一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

閑居して不善を為す

2012-09-02 | コンプライアンス・コーポレートガバナンス
大企業の役員に社用車がつくのは、本人の安全管理だけでなく、社外への無用な情報漏えいやトラブル防止・「FRIDAY」の回避というある意味監視の意味も含まれている、という話を聞いたことがあります。

週末盗撮問題が表面化した大歳卓麻日本IBM元社長も、今年5月に会長から最高顧問に就任したので、車とか秘書による24時間監視が緩んだ矢先の出来事だったのかもしれません。

もちろん、会社としては大歳氏がこういう趣味・性癖を持っているとは知らなかったでしょうし、その手の行動を防ぐために秘書や車をつけているわけでもないでしょうが、ご本人としては「自由の身」になったのでかねてから念願だった盗撮に取り組んだのかもしれません(「盗撮に興味があったと供述している」という報道もありますし。)

プライバシーがない生活は息苦しいといっても、一線を退いて自由になったときに真っ先に取り組んだことが盗撮だったというのはかなり残念ですが、公職中心の生活を送っていると私人としての関心事が広がりにくいのかもしれません。


大歳氏は就任していた社外役員などを辞任しました。
会社法での義務付けは見送られた社外役員ですが、他の企業の役員OBというのが候補者の大票田なのですが、今回のように「好色で公職を辞めました」リスクを考えると、「秘書・車つきでプライベートも母体企業がコントロールしている」というのが選定要素になるかもしれません。
ただそうなると現役の役員だと利害関係があるし、相談役・顧問にそこまで手厚い会社も限られると思います。

一線を退いた後に普通の社会生活を送るためのトレーニングというのが流行ることになるかもしれませんね。

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ダイバーシティはどこまで必要か

2012-05-28 | コンプライアンス・コーポレートガバナンス

FTの記事(今週の日経ビジネス経由ですが)
Monocultural VW must expand horizons

フォルクスワーゲンは最近ピエヒ会長の妻が監査役に就任したことで話題になりましたが、世界一の生産台数を争うフォルクスワーゲンにとってはそれだけでなく企業としての均質性が問題で、トヨタ自動車の轍を踏む可能性があるのではないか、という指摘です。

印象的だったのは下のくだり

Fault also lies on the side of the workers, who provide half the directors on the supervisory board. Despite only representing 44 per cent of its 513,000-strong global workforce, German employees occupy all 10 board seats, something that has caused tensions in the past when domestic factories appear to have been favoured over cheaper foreign locations.

問題は監査役の半数を選出する労働者側にもある。ドイツ人従業員は世界に513,000人いる中で44%しか占めていないにもかかわらず10人の監査役は全員ドイツ人であり、過去においては、低賃金の海外の工場よりもドイツ国内工場を優遇しているのではないかとして緊張が高まったこともある。

実際は各国で別法人になっているのではないかと思うのですが、グローバル企業においてはこういう指摘もされる可能性があるということでしょう。

日本でも社外役員の義務付けなど、コーポレート・ガバナンスの制度設計としてどこまで多様な視点をとして取り入れるべきかという議論がありますが、結局この手の話はきりがないわけです。

不祥事が起きる都度制度的に強化を打ち出すよりも、プラスアルファを打ち出している(そしてうまく行っている)企業や試み(たとえばtoshiさんが6月総会終了をもって社外監査役を退任いたしますで述べられている「社外監査役が『社外』と呼べるのは2期8年まで」など)を評価したほうが実りがあるように思うのですが。



PS
「ダイバーシティ」といえば、東京では先日オープンしてガンダムで話題のダイバーシティ東京
ここ、最寄り駅はゆりかもめの「台場」ですが、住所は「港区台場」でなく「江東区青海」なんですよね。
これもちょっとした多様性の主張?(まあ、千葉にあっても「東京ディズニーランド」ですしね)


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妻による経営監視

2012-04-08 | コンプライアンス・コーポレートガバナンス

日本の監査役制度のモデルとなったとされるドイツにおいてもこんなことが。

ピエヒ夫人、VW監査役に就任(日経ビジネスonline)

記事の元はFINANCIAL TIMESですが、「同族経営」に対する正面からの批判というよりは、多少の皮肉をこめてお手並み拝見というトーンです。

日本がいつの時のドイツ法を参考にしたのかは不勉強で知りませんが(明治時代?)、現在のドイツの会社法制では株主総会で選出された監査役で構成する監査役会が取締役を選任する権限を持っているので、現在の日本の制度とは違います。

その意味ではドイツにおける監査役に取締役の近親者が就任するというのはかなりの影響力を持つことになるにもかかわらず非難ごうごうにならないのは、業績が好調な会社に対して形式論だけで異を唱えるのは難しいというのは彼の地でも同様なのでしょうか。


以前のエントリでは社外取締役ですら経営者の交代については意見を言いにくいと言う話を紹介しましたが、考えようによっては「妻が経営者である夫を監視する」というのが実は一番強力だったりして...


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社外取締役の義務付け

2012-03-27 | コンプライアンス・コーポレートガバナンス

社外取締役の義務付けと社外要件の厳格化をめぐる9つの疑問について(中間試案振り返り③)(bizlaw_style)

相変わらずためになります。
素人にもわかりやすく論点が整理されているうえに筆者のつっこみも鋭く、また参考文献の紹介も充実しています。

社外取締役の機能を経営陣の業績評価に求めるのであれば、細かい意思決定まで関与させる必要は無く、むしろ関与させるべきではないのかも知れない。・・・個々の経営判断の適切さを判断するのは執行サイドがやれば十分で、その会社の細かい実務を把握しているわけではない社外取締役に判断を求めてもしょうがない。各意思決定に対するコンプライアンス上のチェックの必要性もあるけど、それは監査役に任せておけばいいのではないか。社外取締役はもっと大きな視点で、経営側の業績目標の達成状況や今後の方向性をチェックするなどの経営への監督・評価機能が期待されているものと考えられるから、そうだとすれば、もっと決議事項を減らして、監督に集中させた方が良いというのも合理的な考え方のように思う。

社外取締役を導入するという前提であれば、たしかにこの方向はいいんじゃないかと思います。
社外取締役から個別の経営判断の義務を軽減すれば、専門性と独立性のトレードオフの問題も緩和できますし。
(ただ、社外取締役の導入をする必要がある、または、導入したほうがよりよくなる、というのは本当なのかという前段の大きな議論はありますが)

日経ビジネス2012年3月19日号の記事ソニーとニッセンの明暗 業績は統治で変わるで成功例として紹介されているニッセンのスタイルもこれに近いです。


一方で、エルピーダにおける半導体工場のように、設備投資が巨額でハイリスク・ハイリターンの業界において、会社の命運をかけるような投資判断を「執行の問題」として経営陣に任せてしまうのであれば、取締役会は単なる経営陣のコミットした業績目標とその結果を評価するだけになってしまうというところが問題になるかもしれません。
特に、専門性に劣る社外取締役が過半数を占める会社においてそのような意思決定ができるのかという問題もあります。(こういう局面を想定すると責任範囲の議論にもなると思います。)


また日経ビジネスの記事ではソニーの社外取締役さらには取締役会議長をつとめた中谷巌氏のトップ交代の力学を“空気”だというコメントを紹介しています。

「社外取締役のできる最大の仕事は経営者の交代だが、やはり“世論”の影響のようなものが大事になる。常識的に考えて、ここまで業績が悪くなって、これなら仕方ない・・・というような(判断の)かたちになっていく」

有識者としてはビッグネームであろう中谷氏ですらこうだとすると、社外取締役がたすうになった取締役会といえども、経営陣の評価どころか、「業績が悪化し、世間の評判も落ちたにもかかわらず居座っている経営者を排除する」程度の機能しかもたなくなってしまう可能性もあります。
そのためのコスト(言うなれば「保険料」)として妥当かどうかは議論になると思いますし、個人的にはそんなものなら導入する意味がないと思います。


結局、もし社外取締役の導入を義務付けるとしても、あまり厳格なルールにすると個別の会社の特性に合わない硬直的なものになってしまうので、かえって機能しなくなると思います。
また、子供っぽい話ではありますが法律で「義務付けられた」場合、企業経営者は義務付けられた最低限にとどめがちになるので、その辺も考慮した方がよいのではないでしょうか。

義務付けするにしても「最低X人/Y%」というのでなく、それぞれの企業があるべきスタイルを選べるように幅を持たせ、企業側は取締役会と経営陣の役割分担をどのようにしたかについての説明責任を負う、というようなスタイルがいいように思います。

含みの多い手を考えるべし、ですね。




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「コンプライアンス改革」にとどまるとコンプライアンスは向上しないのではないか

2012-01-25 | コンプライアンス・コーポレートガバナンス

toshiさんのブログで サラリーマン根性とコンプライアンス意識の統合についてというエントリでとりあげられたNBL(商事法務)新年号「コンプライアンス改革」座談会の記事の中の増田弁護士の発言(孫引きですが)

法令遵守に関しては、表面上の遵守に留まるのではなく、無意識のレベルまで変える(マインドを変える)ことが重要と唱えられており、こうした無意識を変えるためには、「臨場感を上げる」(他人事ではなく、自分のものとして捉える)ことが大事だ、とおっしゃられています。 
そして、臨場感を上げるためには、具体的には、「正しいことをしたらどんな利益があって、自分にどんな満足感があるのかというのを多くのビジネスパーソンが肌でもって体験する」ということが必要だ、と発言されております。  

増田弁護士はさらにこの記事の中で、コンプライアンスの定着にはティーチング(教え込む)のでなくコーチングの発想が必要、といいます。   

コンプライアンスにおいても、大切なことをしっかりやって、お客さんに喜ばれたらどんなにうれしいかという実体験を先輩を見て感じる機会自分が社会にものすごく役立っているんだということを気づかせてあげる   

トップの暴走を許しているのは、それは社員の無意識なのです。・・・本当にボトムアップの要となる一人ひとりの多くが、自分がこの会社で誰のために何をやりたいのか、とか、どうすべきなのだと考えている組織であればあるほど、暴走しにくいと思うのです。  

確かにそうなんでしょうが、ちょっと違和感が残ります。 

ひとことで言えば企業においてサラリーマン(役員でもいいですが)「正しいこと」と「自分の満足感」が高い次元において常に一致するのだろうか、ということ。

マズローの欲求段階説をおさらいします

「自己実現の欲求」(省略)
「承認(尊重)の欲求」
・ 高いレベルの尊重欲求:自己尊重感、技術や能力の習得、自己信頼感、自立性などを得ることで満たされ、他人からの評価よりも、自分自身の評価が重視される。
・ 低いレベルの尊重欲求:他者からの尊敬、地位への渇望、名声、利権、注目などを得ることによって満たすことができる
「所属と愛の欲求」 :情緒的な人間関係・他者に受け入れられている、どこかに所属しているという感覚
「安全の欲求」:安全性・経済的安定性・良い健康状態の維持・良い暮らしの水準、事故防止、保障の強固さなど、予測可能で秩序だった状態を得ようとする欲求 
(一般的に健康な大人はこの反応を抑制することを教えられている上に、文化的で幸運な者はこの欲求に関して満足を得ている場合が多いので、真の意味で一般的な大人がこの安全欲求を実際の動機付けとして行動するということはあまりない。)
「生理的欲求」(省略)  

増田弁護士のメソッドが効果を上げるのは、社員が「高いレベルの尊重欲求」より上に訴えかけることができる状態にある時だと思います。 

ただ実際は、個人としては上位の欲求に基づいて行動したいと思っても、やれ成果主義など外部の(しかも必ずしも自分自身が納得てはいなかったりする)物差しで評価されると「低いレベルの尊重欲求」にとどまることは結構多いように思います(実際に「俺はこれこれをやったんだぜ」と自慢する人って多いですし)。
また、個人的な引き以外での転職を意識すると経験や実績という外部にアピールできるものを持っている必要があるように思います。(スティーブ・ジョブズがジョン・スカリーを口説いた「砂糖水」のエピソードのように、自己実現を引き合いに出すのは誘う側であって、誘われる側からは普通は言い出さないんじゃないでしょうか)。 
さらに、リストラだ何だといわれれば「安全の欲求レベル」を求めるようになります。  


つまり増田弁護士の主張は「社員が自発的・積極的に会社のための行動をとるような風土を醸成すればコンプライアンス上の問題は起きない」ということになるわけですが、そういう会社はコンプライアンスだけでなく生産性も高く、環境変化にも適応でき、イノベーションを起こしやすい、いわば理想の会社なであって、その定義自体がトートロジーになってしまっているように思います。
そういう会社にはそう簡単になれるわけではないところが一番難しいし、それを実現するのであればコンプライアンスに目的を限定するのはもったいないと思います。


また、同じ対談で國廣弁護士は「コンプライアンスは「利益かコンプライアンスか」というブレーキではなく、企業の成長の基礎となるものだと言うことです。」と発言しています。 
この「コンプライアンスと企業利益は対立する概念ではない」もよく指摘されますが、上の伝でいえば、対立している二者を止揚すればいい、という問題でもないのではないかと思います。

企業においては、「ヒト・モノ・カネ」という限られた経営資源の配分をめぐってブロジェクトとか事業部同士の間で熾烈な競争があって、それらを比較検討する議論を通じて意思決定が行なわれています。
つまり「利益」をめぐる意思決定においても、常に対立があるわけです。
もしその意思決定が「サラリーマン根性」に支配されたとするとコンプライアンスの問題が起きなくとも会社自体が傾いてしまいます。(実際「社長プロジェクト」とか「会長案件」が足かせになってしまった会社は結構ありますよね、以下自粛)  


要するに、「コンプライアンスのレベルが低い企業」があるのではなく、「経営の意思決定の質が低い会社はコンプライアンスに問題のあることが多い」ということで、コンプライアンスのレベルだけを上げようということ自体にちょっと無理があるのではないかと思うのです。


そして、対談のタイトルが「コンプライアンス改革」とあるように、NBLでは現在の企業のコンプライアンスのレベルにいまだ問題があると考えているようですが、実際にそうなのでしょうか?

今は、コンプライアンスとかCSRの概念が経営の課題として認識されていなかった時代とは違いますし。大王製紙(創業家の大株主一族が経営している会社)やオリンパス(「財テクブーム」の残滓をいままで引きずっている会社)とか電力会社(事業独占が認められている公営企業)のようなことは一般的だとは思えません。
これらを他山の石とすることは必要でしょうが、これら起きたからコーポレートガバナンスの仕組みを変えなければならない、という議論に直結するのは違和感がありますし、社会全体の費用対効果としてもよくないように思います(それは上場審査や上場廃止基準でコントロールすべきだと思います)。

多くの会社では、たとえば経営陣がミスリード(とか「殿、ご乱心」)しそうになったときに他の役職員が問題点を指摘したり軌道修正するようなことは、レベルの大小はあるものの行なわれているんじゃないでしょうか。
ただそういうのは外部に自慢するような事ではないし、また形式的には偉い人の顔をつぶさないような形で進めたりするので目立たないだけなんだと思います。
(弁護士の社外役員が機能して不正・不祥事が未然に防げたケースがあったとしても、その弁護士は守秘義務があるからその弁護士はおおっぴらには言えないし、「細かくはいえないが私が止めた不祥事は一杯ある」なんて自慢する弁護士がいたとすれば、そういう「低いレベルの尊重欲求」で動いている弁護士は増田理論では社外役員として不適切ですよね。)  


確かに大きな不祥事を起こした場合などは、コンプライアンスをきっかけにして会社のありようを変えていく、ということは可能だし必要でしょうが、順調に行っている企業においてそれをとりたてて行なう必要があるかは疑問です。

対談でも社外役員である弁護士の役割が議論されていましたが、「役員」なんですから弁護士だからといってコンプライアンスとか不祥事の防止という専門的かつ狭い分野だけに注目するのでなく(それは「悪い意味の弁護士根性」ではないでしょうか)、「利益」のほうも含めた経営の意思決定もきちんとなされているのかという会社のありよう(それって要するに広い意味でのコーポレート・ガバナンスとか内部統制ということですよね)が正しい方向にあるかどうかを見極める姿勢や見識が求められているのではないでしょうか。
コンプライアンス意識の向上はあくまで結果なんだと思います。




ところで、昨日とりあげた『武士道の逆襲』の中に諫言(かんげん)について触れている部分がありました。
『葉隠』には

「主君の御用に立つべし」、これを家老の座に座りて諫言し、国を治むべし、とおもふべし。

というくだりがあるそうです 。
これについて著者はこういいます。

 「諫言して、国家治むること」が「奉公の至極の忠節」(聞書2-141)といわれる、より本質的な理由は、むしろ諫言が、治世において唯一はっきりと、己れの名利を度外視して主君のために命を捨てる奉公の形態であると言う点にこそある。

ここまで腹は据わっていれば立派ですし(江戸時代でもここまでの人は少なかったから『葉隠』が著されたのでしょう)、社員が皆この覚悟であれば内部通報制度は不要ですね。
ただ、そこまではいかないにしても、結構サラリーマンも場面場面ではいい根性を見せる人もいるし(もちろんそうでない人もいますしその方が多いかもしれません)、「いい会社」とまではいかないかもしれないけど「そこそこ真っ当な会社」というのが多いように個人的には思うんですけどね・・・

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「悪い意味でのサラリーマン根性」と「悪い意味での専門家の留保」

2011-12-12 | コンプライアンス・コーポレートガバナンス

オリンパスの調査委員会報告書は要約版をざっと読んだのですが、印象に残ったのは報告書がJ-Soxの枠組みにのっとってオリンパスの内部統制を評価していたこと。

J-Soxに基づく全社的内部統制の整備は、制度導入時にもともとそれぞれの会社にあった制度をリファインしながら監査法人のOKが出る程度の及第点をとろうという形で導入したところが多いと思います。ただ、一度枠組みとしていろんな基準が出されると、評価の枠組みとしてはとても便利なものになってしまい、「教科書どおり」に形を整えたはずが、その教科書が今回は断罪する側のテキストになっているという笑えない感じもします。

逆にその分J-Soxの枠組み・用語に見られる「よそ行き」感が調査報告書にも出ている感じもしなくはありません。
たとえば飛ばしのスキームとそれを阻止できなかった態勢については言及しているものの、関与した外部の関係者を含む背景事情についてはスルーしているところとか・・・


本件は経営トップの不正というわかりやすい話なので、形式的にもカタをつけやすいのですが、「ビジネス法務の部屋」でオリンパス社の全社的内部統制と「悪い意味でのサラリーマン根性の集大成」としてtoshiさんが違和感を述べておられていて、そこについては共感するものがありました。

この報告書でも述べられ、また経済団体や日本監査役協会でもコメントが出されておりますが、「オリンパス事件の教訓は、形式的なガバナンスの仕組みよりも、むしろ取締役や監査役の倫理感、使命感やその職責を担う覚悟の問題」であり、これが最も重要である、とのこと。
(中略)
取締役の資質や倫理感、覚悟、というのはもっともだとは思いますが、それらが取締役や監査役に備わっていることと、「経営トップにモノが言える」こととはダイレクトには結び付かないわけでして、その間を結ぶ「何か」を試行錯誤しなければ問題解決にはならないと思います。

タイトルにもある「悪い意味でのサラリーマン根性」というのはここに出てきます

第6 本件事案発生の原因分析

1 経営トップによる処理及び隠蔽であること 
・・・オリンパスにおいては、このような会社トップや幹部職員によって不正が行なわれることを想定したリスク管理体制がとられておらず、これらに対する監視機能が働かなかった。経営中心部分が腐っており、その周辺部分も汚染され、悪い意味でのサラリーマン根性の集大成ともいうべき状態であった。  

ここのところだけ珍しく温度の高い言葉が続きます。さらに

2 企業風土、意識に問題があったこと 
会社トップが長期間にわたってワンマン体制を敷き、これに会社内部で異論を述べることがはばかられる雰囲気が醸成されていた。歴代の社長には、透明性やガバナンスについての意識が低く、正しいことでも異論を唱えれば外に出される覚悟が必要であった(そのことはウッドフォードの処遇を見てもわかる。)。役員の間に社長交代のシステムが確立されておらず、恣意的にこれを占めることが可能となっていた。風通しが悪く、意見を自由にいえないという企業風土が蔓延し、株主に対する忠実義務などの意識が希薄だった。

でも、J-Sox導入前の時点で現在と同程度に経営トップの不正を想定した管理体制を構築する法的義務があったのかというのはちょっと疑問ですし、厳密そのような態勢をとっている企業はどれくらいあるのでしょうか。また「社長交代のシステムが確立されていない」というのは委員会設置会社以外の会社はほとんどそうなのではないでしょうか(委員会設置会社だとしても執行側から完全に独立して候補者を選定しているところはほとんどないと思います)

ここをダメ出しされてしまうと大半の企業が困ってしまうので「倫理観や使命感」の問題にしたいという気持ちもわかります。個人的にも画期的かつ有効な代替案があるとも思えないので。


ということで、態勢構築という大所高所の話だけだと空中戦になってしまいますが、改めて本文を読んでみておやっと思ったのが、同じ「第6 本件事案発生の原因分析」にある

6 外部専門家による委員会等が十分機能を果たさなかったこと 
・・・しかしその報告書は多くの留保条件をおいた不完全なものであり、到底中立公正な第三者の意見として信を措くことのできるものではなかった。監査役会、更に監査法人は、この報告書の結論のみに重きを置き、その内容や留保条件に立ち入った検討を行なわなかった。

確かに実際は結論ありきの形式的な調査を依頼したような印象を受けますが、では 「公正中立な第三者の意見」というのは論理的に可能なのでしょうか?   

そこで本文を見るとあずさ監査法人からの指摘を受けた監査役会が外部調査を依頼した「2009年委員会」の報告書についてこう記載されています(p151~)   

同委員会は、報告書の冒頭において、調査の前提としてオリンパス又はあずさ監査法人より提示された事実及び資料等について、独自の調査、検査、ヒアリング等による事実確認や資料の正本の確認等を実施しておらず、その点において事実関係の正確性及び証拠評価等について何らの意見を表明する立場にないこと、調査期間が極めて限定されていたことから、開示資料(特に英文の契約書類)について網羅的な精査ができていないほか、ヒアリング対象者も極めて限定されており、より広い範囲で開示資料の検討やヒアリングを実施し、あるいは十分な時間をかけて開示資料の検討やヒアリングを実施していれば発見できたであろう事項が発見できていない可能性も十分にあることを断っている。

でも、公認会計士や弁護士の意見書は多かれ少なかれこのような前提条件や留保が書いてあります。本件は結論ありきの依頼だったので、委員会のほうもより厳しめ(腰を引き気味)のトーンで書いていたのかもしれませんが、その行間を読めよ、ということなのでしょうか。

そして、委員会の調査結果の概要は以下の通りとなっています。  

a アルティス、NEWS及びヒューマンラボの各株式の取得について、報告書作成時点までに委員会が開示資料及びヒアリング結果を検討した限りにおいては、オリンパス取締役に、本件国内3社の一連の株式取得に違法もしくは不正な点があった、または善管注意義務違反があったとまで評価できるほどの事実は認識できなかった。  
b ジャイラスの株式取得に係るアドバイザリー報酬について報告書作成時点までに委員会が開示資料及びヒアリング結果を検討した限りにおいては、オリンパス取締役に、アドバイザリー報酬の支払に違法もしくは不正な点があった、または善管注意義務違反があったとまで評価できるほどの事実は認識できなかった。

一方で、ウッドフォード前社長が依頼したPwC Legal LLP.の中間報告はつぎのようになっています(p117)

「我々は不適切な行為が行なわれたと確信することはできないが、支払われた総報酬金額が今までになされたいくつかの非通例的な意思決定を考慮すると、現段階では不適切な行為が行なわれた可能性を排除することができない」「さらに、不適切な会計処理や財務アドバイス、取締役の忠実義務違反を含む、他の潜在的な違法行為がある」

トーンはずいぶん違いますが、意味している内容は実は「善管注意義務違反や違法行為はあったとは断言できない」という点で同じです。

結局外部の専門家も責任を負わされたくないので(契約書を結ぶ場合にはあきれるくらいの免責条項があったりします)、断言は避けて婉曲な表現をすることになります。
調査委員会の報告書は「その報告書は多くの留保条件をおいた不完全なものであり、到底中立公正な第三者の意見として信を措くことのできるものではなかった。」といいますが、私は多くの留保条件をつけていない専門家の意見書というものにはめったにお目にかかったことがありません。

一方で、報酬を払う依頼者から「適法だという意見書をくれ」とか「違法性を指摘してくれ」というように何らかの意向を伴った依頼を受けるので(そういう動機がなければそもそも意見書とか調査報告書は依頼しないですよね)、専門家としては依頼の前提にあるトーンを基調に報告書を書くことになります。

そのとき適法・違法がはっきりしていればいいですが、解釈の幅があったりする場合には前者の依頼ならいくつかの留保条件をつけたうえで「違法ではない」という2009年委員会のようになるし、後者の依頼ならPwCのようになると思います。
ところがその報告書を援用した監査役は「報告書の結論のみに重きを置き、その内容や留保条件に立ち入った検討を行なわなかった」と断罪されるとすると、専門家の意見書を求める意味がなくなってしまうことにならないでしょうか?

確かに最後に善管注意義務違反の責任を負うのは取締役・監査役個人ですので、自らの法的責任について取締役・監査役としての自覚が足りなかった、という意味では「サラリーマン根性」があったといえるとは思います。
ただ、(今回のケースは完全なアリバイ作りだったのかもしれないので)一般論として専門家の意見書・報告書を信用することが取締役・監査役の責任につながるとするならば、そしてほとんどの意見書に留保がつくとするならば、取締役・監査役は何を頼りに判断すればいいのでしょうか。報告書に言う「立ち入った検討」も自分以外に依頼した場合は同じ問題が生じるので、結局全て自分で調査しなければいけないというのでは、かえってチェック能力が低下してしまいます。

本件も2009年委員会がもっとはっきりと「資料も時間も不十分なので意見表明はできない」とか「明確な証拠はないので断言できないが心象としてはクロ」と言っていればここまでには至らなかった可能性があります。
しかし調査委員会は2009年委員会のメンバー自身の「到底中立公正な第三者の意見として信を措くことのできるものではなかった」ような報告書を作成した責任は指摘せず、それを採用した監査役の責任のみを追及しています。
そこも「行間を読めよ」というところなのかもしれませんが、お仲間に手心を加えるところは専門家のよくないところではないかと思いますし、そこを放置すると専門家や第三者委員会の意見書の存在意義への疑問にもつながってしまうと思います。


専門家も意見を求められた場合には、責任回避のための留保だらけの報告書ではなく、素人にも判断のしやすい明確な(一歩踏み込んだ)意見を表明すること、それがtoshiさんの言われる「その間を結ぶ「何か」」の一つになるのではないかと思います。



余談ですが、昔大規模の投資案件のリスク精査の作業をしていたとき、役員から「万が一損失が生じた場合の代表訴訟のリスクも入れろ」と指示をされたので、作成した資料の当該項目に「当該リスクは厳密に言えば会社のリスクではないが」という脚注を入れたことを思い出しました。
そもそも厳密に言えば「善管注意義務違反はないか?」というような意見書や調査も、取締役個人としてのリスクヘッジを目的とするのであれば費用も会社からではなく取締役個人が支払うべきなのでしょうが、そこまで依頼内容を厳密に精査している会社も弁護士もいないと思います。それは、「上手くビジネスがいくような適切な意思決定をする」という点では本来会社(法人)も取締役も同じ船に乗っているわけですから(エージェンシー問題については脇に置くとして)。

さて、脚注の顛末ですが、その結果私は「外に出された」わけでもなく、指示した役員も苦笑いしていただけなので、オリンパスよりはまともな会社だったようですし、役員もサラリーマン根性はなかった、ということでしょうかw



(参考)
第三者委員会調査報告書 要約版
第三者委員会調査報告書 01
第三者委員会調査報告書 02
第三者委員会調査報告書 03
第三者委員会調査報告書 別紙

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タカチホの「穏便モード」

2010-09-07 | コンプライアンス・コーポレートガバナンス

タカチホの 分配可能額を超えた前期末の配当金に関する一連の経緯及び再発防止策について

toshiさんも書かれているのですが、全体に「単なる計算ミスで悪気はなかったんだからいいじゃないか」というトーンを感じて、なんとなくすっきりしません。  

特に、外部調査委員会の報告書で取締役・監査役の責任に触れたくだり。  

(2)会社法上の填補責任分配
可能額規制に違反して配当が行われた場合、会社法上、手続に関与した取締役が填補責任を負う場合があり、また監査役についても善管注意義務違反による損害賠償責任を負う場合がある。 
しかし、本件調査によれば、株式会社タカチホの取締役らは、分配可能額が存在しないことを認識しながら本件配当を行ったものではなく、計算方法を誤って分配可能と誤信したに過ぎないから、態様として悪質であるとは言い難い。 
また本件配当にあたり、資本準備金を減少させその他資本剰余金を増加させれば適法に分配可能額を作出することは可能であったことなどを総合考慮すれば、会社債権者に対するマイナス要因もそれほど大きくはない。 
また、株式会社タカチホは本件配当に関与した取締役全員の報酬を平成22年9月から2ヶ月間にわたり3割減額し、本件配当に関与した常勤監査役も月額報酬の3割を2ヶ月分にわたって自主返上することとされており、あくまでこの限度においてではあるが、会社財産の 回復も見込まれる。 
さらに、対象会社は、再発防止策にも積極的に取り組む姿勢を見せている。
このような事情を総合的に考慮すれば、本外部調査委員会としては、対象会社の取締役に対して填補責任を、監査役に対して善管注意義務違反に基づく損害賠償責任を追求する必要性までは認められないものと判断する。  

会社法上の違法配当の填補責任(会社法462条の2)は

前項の規定にかかわらず、業務執行者及び同項各号に定める者は、その職務を行うについて注意を怠らなかったことを証明したときは、同項の義務を負わない。  

と過失責任なので「故意はなくて誤信した」場合も過失があった場合には免責にはならないはずです。

タカチホは臨時株主総会を開いて資本準備金をその他資本剰余金に振り替え(参照)て資本欠損を回避するので、これで会社計算としては治癒されるのかもしれません(この辺は自信なし)が、第三者調査委員会や臨時総会の招集にかかる費用は実損になるわけで、そこの部分の善管注意義務違反による責任は少なくともあるでしょう。  

ちなみに22年3月期の有価証券報告書によると、取締役報酬56,740千円、監査役報酬10,143千円でこれを2ヶ月3割減額すると(賞与はOと仮定)334万円になり、これでは実損には足りなそうです。  


僕は、会社の個々の不正について事後的に監査役の結果責任を問うのは行き過ぎだと思うのですが、違法配当=総会付議議案の適法性をチェックするというのは監査役の本来の仕事(これをしなくて何をするんだろう)なので、ここは「気がつかなかったから仕方がない」というのはさすがにゆるすぎると思います。

そもそも外部調査委員会というのは、「責任の有無」を第三者的に判断するのが仕事で、「責任追及の必要性」を判断するのは取締役に対してなら監査役でありまた株主のはずです。  
なんとなく外部調査委員会も「剰余金に振り替えれば資本の欠損もしないし、単なる計算ミスなんだから大事にするのはやめよう」という判断が前提にあるように思います。  

そうやって「馴れ合い」を疑いだすとキリがなくなるのですが、ちなみに長野県弁護士会のHPを見るとタカチホの本社のある長野市に事務所を持つ弁護士は60人、事務所数でいうと44(うち法テラス1)しかいません(参照)。
今回の外部調査委員会の委員は3人とも長野市内に事務所を持つ弁護士なので、けっこう狭いところで人選をしているようです。
これくらいの規模だと、外部調査委員会とかコンプライアンスだけでは食っていけないでしょうから、自然と「波風を立てない」方向に向きがちというのは下衆の勘ぐりでしょうか。  

また、toshiさんが指摘されている内部統制報告書の訂正についても、外部調査委員会の報告書においても配当の適法性の確認に際して「計算方法を誤って分配可能と誤信したに過ぎない」(「過ぎない」とは思いませんが)--つまり「悪者」ではないが「節穴」だった--と認定されている以上、少なくとも全社的な内部統制には欠陥があったとすべきように思います。
(厳密に言うとJ-Soxの評価範囲には入っていないとは思いますが、監査法人は自らが見つけた決算の修正や不正などがあった場合には評価範囲に関わらず「全社的内部統制の欠陥」と言っている事例との比較感では、自分がミスった際には甘いのかなという感じがします。) 


確かに悪意はないのかもしれませんが違法配当は違法配当ですし、しかも配当の違法性は治癒が可能であるならば、責任の所在をぼやかせずに所定の手続きや責任(損害額はそれほどでもないだろうし)をとったほうが今後の会社の内部統制への信頼回復につながると思います。
反面、この会社と関係者は「穏便モード」で行こうと思っているようですが、それが吉と出るか凶とでるかは、今後同様の事例の試金石としても興味があります。


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コンプライアンスの匙加減

2010-03-02 | コンプライアンス・コーポレートガバナンス

toshiさんの「ビジネス法務の部屋」で面白いエントリがありました。

所詮コンプライアンスとはこんなもの?(温泉偽装事件)  

岸和田市の温泉施設が近所の川の水を混入していたという事件ですが、いきり立つマスコミとインタビューに答える近所の住民の「たいしたことあらへん。そんなん、どこでもやっとるで」というコメントの対比がなかなか笑えます。  

実際問題として、風呂の湯船のお湯は基本は口に入れることはないですし、川の水だって浄水器に通したり加熱すれば実質的な危険はそんなにないでしょうから、いちいち気にするよりは浴槽が大きかったり施設がきれいだったりすることの方が大事かもしれませんね。
昔の話ですが、水道水だって、東京では金町浄水場の取水口が以前は松戸市の下水処理場の排水溝の下流だったこともあったわけで(参照)、きちんと処理をすれば、水道法などには違反しているかもしれませんが危険ではないはずです。
(そもそも川の水を勝手に利用するほうが問題だと思うのですが、水利権とかの問題はないのでしょうか。)  


過剰反応といえば土壌汚染もそうです。
今年の4月から施行される土壌汚染対策法の改正でも、現状の問題意識として

1 法に基づかない土壌汚染の発見の増加
(発見された汚染土壌の適正管理への不安)
3 汚染土壌の不適正な処理による汚染の拡散
(汚染土壌の不適正な処理事案の発生)

だけでなく

2 掘削除去の偏重
(土地の所有者等の過剰な負担:環境リスク低減の観点でも問題ある掘削除去の増加)

もあげています。(参照

もともと土壌汚染対策法は

土壌が有害物質により汚染されると、その汚染された土壌を直接摂取したり、汚染された土壌から有害物質が溶け出した地下水を飲用すること等により人の健康に影響を及ぼすおそれがある。

ことを防止するのが目的(参照)で、土壌汚染が発見された時の対策も、有害物質が飛散・溶出しないようなアスファルト舗装をするとか溶出防止の鉄板を埋め込むとかの「封じ込め」を基本にしています。 
にもかかわらず、有害物質が発見されると完全に撤去することが求められることがしばしばあります。
 
たとえば築地市場の豊洲移転についても、(そもそもの移転の当否はさておき)、土壌汚染が発覚したからといっても、きちんと舗装をして、井戸水をくみ上げて使ったりしなければいいわけで、わざわざ税金を何十億円もかけて完全に除去する必要はないように思います。  

このようにマスコミに取り上げられる以外にも、J-Reitや不動産投資ファンドなどが融資元の金融機関や所管官庁である金融庁から過剰に遵法性を求められる、または「遵法」の範囲がはっきりしないなかで将来の指摘を恐れて過剰に反応する結果のように思います。



これに限らず、リスク・危険がない世の中を目指すのではなく、リスクの分担が公平・適切になされているか、という視点が大事だと思うんですが。


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囚人のジレンマ

2008-05-27 | コンプライアンス・コーポレートガバナンス

toshiさんの昨日のエントリ内部統制報告制度と財務諸表の適正性確認義務との関係で、面白い話がありました。

財団法人日本証券経済研究所のHPに、ある金融庁(総務企画局)企業開示課長のM氏の講演録の話

「ストレートに言いますと、『内部統制は一切やる気がないので整備しませんでした。したがって内部統制には重大な欠陥があります。なぜなら、当社は上場したばかりで、コストもかかるし、赤字になって、会社にとってはマイナスだ。自分の営業スタイルは、こうすることによって粉飾決算を防ぐことができます』、こういうことが宣言できれば、そのとおりありのままに書けば、内部統制報告としては合格でございます。」

「気をつけていただくのは、その場合、内部統制には欠陥があるので、財務諸表が正しいかどうかというのは別途考えなければいけないので、『財務諸表には粉飾がありません。正しいんです。』ということは、経営者はどこかで説明をしないと、みんなは納得しないでしょう。その意味で経営者は必ず内部統制を整備すると思います。ただし、そのことと金商法24条の4の4とは法律的には別のことです。」

というくだり、について、toshiさんも疑問を呈しておられます。

私も素朴な疑問として、財務諸表の正確さについてどこかで(合理的に)説明できるのであれば内部統制を整備できているといえるわけで、その経営者が「内部統制には重大な欠陥があります」と公表すること自体がおかしいんじゃないだろうかと思いました(それってマイナス方向の誤解を誘うという意味で虚偽記載ですよね。)。
また、そもそも意図的に内部統制を整備しないとか重大な欠陥があると認識したうえで放置するというのは経営者にとっては(先に自社株を空売りしているのでない限りは)経済合理性がないように思います。

M課長のような例があるとしたら、合併かなにかで監査法人が変わるなどして今までのやり方がダメと言われたなど、監査法人から非常に厳格な基準を要求されて、「そんなのやってられまへんわ」と逆切れしたときぐらいではないかと。


で、そもそも何でこういう妙な議論が出るのかなと考えてみました。
本来そもそも「内部統制の整備」と「財務諸表の正確性の合理的な説明」というのは取締役レベルでは同じことのはずだと思うのですが、そこに監査証明という他人の目がはいることで「監査証明が出ない=内部統制に重大な欠陥がある」と遡及的に評価がされるあたりがややこしくなってしまうもとなのではないかと思います。
事前に問題は教えてあるから百点満点をとらなければいけないという試験だけど、採点する試験官には裁量の余地が残っているぞ、と脅かされているようなものですね。

ここが構造的には一種の「囚人のジレンマ」状態になっています

・お互いに評価基準が厳しいとコストばかりかかってしまう
・不正が発覚しない限りはお互いに評価基準を厳しくしない「協調戦略」が有効
・ところが片方が厳しい評価をして片方が甘い評価をしたときに不正が発覚すると、甘い評価をした方がより大きな処分を受け、場合によっては廃業とか上場廃止になってしまう。
・なので、相手を信用した場合のリスクが大きく、自己の損失を最小化するためには相手を信用しない戦略が有効

従来の会計監査も同じ構造なのですが、何しろ初めてだということ、評価が主観的なものにならざるを得ない部分が多いこと、さらに金融庁や証券取引所の「厳罰化リスク」(この意味では対金融庁のゲームでもあります)があり、「やってみないとわからない」というあたりが、MAX-MIN戦略をとらざるを得なくしているのではないかと思います。

「囚人のジレンマ」構造のゲームでいろんな戦略同士をコンピュータで戦わせた結果、(ゲームを複数回繰り返す場合の)一番有効な戦略は「オウム返し戦略」だったそうです。
これは、最初は協調から入り、相手が裏切った場合次の回では裏切りをする、というものが一番高得点になったそうです。

それと同様に最近の金融庁もあの手この手で「協調」のメッセージを送ろうとしているのかもしれませんが、企業や監査法人が今回のメッセージがが「最初の一手」と思うか、「この前裏切られたからなぁ」と思うかが微妙なところではあります。


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内部統制とクラインの壷

2006-11-25 | コンプライアンス・コーポレートガバナンス

※ この飛び石連休は、(代打の代打の)接待やら業界の集まりやらのオフィシャルなゴルフ3件という「ちょっと前の日本のサラリーマン」をやっていまして、手元に資料もなく十分な考察もなく、多いのは筋肉に蓄積された乳酸だけという状態での脊髄反射的なエントリですのでご容赦を。  


金融商品取引法上の内部統制評価報告制度に関する「財務報告に係る内部統制の評価及び監査に関する実施基準(公開草案)」が公表されました。

内部統制に関してずっとフォローされていて、コーポレート・ガバナンスやコンプライアンスについての必見のブログとなっているtoshiさんが「内部統制監査の『品質管理』」というエントリで次のような問題提起をされています(少し長いですが引用します)。  

たとえば、内部統制評価に非常に厳格に対応する上場企業があったとします。この企業の経営者は、一般に公正妥当と認められる内部統制評価基準に従うと、自社の内部統制には不備があると認められ、その後の不備解消の努力もむなしく事業年度の最終日までその欠陥は補正できず、「内部統制は不備がある」と評価したとします。しかしながら、内部統制監査を担当する監査人は、会計基準にしたがえば有効と判断していい、と考えている、としましょう。この場合、内部統制監査を担当する監査人(監査法人もしくは公認会計士)は、経営者の評価は間違っている(つまり、この企業については、他社の内部統制評価と比較しても、一般に公正妥当と認められる内部統制評価基準によれば内部統制は有効である、と判断される)と意見表明する(つまり、経営者意見について不適正意見を述べる)ことは十分ありうることなのでしょうか?理屈のうえではありうると考えられるでしょうが、さて財務報告の信頼性を確保するための開示情報という観点からみますと、一方で企業が「信用性に問題あり」と述べて、もう一方では監査人が「信用性には問題なし」と述べているわけです。財務諸表監査の場合には、経営者が数字によって意見を表明し、これに監査人が「信用性あり、なし」と意見を出すわけですから、これは投資家の自己責任で判断する材料としては、わかりやすいですね。しかし、数字を出した企業自身が「信用性はない」と言いながら、監査人が「信用性あり」と意見を表明したとしますと、そもそも投資家は開示情報のどれを信用していいか混乱するだけであって、投資家の自己責任の根拠となる企業情報開示制度としては、おそらく不適切なものになってしまうのではないでしょうか。  

昨今の「日本版SOX法」(この言い方はあまり好きでないのですが)対応で、企業は「何をしなければいけないのか」「最低限何をすれば文句を言われないのか」更には「そんなことまでする必要があるのか」という逆切れ風な議論までいろいろ議論がかまびすしいですが、上のtoshiさんの指摘は、そもそも内部統制とは何のために求められるのか(より正確に言えば何のために内部統制が求められ、何を目的としてために監査をするのか)について考え直すいいきっかけになると思います。  

改めて金融商品取引法の「目的」を見ると 

(目的)
第一条 この法律は、企業内容等の開示の制度を整備するとともに、金融商品取引業を行う者に関し必要な事項を定め、金融商品取引所の適切な運営を確保すること等により、有価証券の発行及び金融商品等の取引等を公正にし、有価証券の流通を円滑にするほか、資本市場の機能の十全な発揮による金融商品等の公正な価格形成等を図り、もつて国民経済の健全な発展及び投資者の保護に資することを目的とする。  

とあります。  

一方で会社法は 

(趣旨)
第一条  会社の設立、組織、運営及び管理については、他の法律に特別の定めがある場合を除くほか、この法律の定めるところによる。(※)

会社法は株式会社という組織の中で株主・取締役・監査役の権限と責任を定めた(その中で取締役の善管注意義務の一環としての内部統制構築義務が観念されるわけです。)のに対し、金融商品取引法は「有価証券の取引等を公正にし、公正な価格形成等を図る」ことが目的と言っています。

つまり、会社法は株主という出資者と経営の専門家の取締役・監査役が「内輪」の(=株主から見れば、「自分のためにきっちりした会社経営をしてね」と仲間である経営者に頼む)ルールをどうすべきかを定めているのに対し、金融商品取引法は金融市場を間に介して企業と素人の投資家の間の情報格差の是正をはかる(=一般投資家としての会社の「外部」にいる株主が、会社の内部の経営者に騙されないようにする)ことを目的としているわけです。  

その結果、「内部統制」における議論は、「会社はしっかりしなければならない」という誰にも文句の出ない総論の次に、「誰のためにしっかりするべきか」「会社(経営陣)を株主の側にあるもの(会社法的考え)として考えるか、株主(投資家)の外部にあるものとして考えるのか」というところで議論が混乱しているように思います。


上のtoshiさんの設例も、業務のクオリティを高いレベルに保ちブランドを維持しようという企業であればあり得ることかもしれません。
この場合、経営陣と同じサイドにいる株主にとっては経営陣の言うことはもっともなことで「もっとしっかりしてくれ」と言うでしょうし、短期の値上がり期待で保有している株主は「何物議をかもす余計なことを言ってくれるんだ、株価が下がったらどうする」ということになるわけです。

あのエンロンにしても、アウトサイダーの株主にとっては迷惑以外の何物でもないですが、役員のようなインサイダーの株主にとっては粉飾決算であっても合理的(合目的的)な行動なわけです。
逆に「現場に多少統制が効いてなくても元気があるほうがよろしい」という企業があってもいいわけで、そういう企業が「内部統制が確立していない」というだけで資本市場での資金調達ができなくなるのももったいない話です。


企業の内部統制をめぐる議論のややこしさは、このように企業と株主を同じサイドとして(=会社法的考え=儲かるためにどうするかと)考えるか、違うサイドとして(=金融商品取引法的な考え=騙されないためにどうするかと)考えるかが「クラインの壷」の表面をなぞるように循環してしまうところにあるのではないか、とふと思った次第です。  



※「六法」と言われるだけあって、商法・会社法はそんじょそこらにあまたある法律のように自らの「目的」を明らかにすることなく「趣旨」で始まるあたり、「俺がルールブックだ」風な居住まいですね。

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(企業)倫理ってこういうことか

2006-05-28 | コンプライアンス・コーポレートガバナンス

先日紹介した「インターネット持仏堂」の2巻目で「倫理」についての話が出てきます。

そもそもは「救済」という霊的次元(個人)の問題と「倫理」という政治(関係性)の問題をどうとらえるか、特定の宗教が国家を支配したり国家に公認されていたりすれば解決するんだけどまあ、それは歴史的にはうまくいかなかったわけだし、現在のカルトや原理主義的考えにどう対処していくか、というところから話は展開していきます。

そこで内田先生は

倫理(ehics)とは、誤解を恐れずに一言で言えば(誤解されるだろうなあ・・・・・・)「常識」(commonsence)のことだと私は思っています。

といいます。
すなわち、「常識」というのは根拠を示せ、と言われても示すことができない「地域限定」「期間限定」のもので、<絶対に原理にはなれない>という限定性が「常識」が「倫理」でありうるポイントだとします。

つまり、「倫理」は「どの共同体も固有のルールを持っているが、そのルールを他の共同体に汎用的に適用する事はできない」という限定そのものに担保されているということです。
「私にとっての『当たり前はあなたにとっての『当たり前』ではない」ということ。それが倫理の倫理性を構築しています。

さらに、すべての社会集団に共通の「常識」というものはないが、「常識」を持たない社会集団はない、という「常識」をもつことで、「倫理的なふるまい」が定まります。

同じ倫理コードを共有している人間同士のあいだでは、その共有コードに照らしてその人の言動の正邪理非を論じる事が倫理的なふるまいです。

けれども同一の倫理コードを共有しない人間が相手のときは、おのれのコードを無限定的に適用して、相手の言動の正邪理非を論じないことが今度は「倫理的なふるまい」であることになります。

つまり「倫理」というのは本質的にダブル・スタンダードなのです。
「身内」に対しては強制的に、「他者」に対しては宥和的に機能するという宿命的な「あいまいさ」が「倫理」の身上なのです。


何でこんなことを書いたかというと、ここ数日書いてきたように、個人的には会社法や金融商品取引法によってクローズアップされてきた企業の「内部統制」とか「コーポレートガバナンス」をめぐる動きに依然違和感があったからです。

「内部統制を強化しろ」といわれたので「はいはい、レビューやモニタリングやアルファベット3文字委員会を作りますよ」という企業側の対応もちょいと情けないと思う一方で、「財務諸表の正確性を確保するための内部統制システムについて会計監査人に監査させろ」という金融商品取引法(の「日本版SOX法」と言われている部分)の「正しさの押し付け」ともとれるやり方が企業活動に(特にコストや機動性の面で)与えるマイナス(や、それで本当に粉飾決算なりが減るのか)を考慮しても資本市場全体にとって本当にプラスになるのか、というのが今ひとつ頭の整理がついていなかったわけです。

その中で、上の「倫理」についての考え方を援用すると、企業倫理をめぐる私の問題意識がある程度整理されるように思います。

会社法対応において「情けない」ふるまいをする企業は、会社がどうあるべきという「身内に対して強制的に」働く(企業ごとの)倫理(常識)が弱い、またはそういうものの必要性を認識していない、ということなんでしょう。

一方である事象をとらえて企業全体を「バッシング」する動きや画一的に規制すれば世の中が良くなる、という発想も短絡的なわけです。
(会社法や金融商品取引法は法律であって経典ではないので、とりあえずやってみて不具合があったら修正していくというメカニズムが働くのであれば、規制自体が悪いという事ではないとは思います)


つまり「企業倫理」のありようは、あまりに画一的なものでは機能せず個々の企業にとって「宥和的」である必要がある反面、個々の企業においても、自己の(内部規律としての)行動原理だけにこだわるのでなく、自分の属する(または参入したいと思う)集団の「常識」を尊重することが求められる、ということなんだと思います。
(消費者金融をめぐる与謝野担当大臣の発言と、厳しい取り立てノルマを科していたアイフルのの例を考えるといいと思います。)


それこそ「そんなこと常識じゃないか」と言われるかもしれませんが、「内部には強制的に、外部には宥和的に」という部分が「腑に落ちた」もので。

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ひき逃げ事件への対応について佐賀県警に学ぶ

2006-05-27 | コンプライアンス・コーポレートガバナンス

佐賀ひき逃げ事件、警察本部長が謝罪
(2006年 5月25日 (木) 12:39 読売新聞)  

佐賀県唐津市厳木(きゅうらぎ)町で、厳木小広川分校5年家原毅(つよし)君(11)がひき逃げされ、重傷のまま放置された事件で、県警の御手洗伸太郎本部長は25日の定例会見で、「結果として容疑者は逃走し、家族や周辺住民に不安感を与えてしまい、申し訳なく思う。今後は事件の解決に全力を尽くしたい」と謝罪した。  

御手洗本部長は会見で、道交法違反(ひき逃げ)などの容疑で24日に逮捕した唐津市船宮町、土木作業員坂口三之治(さのじ)容疑者(53)をいったん取り逃がしたことについて釈明。「不幸に不幸が重なった。(職務質問した)白バイ隊員は無線で連絡しようとしたが応答がなかったため、携帯電話で連絡した。しかし、現場の位置をうまく説明できず、その場を離れざるを得なかった。やむを得ない対応で、責任を問うのは酷だ」とした。

この事件について朝のテレビなどで警察がむちゃくちゃ非難されてましたが、今ひとつ理解できません。

警察は現場の証拠などから容疑者は比較的早期に特定し、指名手配をしました。
問題はその容疑者が白バイの職務質問にかかったにもかかわらず、本署に問い合わせる間に逃亡されてしまった、という点です。

ただ、もともと白バイ警官のは交通違反などを取り締まるために単独で行動してい(る事が多いはず)です。
交通違反の反則切符を切ったり、違反者を追いかけたりはするもの、基本的には強行犯などの逮捕を主な任務にはしていないはずです。
また、現行犯でもなく、凶器を保持しているような危険性もなく、現に逃亡しようとしているというのでもないのに、警察官が「何となく怪しい/似ている」という理由で被疑者の本人確認もせずに手錠を掛けるということは逆に警察権力の濫用であり、人権侵害になってしまいます。
つまり、(結果としては残念でしたが)白バイ警官もは責任を問われるほどの落ち度はないように思われます。

そもそも警察の組織としての使命は、犯罪予防、治安の維持、犯罪捜査、犯人の検挙というあたりにあります。
今回の容疑者は単なるひき逃げ犯人と推測され、連続殺人犯とか逃亡中の強盗などと違い他人に危害を加える可能性は低かったと思われます。
計画的な犯行ではないので、指名手配をした以上は捜査の網にかかるのは時間の問題だったのではないでしょうか。
佐賀県警としては重点捜査対象とはしていたでしょうが、佐賀県警のすべての人員を投入する(たとえば主要な交差点に警官をはりつけ、山狩りをする)までの必要性は認めていなかったと思います。
そして、結果的に犯人は逮捕されました。
それが勤務先の社長に諭されての自首であろうとなかろうと、逮捕された事実には変わりがないと思います。

5/21に事件が発覚し、2日後に被疑者を特定、3日後の5/24に逮捕されたというのは、ひき逃げ事件としても早い方なのではないでしょうか。

これで警察のどこに落ち度があったのでしょうか?

語弊があるかもしれませんが、テロや凶悪犯でもないひき逃げ事件で指名手配がされた場合に、少しでも似ている人は任意同行を求められたり身柄を拘束されたりしても仕方がない、という社会のコンセンサスがあるのだとしたら、そう言う考え方のほうが危険だと思います(少なくとも僕はそういう風に警察権力が行使されるのは好きではありません)。

ここ数回内部統制のエントリを書きましたが、内部統制は「どんなに利益が上がろうと悪い事は行わない」という反面、「何が悪い事か」についての基準や運用の一貫性が求められると思います。
そしてその一貫性は、法令や会社の価値基準に基いたものである必要があります。
世の中の価値基準の変化にも敏感である必要はありますが、そのときにならないとペナルティがわからない、というのではルールとしては不適当です。
いわんや、外部からの根拠のない非難に対していちいち過剰反応し組織内からスケープゴートを出すようでは、かえって組織の求心力は失われてしまいます。

今回、佐賀県警本部長が被害者の感情やマスコミの煽りに対し、情感処理として事実行為としての謝罪しながらも「やむを得ない対応で、責任を問うのは酷だ」と言明し、部下も含めた理由のない非難に反論することは、組織の責任者として立派な対応だったと思います。


ひるがえって、民間企業の話をすると、最近各社が「内部統制の構築について」というリリースを出していますが、中には「レビュー」とか「モニタリング」とかアルファベット3文字名の委員会などが満載で、いかにもコンサル会社に(大枚はたいて)作らせたものをそのまま使っているようなところが見られます。

※たとえば

各部門が実施すべき具体的なアクションプランとその達成度を測る指標としてのKPI(Key Performance Indicator)を各部門で策定、設定し、

なんてのがありました。(以前からあったとしたらごめんなさい、ですが)いきなりこんなこと言われて社内がついてくるのでしょうか?

まあ、もともといきなり会社法で「構築しろ」と言われてしまったという事情もあるのですが、組織の目的とかあるべき姿が伝わってこない「よそ行き」の内部統制を構築しても仕方ないんじゃないかと思います。
こういう「よそ行きの内部統制をとりあえず作っとけ」という経営者がいるような会社は、何か非難を浴びると、すぐトカゲの尻尾切りをするんだろうな、と、佐賀県警の記事を見ながら思った次第です。

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「コポガバ」

2006-05-26 | コンプライアンス・コーポレートガバナンス
内部統制については、会社法と金融商品取引法のほかに東京証券取引所から上場企業に対し「コーポレートガバナンスに関する報告書」の提出が求められています。


ところでこの報告書、業界の方は「コポガバ報告書」と縮めて言うようです。


でもこれ、ちょいと早口言葉風なので滑舌がよくないと言いにくいかもしれません。
また、役員会で流行らせたあげくに年配の役員の方が「コポカパ・・・」なんてつまったりすると、入れ歯が外れたかと周囲が心配しますので、あんまりいい略称とは思えないんですが・・・



また、「コポガバ」なんていうと「ドルガバ」や「コパカバーナ」と勘違いされるかもしれませんしね(しないか・・・)

※「コパカバーナ」といえばバリー・マニロウの歌が有名ですが(古!)歌詞を改めて見てみると、(日本語訳はこちらをご参照)買収者の出現にゆれる共同経営者を暗示しているとも取れなくないですね
(おあとがよろしいようで)
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町工場に学ぶ内部統制

2006-05-26 | コンプライアンス・コーポレートガバナンス
昨日の内部統制の話の続きです。

会社法と金融証券取引法で会社には内部統制の構築が求められています。
神田先生の『会社法入門』の表現を借りれば、会社法上の内部統制構築は、「経営の適正の確保と取締役の免責(従業員等による不正が生じても内部統制システムが構築・整備されていれば取締役は個人責任を免責される)」にあるのに対し、
金融商品取引法上の「内部統制報告書」は財務報告(情報開示)の観点からのものとされそれぞれは若干異なります。

金融商品取引法の内部統制は2008年4月以降の事業年度に適用されるので、当面は法施行後最初の取締役会で決議する必要のある会社法の内部統制が問題になりました。
そろそろ3月決算の会社についておおむね出揃ったところですね。

会社法の内部統制ですが、大会社および委員会設置会社においては取締役会で「取締役の職務の執行が法令及び定款に適合することを確保するための体制その他株式会社の業務の適正を確保するために必要なものとして法務省令で定める体制の整備」が義務付けられます。(348条3項4号・4項、416条1項1号ホ・2号)

では具体的には何をしなければいけないか、というと
 一 取締役の職務の執行に係る情報の保存及び管理に関する体制
 二 損失の危険の管理に関する規程その他の体制
 三 取締役の職務の執行が効率的に行われることを確保するための体制
 四 使用人の職務の執行が法令及び定款に適合することを確保するための体制
などを決めなさい、と施行規則(98条)で定められています。

何か大層なことを決めないといけない感じです。


そこで、話を単純にするために(会社法では義務付けられてはいないのですが)街場の零細企業を例に考えて見ましょう。

旦那が腕のいい職人兼営業マンで取締役社長、奥さんが専務取締役、あとは職人1人とパート・バイトが2人で商売をしている町工場を考えます。

社長は腕がいいのですが、親分肌で、他の仕事仲間に頼まれると無理なことでも引き受けてしまうことがあります。
特にお酒が好きで、酒が入ると気が大きくなって、面倒見モード全開になってしまいます。
専務は会社の経理事務や電話番をしています。なので、会社の実印や預金通帳と銀行印は専務が管理しています。
工場は家から比較的近く、毎日2人で納品用のトラックに乗って自宅から通っています。


これってよくある町工場のパターンですよね。
実はこれで十分、内部統制は機能しているんです。

上記施行規則に即して言えば

一 取締役の職務の執行に係る情報の保存及び管理に関する体制
 電話番をしていれば、どんな仕事をしているかは大体わかります。

ニ 損失の危険の管理に関する規程その他の体制
 お金と印鑑は専務が管理しているので知らないうちに仕事仲間に金を貸すとか保証人になるということはありません。

三 取締役の職務の執行が効率的に行われることを確保するための体制
 奥さんは経理事務を一手に引き受けているので、社長は営業と加工作業に集中できます。

四 使用人の職務の執行が法令及び定款に適合することを確保するための体制
 車で夫婦で通勤するので、「仕事帰りに一杯」という場合も、一度車を家に置いてから、ということになります。なので酔払い運転にはなりませんし、誰とどこに飲みに行くかもわかります。
 ※バイトのA君は外国人でビザ問題は見てみぬふりをしています、これは近所の町工場はみんな同じなので、摘発されることはないだろうし摘発されたら仕方ないと割り切っています。


内部統制の構築、以上終わりです。簡単ですね。
(上の例では違法のリスクを承知でグレーゾーン(これは厳密にはクロなんですが)に踏み込んでの経営判断までしています。なかなか立派なものですw)


結局(街場の零細企業も含めて)普通の会社は、会社が傾いては困るので会社法施行前でも何らかの形でチェック&バランスが効いた体制をとっているはずです。
それを会社法のルールに則って整理しなおしていけばいいわけですね。

今回非常に立派な内部統制制度を開示している企業は、今までも先進的な内部統制制度を持っていたのだと思います。
これを機会にコーポレート・ガバナンスのあり方を見直す、というのもいいでしょうが、どこかのコンサルが持ち込んだしくみをそのままはめ込んでも、ろくなものにならないと思います。特に、出来もしない事を約束するのは最悪です。
他社の内部統制を参考にしながら、自分の会社にはここが足りないな、というところがあれば、ちょっとずつ身の丈にあわせて改善していけばいいわけです。


結局神田先生のおっしゃる通り、内部統制構築義務が取締役の善管注意義務として明文化された中でも経営者が現状の会社のあり方に自信が持てるか、という「責任」の問題に帰着するわけですね。


こんなこと、僕が今更言うまでもなく業務に携わっておられる皆さんはご承知のことと思います。ただマスコミなどの論調が「今までと違ったしっかりした内部統制を構築しないといけない」と新会社法に合わせて「背伸び」を期待しているように感じられるのであえて書いてみました。





あ、そうそう、もともと社長が愛人に経理事務を任せていたり、ボンクラ息子が仕事もしないのに小遣い代わりに給料もらってあげくの果てにキャバクラの領収書を会社に回しているような会社は、これを機会に反省しなきゃだめですよ^^

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内部統制と左足ブレーキ

2006-05-25 | コンプライアンス・コーポレートガバナンス

「分数を大きくするには分子を増やすか分母を減らせばいい」という小学校の算数を実践した社会保険庁の事件がありました。これについて
年金不正免除で社保庁長官「法令無視の指示はない」
(2006年 5月24日 (水) 12:37 朝日新聞) 

衆院厚生労働委員会で24日、各地の社会保険事務所が国民年金保険料の免除手続きを勝手に行っていた問題が取り上げられた。この中で、村瀬清司・社会保険庁長官は、自身が保険料の納付率向上を強く指示したことが不正を生む引き金となったのではないかとの指摘に対し、「法令を無視してやれという指示を出したつもりはない」と反論した。

ということですが、社会保険庁自身数値目標を掲げて納付率の向上の目標設定をしている(しかもうまくいっていなくて組織全体にプレッシャーがあった)のは事実のようです。

社保庁改革法案審議入り 国保期限を短縮 年金納付率向上盛る
(2006年 5月19日 (金) 03:04 産経新聞)  

・・・十七年度の国民年金保険料納付率は三月末現在(十七年四月-十八年二月分)66・7%で、前年同期に比べ3・8ポイント改善したものの、同年度の最終的な納付率は未集計の十八年三月分を上乗せしても、社保庁が掲げた十七年度の目標値69・5%を達成するのは困難な見通しだ。
十九年度には80%まで回復させる計画を立てているが、法案に盛り込んだ対策を実施しても納付率の改善にどれだけつながるかは不透明。野党側は追及の構えを強めており、国会審議では年金制度の抜本改革の是非が再び焦点となりそうだ。

つまり、徴収率向上は経営課題の中でも優先順位が高く、トップが「法令を無視してやれという指示を出したつもりはない」(確かにいまどきそんなことを言う人はいないでしょう)といっても、事実上人事考課に反映したりすると、現場はどうしても無理をしてしまいがちになります。


これが上場企業になると、公表した決算予想数字を達成できない場合は(特に新興市場企業においては)「期待はずれ」で株価の下落につながりかねません。
さらに、人事制度で目標管理制度を導入していたりすると、決算予想数字(をブレークダウンした部門目標)を達成するために現場にプレッシャーがかかることになります。

よく、期末セールとして「契約(や引渡し)を3月中にしてくれれば安くしますよ」という誘いを受けたことがあると思います。
期末恒例の決算対策の安売りなら(独禁法や景品表示法などに反しない限りは)いいのですが、これが「バックデートでもいいですから」とか「内金は立て替えときますから」となると 損保ジャパンのような保険会社では違法行為になるでしょうし、法令違反にならない業種だとしても「財務報告の信頼性」の面からは問題になりますね。(さらに「契約・未引渡し」で売上計上するのが公正妥当な会計慣行に拠っているかという議論もあります)

こういう風に、現場レベルで違法なことに踏み込んでしまう機会や動機付けはけっこうあるわけです。
 これを防ぐために、昨今話題の「内部統制」が求められるわけです(会社法と金融商品取引法でそれぞれ求められる趣旨は若干異なるようですがそのへんは省略)。

教科書どおりにいけば、「行為規制のガイドラインを作り周知徹底させるとともに、きちんと守っているか、抜け道はないかをモニタリングして、随時フィードバックさせる」ということになります。
ただその一方で、目標達成のためには一定のプレッシャーをかける必要もあるわけで、そのバランスはけっこう難しいんですよね。


昔、自動車雑誌で、オートマチック車の運転方法で「左足ブレーキ」を推奨する評論家がいました(今も流行っているのかな?)。
この方法は右足をアクセルから踏みかえるよりも素早くブレーキを踏める、というメリットがあります。

ところが、実際にやってみると、慣れるまでが大変でした。

左足の力加減がわからないもので、つい強く踏みすぎて「カックンブレーキ」になったり、逆に踏み遅れるのが怖くて常に左足をブレーキの上に軽く乗せているのと、常にブレーキを踏んでいるかのような状態になってしまいます。

これを内部統制にたとえれば、「カックンブレーキ」はガイドラインが厳しすぎたり、それを修正したら今度は緩すぎたりとそのくり返しで業務が混乱するような状況でしょうし、「常時ブレーキ」は常に現場の箸の上げ下ろしまで法務セクションや弁護士の確認を求める、という効率の悪い(コストの高い)組織運営にたとえられると思います。
また、これは組織内部だけでなく、取引先(後続車)にも迷惑をかけることにもなります。

もともと定着率が低く、組織への求心力も期待できない従業員を高い歩合制で雇ってガンガン営業させているような企業であれば、性悪説にたって現場の暴走をおさえるための内部統制を引いているでしょうけど(アイフルの例などを見ると必ずしもそうとはいえないか?)、長期雇用、固定給を前提とした多くの企業は、慣れるまでに時間がかかると思います。


左足ブレーキは結局慣れる前にやめてしまいましたが、内部統制はそうもいかないのがつらいところです。

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