属先が決まるとプレッシャーをかけられているとか。
別に義理もなかったが当時生命保険に入ってもいなかったので、泣き落としに半分つきあって少しだけ加入した。

その後同級生は転職してしまうわ(そういえば挨拶もなかったなぁ・・・)、運用成績不振で配当はなくなるわといろんな目に逢いながらも、月々5,000円ほどの保険料を払い続けている。
でも「担当」の人に何か世話になった記憶はないし、世話になる必要も特になく20年ほど過ぎている。

どうせ特約をつけろとか新商品に切り替えろという保険会社が得をするような勧誘しかしないだろうから、「新しい担当」にも会う必要はないので

 「資料があったら郵便受けに入れといてください」



さて、夕方新聞を取りに行って郵便受けを見ると、「新しい担当」のあいさつと「現在のご契約のご案内」が入っている。
これなら郵送すればいいじゃないか、少なくとも他の保険会社はそうしている。

それとも外務員は歩合制なので、配布をさせてもコストがかからないからと郵送代をケチろうというのだろうか。
そういえばモニター越しに見た「新しい担当」氏も今ひとつ元気のなさそうな感じだった。
法人顧客などは昔からの外務員が押さえているので、新しい外務員には私のように一回入ったきりの効率の悪い客をあてがって「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」方式の営業をしているのだろうか。
そうだとしたら「新しい担当」氏のような(多分)新人の下っ端外務員は相当割の悪い仕事をさせられていることになる。

上の研修の話から想像するに、財務体質は変わっても社風は相変わらずで、営業社員の使い捨てをしているのかもしれない。

「新しい担当」氏にはちょっと同情したが、一度会ってしまってまた泣き落としにあうのも煩わしいので(特に今回は何を勧誘されても断ると決まっている)また来ても会わないだろう。


などと考えていると、資料がもうひとつくっついていた。
なんと、同じマンションの他の部屋の人の分まで間違って投函されたのだ。
資料は封筒で密封しておらず、表紙代わりのフォルダーに入っているので中は見放題である。

契約内容には保険金額のほかに年齢とか受取人とかいろいろ個人情報が入っているので保険会社としては相当まずいはず。

ただ、これを保険会社に文句を言うと、「事情説明」とか「お詫びにお伺い」といってまた誰かに会わないといけない。
また、間違われた先の人にも私に内容を仔細に知られたなどと勘ぐられることになる。
そしてA生命は末端に負荷をかける会社のようなので「新しい担当」氏は多分クビとか減給になってしまうだろう(それ自体は仕方がないとも言えるが、会社としては反省せずに同じことが繰り返される可能性が高い)。
本当は「郵送せずに手持ち」というスタイル自体が問題なのだと思うが、1件の個人情報の漏洩では金融庁に届出もされず、仕組みは変わるまい。
自分で金融庁にチクるのも面倒くさい。

と郵便受けのところで一瞬考え、結局正しいところに投函しておいた。
表紙に部屋番号が書いてなかったので、中の「お届け住所」のところを見ちゃいました、ごめんなさい○○さん。



A生命さん、余計なことはしなくていいですから、ちゃんと配当をしてください。


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