時代、、二艘の舟、、NHK朝ドラのテーマ曲にも、、、
若い歌が流れるとき、
自分に向けられた手探りの時代
地上の星の永遠を信じていたのに、、、
受験生や、青春のつまずき、驚きの時代に
世の中には、システムに運ばれてゆくエレベーターで
降りるフロアーが
決っているのに、、、
もがいた日々よ。
*************************
東京は、湿地帯の
荒漠たる、、、自然そのものの、、、ローム層原野だった。
50代の時
富士山の裾野の青木ヶ原の探索に
幸運にも参加できたことがあった。
この地形の示すことは
ごく最近、タモリさんの番組で、なーるほど、、と
火山国日本を感じたものでした。
******************************
今、東京の高層ビルやスカイツリーや
六本木ビルや、都庁の界隈から
自然のままの、関東ローム層の原野を想像するのは難しい。
パソコンのバージョンの代わるような
自然を壊して、人工に置き換えてゆくデジタルな無機質が
暖かな血脈の網羅されている
生身の人間の丸ごとを
商品にしてゆくようで
怖い!
時代は回らなくなるのではないかと、、、怖い。
ちょんまげも、刀も捨て、
エンパイヤステートビルに驚き
近代化と言うスピードの列車から
人工知能の支配する世界へ向かう列車に乗った。
行く先は、、、わからない、、、
ついてみないとわからない。。。。
自然と共存して生きる、
エネルギー不滅の世界は
時代も繰り返していた。
つづく
18日昨日の続き。。。
戦争中に生まれた私は、
運が悪かったとも 考えられる
しかし、小学校時代は、お寺の和尚さんや
疎開してきた知識人や、
特技のある大人が先生だったことは
運の良い子供時代が有ったともいえます。
北海道で、博士号を取得したら東京の親元へ
必ず還るから、、!
2年ぐらいで、東京に還るから、、、と
結婚希望の夫は、母に談判した。。。と。母は言った。
大学時代の「一級下級生だった友人」の
御主人の後輩にあたる、後の夫になった、男の言葉を
真に受けた私は、母が受け入れる人であるならば、、、と、
親類、居候、近所や縁者は、母の信望者ばかりであったから、
異存は無かった。
母がサポートしてくれない場合は、
我が家は、何も動かなかったからだ。
先祖への報告と、行く末の安泰を祈願する気持ちもあって、
母と二人で「伊勢神宮」に行きました。
母の時代は明治陛下の時代から大正陛下、摂政時代でしたから、
伊勢神宮にお参りすると
大きな天地、森羅万象の日本人んの心の中の神様に
見守っていただけるような
転身の不安や、孤独は空に拡散してゆくような
不思議な落ち着きをいただけました。
しかし、神は、耐えられない試練は与えないと言われているが
人生の孤独、試練、戦い、の始まりだった。
24年間かかって持てた人脈も、親類も、友人も、
実はその一瞬に、、失っていたことに
気が付いたのは、もはや、手遅れの時期になっていた。
息子たちの受験が来ても
いっこうに
北海道から還ろうとしない夫の態度で
「北海道が、第二の故郷になるのだ」と
覚悟を決めた時、
息子たちが、、、
夢中に聴いていた曲が
「時代」、、、と言う曲だった。
戦争で、爆弾に追われて、、、
あちこち疎開した時代に
自分を振り返ることはなかった。
敗戦になった時から、
父は、母の心の傷をいやすためにも
母の故郷を疎開地に選んだ。
旧家で生まれた母の故郷は、
母の父、、、私の祖父が町長や、校長先生など
マルチタレントのモテモテ爺さんだったこともあり
幸運と言える疎開生活でした。
七か村、無医村に、
娘婿が医師として、
十数年も、この村に居ることが、
祖父にとっても、村の功労をなしたという、、、時代であった。
戦争と従軍、、、
戦地での、流産、息子と娘、、、3人を失った母。
故郷以外に、母の心の傷をいやす場所はなかっただろう。
日々、元気を取り戻し、
唯一の医療機関の診療所は
赤い電燈が消えることが無かった。
私は、仲間には、入れてもらえてないようでしたが、
何やら、別格に扱われている気配も
時々、気づかされる出来事がありました。
仲良しのつもりで、ありのままをさらけ出して
友達に接近しても、
「母ちゃんが、医者の子供には、先生に話すように
気を付けて、なれなれしくするな、、、ていわれとんのや。」
さりげなく言われて、「なんね?え?。。。それ?」
言い返しても、
「別格やから、気いちけて、ケンカにならんようにするんやで!
ケンカしたら、お医者さんのおらんようになって、
皆から、おこられるんやで!?」、、と母ちゃんが言とった。
そう、、、
無理に友達にならんでもいい。
自分は自分や。
私は、先生たちと仲良くしてもらい、
勉強や、山登りや、上級生と川遊びをするようになった。
同級生とは、なんとなく、私も、気を付けて、
丁寧に、気持ちをおさえて、
何事も、謙譲の気持ちで接した。
しかし、学芸会などで、
主役が当たったと言っては、
同級生からも、父兄からも、
愛想笑いの「ええなー!医者の子は」、、と
しっくりいかない、変な盛り上がりだった。
つまり、、、こうした、田舎の医者の娘は
父の人生の時間のおまけ品であり、
私自身の自分の時間も、ちょっとばかり成績が良くても
父のおまけの、リボンのような、、存在が無かった。
谷間の百合?という事にしておきましょう、、、か?
日本は敗戦して、有理数成れども、ゼロからの出発の我が家です。
父母は「英語の教育」を受けられる東京への里帰り。
次の代の息子たちの活路をアメリカが先導する教育のクリヤーと
うつりゆく時代の情報の入る東京へ
鮭が川を登ってくるように
最後の命を燃やして、疎開地で頑張っていた。
父は、母校、、、
慈恵会医科大学のある東京へ
たどり着いた。
教授になっていた友人が
身分を超えて、
父をねぎらってくれました。
疎開地からも、
論文の資料となる「イノシシの頭部」など
大学からの手紙に答えるためにも、
疎開地の猟師の皆にお願いして
折角手に入れた頭部の耳が無いと
再び、、、耳のある頭部を、氷とともに送っていた。
実は、人間のサンハンキカンという
体の平衡や、もっと大切な病気の研究に使うので、
耳が必要だったのだよ、、、と。
教授の先生は、まるでクラスメートの時代のように
浴衣を着て、父と話していたのを、、、
子供のころの
「学術の大変さの片鱗を身近に聞けた」運の良さでした。
市谷は、もはや戻るには、
あまりにも難しく
四十半ばの開業医を必要としている
下町に還ってきました。
シベリアから帰還した母の弟、
戦争から還って来て28歳で早稲田に入学した父の弟、
その子供たち。
世に言う「居候が当たり前で、支払えるものが払う時代でした。」
私たち生き残り組の兄弟4人は
居候の親類の従弟たりの生命力の前には
完敗でした。
三人姉妹と男の子。
母は、私よりも、従妹たちと出かけることが多く、
楽しそうでした。
私たちは進学の為に同居していた大学生に
勉強を教えてもらいました、
15~6人が、立ち代り入れ替わり夕食をするのですが、
居候のおばさんが、買い物や、食事や、
世話を焼いてくれていました。
開業の為に看護婦さんたちが、
別棟から、
優先的に
お昼時の食堂を使う決まりになっていました。
しかし、私の兄弟、
男3人は、自分の都合で、食堂に現れては
職員とも、居候の8人とも、大学生の間借り人とも、
和気あいあいに盛り上がり、
回りは、一歩引いてくれていたようでした。
之が、娘の私となると、
母に用事があって、母の部屋に行こうとすると、
3人姉妹が、私の前に立ちはだかり、
「おばちゃんは、今忙しいから、私たちで間に合う事があれば
言ってちょうだい!!」と、、、
決心は固い。
私が、小松川高校に通っていたからと、
母が面接について言って、
いとこの二番目が同じ高校に編入してきた。
しかし、、、我が家の開業の仕事を手伝いたいからと、
1年もしないまま高校をやめて、
夜学に切り替え
医師会の看護学校で看護婦さんの資格をとった。
父も母も、私より、彼女を褒め称え、
生きる力を発揮できるように、
昼間は我が家で職員、
夜は夜学で高校卒業!、、、
そして、
国立の法学部を卒業した恋人を見つけて、
父と母が仲人をして、
彼女は、独立していった。
********************
居候の、上の姉さんは、
私の母が
娘以上にお気に入りの性格で、
彼女を、
「杉野ドレメ」への通学をススメ
自分がピアノを教えたり、
演奏会の時のドレスを
彼女に任せていた。
彼女と母は、
「友達以上。娘以上」の気の合い方でした。
母は戦争で亡くした
3人の息子や娘と同年代の、従妹を
まるで、
実の子供のようにかわいがった。
宝塚に入りたかった彼女の第一志望の野望の為に
母は音楽を手ほどきした。
しかし、
音楽は子供のころからたしなまないと
受験の為に、
にわかに曲の理解をするのは困難だ。
母は、説得して、
ドレメに進学してもらったようだった。
銀座のマギーの二階の生地売り場で、
彼女と母は、舶来の記事を買ってきては、
演奏会のドレスの型紙を作成する彼女と
あれこれ、、、
夜明かしで盛り上がっていた。
やがて、彼女も独立する日がやって来た。
彼女は、
医師と結婚し、
イタリア料理店の経営者をしながら
ゴルフはシングル、、、有名人のお客様を
しっかりと顧客にしていた。
旦那様は、
大学医学部の講師をされていましたが、
私は、お誘いを受けることは一度もありませんでした。
独立してからも、
「おばちゃん、、、おばちゃん、、、」と
母を訪問がてら、
私には、
当たらず障らず、、、しなやかに母を独占していました。
母のお気に入りのドレスや、
当時としては珍しかったバッグなど
母は、嬉しそうに
彼女に差し上げた。
子供のころの疎開先で、母の心の傷が
戦争中の、子供を失ったトラウマと
子供ながらにわかっていたので、
私は、8人兄弟の6番目のつもりで
母が、嬉しいと思う事には
介入しないようにした。
私が結婚して、北海道に行くと決まったときは
母は、一つ違いの兄の事が気ががりで
結構忙しい時間を過ごしていた。
結婚式には、華やかに着物姿の三姉妹が
盛り上がっていた。
従妹たちも出席してくれただけで満足だった。
「おばちゃんは、、、私たちに任せて!」
皆、頼りになる、母の取り巻きだった。
北海道に2年ぐらいのつもりが、
72歳の今日まで住むなんて
人の運命は、わからないものですね。
北海道に行くなら、
「また従妹」だってかまわないじゃないか、、、
僕の嫁さんになって、
東京で、おばちゃんのそばにいてやってよ、、、
私が薬剤師をしていた病院に勤めていた
親戚の内科医が
北海道は私が住めるような、
生易しい気候ではないと、、、
何度も止めた。「バカとしか思えない、、、」
彼は、一回り年上でした。
結婚の対象として考えたことはなく、
私の、憧れの貴公子でした。
乗馬クラブのキャプテンで
乗馬服が、どこかの国の王子様のようでした。
彼の父上はドイツ留学から帰った
大きな市の中で病院を経営する院長さんでした。
それなりに、
触れてはいけない私の心の宝物の親類のお兄さんでした。
私は、寄生木のような今までだったので、
北海道で、まず、自分って、、?なんなのか
大自然の中で、自分を感じて、自分の時間を始めなければと
手探りの24歳でした。
***************
札幌に嫁いで、
貧しい16000円の家賃の
、風呂のない木賃アパートの2階。
戦争中のオール貧乏の時代、
奨学金がもらえたために、
大学まで卒業できた無給医の夫が
新婚に借りた部屋は、何か月もしないうちに
階下の夫婦げんかのあおりで
プロパンガスの学発に逢い、
もし、、、そこに居たら
完全に死んでいたという、、、家事に逢いました。
母が札幌まで来て用意してくれたすべてが
新建材のタールでべとべとになり
一夜にして、
着のみ着のままになりました。
あの時、
主人の御婆ちゃんが亡くなって
私は、
ヒコーキに乗って、急ぎ東京に行っていました。
主人は、
無給医だったので、
当直当番が週末まであり、
帰宅出来ないことが、、、命拾いとなりました。
************
大家さんは、
一か月だけ家賃を無料にして呉れました。
二階はしばらく
修理のため住めないという事で、
東京の実家に居ました。
その後、主人は
究極の手間いらずの引越しをしようと言いました。
爆発のあった隣の部屋に移りました。
私は、
鉄筋のマンションに移りましょうと言ったり、
結婚前に働いた貯金で、
一軒家に移ろうと言いましたが、
戦争中の爆弾の壊した住宅があちこちに残る中を
平気で過ごした子供時代の
主人の免疫はすごいものがあり、、
きな臭いアパートが
大学と近いという便利が先行して
移る気のない夫の言うままに、
4年の歳月が流れました。
**********************************
つづきは、、、、
雪を知らなかった女性の、
北海道の暮らしぶりを通して
順応性と言う
「宝物が内蔵されている女性の性質に幸運を!」