一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『いま、イラクを生きる―バグダッド・バーニング〈2〉』

2011-09-27 | 乱読日記

『バグダッド・バーニング』の続刊。

アメリカの占領政策のドタバタは別にして、印象に残ったのは、家族・親族や他の人間関係の濃密さや伝統的な行事は逆境から立ち上がるときのばねになるということ。

これは東日本大震災にも共通するように思います。

「絆」という言葉がクローズアップされてますが、あえて言葉にするまでもなく身体に染み付いているものの濃さが大事なんだと思います。

このへん、スコップ団の団員(参加者)にも共通する感じがあります。

911に関するアメリカの式典などがそれを強調する一方で、バグダッドの人たちの日常には自然に組み込まれていることの対照が印象的です。
そして、それが混乱が長期化し、過激派が勢いを増す中で徐々に侵食されていくのがつづられていて心が痛みます。



本書は2006年6月分までなのですが、元になったブログBaghdad Burningは2007年10月、著者リバーベンド一家がついにイラクを離れ、シリアに移住するところで更新が終わっています。

We live in an apartment building where two other Iraqis are renting. The people in the floor above us are a Christian family from northern Iraq who got chased out of their village by Peshmerga and the family on our floor is a Kurdish family who lost their home in Baghdad to militias and were waiting for immigration to Sweden or Switzerland or some such European refugee haven.

The first evening we arrived, exhausted, dragging suitcases behind us, morale a little bit bruised, the Kurdish family sent over their representative – a 9 year old boy missing two front teeth, holding a lopsided cake, “We’re Abu Mohammed’s house- across from you- mama says if you need anything, just ask- this is our number. Abu Dalia’s family live upstairs, this is their number. We’re all Iraqi too... Welcome to the building.”

このようなイスラム教徒であるかキリスト教徒であるかを問わないイラクの人々の結びつきが、ここでも力になることと思います。

そして最後の一文は、つぎのように結んでいます。

I cried that night because for the first time in a long time, so far away from home, I felt the unity that had been stolen from us in 2003.



"unity"は失われて初めてわかるものなのかもしれません。
そして、ひきつけあっていた強さが、元に戻るばねになるのだと思います。

 

 

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『バグダッド・バーニング』続き

2011-09-24 | 乱読日記
引き続き。
これしか読むものがないということもありますが、感心すること大です。

文化的になじみがない人々の「遅れている」などというときに、実は言っている側の知識が遅れているだけだったりすることはよくあって、日本人もそういう見られ方をされていた(今もされている)にもかかわらず、「欧米目線」になっているときはすぐに忘れてしまうんだな、と気付かされます。

ヤナール(注 アル・ジャジーラの討論番組に出ていたカナダ在住のイラク人女性活動家)は、イスラム教政府は必ずや女性の権利を侵害しようとするから、女性の平等は宗教と分離した政府によってしか達成されないと主張した。私は必ずしもこれに同意しない。もし純粋にイスラムの教えに基づいたイスラム政府というものがあるなら、女性は譲渡することのできない生まれながらの権利ーー教育を受ける権利、働いて稼ぐ権利、自分の意志に基づいて結婚する権利、離婚する権利などを当然保証されるからだ。もちろん女性の服装その他の制限はあるだろうけれど。

イスラム政府がうまくいかないのは、采配をふるう人たちが常にイスラムの名のもとに、イスラムとはまったく無関係で排外主義と関係の深い法や規則を実施するからだ。イランやサウジアラビアを見てごらんなさい。



著者(24歳の大学を出てイラクのIT企業に勤めていた女性、ブログも英語で書いているーー)は、ヴェール(これは少数)だけでなくヒジャーブ(髪と首を隠すヘッドスカーフ)もしていないし、イスラム教でも洋服は「適切」なものであればいいそうです。

近代国家である以上、女性の社会進出や教育制度は必要だということをわすれがちです。
逆に石油一辺倒でオイルマネーでピカピカの都市を作っただけの国の方をおかしいと思うのが正常なのかもしれません。

(余談ですが、本書のカットに著者を思わせるヒジャーブをかぶった女性のカットが載っているのは、本書が女性翻訳者の働きかけで日本語版の出版にこぎつけた経緯があるだけにちょっと残念)

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ラクダとロバ、金魚とどじょう

2011-09-23 | まつりごと
『バグダッド・バーニング』つづき。

フセイン政権が崩壊したあと、イラクでは、旧政権で反体制派だった主要7政党代表やイスラム教指導者・外交官など25人から成る統治評議会が発足します。
しかし最終権限は米国主導の連合国暫定当局が握り、評議会メンバーもイラクの実情を理解しない米国が選定したために機能していないし、毎月輪番制で各派から議長が出されるのは茶番だと著者は批判します。

イラクでは昔から、いろんな民族やイスラム教各宗派やキリスト教徒が共存していたのに、イラクを「民族と宗教で塗り分けられた小さな地域にモザイク状に分かれている」と考える米国が各派の代表を並立させたがためにかえって権力闘争を招いてしまったと指摘します。

以下が、その機能しない評議会の描写ですが、言葉を入れ替えると現在の日本にも共通するところが暗い気持ちになります。

…ワシントン・ポストが統治評議会に対する支持が落ちているという記事を載せているけど、当然のことだ。


「アメリカは、自らが選んだ評議会メンバーに非常にいらだっている。イラクの政治の将来を考えること…よりも、自分たちの政治的・経済的な利益を得ることに時間を割いているからだ、と関係者は述べた」


権力に飢えた人たち(なかには互いに戦争で敵同士だった人も)を一つの議会にまとめたら、間違いなく自分の利益を大きくしようとするだろう。自分の党のメンバーや民兵組織、身内を推して、将来のイラク社会での自分の権勢を確実にしようとするんだから。



わが国の「ノーサイド内閣」もモザイク度合いは似ている感じがしますし、あらかじめ決めていないのに輪番制のようになっているところは笑えません。大連立を考えるにも「大分裂」にならないことを切に希望します。


そして「どじょう宰相」をいただく身としてかんがえさせられるのがこちら。

アラブに有名なことわざがある。「ラクダもロバに混じれば速い」。"ろくでもない連中の中のましな部分"と見られる人が、こう言われる。カンバルとチャラビがINC(おそらく評議会全体でも)の中のラクダであるなら、いったいロバって誰よ?といいたい。
(注 チャラビは評議会のメンバーでINC(イラク国民会議)の議長。ヨルダンの銀行から数百万ドル横領し倒産させたかどで有罪判決を受けたが国外逃亡し、米軍と共にイラク入りして今の地位におさまった。カンバルは副議長。テレビ討論で相手に殴りかかったエピソードが紹介されている。)



どじょう内閣に金魚はいるのか、どじょう閣僚を集めたのか、はたまた民主党にはどじょうしかいないのか、どうなんでしょうか。

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『バグダッド・バーニング』

2011-09-22 | 乱読日記
米軍の占領下のイラクの日常を現地の女性が綴って世界中に有名になったブログ(英語)を翻訳した本。
そのブログ自体僕は知らずに、既に絶版になってしまった今頃、図書館で借りて読みだしているのですが、いろいろな意味で示唆に富みます。

米国のイラク占領政策の問題は、間違っていたこと以上に、イラクの社会、文化や政治の実情を知らなかったこと、そして僕自身も「米国が正しいか」という視点でしか見ていなかったことに気付かされます。
今更気付いても、なんですが。


そして、今は米国が各派を寄せ集めて作った統治評議会と議長輪番制をめぐるごたごたのところなのですが、なんか今の民主党政権について言われているような気がします。
「大連立」が実現したらまさに繰り返しになるかもしれません。


続きは明日(たぶん)


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軽自動車

2011-09-21 | よしなしごと
超低燃費の軽、「ダイハツ・ミラ イース」発売

最近レンタカーで軽自動車に乗るたびに、よくできていることに感心します。

加速も必要十分だし、スピードを出しても安定して、ブレーキもしっかり効く。
高速だって軽自動車の法定速度でなく全体の流れに乗って走ることも十分可能。

それに室内は十分広い。
その分荷室は最小限だけど、4人乗って荷物をたくさん載せる状況って日常では殆どないし、2人+大荷物であれば、後席を倒せば十分。

燃費もレンタカーで借りたムーヴやタントの実績だと、空いている一般道だと18km/リッター、高速を飛ばすと逆に燃費が悪くなるのですが、雨の日に背の高いタントで目いっぱい飛ばしても(どれくらいかは内緒)12km/リッターは行きます。

軽自動車という制限された規格の中でデザインと技術をつきつめるというのは日本らしさがでていますね。
今回もハイブリッドなどの「飛び道具」に頼らずに30.0km/リッターを達成したのは見事だと思います。


車は長く乗るのが一番のエコだと決め込んでいるのですが、実際週末しか乗らないと自動車のランニングコストに占める燃費の割合って実は大したことはないので、つぎに買うなら維持費も安い軽自動車もありかな、と半ば本気で思ってます。
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農業・漁業への固定概念

2011-09-16 | あきなひ

やまけんの出張食い倒れ日記に15日の日経の社説「農業を成長産業に変える改革を急げ」への批判が載っていました。

日経の社説はTPPの推進のために農業改革に取り組むべきという趣旨でこう述べています。

 「まず取り組むべき課題は、生産性の引き上げである。農地の集約を急ぎ、農家一戸あたりの農地面積を広げる必要がある。
・・・政府の「食と農林漁業の再生実現会議」が8月にまとめた中間提言は、平地での目標面積を20~30ヘクタールとした
・・・農家一戸あたりの農地面積は現状では1ヘクタール未満が55%を占め、平均は2ヘクタールにとどまる」

これに対してやまけん氏はつぎのように批判します

「日本農業は弱いから市場開放できないという後ろ向きな姿勢では農業の未来像は描けない」という。つまり「強くすれば開放しても大丈夫」と言う方向に持っていきたいわけだろう。しかし強くなるためのネタといえば、この社説では「大規模化による生産性引き上げ」である。これが成れば「強くなる」などという論理は、農業関係者であればその多くが「ばっかじゃないの」と思うはずだが、他産業に就くビジネスパーソンからすれば「そうなんだろうなぁ」と思ってしまうだろう。

再三書いてきたけれども、大規模化にはお金がかかる。単に農地をたくさん持つことが出来ても意味が無く、一枚の農地面積が数ヘクタール規模になり、均一な条件で大型機械による作業ができるようになれば、確かに大規模化には意味がある。しかし実際、日本の狭い農地事情ではどうやっても無理だ。いまの時点で田圃や畑は畦に阻まれていたり、高低差が大きかったりする。これを一枚にまとめるには膨大な土木事業費が必要になるのだが、その金はどこから出るのか?

僕も「他産業に就くビジネスパーソン」なので一瞬日経の言うとおりとも思ったのですが、日経の言う「平地での目標面積」と「農家一戸あたりの農地面積」を直接関係させるのは整合性が取れていないのではないか(=山間地を含めた平均値は当然低くなるはず)と思ったので、耕地面積に占める大規模農地面積の割合を調べてみました。
とはいえこの手の統計に詳しくないので、とりあえず見つけた農林業センサスの経営耕地面積規模別経営体数(参照)を参考に概算(たとえば2.0~2.5haは2.25と中間値を取る)してみると、20ha未満の農家数は98.9%、耕地面積(面積の全国合計は別のところから取りました)は76.7%になります。
その残りの部分、20ha以上の大規模農家1.1%で耕地面積の23.3%を経営していることになります。

耕地のうちどれくらいが平地部なのかは不明ですが、仮に2/3が平地部にあって大規模農家はすべて平地部に属するとすると、35.0%が20ha以上の耕地、10ha以上まで入れると47.4%と、実は既にけっこう大規模化は進んでいて、さらに農業の集約を進めるにはやまけん氏の言うようにかなりの投資が必要になるのかもしれません。(ほとんど「当て推量」なので自信はありませんが)。

農業とTPPをめぐる議論は「原発反対・推進」と同じで原理的な対立になりがちなのですが、原発のリスクよりは計量可能だと思うので、もっと具体的な数字をベースにした議論をすべきだと思います。


あと、ふと思ったのは日経の社説にあるこのフレーズの違和感

「このままでは日本は東アジアに吹く自由貿易の風に乗れず、経済成長の道が狭くなってしまう」

一方で日経は円高による製造業の空洞化を懸念しています。
そして製造業においては町工場は「日本のものづくりの原点だ」とは言っても「製造業の約7割が従業員数10人未満(平成18年事業所・企業統計調査参照)だから効率が悪い」という言い方はしません。

そして同じ日に、ユニクロの海外展開については、課題はあるとは言うものの批判的ではありません。
国外で製造し海外の売上げを主にしようと言う点では円高対応を進める製造業と同じ行動なんですけど、もともと国内で製造していない企業だから「空洞化」にならないからいいのでしょうか?


先日の漁業権の話(参照)もそうですが、TPPや震災復興に関して農業・漁業を語る際には必ず現状の「補助金・既得権・非効率」と「民間企業の参入」が語られますが(そういう部分はあるのかもしれませんがしても)、もう少しきめ細かい分析が必要なように思います。
(ユニクロと同じ紙面で取り上げられている特集記事「離陸する農ビジネス」で取り上げられているものも農地としてみれば小規模な取り組みだったりしますし。)


東北地方を回ると、被災した漁師さんや農家のなかには相当稼いでいた人もいるようでした。
ただし自然が相手なので、リスクも大きいが当たればでかい、その「当たればでかい」を目指して先行の設備投資をする、という意味では、ベンチャー企業と似ている部分も多いのではないかと思うのですが、なぜか農業や漁業を語るときには「前近代的な産業」という切り口で語られます。
そして、不思議と都会のベンチャー企業のやる小さな農業が誉めそやされたりします。

投資とリターンのキャッシュフローの構造としてとらえてみれば、農家や漁師がやろうと「企業家」がやろうと同じわけで(製造業だって補助金や税金の優遇措置を受けているところは山ほどあります。新聞の再販制度はここでは触れません(って触れてるしw))、それを同じ土俵で議論するところから始めたほうがいいと思います。

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クールジャパンのロゴ決定

2011-09-15 | 余計なひとこと

最初見たときは「右からの強風にあおられてあたふたしている日の丸」かと思った。

クールジャパンのロゴ・メッセージの決定について(平成23年9月13日 知的財産戦略推進事務局)




メッセージはこれ。
 


震災には言及せずにいたほうが「クール」だったと思うにつけ、このロゴの短命さがしのばれます。


<追記>
「クールジャパン」を売り込む相手である外国から見ると、今回の震災による原発事故は日本の技術の信頼性に対する疑問を呼んだはずです。
しかしメッセージは震災について「乗り越え、立ち上がろう」と被災者目線で、もっぱら国内に向けてのメッセージのように思われます。

キャンペーンのロゴ・メッセージの決定に際して、何かポイントがずれてしまっているのではないでしょうか。

このメッセージがつくと戦時中の「一億火の玉」を連想して、個人的には「ホット」なんですが。


それに震災からの復興の目処がついたら「クールジャパン」キャンペーンをやめるわけではないのでしょうし。

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漁業権

2011-09-14 | 東日本大震災

昨日の日経の特集記事「復興へ今」で水産復興特区と漁業権の問題がとりあげられていたので、備忘録的に。

記事によると、特区については民間資金を呼び込もうと言う県と漁業権を持つ漁協が激しく対立していたが、9月6日に県漁協の幹部と県とが水産業復興特区を巡って初めて話し合う「沿岸漁業復興連絡会議」が開かれました。
この特区構想は復興構想会議のときにも水産庁の抵抗を押し切って「何とか枠組みを残した」とのこと。

復興への提言(平成23年6月 東日本大震災復興構想会議)を見るとこのようになっています。(太字は筆者、以下同じ。)

漁場・資源の回復、漁業者と民間企業との連携促進(p22)

必要な地域では、以下の取組を「特区」手法の活用により実現すべきである。具体的には、地元漁業者が主体となった法人が漁協に劣後しないで漁業権を取得できる仕組みとする。ただし、民間企業が単独で免許を求める場合にはそのようにせず地元漁業者の生業の保全に留意した仕組みとする。その際、関係者間の協議・調整を行う第三者機関を設置するなど、所要の対応を行うべきである。

この「特区」に対して宮城県の「水産業復興特区」構想に思う(農中総研 調査と情報 2011.7(第25号) 内容は6月20日現在)では具体的にどのような漁業権に対してどのように規制を緩和するのかがはっきりしないまま議論がされていると指摘しています。  

ここで漁業権の種類について上の論文と水産庁のサイトの 漁業法の目的からまとめると、漁業権は4種類あります。

1.定置漁業権 (存続期間5年)
・ 漁具を定置して営む漁業であって身網の設置水深が27m以上のものを営む権利。
(ex.大型定置網、北海道のサケ定置漁業など)
・ 自ら定置漁業を営む者に適格性が認められ、漁協による管理を認めていない。
・ 知事が優先順位に従い免許する:地元漁民の属する世帯が多数参加する地元自営漁協、漁民会社(株式会社を含む)が優先度が高い。

2.区画漁業権(存続期間5年(一部10年))
・ 一定の区域において養殖業を営む権利
(ex.カキ、ノリ、真珠養殖、小割り式魚類養殖など)
・ 自ら区画漁業を営む者に適格性が認められる。
・ 知事が優先順位に従い免許する:地元漁民の属する世帯が多数参加する地元自営漁協、漁民会社(株式会社会社を含む)が優先度が高い。

3.特定区画漁業権(存続期間5年(一部10年))
・ 区画漁業のうち特定のもの:ひび建養殖業、藻類養殖業、真珠養殖業を除く垂下式養殖業、小割り式養殖業、地まき式貝類養殖業。区画漁業の大半を占める。
・ 管理をする漁協が最優先される。
・ 特定区画漁業権の管理を行なう漁協においては、組合員は組合の定める漁業権行使規則に従い漁業権を行使する。

※ 補足
漁業法第6条、第7条によると区画漁業権とは「第三種区画漁業たる貝類養殖業を内容とする区画漁業権」をいい、第三種区画漁業とは「一定の区域内において石、かわら、竹、木等を敷設して営む養殖業」および「土、石、竹、木等によつて囲まれた一定の区域内において営む養殖業」以外のもの、ということですから、大規模な貝類の養殖業はこのカテゴリに属することになるようです。

4.共同漁業権(存続期間10年)
・ 一定の水面を共同に利用して漁業を営む権利
(ex.アワビ、サザエ、ウニ漁業、小型定置網、固定式刺し網)
・ 地元の漁協・漁連が免許を受ける適格性を有する。
・ 漁協においては、組合員は組合の定める漁業権行使規則に従い漁業権を行使する。

上の論文は、特区の議論が「現行漁業法の元でも企業が参入できる分野についての優先順位の見直し」なのか、「現行漁業法では企業が参入できない分野について認める」ということなのかがはっきりしない、と指摘し、また後者だとしても企業が漁協の組合員になることで参入が可能だ、としています。
確かに「復興への提言」は現在の漁業法を基本としながら漁協の意見をそんちょうしつつちょっと広げましょう、というトーンです。これが「何とか枠組みを残した」ということなのでしょう。

その後の政府の 東日本大震災からの復興の基本方針(平成23 年7月29 日 東日本大震災復興対策本部 p19)では

5 復興施策
 (3)地域経済活動の再生
  ⑤水産業
  () 地域の理解を基礎としつつ、漁業者が主体的に技術・ノウハウや資本を有する企業と連携できるよう仲介・マッチングを進めるとともに、必要な地域では、地元漁業者が主体の法人が漁協に劣後しないで漁業権を取得できる特区制度を創設する。

と、やはり漁業権を与える場合の優先順位を見直す、つまり特定区画漁業権と共同漁業権は開放しない(?)ようにも読めます。


そして宮城県の 宮城県震災復興計画(平成23年8月 p12)では

復興のポイント

2.水産県みやぎの復興
■ 具体的な取組
○ 水産業集積地域,漁業拠点の集約再編
・ 「水産業集積拠点漁港」を再構築するとともに,漁港の3分の1程度を「沿岸拠点漁港」として選定し,当該漁港に機能を集約再編しつつ,優先的に復旧します。また,拠点漁港以外については,安全に利用できるよう必要な施設の復旧を行います。
・ 流通加工団地等の漁港背後地を一体的に整備し,水産業関連産業の集積を図ります。 

○ 新しい経営形態の導入・ 漁船漁業・水産加工業等の早期の復旧・復興に向けて,直接助成制度の創設を国に求めます。
・ 沿岸漁業・養殖業の振興に向けて,施設の共同利用,協業化等の促進や民間資本の活用など新たな経営組織の導入を推進します。

○ 競争力と魅力ある水産業の形成
・ 水産業の集積度と付加価値の向上に向けて,漁業を中心とした産業の集積・高度化に努めます。関連産業との連携のもとに流通体系を再整備し,水産加工品のブランド化,6次産業化等の取組を推進します。

■ 検討すべき課題
・ 漁船,養殖施設,加工施設等の基盤を国が一定期間直接助成するスキームの創設
国の「東日本大震災からの復興の基本方針」に基づく民間資本導入の促進に資する水産業復興特区の次期漁業権切替までの検討及び漁業者との協議・調整

6 分野別の復興の方向性
(4)農業・林業・水産業
③ 新たな水産業の創造(p44~)
3 水産業集積拠点の再構築及び沿岸漁業拠点の集約再編
(中略)
水産業集積拠点となる漁港を除く県内漁港は,沿岸漁船漁業及び養殖業を行う上で重要な漁港を沿岸漁業拠点として整備するとともに,沿岸市町のまちづくり計画に合わせて集落の復興計画の策定支援や漁業権の変更・更新などに取り組みます。(以下略)

4 新たな経営方式の導入による経営体質強化,後継者確保,漁業の総合産業化等
沿岸漁業・養殖業等の第一次産業の経営体質強化を図るため,業生産組合や漁業会社など漁業経営の共同化,協業化,法人化を促すとともに,地元漁業者と技術・ノウハウや資本を有する民間企業との連携を積極的に進め,自立した産業としての礎となる新たな経営形態の導入支援に取り組みます。

そしてそれぞれの【主な事業】として

・ 漁業権変更及び一斉切り替え事業 【復旧期】

をあげています。

これを見る限りでは漁業権の見直しの範囲ははっきりしませんが、「沿岸漁業・養殖業等」の強化をうたっている以上、特定区画漁業権と共同漁業権も含まれているようにも読めます。
ここは宮城県としてはちょっと踏み込んだのでしょうか。 (しかしまあ、役所の作文は面倒くさいですね・・・)


またはそれほど厳密に考えずに、「国の基本方針に基づき」という方が基本方針としては通しやすいのであとは具体的な交渉で進めていこうという政治的な判断なのかもしれません。

たしかに地元の漁協がいやがるのに特区に指定して県知事が免許を与えたとしても、そこにトラブルを覚悟して参入しようとする企業は少ないでしょうし、知事としても選挙をにらむと得策ではないと思います。

逆に、こういう枠組みを作ることで、一つの漁協でも民間企業の資本を入れることに前向きになり、そこが早期の復興の成功例を作れば、バスに乗り遅れまいと希望する漁協は増えてくると思います。
また、バスに乗らずに自力で資金調達できる漁協があればそれに越したことはないわけですから。


つまり協力的な漁協への「太陽政策」のほうが、「強権的に既得権を奪う」という「北風政策」よりも有効だと思いますし、村井知事もそう考えているのではないでしょうか。

何しろ生業なのですから、「漁業権」を抱えて行き詰るより、稼げる提案があれ漁協も乗ってくると思うのですが。

なのでマスコミも「既得権にしがみつく漁協」というような切り口一辺倒はやめたほうがいいと思います。
(僕が現実を知らないだけで、漁協の人々はそんなに柔軟じゃない、とか、漁師でなく漁協の役職員が抵抗するのかもしれませんけど)



ちなみに水産庁は東日本大震災による水産業への影響と今後の対応(平成23年6月)ではこう書いてます。

漁港の機能分担
 
中核漁港の高度化 周辺漁港のネットワーク化(p10)
共同利用漁船等復旧支援対策事業 274億円 (p9)
被災した漁船・定置漁具の復旧のため、漁業協同組合等が行う以下の取組を支援・ 激甚法に基づく共同利用小型漁船の建造・ 共同計画に基づく漁船の導入・ 共同定置網の導入

これは従来の漁協中心の枠組みに沿った復興計画ですね。
国の基本方針が出る前の時点での役所としては仕方ないかもしれません。
でも補正予算の要求はどういう枠組みでやるのでしょうか。

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震災後半年

2011-09-12 | スコップ団

週末スコップ団に参加してきました。

特に9月11日というのを意識していたわけではなく、たまたま都合がついて宿が取れたので。

ホテルで見た金曜夜(9日)のNHKのローカルニュースでは、石巻市で仮設住宅で残っているのが交通便の悪いところばかりになって、希望住戸の抽選に外れた人に強制的に割り当てようとしていることに反発が広がっているという話がありました。

マスコミが特集で「ここ半年を振り返る」とか「半年たっても復旧復興が進んでいないが国は何をしている」と怒って見せても現地ではこういう毎日が積み重なっているわけで、ちょっとズレがある感じがします。

そのほかにもいいニュースでは、東京在住の英語教師をしている外国人女性が南三陸町で耕作放棄地を借りて開墾し、地元の人と野菜作りをして仮設住宅の人に販売しているというものもありました。

被災地から離れたところにいる身としては、片付かない瓦礫を前にレポーターが嘆息するというお決まりの画でなく、こういう細かい実情を伝えてほしいと思います。

しかし実際は、NHKでも全国ニュースでは式典・イベントや原発関係、食品の放射能問題くらいしか取り上げられなくなっている感じです。
天気予報で被災地の天気に言及するより、一日一本でもいいからローカルニュースを流すべきではないでしょうか。


ひょっとすると「震災後半年」という特集をするマスコミや私たちの目線がだんだん外からのものになってきているのかもしれません。
企業も、ウェブサイトに「東日本大震災の被災者の方に心からお見舞い申し上げます」と乗せているところが多いですが、いつ元に戻そうかと考え出しているところも出てきているような気がします。(そしてまたこういうことになると横並びで「空気読みながら」という行動をしそうです。)


復旧復興が遅れていると国や県が批判はされますが、単位が大きくなるほど配分の公平に配慮しなければいけないし、現地にはりつけるだけの要員もいないわけで、後手に回るのは仕組みとして仕方がない部分もあります。
さらにトップが嫌われることを回避して政治的配慮を優先すると、総論のプランだけは作るが個別の優先順位付けが出来ないというまさに今の状態になってしまいます。

また、復旧・復興といっても万能の解決策があるわけでもなく、予算や立地上の制約もあるしそれぞれの市町村の個別事情もあるので、一律の施策がうまくいくとも思えません(大体机上で考えたことが大概上手くいくならこんなに「想定外」の連発は起きなかったわけですから)

結局は市町村や企業、もしくは個人単位でいろんな試行錯誤をする中でいくつかの成功例が出てきて、他のところも「あ、それいいな」と真似をする中で比較的有効な復興策が広まって行くんじゃないかと思います。

まだ整理できていないのですが、農業や水産業も今までみんなが仲良しクラブで同じことをやっていたわけではなく、そこには当然競争があり、上手くいった人(地域)は儲かるしそうでない人もいるという世界だったはずです。実際話を聞くと漁師にしろ農家にしろ罹災前は相当羽振りのいい人(いい意味で)もいたようです。
復旧復興にもいろんな工夫を可能にするような国や県からの支援のし方もあるのではないかと漠然と思っています。


なので、個人ベースでは何かのきっかけや縁とか単なる好き嫌いでもいいから「やろうとおもったことをやる」、のがいいと勝手に思ってます。
いずれ有効な支援の方法に集約されていくでしょうから。


で、週末のスコップ団

スコップ団でも誰からも「11日で半年」という話は出ず、黙々と(土曜は団長が首を痛めていたので監督にまわった分にぎやかだったけど)スコッピングをしてました。
相変わらず被災した住宅はそのままだし、片端から片付けるしかないですから。

土曜の1軒目。
この家は家ごと10mくらい(写真だと左方向に)流されています。
構造が丈夫だったので浮力で基礎からはがれたのでしょうか。女川町ではビルが横倒しになったくらいだから十分ありえることでしょう。


2軒目

外から見ると(玄関脇の柱が傾いているくらいで)比較的きれいですが

中は津波の傷跡が生々しいです。
床下にたまった泥も掻きだす必要があります。


3軒目

ここは海に近いところにあるので砂の量が半端なかったです。
しかも家が大きい。



母屋の浴室とは別にバスタブがひっくり返っていたので、二世帯住宅だったのかもしれません。

※ 2日目は筋肉痛をだましだましでしかも午前だけ参加だったので写真を撮る余裕はありませんでした。


スコップ団は2回目の参加ですが、勝手に集合場所に集まればよく、途中参加・退出も自由というルールの緩さ、自律性が気に入ってます。
それから参加して若い連中が頼もしいのを見ると、オジサンもがんばらねばと思います。
そして何より元気があっていいです。


スコップ団は横車には厳しいが猫車は大好きの図


関心のある方は事務局のブログ団長のブログをごらんください。

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『評伝 若泉敬』

2011-09-09 | 乱読日記

これは「沖縄の本」というより沖縄関連本です。

佐藤栄作首相の密使として沖縄返還交渉に関わり、晩年『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を著し、沖縄返還交渉における核密約の存在を明らかにした若泉敬の生い立ちから晩年に至るまでの詳細な伝記です。

沖縄の核密約だけでなく、国際政治をめぐる議論がどう変質して行ったかについても詳しく触れています。


若泉は1930年生まれ。少年期に戦争・敗戦を迎え、戦後日本のかたちが作られるその時期に大学生から国際政治の研究者の道に進んでいますが、この世代の人々の話を読んだりきいたりすると、腹が据わっていること、そして当時の大学生は人数も少なくかつ入試競争も激しいなかで、いい意味でのエリート意識と責任感を持っていたように感じます。

日本の外交政策をめぐる議論も、内容以上にそれを議論する当事者の迫力が今と違うことを痛感します。

現在の政治状況がそうなってしまっているのは、もういいオッサンになった私たちの責任でもあるのですが。


1960年代に若泉が吉田茂と対談したときのこのくだりは耳に痛いです。

「・・・この頃の吉田は、かつて日清・日露戦後の日本人が「いわゆる小成に安んじて遠大の志望を欠」き、かえって傍若無人となって国を誤ったという歴史の教訓を念頭に、高度経済成長後の若い世代に夢を持たせられなければ将来は危ういと考えていたのである」


バブルの傍若無人どころか「小成」すらも危ういと自信をなくす一方にみえる今の日本で、若い世代に夢を持たせられるために何が出来るかが高度成長期に育ったオッサン世代の責任ですな。

がんばらねば。

 

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『新書 沖縄読本』

2011-09-08 | 乱読日記
沖縄関係2冊目

2000年代の沖縄ブームのきっかけをつくった著者たち(ホントにそうだったのかは知りません)が、沖縄の今と歴史を語った21のエッセイ集です。

沖縄ブームのその後、高校野球の強さ、沖縄ポップス、危機に瀕している「長寿県」などから、今の沖縄県民の意識を形作っているさまざまな歴史的な背景についての考察など幅広くカバーしています。

それぞれが沖縄に長い間かかわってきた人の、ブームの後の冷静な視点での批評・分析から沖縄を理解する新鮮な切り口を得ることが出来ます。

特に、さまざまなエピソードから沖縄の人々のアイデンティティの微妙なありようが多面的に描かれているところが印象的でした。

1903年大阪での第5回内国勧業博覧会「学術人類館」での展示においてアイヌや朝鮮民族との対比においてあらわになった「日本人」としてのアイデンティティの微妙なありよう(参照)、本島と八重山の関係、たとえば明治半ばまで本島の旧士族の懐柔のために八重山諸島に対する人頭税が温存されていたこと、米国占領下の二束三文の地代での土地の接収と返還後の地代改定による地主長者の発生、年金制度における「沖縄特例」(参照)など、歴史的な背景が現在に与えている影響については新鮮な発見がありました。


基地問題なども現在の問題の背景を理解するためにも役立つ一冊だと思います。



新書 沖縄読本 (講談社現代新書)

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『小説 琉球処分』

2011-09-07 | 乱読日記

夏場になると沖縄関係の本を読みたくなります。
今年は3冊。

最初は『琉球処分』 これは昨年図書館で借りて延長できず返却を余儀なくされたのですが(参照)、菅総理(当時)の発言もあって講談社文庫として復刊されたのではれて購入。
文庫で各500ページ上下巻の大作です。

上巻の帯にはご丁寧に

「数日前から『琉球処分』という本を読んでいるが、沖縄の歴史を私なりに理解を深めていこうとも思っている」
 内閣総理大臣 管直人

と件の発言が引用されてます。
今回の首相交代で帯も差し替えるのかなぁなどと余計な心配をしてしまいます。


さて、本題。

前回は出だしまでしか読んでいなかったので「琉球の視点から」と書きましたが、中盤以降、琉球側の視点と明治政府特に処分官として派遣された内務官僚松田道之(彼が伊藤博文内務卿に提出した詳細な報告書が本書の下敷きになっています)の視点を対比させることで、双方の認識のずれや苛立ちのなかで「琉球王国」が「琉球藩」そして「沖縄県」とされていった過程を描きます。

琉球王国は古来中国から冊封を受けながら中国・日本・東アジアとの中継貿易で栄えてきました。
1609年に薩摩藩の侵攻を受け薩摩藩の実質的な支配下になってからも、中国との朝貢貿易は維持され、琉球王国として存続してきました。

その結果、近代国家として琉球も日本国の領土にある以上他の藩同様行政組織に組み込もうとする明治政府の論理と、今までどおり清国と薩摩藩の間を泳いでいられるだろう、清国から冊封を受けている以上悪いようにはされまい、という琉球王国の高官たちの認識のずれが(明治政府曰くの)「琉球処分」をめぐっての長くかみ合わない交渉をもたらすことになります。

小説として、明治政府の苛立ちと琉球の戸惑いの妙なすれ違いの描写は臨場感あふれます。

「きみの弁じたあの部分だけだ、こちらの敗北は。・・・他の部分は、なるほど君が言うように、かれから見ればこちらの蒙昧とも受け取れよう。しかしまるで三歳の童子と論じている大人の苦労だ。常識の底が違う。かれらに己れの蒙昧を知らしめようとすれば、こちらの常識の底をさらに突き破って話を掘り下げてゆかねばならぬ。それには何時間かかるのだ。今晩の夜を徹して明日まで議論を尽くせば可能だというのか。わたしには、そのような暇も根気も義務もない」

「いけません。古来わが国は外国に向かっては、頼り、こいねがうだけが道、薩摩だけにはそれも利き目がありませんでしたが、中国はいつでもそれを聞き届けてくださいましたし、日本政府もどうやら、大きなことを言うだけに島津よりはいくらか御しやすいものと思われます。ここまで引き延ばしてきたのですから、あと一息で我を折るに違いありません。そうすれば、おのずからまた活路は開けるというもの・・・」

また、、琉球側でも高官たちの清国の支援を期待するか否かの対立や世代間による受け止め方の違い、そして士族と農民の対比が描かれ、単に琉球王国を犠牲者とだけ決め付けないことで物語に奥行きが生まれています。 

そして交渉の過程での両者の視点のずれや楽観、悲観、いらだちをそれぞれの立場から丁寧に描くことで、「琉球処分」が単なる明治政府と琉球王国の「善悪」「勝ち負け」でなく、わだかまりを残しながらの決着として提示されます。

このわだかまり感は現在の沖縄を巡る問題にも通じるのかもしれません。


歴史的な問題意識を持っていなかったとしても読み物としても楽しめる一冊ですので、機会があればぜひ読んでいただきたいと思います。


 

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タイミング、C調、無責任

2011-09-04 | あきなひ

車でクレイジーキャッツを聴いていて、改めて奥が深いと感心。

無責任一代男の一節

人生に大事なことは
タイミングにC調に無責任

映画『ウォール・ストリート』でゴードン・ゲッコーが揶揄した「人の金でハイリスクな投資をして報酬を稼ぐ投資銀行の連中」を想起します。

そのときどきの流行に乗った投資のストーリーを作って、せっせと営業して投資家の金を集め、自分が負うのは(無責任ではないけど)受託者責任という限定的な責任。

「タイミングにC調に無責任」というのは金儲けの金言かもしれません。


でも同業者の競争を勝ち抜いて、しかも以前に損をさせた相手からも金を集めるのは相当の努力が要ることも事実。

それについてはゴマスリ行進曲がいいことを言っています。

朝も早よから 夜中まで
身震いするよな うまい事言おう

「身震いするよな」ストーリーを描いて、しかも客に食いつかせるために昼夜を分かたず努力する必要がある。


無責任も楽じゃないということですな。

 

(おまけ:マイケルもそう言ってますw)


 

 

 

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『経済の文明史』 『社会的共通資本』

2011-09-01 | 乱読日記
『LOST』ファイナルシーズンをまとめ借りしているので週末までに観なければ。
自分を追い込むべきことは他にあるだろうに・・・

夏の間に読んだ本の感想をまとめて


ドラッカーの『傍観者の時代』にカール・ポランニーとの交流に触れたところがありました。

彼の目指したのは、市場が、唯一の経済システムでもなければ、最も進化した経済システムでもないことを明らかにすることだった。そして、経済発展と個の自由を両立させつつ、経済と社会を調和させる場は、市場以外にあることを示すことだった。
少なくとも市場は、財の好感と資本の配賦にのみ使うべきであって、土地と労働の配賦に使ってはならなかった。それらのものは、相互扶助と再分配、すなわち経済合理性ではなく、社会的合理性と政治的合理性によらなければならなかった。



ポランニーといえば日本でも80年代の「ニューアカ」ブームのころ、栗本慎一郎が紹介して経済人類学や著書『大転換』が話題になりました。

『大転換』が絶版なので、論文集である本書を購入したまま積読だったものを、「」というあたりが震災復興での内陸部移転の議論の理解に何か示唆がないかなと(当然ポランニーの議論は大掛かりなものなので、直接役に立つようなものではないは承知で強引にこじつけて)1970年代の翻訳はこんなだったよなという文体を久々に味わいながら読みました。

ポランニーの主張をひとことで言うのはとても無理なのですが、一つの切り口としては市場を中心とした経済学の考え方が社会全体についての議論をゆがめているという論点があります。
人類の歴史においては、貨幣は交換だけを目的として生まれたものではないし、生産は「所得を稼ぐ」ことを動機として行なわれてきたものではない。「人間の経済は原則として社会関係のなかに埋没しているのである。」ところが近代に至り市場経済学が流布すると、「市場メカニズムから、経済決定論がすべての人間社会に通用する一般的法則であるという妄想が生まれた」。この法則は市場経済においては正しいのであるが、その結果

「社会関係のなかに埋め込まれていた経済システムにかわって、今度は社会関係が経済システムのなかに埋め込まれてしまったのである」



被災地の農業や水産業の復旧のときに企業の参加などが議論されていますし、実際復興のための資金をどうするか、その前に既存の借金をどうするかといういことが大きな問題になっていますが、その意味では既に社会関係が経済システムのなかに埋め込まれてしまっている中での復旧復興をどうするかが問題になります。
地域コミュニティを維持したうえでの復興の重要性も言われていますが、震災前の地域コミュニティというものがどのようなものであり、それを(外形的に)そのまま復活させることがいいのか、という議論が必要になるのでしょうか。




切り口の方向は違いますが似たような論点を提示しているのが宇沢弘文の『社会的共通資本』

「社会的共通資本」とは、自然環境(大気、水、森林、河川・・・)、社会的インフラストラクチャー(道路、交通機関、上下水道、電力、ガス)、制度資本(教育、医療、金融、司法、行政)をいい、それらは市場経済的基準によって、または官僚的基準によって管理されてはならない、という主張です。

ただ、しっくりこなかったのが「市場経済的基準によって、または官僚的基準によって管理されてはならない」ものを「社会的共通資本」と定義しているので、本の内容がその理論体系の説明になっていて、なぜ社会的共通資本という概念が必要で実際の意思決定において有用かというところがいまひとつ腹に落ちてこないこと。

極端に言えば「重要なものは重要だ」と言っている感じがしてしまいます。

共感する部分もあるのですが、たとえば被災地の復興における議論のときに、立場の違う人や様々な選択肢の中で説得力を持つのかなというところがよくわかりませんでした。





この本に限らず、経済学の素人からみると、経済学者の議論はそれぞれの体系の正当性を主張していて議論がかみ合わないことがよくあるように思います。
たとえば現在の景気刺激策や財政問題などについても、経済学者とかエコノミストの間で何でこんなに意見が割れるのだろうか、しかも「原理的なところでそもそも相手はわかっていない」というようなそれぞれの流派や体系の塹壕の中から手榴弾を投げ合っているような議論が多いのは不思議に思います。
異種格闘技ならそれで、がっちりと組み合って素人にもわかりやすい議論をしてほしいと思います。

ポランニーの言うところの社会関係を経済システムの中に埋め込むことに成功した経済学者たちは、その後個々の理論の純化の方向に進むことで「一般的に通用する法則」から離れていったのかもしれません。


多分こちらもそういうことを言っているのだと思います。

小幡績PhDの行動ファイナンス投資日記「政治経済学 Political Economy」

経済学は戦前までは、political economy、政治経済学が経済学だったのだ。その後、経済学が勝手に離脱暴走し、自らの社会的存在価値を失わせることで、あるいは政治から自由になることで、学問を発展させてきただけだ。

そして純化した経済学が、貪欲に、純化できずにテクニカルには発達が遅れていたほかの社会科学を侵食して行ったのが、この30年の出来事なのだ。

政治学は数理モデル化することにより、政治から自由になり、政治分析として社会に貢献することを止めた。いや経済学的手法の呪術にかかってしまった。



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