花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

医家に生まれて 医家に嫁いで、思うこと

2012-01-25 02:21:18 | Weblog

戦争をはさんで
父は、一人の帰還した医師の人生が待っていた。

私が物心ついた時は
東京に生まれ、
かぶき門のあるお屋敷の坊ちゃまが
着のみ着のままの戦争からの帰還の
引き上げ者として

熊野の奥の七か村無医村の
診療所の医師として
村の人達から
神様のように
慕われ、、、尊敬され、、頼りにされていた。

東京の真ん中に在る
慈恵会医科大学を卒業して
外科の医局で博士論文を書き上げた頃

父は、京城帝国大学への移動命令がきたそうである。
ほぼ、出来上がり、後は清書だけという論文を
大学に残し
占領軍の支配する「仁川」に転勤になった、

当時の新聞の切抜きには
「髭のM博士の手術、、、」というような

日本の医療を褒め称える新聞記事が
かなりの回数において、
在日の日本人向けに日本語で
報道されていた。

あの、、、沢山の切抜きには
若くて凛とした「髭を生やした父」が掲載されていた。

日本から駐留している
政府の高官や大将の方々と
一緒に撮った写真など、
当時の占領地に居た日本人の交流が見えてくる、

外科の医局に所属して「泌尿器」に
研究課題を見つけてしまい、
博士号は仁川の大学で発行されていると
母から聞いている。

寒い、言葉はわからない、
病院の正面にある公衆電話から
病院から何日も、何日も帰ってこない夫に
電話をしても、

仕事中ということで
門前払いであったという、、、女性の位置。

戦争が激しくなった昭和18年、19年、
父は院長をしていた病院を出て、
戦線の軍医として、出陣。

全滅に近い敗戦色が濃くなった頃、
帰国の許可が下りた。

3人の子供は、戦地に於いて
救い抱くことは出来なかった。

瀕死の子供が呼吸困難になったとき
一瞬、生き残っている長男も道ずれに
死のうと思ったそうであった、

しかし、、、8歳の賢すぎる長男は
母を支え、貴重品だけ母に持ってもらい

日本本土から迎えに来た祖父に
母を支えてもらい
韓宇連絡線に乗り込んだそうです。

「護衛船が発砲することがあるので
窓は閉めるように」と命令があったそうです。

8歳の長男は
それでも。こっそりと海を見ていたらしいのです。
「護衛船など一隻も無かった。」

最後の連絡線だった。

今思うと、政治家の早川さんや
父方の祖父が
中央の政治情勢や軍事状況にも明るく、
歴史に残っている大将や
中佐の方と知人であり
日本の情勢を連絡されて
町民を守る最高責任者の地位にいてくれた。
おかげで、祖父は
単身、韓国の緊迫した状況の中に
娘夫婦と孫を迎えにこれたのだそうです。

御爺ちゃんというのは
明治生まれで、
師範学校卒業後
若干28歳で
船で3ヶ月もかかって
サンフランシスコに渡り

ロス界隈や、
あたりの砂漠を
農地に変えてゆくという
日本からの
開拓団の指導に渡米していたことがある、
爺ちゃんの兄は
サンフランシスコに骨をうずめ
お墓は分骨されて
高野山に登ったそうである。

御爺ちゃんは帰国してから
和歌山県の熊野の奥の古座川の上流に
白い大きな洋館を建てて、
いつも背広で、胸の奥から
銀の懐中時計で、時間を見ていた。

私は、小学校にアガル頃
「何がほしいかね?お祝いは?」
そう聞かれた。
「御爺ちゃんの銀時計がほしい。」
と、飛び上がって答えたら、、、

「私が死んだらな!きっと遣るからな!」
、、、、、、、
あの時計は、誰が持っていってしまったのだろうか?
きっと、天国でも時間を知りたい爺ちゃんのために
誰かが、しっかりと、手に握らせて
見送ったのかもしれませんね。

校長先生をしていたときには
白い手袋をはめて
毎日朝の朝礼で
「朕、、おもに、、、」と読んでいたそうです、
其の頃、生徒だった母は、
モダンな性格で、アメリカの風を感じていた、
新宮高校に進み
佐藤春夫さんの
妹さんと同級になり

兄さんの春雄さんからも
影響を受けたと言っていた。

其のときの同級生の友人が
パリの画学生と結婚し、モダンを振りまいて
旧友を刺激していたと言っていた、

明治40年代生まれの母の時代に
すでに、岸恵子さんのような
インタナショナルな女性が
いたということですよね。

晩年私は、東京の大学に進んだとき、
モダンだった「パリの画学生」の夫人の家に
下宿したのでした。

戦争からの復興は
人工の津波被害からの復興にも似て

新しい日本を
温故知新の精神で復活復興!

アメリカの配下にならないように
追いつき追い越せの学問漬け。

東大以外は目指さない!
特攻隊のような鞭が学生を走らせた、

東大に破れた学生は
たくましく
日本復興の技術者や
建築、労働、炭鉱、、、、いろいろな分野で
国際的に成長していった。

女性も、アメリカ兵の腕に
ぶら下がって渡米した苦境の時代から
実力で、女性の地位を示していった。

デモが日常茶飯事となり
樺美智子さんが東大生の女性として
死をもって、女性の意思を表現した。

あれから60年以上過ぎました。
思い立ったら、、、また、、、
思い出を書きましょう、、、ね、

孫子の時代に、、、幸せが守られますように
祈りながら、、、。

晩年ショルツ先生にピアノをならっていた
国立音楽大学の一期生として
東京に行って、モダンガールのように
テニスと音楽に夢中になって、
若き青年医師の父と知り合う
大正時代の

男と女のロマンスの中でも
あの時代に、恋愛と
女に自立を果たしていた母を

男と女の対等な青春として描きたいものです。
対等であったから
結婚するまでは、、、、二人は主役。
戦争が無かったら、、、二人は「夢追う人」
壊滅になった日本が復興してゆく
不屈の精神が、女性の中にしっかりと
暖められていたのですね。

日本中の、青年男子の健康人が
戦火という津波で、、、死んでいった時代です。

やがて、日本から女性の時代が芽吹くのです。

なでしこジャパンは、、、戦後にもいたのですね!。