昨日のエントリで取り上げた『Google』の隣にあったのでついでに買った本です。
橘玲(たちばな あきら、と読むんですね)さんの本は平積みでよく見かけるので、今まで何回かパラパラと立ち読みした事があります。
この本は株式投資全般について、さまざまな投資理論から、投資商品のしくみまでまとめたものです。 難しい事をわかりやすく説明することが上手だな、と改めて思いました。
たとえば株式投資の代表的な手法について以下のようにまとめてます(もっとも詳しい解説はあるのですが)
①トレーディング(デイトレードを含む)
メリット:ゲーム性が高く、いちどハマるとやみつきになる。
デメリット:ゼロサムゲームなので、初心者の大半は敗退していく
②個別株長期投資(バフェット流投資法)
メリット:資本主義の原理に忠実なので、もっとも大きな利益が期待できる
デメリット:企業調査に時間と努力が必要
③インデックス投資(経済学的にもっとも正しい投資法)
メリット:あまりに簡単で考える必要すらない
デメリット:平均的にしか儲からない
どの投資手法にも一長一短があるのだが、株式投資の世界にはそれぞれの派閥に原理主義者がいて、互いに罵り合っている。
(中略)
私は投資における原理主義を否定しないが、ひとつの手法に忠誠を誓う必要もないと思っている。投資家は主義主張を争っているわけではなく、最後はより効率的に儲けたひとが正しいのだ。
内容的には特に画期的なことはないのですが「うまい儲け話というものは絶対にない」ということを、投資は許容されるリスクの範囲内で行うべきことを何度も強調しています。
私が投機を勧める気にならないのは、必ず損をするからだ。株式投資が確率のゲームである以上、それは避けることができない運命みたいなものだ。プロのギャンブラー(投機家)はそのリスクに耐えつつ、確率的に優位なポジションをとるためにありとあらゆる可能性を探る。それでもしばしば失敗して、なにもかも失う。
投機において、損するリスクを想定していないと、ものすごく不愉快な思いをすることになる。それを承知でゲームとして楽しむのならなにもいうことはないが、これまでふつうに生きてきたひとがわざわざそんな体験をすることもないと思うのだ。
株高というので「ひとつ私も株や投資信託でも」と言い出した年金暮らしの親に読ませるにはちょうどいい本かもしれません。
あとがきの最後
最後にお断りしておくと、私自身はここで述べたような「合理的な投資法」を実践しているわけではない。
ひとには、正しくない事をする自由もあるからだ。
(このレトリックはどこかで見たこともあるのですが、それはおいといて)私はここ数年はインデックスファンドに毎月定額の投資(ドルコスト平均法ってやつです)というやつしかしてません。
まあ、これは原理主義というよりインサイダー取引とかいちいち気にしなくていいのと、本業でない自分が本気で市場に参加している他の人より上手くやれるとは思えないのと、銀行においておくと使っちゃう(市場リスクより無駄遣いリスクの方がが高いw)のと、上にあるようになにより面倒くさくないというあたりの理由からです。
それでも先日の日経平均の500円近い下げのときに思わずいつもの購入日と違うのに買いを入れてしまったことを思い出してしまいました。
まあ、人間の欲なんて、そんなもんです(案の定その後もまた下げてますが、気にしない、気にしないw)
(この手の本は「リアル」の本屋の方が入手しやすいのかもしれません)
これは『ウェブ進化論』と逆にネットを利用する側に立って、具体例豊富に書いた本なので「へぇー」とか「うんうん、これはわかる」と思いながら一気読みしてしまいました。
『ウェブ進化論』よりはグーグルの実像がわかりやすく書いてあります。
優秀な検索エンジンを持っていたが収益につなげることができなかったグーグルが(もともとは他社のアイデアである)「キーワード広告」によってアドワース/アドセンスという莫大な広告収入を得るようになり、さらにその収益をベースにしてさまざまな無料サービスを提供して、究極的には世の中のすべての情報をデータベースに取り込む、というのがグーグルという会社の実態のようです。
しかし、その存在が巨大化するにつれ、また、集め、利用できる情報を増やすために、権力(米国政府とか中国政府)との妥協をする姿や、グーグルという私企業のプラットフォームゆえに、ある日一方的に不正と判断されて「グーグル八分」にされてしまうことの恐ろしさにも触れられています。
言うなれば、Googleが神(本書では「ネット上の司祭」といってます)であるとして、神が降臨するところにどういうことが起きるのか、またはノアの箱舟の乗り心地はどんなものなのかということを書いた本です。
専門的なことは私の手に余るので、R30氏のblogでの書評とそこで紹介されているpal氏と小飼弾氏のblog、そして、毎度斜めからの切り口の切込隊長などを参考にしていただければと思います。
(これらの方にはあらかじめ本が贈呈され、ブログで書評されることを期待しているという今風のプロモーションをやったようですが、私が買うくらいの効果はあったようです)
タイ国王、定数未満での国会開会を拒否
(2006年4月26日 01:52 Nikkei Net)
【バンコク=長尾久嗣】国会開会期限を5月2日に控え500人の定数が満たせないタイ下院について、同国のプミポン国王は25日夜、「500人そろわなければ国会は開会できない」と述べ、開会に必要な詔勅への署名を拒否する意向を示した。
「選挙に1政党しか立候補しないのは民主主義ではあり得ない」とも語り、全400の小選挙区のうち約7割が与党・タイ愛国党候補のみとなった4月2日の総選挙に不快感を表明。総選挙のやり直しも含め、タイ政局は再び転機を迎えた。
南部フアヒンの離宮に滞在中の国王は25日、司法関係者を呼び演説し、テレビ局が放映した。立憲君主制のタイで国王が公の場で政局に介入するのは極めて異例。国王は野党やタクシン首相に反発する市民団体が求めていた国王による暫定首相の任命も拒否し、国民による解決を促した。
ずっと政治的混乱が続いていて、与党は多数を盾に強行な国会運営をし、野党が選挙に候補者を立てるのをボイコットしている中で、野党や国民の一部が憲法上の国王の権利である首相指名権の行使を望んでいた、といった状況のようです。
これに対し国王は「民主主義国家なんだからわがまま言ったり拗ねたり他力本願でなく、自分達でしっかりやりなさい」と言ったということなんだと思います。
国王に諭されてしまう民主主義政党というのも妙な話ですが、こういう風にタイミングを見計らって見識ある発言をする国王がいるからいまだに王政が健在なのか、王様という最後のよりどころがいないと勝手放題してしまうという国民性なのか、どっちなんでしょう。
現代において王政が有効に機能している少ない例のように思います。
でも、こういう王室の後継者の帝王学ってどうやって教授するんでしょうかね。
やはりイギリスのOxbridge関係なんでしょうか。
ここのところテーマ掘り下げ系のエントリが続いたので、視野を広げて気分転換をと英国在住のジャーナリスト小林恭子さんの小林恭子の英国メディア・ウォッチを拝見
1 アル・ジャジーラの英語放送がもうすぐ始まる
アルジャジーラ英語放送社長の話に改めて衝撃 では、英語放送を行うアルジャジーラ・インターナショナルの社長(英国人)のインタビューのさわりを載せてます。
これまで、世界のニュース報道は英米に支配されてきたが、他にももっと影響力の大きいところがでてきても良かった。フランスも始めているらしいが、ロシアのロシアン・ツデー(英語放送)とか、自分たちで自分たちのことを(世界に向かって)語りたい、という風潮が出てきていて、それが広がっていくとしたら、おもしろい。中南米のテルスールもそうだと聞いている。
日本も海外への情報発信の重要性が言われていますが、そのお手本になるかという部分も含めて興味があります。
でも、「日本の情報発信」というときに、(日本政府の情報発信は別とすれば)日本(人)の「自分たちで自分たちのことを(世界に向かって)語」る担い手は誰がなるのでしょうか。
既存のマスコミは「政府」「与党」「大企業」「右派または左派」という対抗者なしに自分の立ち位置を決められないんじゃないかと漠然と思ったりしました(あ、今日は日本の話はしないんだったw)。
2 英国でのイラク人質問題
英国でも日本と同様の事件がおきて、特殊部隊SASに救出されたのですが、この人が頑固な平和主義者らしく救出したSASに感謝しなかった、ということが問題になっているそうです(英国流人質バッシングの行方は?)
信念の人、とも言えるのだが、英国に住むと、こういう感じの人は結構多い。ケンバー氏自身とは離れた話になるが、一般的に、現在の英国では、かつては自分勝手と言われるような価値観でも、本音を出すことが、「いい」、とされるようだ。
記事を読んだ限りは、理解や同意を得ようというスタンスは微塵もない人なんでしょうね。確かにこういう人は強いのでしょうが、こういう人が「結構多い」国で暮らすのは大変そうです。
3 "Sir Michael Jackson"
この人ではありません
2の記事で「英陸軍トップのマイケル・ジャクソン将軍」という方が登場します。
ググって見たところ こんな記事に出ていました。
"The UK's top general, Sir Mike Jackson" "Sir Mike Jackson, Chief of General Staff"といわれているので、参謀総長のような立場のようです。
"Sir"なんですね。
ご本人はこんな方。 筋金入りの軍人、という雰囲気の人です。
4 チベット問題
ついでにBBC Newsを見ていたら、チベット問題についての記事がありました(Fathoming Tibet's political future )
ダライ・ラマ14世も71歳を迎え、没後今のチベット亡命政府(インド側の国境付近にある、ただし国際的には未公認)の影響力が弱まり、中国政府の支配が強まるのではないか、という内容です。
チベットの霊的指導者としてはダライ・ラマとパンチェン・ラマがいて、片方が没したときに、存命の方が「生まれ変わり」を探し、認定する、ということで歴代続いてきました。
ところが1989年にパンチェン・ラマ10世が没した後、11世と認定された少年が中国政府に拉致されて消息不明になり、その後中国政府は別の少年をパンチェン・ラマ11世と自ら認定しました(ダライ・ラマ14世はそれを承認していない)。
そうすると、ダライ・ラマ14世の没後、従来の手続で15世認定することができないという正統性の問題が生じるおそれがあります。
つまり時の経過は中国政府に有利なわけです。
戦前からイギリスはダライ・ラマのチベットと縁があるので、こういう記事がたまに書かれるのでしょう。
ダライ・ラマ、チベット関係については ダライ・ラマ法王日本代表部事務所をご参照。
またこちらのエントリに参考文献などがあります。
ところで、この記事を見ると、清原選手がチベットで街頭デモをしていて驚きました。
貸金業の上限金利問題にかかわる「ローエコ」議論に慣れない頭を使っているうちに書く機会を失っていたのですが、昨年に続きまたもやタイムリーに発行された、武井一浩・中山龍太郎編著『企業買収防衛戦略Ⅱ』を(タイムリーと言うにはちょっと遅れて)読みました。
専門的な内容についてはコメントできるほどの知識・能力はないので、読者としての感想(というかヨタ話)をいくつか。
1.サブリミナル効果
章立ては以下のとおりです。
第1章 「買収防衛策の最新動向と実務対応の指針」(武井一浩)
第2章 日本における平時導入型買収防衛策の標準形──「条件決議型ワクチン・プラン」の設計書(武井一浩/中山龍太郎/高木弘明/野田昌毅/前田葉子/石田多恵子)
第3章 「買収防衛指針」および「企業価値報告書」の解説(武井一浩)
第4章 買収防衛策の意義に関する覚書(中山龍太郎)
第5章 米国における買収防衛策に関する法的議論の概観──第三者割当・複数議決権株式を中心に(中山龍太郎)
第6章 公開買付けにおける株主の平等取扱い──米国の動向を参考として(戸田 暁)
第7章 ファイナンスからみた企業買収(森田 果)
第8章 敵対的買収に対する防衛策についての覚書(田中 亘)
これに、巻末資料として「企業価値報告書」「買収防衛指針」や関係する訴訟(ニッポン放送・ニレコ・日本技術開発)の判決文などが載っています。
第1章から読み進んでいくと、「企業価値報告書」「買収防衛指針」に言及される部分が多く、第2章の前に巻末資料を改めて読んでみたくなります。
そして2章、3章は既出の論文をアップデートして収録しているのですが、その結果必然的に論点が繰り返し引用・整理されているので、読み流して行ってもサブリミナル効果のように頭に入ってきます。
これは書き下ろしにないメリットですね。
そうやって頭の整理をつけたあとで興味があれば書き下ろしの4章5章以下を楽しむ、というのがおすすめの読み方です。
2.「条件決議型ワクチン・プラン」の呼称について
筆者は西村ときわ法律事務所の弁護士を中心にしていますが、西村ときわの発案である「条件決議型ワクチン・プラン」という呼称を広げよう、という意気込みを強く感じます。
これは筆者らの試案で俗に「ワクチン・プラン(常備薬)」と呼んでいるものである。(48頁)
「ワクチン・プラン」との呼称は、筆者らの属する西村ときわ法律事務所で考案した名称である。(同 注3))
こういう著書は事務所のPRという部分もあるのでしょうから異を唱えるつもりはないのですが、ちょいと引っかかったのが「ワクチン」と「常備薬」というのはちょっと違うのでは、という点。
確かにワクチンは無害化したウイルスを体内に入れて抵抗力をつけるので生理学的には常備薬といってもいいのかもしれませんが、普通は常備薬といえば「富山の置き薬」のようなものですよね。
そして「富山の置き薬」といえばつぎの遊び唄が有名です。
すなわち、上記「ワクチン・プラン(常備薬)」という表記には、本当は
買収防衛策を作るのもいいが、素人が勝手に作ったり、いいかげんな法律事務所に相談して「鼻くそ」のような防衛策を作るとロクなことにならないぞ(=西村ときわに相談しなさい)
と言外に言いたかったのではないか、というのが私の深読みです^^
3.寸止め
本のボリュームから仕方ないのかもしれませんが、けっこう面白そうな論点を頭出しだけして、「その点は措くとして」とか「・・・の文脈でも重要な要素となる」で言及をとめている部分がけっこうあります。
それ以上知りたければ・・・(以下省略)ということなのでしょうが、この寸止め感がたまりません。
(同じ西村ときわ法律事務所の『M&A法大全』などもそういうところがけっこうありますね^^)
4.謎
購入したのが初版なので、誤植はつきものなのですが、悩んだのが以下の部分
なお、先ほどの「条件決議型」は、(a)(b)(c)三類型(注)すべてに対応可能であり、各社の状況によって柔軟に設計を行うことができる。米国型のガバナンス体制を志向する企業が買収防衛策を導入できることはもちろんのこと、社外取締役を置かない方が企業価値の最大化に資すると考える上場企業であっても、買収に対する適正な時間と情報を確保し企業価値を高めない支配株式の移動を未然に防止するため、適正な詐欺を工夫することで、取締役会決議によって導入することが可能である。(28頁)
(注:これも前では「①②③」と書かれているんので一瞬迷います)
他の誤植は単純な誤植か変換ミスが原因と思われるのですが、これは正しくは何と書きたかったんだろう、と悩んでしまいました。
私の回答案は「策」なのですが、"sagi"と"saku"ではキーボード上でgとkは離れているので、タイプミスというのも考えにくいんですよね。
どなたかほかの回答があったら教えてください。
冗談はさておき、真面目な話、非常にわかりやすく整理されている本だと思います。特にそもそも論から役員などに説明する際のネタ本として重宝すると思います。
消費者金融議論については47thさんのところでさらに展開されていますので興味のある方はこちらのまとめエントリをまずご参照ください。
では、私なりに考えてみたのですが、47thさんのところにTBされたbewaadさんのエントリで言及されていた貸金業制度等に関する懇談会・第17回会合・GEコンシューマー・ファイナンス株式会社 土屋監査役 提出資料はとても示唆に富みます。
欧米では消費者金融の世界でも新商品・新業態の進出によりサービスと利用者の棲み分け、金融会社・業態間の競争が盛んなようです(当然それに伴う弊害もあるのですが)。
一方、日本では「消費者金融」と「クレジット会社」と「銀行」の3つの業態しかなく、前2者では信用力によって多少の低金利商品は出ているものの、新規参入といっても銀行と消費者金融との提携程度であり、プレイヤーが増えたり競争を促進する方向に進んではいないように思います。
実態に詳しいわけではないので誤解かも知れませんが、消費者金融への新規参入者も新しいサービスや絞り込んだ顧客への新商品を提供しているというよりは上限金利を生かして既存業者と同じパイ奪い合おうとしているように思います
つまり、各社ともスポット的な資金需要に対してなら合理的であろう(場合によってはもっと高くても正当化しうると思います)高金利を、リボ払いのような形で日常の資金繰りのための借り入れとして組み込んでしまおうとするいわば「シャブ漬け」(不適切かもしれませんが)的な商品を供給することで利益を得ているのが現状ではないでしょうか。
その意味では47thさんのおっしゃる
この基礎的なロジックの上で、①消費者金融市場が競争市場として機能していない、②システィマティックな行動バイアスが存在するという主張はあり得ます。
の①が現実としてあるのではないか、というのが私の漠然とした考えです。
規制業種が結果的に新規参入へのハードルになり結果競争が制限されるという点では第一種電気通信事業者とか携帯電話会社などの許可制の事業ではよく見られますますが、登録制である貸金業においても、競争が働かず上限金利に張り付いてしまうというという現象が起きているのかもしれません。
私も47thさん同様当座のスポット的な資金需要については上限金利の設定を厳しくする事は逆効果だと思います。その意味で上限金利を引き下げさえすれば問題が解決するというものでもないと思います。
ただグレーゾーン金利の撤廃で消費者金融業の利益の大半が吹っ飛ぶとか、上限金利を下げると消費者への信用供与がなされなくなるという議論も逆の意味で論理性に欠ける感情論のように思います。
もしそうなら、逆にいえばそれこそが大半の貸付が上限金利に張り付いていて競争原理が働いていない証拠ではないでしょうか。
または上限金利による超過利潤にあぐらをかいて高コスト体質になっているために上限金利を引き下げられると利益を出せないだけかもしれません。
本当は上限金利がなく、業者がみずからの事業判断で金利(商品)を提供し、消費者は自由な選択でそれを選ぶというのが確かに理想ですが、現状はそこには程遠いような感じがします。
しばらくは、本当に引き下げ後の上限金利でビジネスに参入する人がいないのか様子を見たほうがいいかもしれないと思っています。
先のGEコンシューマ・ファイナンスのレポートにあるように、欧米では日本と違う形での消費者金融の業態がいろいろあるようです。ですから理想論でいえば、日本においても新たな消費者金融の業態・市場を開拓することが可能なのではないかと思います。
銀行も、既存の消費者金融と提携しておこぼれにあずかろうとするだけでなく、積極的に新業態を開拓したらどうでしょう。
たとえば三井住友銀行のルーツの1つである太陽銀行は元は「日本無尽」ですから、低クレジット・無担保貸出というのは家業のひとつでもあったわけです(もうひとつのルーツである平和相互銀行は「金屏風」系への融資なのでちょっと畑が違うかもしれませんがw)
なのでプロミスとの提携などせずに、家業に立ち返ってみたらいかがでしょうか。
最後に、政策論としてはスポット的な需要(近い将来のキャッシュフローで返済を予定している借り入れ)に対しては上限金利をもっと引き上げる一方で、リボ払い的な商品(継続的なキャッシュフローで利払いする運転資金的なもの)の上限金利は低くする、という政策もあるかもしれないなぁとも思ったのですが、どこで線引きをするかは難しそうなので、思いつきレベルで終わってしまいそうですね。
今回、アイフルの業務停止という事件から消費者金融をめぐる経済学的議論や法政策の議論に広がりをみせ(私がすべてついていけている自信はないのですが)こういうのがblogのいいとこかな、と改めて思った次第です(まあ、私は横からチャチャ入れてただけですが)
(2006年 4月23日 (日) 02:53 産経新聞)
なんとなくこういう収め方でいいのだろうか、という感想はありますが、今回の問題をフォローしてませんでしたのでコメントはさておき
テレビのニュースで海上保安庁の測量船2隻(「かいよう」と「めいよう」)が映っていました。
名前を聞いて、出動先を誤ったかな、と思いました。
「めいよう」は竹島ではなく尖閣諸島に派遣すべきだったのではないでしょうか。
せっかく艦名が「没有(meiyou)」(中国語で持ってない、存在しない、ない、などの意)なんですから。
******(追記)*******
話としては重要なので駄洒落だけのエントリではいかんとネットを巡回したところ、雪斎さんのエントリが説得力ありました。
ご参考まで
まあ、これも何かの縁でしょうか。
先のエントリに47thさんからいただいたコメントや「neon98さんに反論してみる・・・の巻」 を拝見して、私なりに考えてみました。
1.ヤミ金の性格
47thさんは現行法での違法な高利の貸し手(合法な貸手(以下「サラ金」)の返済ができなくなった人に借換えの資金を提供する業者、以下「ヤミ金」)について以下のように指摘します。
私は「取立」という段階では、債務者の返済能力をあえて毀損するような極端な行動はシステマティックではなかろうと思っているのですが、ヤミ金融(上限金利以上で貸す主体)の存在自体は極めて経済合理的(需要に応じた供給サイドの存在)だと思っていますし、その行動原理は基本的にリターンの最大化にあるんだろうと推測しています
ここについては、私は47thさんのエントリへの「な」さんのコメントに同意見で、ヤミ金は期限に元利の返還を受けようというのでなく、デフォルトを前提に、手段の合法非合法を問わず債務者の返済能力を毀損してでも(あるいは毀損することにより)取り立てる(実際にあるのかわかりませんがマグロ漁船とか風俗とかクレジット詐欺とか臓器売買とか。末尾「おまけ1」参照)ビジネスモデルのように思います。
なので、ヤミ金への需要は経済合理性で説明できるにしても、行動原理はサラ金の延長線上での経済合理性では論じられないと思います。
なので、上限金利の議論についてはつぎの2つの視点が必要なのではないでしょうか
①サラ金が社会的に機能する(債務者が「無理なく返済ができる」)ための適正な金利とは?
②サラ金が消費者の資金需要に答え債務者がヤミ金の世界に落ちないためには、上限金利はどの程度が適正か、または上限金利を設けるのがいいのか
2.上限金利の論点
neon98さんがサラ金のビジネスモデルには「親族などによる肩代わり」への期待などがあり、上限金利を上げることは親族などへの被害を拡大する、という指摘に対し47thさんは
neon98さんの問題提起は、こうした(注:自己破産をするというような)レベルでの判断力を欠いてしまった人々を上限金利規制で救済できるかということになりますが、①こうしたレベルでの判断力を欠いてしまっている人々こそ、むしろヤミ金融の餌食になりやすい-つまり上限金利規制による表ルートの遮断は救いにならないか、また、②個人レベルでの支払不能状態は日々の生活に必要な家賃や電気・水道・ガス代、食費などからも生じるのであって、こうした人々に高利金融の途を閉ざすことは単に生活が立ちゆかなくなってしまう時期を早めてしまうだけではないか、という疑問が生じます。
確かに、親族・知り合いに害が及ぶ可能性は低くなるかも知れませんが、ヤミ金融に手を出す確率が高まれば、逆に働く可能性もあります。
と指摘します。
私自身はつなぎ資金の需要であれば従前の上限金利である40%(月3.5%)程度の金利も正当化できると思いますし、そうであれば上限金利はかなり高くても(極端な話)なくてもいい、という考えもありえると思います。
しかし一方、先のエントリへのユーリャさんのコメントにあるように、サラ金も利益を最大化するために、「スポットの資金需要を恒常化」する働きかけを次から次へと仕掛けてくるので、neon98さんの懸念する債務者の被害の拡大のリスクは上限金利が上がるほど増えると思います。
※ そう考えるとスポット貸し出しと継続貸し出し(リボ払いのような)による金利差の設定も有効かもしれませんね。
3.ヤミ金と上限金利
47thさんは「ヤミ金」を「上限金利を上回る金利で貸出す業者(超過金利業者)」という意味で使い、neon98さんは「上限金利を越え、かつ過酷で非合法な取立てをする業者(強圧取立業者)」という意味で使っているように思います。
上限金利を設定しないと「超過金利業者」は存在しないので「強圧取立業者」の問題だけになります。これは行為規制の問題になります。
法定金利内では、ヤミ金融は表の金融業者と競争しなければいけません。同じ金利で借りることができるのなら、借り手は評判の高い表の金融機関の下に向かいま す。裏の金融機関は苛酷な取立を行うことで期待回収率を高めることができるかも知れませんが、上述の堂下論文で触れられているように苛酷な取立手法は摘発リスクを高めます。
さらにこの場合は47thさんのいう「レモン」の問題(末尾「おまけ2」参照)が発生します。
借り換えという行動が融資時点での信用リスクに関する情報の非対称性(レモンの問題)を解消している可能性を考慮しないと、結局、借入コストの上昇を招くのではないかという気もしています。
つまり借換えに際し情報の非対称性があり、しかも次の貸手が強圧的な取立ができない場合には、ババをつかまされるリスクを反映して借換えごとに金利が上がってしまい、やはりneon98さんの懸念のように「限界まで引っ張った挙句の破綻」が増える可能性があります。
一方で上限を設定すると、合法なサラ金が上限内でリスクを許容できる資金需要に応じるには限界があり、破綻を早めてしまうことになるかもしれません。
さらに、破綻を避けるために超過金利業者に頼る人が増え、しかも超過金利業者はそれ自体が非合法なの当然のように強圧取立業者でもあるため、上限の設定が資金需要者を過酷な状況に追いやることになる可能性があります(これを「自己責任」と整理する考え方もあるでしょうが)。
そうなると取立規制以外に消費者教育とか勧誘規制というのが大事になってくるといういわば当たり前のまとめになってしまいましたw
考えていくうちに「発散」してしまうのはいつものことですが、47thさんとneon98さんという法律家が、法律と経済のそれぞれに立ち位置をとっての議論を楽しく見物させていただいた人間の野次ということでご容赦を。
<おまけ1:ヤミ金の取立>
消費者金融でなく知り合いの買取屋さんに聞いた自動車担保融資の話です。
もう10年以上前のことですが、買取屋さんに自動車金融屋さんが査定を依頼に来ました。
対象は融資の担保に取ったベンツのSクラス。
高年式だったのでエンド価格700万くらいだったので若干ネゴ代を見て500万を提示したところ、その場で「いいよ、じゃ持ってって」と言われた。
車には所有権留保もついていなかったので買うこと自体は問題ないのだけど、借りた人が返済したらまずいじゃないかと思い
買取屋 「売っちゃっていいんですか?」
金融屋 「いいんだよ、俺300万しか貸してないから200万儲かるし」
買取屋 「そうじゃなくて、借りた金返してきたらまずいんじゃない?」
金融屋 「あぶく銭でSクラス買ったんだろうが、困ってるなら車売れば500万になるのに見栄張って車売らずに高利で300万も引っ張るような奴は絶対返せないから。それに、俺、万が一返しに来たても電話出ないし事務所なんてないから」
というような世界なんだそうです。
ヤミ金も回収不能になることもあるでしょうが、取れる人からは思いっきり超過利潤を得ているわけですね。
<おまけ2:「レモン」問題>
「レモン」とは俗語で中古の欠陥車のことを言います(語源はスロットマシーンでレモンが出ると当たりがない、というところから来ているとか(リーダース英和辞典))
複数の中古車の中にレモンが混じっているとすると、欠陥がわかる業者は欠陥を承知で安く仕入れたレモンから売りつけようとする。一方買い手は欠陥車かどうかはわからないので、レモンが混じっていることを前提に値付けより安くしか買おうとしない。
そうなると業者は下落後の価格でもペイするようなより価値のないレモンを仕入れて売ろうとし・・・という循環が起こる。
すなわち、情報の非対象性がある市場で起こりうる縮小均衡のことを「レモン」問題といいます。
詳しくはこちらの冒頭参照
消費者金融の過剰取り立てや闇金の話については頭を整理してみたいと思いますので、こここでちょっとコーヒーブレイク。
かなり前ですが、金谷ヒデユキ(昔はお笑いでしたが今はミュージシャンになってるんですね)のネタで「鉄腕アトム」の替歌がありました。
♪♪
そら お困りでしょ
なら 金貸しましょう
行くぞ アコム 担保はいらない
心やさし 言葉にだまされて
10万借りたら あとは雪ダルマ
♪♪
今作ったら「言葉」が「チワワ」になっていたかもしれませんね。
今回のアイフルの業務停止、貸金業のグレーゾーン金利の撤廃の動きを受けて、47thさんが「なぜ過剰取立は起きるのか?(イントロ)」というエントリを書かれています。
ひとことで言えば、サラ金が債務者をいじめるような過酷な取り立てが経済合理性に合うようなビジネスモデルになっているのではないかという問いかけがされています。
これに対して私は次のようなコメントをつけさせていただきました。
何の根拠もない直感ですが、マクロで見ると デフォルト・リスクと貸出金利はバランスしているものの、債務者単位では「一度も遅延なく完済する大半の人と、一度遅延してそのまま全損してしまう人がほとんどで、何回か延滞するものの結局は完済できる人というのはほとんどいない」という両極端のリスク分布の仕方になっているのではないでしょうか。
つまり一度でも延滞した債務者は結局完済できない可能性が極めて高いので、期失させてとっとと全額回収しないとまずい、というような経験則があるのかもしれません。
だとすると、上限金利を下げても貸し出し側のマクロのリスク許容度が減るだけでかえって取り立てはきつくなり、逆に上限金利を上げて貸し出し側のリスク許容度を上げたほうがいい、ということになってしまいますね。
ただそうなると、無責任な債務者が貸し手に負わせるコストが真面目に返済する債務者に転嫁されることになるので、それを防ぐためには抑止力としての苛酷な(しっかりした)取立ても一定程度必要になる、という理屈が成り立ってしまいますが・・・
これは、高安秀樹『経済物理学の発見』に影響されています。
この本は、量子力学など物理学の分野でのランダムなふるまいの分析、カオス理論を経済学に応用しようという動きについて書かれたものです。
従来の経済理論は、ランダムな事象は正規分布する、ということを前提にしていたのに対し、カオス理論では現実のランダムな事象は「べき乗分布」になっている、という指摘をし、それが株価変動などのランダムな事象にもあてはまることを実証します。
正規分布とべき乗分布の違いは、極端な上限・下限の事象の起る確率がべき乗分布のほうが大きいというところに特徴があります。
そのため、従来の正規分布に基づいた経済理論(たとえばブラック・ショールズ理論)は、相場の極端な変動に対しては適用できない、ということが明らかになっているそうです(ブラック・ショールズといえばLTCMの崩壊ですが、これはロシアの為替取引きの停止が引き金になったというあたりはこちらを参照)。
話を戻すと、サラ金の収益が下の図のようになっているのではないか、と考えたわけです。
上の図で、横軸が顧客1人あたりの利益、縦軸が人数を表すとすると、こんな風になっているのではないか、と思います。
0より左側の人は、元本回収ができなかった人ですね。
そこでこの分布が正規分布だとすると青線のようになります。
ところが実際はべき乗分布だとすると、赤線のように両端(上のグラフでは左端だけ伸ばしてます)の裾野が広がる形になります。
※ べき乗のグラフはうまくかけなかったので「あて」で数式を入れたものです
債務者の分布がべき乗分布だとすると、極端に損失を与える顧客(大量に借りて1回目から遅延するとか、利息を払うためにずるずる借り増して、限度額に達した瞬間に飛ぶとか)が無視しえない数存在することが想定できます(上の図の赤丸部分)。
会社としては、このような債務者を野放しにすると収益に悪影響を及ぼしますし、逆に上手く取り立てることができれば収益に予想以上の上積み(遅延利息まで取れたりすれば特に)になります。
つまり、(特に高額の)滞納者には過酷な取立てをすることが経済合理性にかなうような構造になっているのではないか、ということです。
また上限金利を下げたとしても、債務者の行動はべき乗分布で変わらないとすると、グラフのY軸が右に行くだけで、業者の収益は下がりますから、なおさら取立てが苛酷になるのではないかと。
このように47thさんお得意の「ローエコ(Law-Economics)」に私も半可通の"Low-Eco"的な考えをぶつけてみたわけですが、この件について47thさんのエントリにさまざまな角度からコメントが寄せられています。
特に指摘されているのが法定利息など現在でも無視している「闇金」(トイチとかの人たち)の存在です。
toshiさんはご自身のblogで既に上限金利の引き下げで、闇金にながれる人が増えるのではないかと危惧されてます。
neon98さんは債務者の行動は借り換えを繰り返して破綻をいかに先延ばしにするか、というものが多く、債務者から返済のためのキャッシュフローを安定的に得るというのがサラ金のビジネスモデルではないのではないか、と指摘しています。
47thさんのつぎのエントリ「世の中」とローエコ 」ではisologさんのエントリを引用しています。
とてもマトモな挙動をしてくれなさそうな人たち」を、法がどこまでどのように規制したり保護し たりしなきゃいけないのか、というのが、「経済学」的な考察から導かれるものなのかどうか、(上限金利の引き下げで合法的には成り立たない顧客層への貸付 が闇金業者に流れたり、そういった闇業者と同じ土俵で回収しなければならない「一部上場企業」がどういう状況に陥っているか、返済困難に陥ってる人とか多 重債務者が、実際にどんな人たちなのかを見ることもなしに語れるのかどうか)
そして、① 闇金がマクロの消費者金融マーケットや債務者の行動に影響を与えているといえるか
政策設計のプロセスの中での問題は「ウシジマ君(go2c注:「ビッグコミック・スピリッツ」(多分)で連載中の闇金の主人公。確かにかなり強烈です。)がいること」そのものではなく、「ウシジマ君が集団としての行動に対してシステマティックな影響を与えているかどうか」ということになります。
② ①で影響がないといっても、別の政策目標として規制すべきか否かは検討すべき
「ウシジマ君」が特異な個体(統計学の言葉を借りてOutlierといいますが)であり、それ自体としては集団的な行動にシステマティックな影響を与えていない場合に政策立案の過程において切り捨ててしまっていいのか
と整理しています。
これについては、私は①について、neon98さんが指摘されたように、闇金といわれようが何だろうが、カネの貸し手がいる限り債務者は破綻を先送りにしがちである(つまりウシジマ君は有意な影響を与えている)という現状認識は説得力があるように思います。
そのうえでの上限金利の引き下げは、「自転車操業」の債務者の破綻を早めることになるかもしれませんが、それは社会として周りが見えなくなってるであろう債務者に「この金利が返せないとしたらもう無理だよ」と引導を渡すと言う意味で有意義だと思います。
ただ、引導を渡すには直感的には20%とか28%というのは上限としては低いような感じもします(半年後に収入が入るという人が額面から15%の割引で資金調達するというのはありうる話だと思います)
最後に②の話ですが、闇金といっても、一般消費者相手の業者(A)と、商工ローンも与信をしてくれないような無担保の事業ローン(こちらは『ミナミの帝王』の萬田銀次郎ですね)とに分類できるかもしれません。
後者はいわゆる「トイチ(10日で一割の利息)」業者(B)もいれば、仲間うちでハイリスク・ハイリターンの資金を融通しているもの(C)もあるようです(こちらは(また聞きによれば)月10%くらいらしいです。このシステムは「滞納したら仲間を裏切る事になる」という事実上の強制力がとても強力なんでしょう。つまり「仲間」自体がかなり濃い目の人たちということのようでえす)
政策的な話として、Aは容認すると上限金利の意味がなくなってしまうので規制すべきだと思いますが、B,Cについては上限金利の問題ではなく、社会的に許容できないほど取立てが苛酷か、貸し手の資金源が違法(脱税資金とかマネーロンダリングとか)なものでないか、借り手の事業目的が違法なものでないか(多分こっちの切り口でほとんどアウトになりそうですが・・・)、という観点から規制をすべきという整理もあるかもしれませんね。
女性検事正、「年齢聞くんですか」
(2006年 4月18日 (火) 16:51 朝日新聞)
地検トップが女性の場合、その年齢はプライベートな情報なのか。高松地検の川野辺充子(かわのべ・みちこ)検事正が、地元での就任会見で生年月日などを尋ねた記者に「女性に年齢を聞くんですか」と公表を拒む一幕があった。公務員の過剰な「個人情報保護」が問題になっているが、18日の記者会見で見解を問われた杉浦法相は「世間では女性に年を聞くことはタブーですよ」と「同情」。川野辺検事正は3月31日に60歳になったばかり。
川野辺検事正は7日付で、最高検検事から高松地検に異動した。配られた資料に年齢がなく、就任会見で問われたが「プライベートなこと」などとけむに巻いた。
検事正の年齢は公益性が高いという記者の指摘に、杉浦法相は「そう思います」と答え、「オープンでいいと思いますよ」といいつつも、「女性の気持ちを理解してあげてください」。
05年4月に施行された行政機関個人情報保護法を根拠に、法務省は人事異動の際、生年月日、学歴、職歴について前年までと同じ項目を公表する旨を事前通告。本人が同意しなければ生年月日、学歴は非公開にしている。
何でこれが記事になるのかよくわかりません。
個人情報保護法に過敏になっている例として取り上げたのかと思いますが、「新聞記者に嫌われると記事でいじめられる」という例にしかなっていないように思います。
そもそも検事正の年齢は「公益性が高い」のでしょうか?
定年ルール違反をチェックしたいとか、年齢構成の問題点など疑問があるのであれば自分で調べるべきですよね。
少なくとも、本人が記者会見の席上で回答をしなければいけない、というものではないと思います。
記者がムキにならずに(または取材の手間を省かずに)法務省に問い合わせるなり独自に取材すればいいだけの話です。
どうも根底に「記者が知りたい情報」=「公益性が高い情報」=「公開されるべき情報」という発想があるように思います。
昨日・一昨日のエントリで「声高な正しさ」への疑問を改めて意識した身には特に違和感を覚えました。
PS アメリカだと、性別を尋ねるのも差別になったりしそうですが・・・
昨日のつづきです。
「敗戦後論」への批判と論議を受けて書いた「戦後後論」がつぎに収録されています。
特に哲学者高橋哲哉(話題になった『靖国問題』の著者です)との論争を契機に思索を深めていきます。
高橋は私の先の論を自国の死者を「かばう」、「内向きの」議論ととらえ、むしろ、「汚辱の記憶を保持し、それに恥じ入り続けるということ」が必要だと述べていた(「汚辱の記憶をめぐって」)。
これに対して加藤は、そのような「鳥肌の立つような思想」への違和感を語ります。すなわち、「恥じ入りつづけよ」という声だけでなく、戦争責任について「そんなこと、知らないよ」という「ノン・モラル」なはるか後継の世代の声も権利を持つのではないか
この、「自分にはそんなことは引き受けられない」という声に権利がなければ、「自分はこれを引き受ける」という行為の白紙性が、逆にわたし達から奪われるのではないだろうか。ほんらい引き受けなくてもいいものを引き受ける、そのことがわたし達にとっては責任の敢取が自由で主体的であることの基底である。
ここで加藤は高橋の思考との違いに気づきます。
高橋は、自己を作るのは他者との出会いだ、といっており、私は、自己がなければ他者に会えない、といっている。
そしてその違いを「政治(=他者からはじめる)と文学(=自己からはじめる)」という枠組みで考え、そのなかで太宰治をとりあげます。
太宰治は坂口安吾や石川淳らとともに戦後「無頼派」と呼ばれるが、坂口や石川が戦後になって戦時中を舞台にした無頼派の小説を書き、または彼らの戦時中の作品は戦後のものとは違ったの対し、太宰は戦時中から戦後まで、終戦をはさんでも一貫していた。そこに加藤は太宰の文学者としての思いを読み取ります。
戦前と戦後の間に水門がある。坂口の小説、石川の小説が、先にあげたような、「もしこれが戦争中にかかれていたらもっとよかったのに」という感想を残すとは、水門を開けると、戦後の水が、戦前のほうに流れ込むということだ。戦前と戦後を比較すると、その水路の水位が戦後のほうで戦前より僅かに高い。(中略)
戦後文学が「堰を切ったように」敗戦を機に花開くのは、文字通り、水門を開けられ、いままで水がほとんどなかったところによそからとうとうと水の流れ込むさまを思わせる。(中略)彼らのうちに何人、そのことへの羞恥を感じた文学者がいたかはわからない。しかし、太宰は、そこに自分の文学の一番大切なものを見た。その証拠に、太宰の文学だけは、戦前と戦後の間の水門が開かれても、ぴくりとも水が動かない。
彼はこの八月十五日に影響されることに自分の文学の敗北を見る。(中略)
彼の文学は、戦後によって験されるものを意味していない。芸術的抵抗という文学観は、戦後というリトマス試験紙で文学を見る見方だが、彼は、自分の文学をリトマス紙に、むしろその戦後を、逆に験そうとするのである。
そして、現在から過去を裁く、「正しさ」を基準とした思想(それは「正しさとは何か」という問いにつながります)に対置する形での「同時期の、誤りうる思想」の強度を評価します。
つまり、ここにあるのは、「誤りうる、だから、かけがえのない」思想なのだ、と。坂口、石川は、いわば戦後がもたらした「正しさ」の意味を、拒まないが、ここにあるのは、それとは全く違う、「誤りうること」からやってくる意味の原石の輝きなのである。
文学は、誤りうる状態におかれた正しさのほうが、局外的な、安全な真理の状態におかれた、そういう正しさよりも、深いという。深いとは何か。それは人の苦しさの深度に耐えるということである。文学は、誤りうることの中に無限を見る。誤りうる限り、そこには自由があり、無限があるのだ。
そして、加藤は第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦、ヒュルトゲンとバルジでの激戦に従軍し、太宰と見方を同じくしながらもより深く戦争にかかわった("The catcher in the rye"の)サリンジャーの戦争小説観にふれ、「敗戦後論」の当初の問いに立ち返り、最後の言葉にたどりつきます
"It's time we let the dead die in vain."
「戦死者は無駄死にさせなければならない」
この「誤りうること」と「正しいこと」の対比について、あとがきで内田樹先生が、高橋の思想に「鳥肌が立つ」という感覚を加藤と共有しながら、つぎのようにまとめます。
高橋の主張は依然として「正しい」。しかしやはり「正しすぎる」ように思われる。(中略)
原理的な正しさを求める志向は、いずれおのれが存在すること自体が分泌する「悪」に遭遇するほかない。そのときには「私が存在することが悪だというなら、私は滅びよう」という「結論」を高橋は粛然と受け容れる覚悟なのだと思う。
私の身体に「鳥肌」が立ったのは、おそらくそのような「自裁の結論」に対しての生物的な怯えゆえである。(中略)
加藤はこの論争を通じて、「正義」は原理の問題でなく、現場の問題であるという考え方をあきらかにしていった。ことばを換えて言えば、この世界にいささかでも「善きもの」を積み増しする可能性があるとしたら、それは自分自身のうちの無垢と純良に信頼を寄せることによってではなく、自分自身のうちの狡知と邪悪に対する畏怖の念を維持することによってである。
「悪から善をつくるべきであり、それ以外に方法はない」ということばに加藤がたくしていたのはそういうことではないかと私は解釈している。
「誤りうること」を前提にした思考、「正義は原理の問題ではなく現場の問題である」という考えは、現代のさまざまな問題を考えるにあたって、非常に重要なスタンスであると思います。
三篇目の「語り口の問題」はユダヤ人思想家であるハンナ・アーレントがイスラエルでのアイヒマンの裁判を雑誌「ニューヨーカー」の特派員として傍聴し、資料を丹念にあたって3年がかりでまとめた記事「イェルサレムのアイヒマン」が、ユダヤ人社会に囂々たる非難と論争を巻き起こしたことを中心に「語り口でしか表せないもの」について論じたものです。
これも(前2篇よりはちょっと読みにくかったですが)面白いです。
尻尾までアンコのつまった一冊。おすすめです。