いつ、、、70歳をすぎたのか?
私の中には、昭和30年前後の、少女のままの自分が居る。
人生の大河を流れて、40歳半ばにして
生まれ故郷の東京に帰ってこられた父の瞳が思い出される。
明治生まれの父が、青春時代
東京大学に入学したかった、、、と言っていた。
「東大に入学して、何をやりたかったの?」
「私の父は、医学者になるようにと言っていたが、
私は、農学部に行きたいと思った。」
学歴のなかった牧野博士に、
植物の研究の世界から、自然をクローズアップさせた
あの分類を観ていると、
懐の広さが、魅力だった、と言った。
結局東大受験は失敗で、
医師になって、
「外科医」になったばかりに、、、
戦地の近くの医学校で、イギリス医学を指導するようになった。
研究生活とは程遠い、激務の臨床の生活は
戦場の傷病兵の真っただ中で、
キリストが立っていた幻を見たと、、、話していた。
父の父は、、つまり、、お爺ちゃんは宮内庁に勤めていた。
「東大に入学して、お国の為に役立つスケールになるか、
さもなくば、医師となり、人々の命にかかわりながら、
銃後のご奉仕に徹せよと、、言った???とか。
富国強兵は、部隊に医師が居るのと居ないのでは
戦う気力が違ったと言っていた。
明治生まれの大人の言う事は、私には難解であった。
父はもともとは、
今でいう
「丸ノ内線の中の屋敷町に産まれている。」
早稲田中学の頃の話をしばしばした。
徳富蘆花、幸田露伴、与謝野晶子、有島文学、、、
まだ、中学一年生の私に、同級生のような語り口で
多くの事を話してくれた。
祖父が貸していた家には
有島武郎が住んでいたそうである。
当時としてはモダンなベレーをかぶった「波多野さん」が
原稿を取りに来ていた、」と、話してくれた。
父は、
自然と一体の「農学部」に進学して、
地球規模の大自然の医師になれたら面白かったかもしれないね」と言っていた。
露伴の住んでいた北海道で
夢は宇宙の現象と
植物や生命体の不思議と、
地球という自然連鎖に興味があったと言っていた
不如帰、五重塔、、独歩の武蔵野などの話を
折に触れては話してくれた。
当時は子供だったので、
露伴の文は、観念的に思えて理解するには未熟すぎました。
72歳になった今、
冬になって、雪が降る季節になると、
雪を搔きながら、
父が言っていた「武蔵野の小鳥の声の駆けわたる林の中」の
匂いが思い出される。
露伴は、北海道から、東京に出て行った。
東京で、隅田川で釣りにウツツヲ、、、
露伴と父が重なったりしながら、
疎開地で、途切れることのない七か村無医村の
唯一の、医師として、忙殺されそうな日々の中で、
真夜中に、村人さえ恐れる「深の淵」という、
昼でも暗く、深さの為に水は緑に見える川で
夜釣りをしていた父。
患者さんも、怖くて父を迎えに行けないで、
夜明けまで、
水枕をして、父の還りを待っていた待合室の長椅子。
露伴の「我を立ざれば、自殺也」という、、、生き方とは
180度違う、他人の健康にひたすらつくす臨床医だったが
病人に追い掛け回されていた父が、
ふと、、我にかえったように
露伴や、独歩や
徳富蘆花の本の話をするときは
遠くを見つめる目がきらきらしていた。
本当は、深い、洞察のある、自分のための
自分の時間を過ごせる人生を持ちたかったのだと
戦争体験の真っただ中で
我が子を3人も亡くした父が、
何を思って、東京の生まれ故郷まで
帰れたのだろうか?
焼夷弾や爆弾で焼け野原になった故郷に
13年後に還れたのは
子供のころの自然との共存共栄の眩しさが
科学や人間の破壊した自然を
再び信じようとしたからだろうか?
いつの間にか雪かきが終わる。
真夜中、
冷えて体を温める。
インスタントコーヒーを飲む。
BSのスイッチを入れる、
真夜中は、BSが面白い、
たまたま、、、幸田露伴の番雲を観た。
父の時代の、祖父から、
精神を学んだ「渾身」。
懐かしい響きである。
戦後の疎開先の南紀の山奥で、
槇割をしていた風景の中で
ひときわ目を引いたのは
懐かしい、、、鉈。
空手の板割のように
いとも簡単に、
真っ二つに割れていた風景が甦る。
露伴の番組では「渾身」
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72歳になっても、
胸の高さまで圧縮された雪の積もる屋根に登り
半ば氷塊と化けた
レンガのような雪を割ってゆき
屋根から滑り落とす作業は
もしかしたら
「渾身」の力を込めている状態かもしれません。
「渾身」これは、
幼いころ父が言っていた言葉であった。
弟は、テニスが上手かった。
長男は「両国高校」に進学して、
予備校のような、闘争的な高校時代を送っていた。
弟は、テニスが大好きで、
テニスの強い高校に行きたいと言った。
国体のテニス選手の出場権が夢だと、
テニスに明け暮れた高校時代だった。
弟の卒業した「隅田川高校の校歌が、
幸田露伴の作詞だったのを知って
歴史の古い、隅田川沿いの豊かな高校と知りました。
隅田川の橋の下をくぐり
東京湾に出る船に、30年前
北海道の小学校に在籍していた息子たちを乗舟させた事が有った。
今と違って、まだ、ドブのようなにおいがしていた隅田川だった。
大学生になった息子と、再び隅田川の舟に乗った。
水は美しく甦り、匂いはほとんどなかった。
私は、当時は府立第七女学校から、
男女共学になって、間もない
荒川沿いにある「小松川」高校」に進学した。
女性の数が圧倒的に多くて、
男子生徒は、おっとりとした、高校生らしい
おとなしい生徒が多かった。
暇さえあれば、登山とか、川でボートを漕いでいた。
小松川高校の良いところは
蓼科山のふもとに
「夏の山荘」がありまして、
近くには牧場もありました。
つまり、露伴の愛した「自然」がそろっていました。
露伴は谷中の大工さんの多い地区に住んでいて
あの名作の「五重塔」を書き上げました。
小松川界隈も、父の生まれ育った市谷文人通り界隈や
早稲田界隈とかなり違った人々が住んでいた。
スカイツリーにかかわっているような、職人さんもいた。
町工場では、月ロケットの部品を作っていたりした。
女性としては気の強い生徒が多かった。
同級生の一人と、大学卒業まで一緒に過ごした、
彼女は、学生時代から、
「男社会で、女性が対等に評価されて
対等に、生きてゆくには、
今の日本では「結婚」してはだめよ。
彼女の口癖だった、
「仕事も、家庭も、両立させようというのは、、、甘えている!」
大学卒業後、独身で人生を、男性並みに生きた彼女は、
自然の摂理に沿う事はなかったが、
ヤフーで、彼女の名前を入力すると
研究者ナンバーと
研究論文が出てくる。
小松川で、荒川を愛し、水を愛し、読書家だった彼女は
男社会の日本で
「我を立ざれば、、、自殺也」と言った露伴と同じぐらい
女の大きな天与の恵みである「愛」を捨てて、生きた。
去年までは、スケールの大きな文面の年賀状が来ていたが、
今年は、来なかった。
又、一回り大きくなって、
私は、、、置き去りになってしまったのかもしれません。
大きな大自然からのラブレターの雪!
絶え間なく自然で埋め尽くす北海道の雪を搔いて
かれこれ47年。
雪を搔いたことのない主人。
今年も400枚はあろうかという年賀葉書を
大切に読んでは、何か言っている主人。
年賀状を結婚以来主人に任せて、
出さなかった自分の人生。
孫と正月のお参りに
北海道神宮に行ったとき、
子供と孫を、観るにつけ、
日本の主婦は、生きた証はなんですか?、、と、、、訪ねられたら、
孫子です。、、、という時代は、
そろそろ終わると思いませんか?