一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

熱海余談

2012-07-30 | うろうろ歩き
まい泉というとんかつ店があります。

レストランの店舗数はさほど多くないのですが、ヒレかつサンドやお弁当はデパ地下などでよく売っています。

このまい泉、サントリーが2008年に創業者から会社を買って、子会社にしています。(参照



そして、サントリーに売却したオーナーが今年熱海(中心部からちょっと南の多賀)に店を出しました。
とんかつKOIDE

まい泉をサントリーに売却したときの契約に(当然)入っていたであろう競業禁止条項には抵触していないのでしょう。

確かに熱海は静岡県なので、競業禁止の範囲が「関東」だとすると1都6県には入りませんね。
また、上のウェブサイトでも「まい泉」については一言も触れていません(当然今や商標も持っていないし、言及することも契約で禁止されているのかもしれません)。

ただ、「この道46年」のオーナーの名前は上のリリースにもウェブサイトにも載っているので、クチコミにはなりそうです。
また、オーナーを知っている人が足を伸ばせるところにあるといういい立地の選択なのかもしれません。


今回は真夏に海岸でとんかつという気分でなかったので外から見るだけで立ち寄りませんでしたが、外観は水色の外壁でビーチサイドのカフェ風なのが印象的でした。

食事をした人は併設してある温泉にも入れるらしいので、今度話のタネに行ってみようかと思います。

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熱海

2012-07-29 | うろうろ歩き
熱海に行ってきました。

明治から温泉地として発展し、戦後は大型旅館が林立していたものの、昭和40年代をピークに、社員旅行の衰退などで観光客数が減少し、さらにバブル崩壊により旅館の身売り・廃業が追い討ちをかけているという印象があります。

実際、街中は「さびれた感」が否めません。

「熱海銀座商店街」
シャッターが目立ちます。


駅前から中心街に下る平和通り名店街
土産物店が中心なのか、夜になると閑散としています。



個人的には昭和風なテイストが感じられるところが随所にあり、それはそれで趣深くはあります。





(「昭和」の極めつけとしては、熱海城熱海秘法館などが有名ですね)



ピーク時に年間500万人を超えていた観光客数もいまや300万人前後であり、依然として旅館数は過剰なようです。
新たな観光客を呼び込むためには既存の旅館のリニューアルが必要なのですが、経営難の中でリニューアル資金を調達するのは難しいので、昔のまま細々と営業しているところがほとんどなのでしょうか。
それでも立ち行かなくなると売却したり廃業することになり、実際、全面リニューアルされているのは星野リゾートのリゾナーレ熱海など経営者が変わったところが多いようです。
また周辺部には新しいオーベルジュやデザイナーズ・ホテルがいくつかできていますが、なかなか熱海のイメージを変えるまでには至っていません。


廃業した旅館跡地は(リゾート)マンションに変わるのが多く、街中に既に何棟もできていて、現在も数棟が建設中でした。

熱海市も観光客だけでなく移住のニーズの掘り起こしに力を入れていて、「熱海時間」というPRサイトがあります。

客観的には、東京からのアクセスのよさ、温泉の泉量の豊富さ(旅館数が減ったため、余裕があるらしい)、冬の温暖な気候など移住者を呼び込むポテンシャルはあると思います。

一方で、山が海岸ギリギリまでせまっているので急坂が多くいのが一番のネックになりそうです。
自分で車を運転できる人か、逆に自力では出歩かない高齢者に限定されるように思います。
坂が多いということは当然平地が少ないので、周辺の伊東や真鶴と比べてロードサイド店舗の集積がない(街中にマックスバリュとグルメシティはあるが駐車場は狭い)というデメリットにもつながります。
そして、海岸沿いの国道に交通が集中するので渋滞が大変なときがありそうです。


僕も一瞬新幹線通勤を考えたのですが、上のような理由で断念しました。
別荘は資金力もないので論外w

ただ、坂が多いということは、こういう魅力的な景色を楽しめることでもあります。



週末に気分転換に訪れたくなるような旅館・ホテルができれば、足を運ぶ機会も増えると思うのですが。



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『国をつくるという仕事』

2012-07-23 | 乱読日記

熱量の高い本です。

世界銀行でアフガニスタン・バングラデシュ・パキスタン・スリランカ局局長から最後は南アジア地域副総裁までつとめた著者が、現場体験で知り合った、貧困やその原因である権力の腐敗・悪統治と戦うリーダーたちを中心に「貧困のない世界をつくる」ために邁進した自らの体験を、雑誌『選択』でれんさいしていたものをまとめた本。

国づくりは人づくり。その人づくりの要は、人間誰にでもあるリーダーシップ精神を引き出し、開花することに尽きると思う。  
未来の社長や首相を発掘せよなどというのではない。育児や家事に勤しんでも、家庭の外に出てどのような職に就いても、リーダーの仕事には夢と情熱と信念がある。頭とハートが繋がっているから、為すことが光る。心に訴えるものがあるから、まわりの人々にやる気と勇気をもたらす。そのリーダーの良し悪しが、開発途上国の発展に決定的な差を生む。

実際に本書で取り上げられているリーダーの多くは農民、村長、NGO活動家、ジャーナリスト、社会起業家で、政治家はほんの一握りです。  

本書を読んでいると、胸が熱くなる、涙腺が緩む、という場面に多く出くわすのですが、それは著者の草の根への深い共感と情熱が行間からあふれているためで、それが著者自身が優れたリーダーであることを物語っています。  

貧困の原因はその現場に行かなければわからないし、草の根の民衆は何が問題かがわかっている。そして草の根への共感とともに問題意識をくみ上げ、世界銀行の融資を本来の目的に使うために為政者にも厳しく接するという姿勢を著者は貫きます。  

最近「現場主義」という言葉は、「百聞は一見に如かず」を言い換えただけだったり、現場の情感処理と勘違いしているような使い方をされているので、個人的には使いたくない言葉なのですが、著者の現場主義は見本となるべきものです。  


また、著者の、信念を持ち、ぶれない姿勢は、他人にも自分にも厳しい態度となってあらわれます。

災害からの立ち直りを助ける援助活動には心労が多い。緊急時の活動は目立つ。顔が見える。金が集まる。名声や昇進欲をくすぐる。公私共々、援助機関の悪質な競争を誘う。緊急事態を口実に草の根を無視し、民の意を汲まない活動が許されやすい。被害国の人々がするべきことまで、援助機関の人間が立ち入りたがる。救済・復興どころか、被害者やお互いの足を引っ張る結果になりかねない。  
緊急時に醜態をさらす公的援助機関は多すぎる。普段から、ビジョンと価値観と倫理がしっかり浸透した組織として動いていないから。これもまたリーダーシップの重い責任と考える。  


読み終わった後も、著者の情熱の余韻が伝わってくる本なのですが、同時に、わが国の為政者のリーダーシップについて、また著者のような人(特に女性)の活躍する場が日本には少ないのではないか、ということに考えをめぐらせてしまいます。  

そのうち前者については、著者がパートナーになっているシンクタンク、ソフィアバンク代表の田坂氏が巻末の「真のリーダーの抱く夢--解説にかえて」という詩のような文章でいいことを言っているので最後に紹介します。  

なぜ、この日本という国には、
数々のリーダーシップ論が溢れているにもかかわらず、
真のリーダーが生まれてこないのか。

(中略)

なぜなら、優れたリーダーの持つ優れた資質とは、
実は、 リーダーとなるための「条件」ではなく、
リーダーの道を歩んだ「結果」だからである。


PS  世界銀行といえばエコノミック・ヒットマンの影響で、途上国を先進国が過剰なインフラ投資と借金でシャブ漬けにするお先棒を担いできた機関という印象を持っていたのですが、物事は一面からだけ見てはだめですね。

 

 

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『働かざるもの、飢えるべからず。』

2012-07-15 | 乱読日記

本書は、タイトルでもじっている「働かざるもの食うべからず」という考えが現代では妥当しなくなっているというところから、ベーシック・インカムと相続税率100%をセットにした社会システムを提案しています。

すなわち、「良いものを安く」を目指して経済活動を続けてきた結果、(労働力のコモディティ化によって)貧富の格差は広がってきたが、極端に貧困層が増えることは経済活動全体(ひいては豊かな人々)にとってもマイナスである。
他方、昔と異なり長期に安定的な産業というものは存在せず、豊かな人が豊かであり続けることも昔と比べて困難になってきている。
個人の成功・不成功も努力だけが大きな要因ではなくなってきており、「働かざるもの食うべからず」の命題の前提にある「働いた分だけ豊かになる」ということが成立しなくなってきている。
突き詰めて考えれば、一次産業だけでなく全ての産業は自然なり他の人間から何らかの形で収奪をして成り立っているわけで(注:このへんは「農業はサステナブルではない」という指摘につながるところがありますね)、「誰も、もともと働いていない」(=価値をゼロから創造しているわけではない。「付加価値」とはよく言ったものですね)。
なので「働かない人に金を与えるのは道徳的にも正しくない」という発想は捨てるべき。
逆に、できるだけ多くの人に成功に挑戦する機会を与えるべきではないか、
と説きます。  

 「どんなものが欲しいのか」という声をあげられないことが貧困です。食べるものにも困っていたら、まだ持っていない「iPhoneが欲しい」と思えないです。  
 どんな未来がほしいのかといったときに、どんな努力をしたらいいのかわからない世の中に、これからどんどんなっていきます。そのときに、一人でも多くの「こんな未来が快適かな」というアイディアを持つ母集団をつくったほうが、未来の快適さは向上します。  

また、相続税100%は、相続財産をベーシックインカムの原資とすることで、財産を「社会全体で相続」することを目指します。
事業の承継などのためには同時に生前贈与の税率を下げることで若い世代に所得移転を促すことで投資を促し、社会に還流させればよいとします。
そして社会に還元される金であれば、金持ちも世間の目をはばかることなく堂々と金を使うようになるという副次的効果も出ます。  

富める人が使いきれないほど溜め込んでいる金を社会に還流させる。経済活動については自己責任を透徹するが、うまくいかない(あたりまえですが半分は「平均以下」になるわけです)ことについては結果責任は問わずに再チャレンジを促すというところに代表されるような著者の「合理的(ある意味では怜悧)でありながら同時に楽天的」な視点は本書を一貫していますし、その視点は健全だと思います。(語り口は肌に合わない人がいるかもしれませんが)


社会保障・年金制度が負担と受益のアンバランスなど様々な面で機能不全が見えている中で、変に制度をいじって複雑にするよりはベーシック・インカムというシンプルでコストのかからない形にガラポンするという選択肢は有効なのではないかと個人的にも思ってます。
ただ「ガラポン」をするには現行制度の慣性があるのであるのでなかなか実現しないのでしょうが、相続税100%というのはガラポンのきっかけになる面白い提案だと思います。  

一方で相続税100%を導入すると金持ちの海外に逃避という懸念が出てきます。
本書でもそれについて言及した上で限定的と判断していますが、実際合法的かつ安全に資金と生活拠点を海外に移そうとした場合、生活コストや資産管理コストを考慮すると、そう簡単に海外の方が有利、ということにもならないように思います。
それよりも、国としての将来性や政治体制に不安がある場合の方が資金の逃避を誘発するように思います(高度成長下の中国など)。
逆に、社会が安定すれば、逆に現在シンガポールなどに資産家が移住している現象に歯止めがかかるかもしれません(シンガポールに住むこと自体さほど楽しいとも思えないのですが、それは税制のメリットを実感できないからなんでしょうねw)。  


いろいろ言及している各論の部分ではちょっと違うんじゃないか、と思うところもありますが、思考実験としても楽しめる本だと思います。 


 

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『人はなぜだまされるのか』

2012-07-08 | 乱読日記
人間が自然環境や社会集団を形成するなかで、環境に適応するための機能として心理的な部分も進化させてきた、すなわち性格や心理的特性、認知能力などについても遺伝の影響があるという進化心理学の研究成果をまとめた本。

錯視や注意力の特性、記憶や感情、思考方法について、それが人類の進化の過程からどのように形成されてきたかを進化心理学の視点から説明します。

この環境への適応も霊長類に共通する行動様式と、300万年~1万年前の狩猟採集生活に伴う必要な集団的協力作業により人類独自の進化に分かれるとします。
特に、人間の心理は狩猟採集時代の人間集団の数である最大150人程度を基準にしている(そのため噂の中身は記憶されるが出所は記憶されにくい、共通メンバーの間では信念が共有化されやすいという現象が起きる)、という切り口は興味深いです。

ただ、著者も言っているように、進化心理学という分野は1990年代から注目され始めた歴史の浅い分野で、評価もまだ十分に定まっていないので、これを短絡的に振り回すのは注意が必要。


このへんの問題については、スティーブン・ピンカーの『人間の本性を考える』が、人間の心は固有の構造を持たない白紙状態で社会やその人自身が思いのままに書き込めるという考えが現代において優勢な地位を占め、遺伝的子の影響を一部でも認める立場(=人間の本性というものが存在すると認めること)は人種差別や性差別、戦争や大量虐殺、政治的反動を是認することだと考えられてしまってきたことの背景の分析と、「人間の本性」という概念が社会生活や道徳にまつわる論争にどのような洞察をもたらすか、についてNHK Booksで3巻にわたる大著で詳しく論じていますので興味のある方にはオススメです。







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1984年の予言

2012-07-05 | 原発事故・節電・原発問題

こちら経由で知った1984年のゴルゴ13のエピソード「2万5千年の荒野」

以下引用(孫引き)

あらすじはゴルゴ13データベースより。

ロサンゼルス市北方80㎞に位置する南カリフォルニアG&E社「ヤーマス原子力発電所」通常運転開始をロス五輪開会に間に合わせるため現場は無理を強いられ、小さなミスが続出していた。安全主任のバリー技師は稼働を延期して不安箇所を点検するよう進言するが政治的理由で受け入れられず、運転開始日には現場から締め出されてしまう。

大統領補佐官を招いての式典のさなか停電で外部電源が喪失。自家発電機も整備ミスで起動が遅れる。炉は安全に緊急停止したかに思われたが、バリーが点検を進言していた逃がし弁の故障で炉心に冷却水が入らなくなる。

上がり続ける温度と圧力、迫る炉心溶融(メルトダウン)の危機。崩壊した原子炉からばら撒かれるプルトニウム239の半減期は2万5千年。ロサンゼルス壊滅を防ぐには放射能蒸気の充満した原子炉内で詰まった配管の一点を撃ち抜き冷却水を入れるほか方法はない……!

さいとう・プロダクションでは、ゴルゴ13のエピソードの原案を分業制で入念なリサーチを行なって作っているそうで、実際けっこう最新の国際情勢の、しかもけっこうニッチなトピックの勉強になったりもするのですが、1984年の時点で全電源喪失とか緊急冷却装置の故障というのがリスクとして認識されていた(リサーチに引っかかる程度に話題になっていた)んですね。

われわれはいかに忘れやすいか、日常に流されやすいかのいい証拠でもあります。



単行本は64巻、文庫版は55巻に収録されています。

 

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「農業はサステナブルではない」

2012-07-02 | ECO・環境問題
先日紹介した『没落する文明』のなかに、「農業はサステナブルなものではない」という話がありました。

乱暴に要約するとこんな文脈。

定住人口を支えるために農耕を行なうことは土地に過剰な負荷をかけることになる。
(現に最初の文明の発祥地は皆砂漠化している)
それを解決したのは、リン鉱石の発掘やアンモニアの製造を通じて空気中の窒素を固定することが可能になった科学肥料の誕生であり、それは化石燃料に依存している。

なるほどな、と思った矢先に、先日リオ+20で発表された地球環境の許容度のデータでは、窒素量もCO2以上に地球の許容量をはるかに超えているという記事がありました(読売新聞のwebで見つからなかったのでこちら参照)

個人的には初耳だったのですが、実は専門家の間では窒素循環というのは当然の問題意識だったようです。
(たとえば農業における窒素循環の視角から循環型社会を展望するなど)

地球人口の増加と食糧問題を考えると、耕作適地(や水資源)の絶対量が限られるなかで収量の増加を志向せねばならず、循環型農業がそれに対してどこまで有効かというのが素人考えながら問題としては難しいように思います。

海水の富栄養化や窒素酸化物による大気汚染など地球温暖化以上に因果関係がはっきりしているし被害も具体的なので、ひょっとするとCO2問題よりも大きいのかもしれません。

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