私のお父さんは、
根っからの東京っ子で育ち
牛込、飯田橋、早稲田、九段、市谷あたりは、
父の高校生時代の
環境でした。
東京大学に進学したくて、
早稲田中学時代から、一生けん命勉強したそうですが、、
敢無く、、、敗退。
涙にくれて落ち込んでいるとき
音楽大学生だった母と友人の三人娘に出逢ったそうです。
母に恋した父は、一念発起!
当時は試験の点数如何によって、
40倍の倍率を突破して
医科大学の2年に編入して、外科医となりました。
大学時代は、新橋、浜松町、銀座、有楽町、、、と
母とデートしたそうです。
父は「山手線の真ん中を、我が故郷のように、歩き回った東京っ子でした。」
神田の祭りも、浅草オペラも、新橋芸者さんも、深川の木場も、
東京の文化だった時代かもしれません。
神楽坂には、5枚こはぜの足袋を売っている店が、、、
多分今もあるでしょうね。
まりか、、、さん。
まり千代さん、、、
そのような、名妓が、アサヒグラフを飾っていたのは
もう、、、戦後ですよね。
神楽坂の毘沙門天のあたりの縁日で、
金鯉の赤ちゃんを、探して、育てたり、、、
父の言葉は、美しい東京言葉でした。
*******************************
第二次世界大戦んが、我が家の運命のみならず、、、
多くの東京の住人の住宅を焼き尽くしました。
本来なら、、、文人通りのどこかに、先祖から引き継がれた
歌舞伎門のある「御屋敷」が、、、父の住宅であるはずでした。
焼夷弾で、壊滅状態になった東京を、、、、
多分、小池さんも、慎太郎さんもご存じないでしょうね。
*************
長谷川利行と名乗る画家がいますが、
日本のゴッホと言われる精神のギリギリの筆タッチで
ギリギリの精神の絵を描く画家の絵の中に
大震災や、大戦で廃墟となった東京の街を
屍を超えて歩くような、、、筆のタッチの絵が見られ、、、
私は、、ゾク、、、と、冷や汗を出しながら、
東京駅のレンガの会場での、彼の絵を見たものでした。
父の残した、教育勅語の書かれた軍隊手帳、
**************************
父の残した、、、何やらサインのいっぱいある社印だらけの
日の丸の旗。
武運長久と、一針一針、、千人以上の心からの祈りの針糸の字。
この戦争が、我が家も、親戚も、友人も、祖父母も
全てが、ごあさんで願いましては、、、一円也、、という事になりました。
戦後、我が家には、母が自分で買ったグランドピアノと
母は明治生まれなのに
車の免許も持っていた。
女性の最初のグループに入るだろう
東京都の女学校の宣誓もしていた。
戦後の一文無しの人生の再出発を
血の汗を流すことを惜しまなかった。
私には、、、絶対に勝てない女性だった。
父の亡きあと、
こどもらで、ピアノ教室の看板を掛けて回った。
アップライトのピアノが3台。
父の亡きあとは、
「よつ葉会」というピアノの会を発足させて、
結婚前の夢であった、ピアノの世界に、母は帰って行った。
戦後、
鮭が、生まれ故郷に帰ってゆくように、
疎開地から、まんしんそうい、、、の頑張りで
生き残った4人の兄弟の教育は、東京で受けさせると
東京の、山手線をはるかに離れた下町の小岩に帰還した。
大学時代の友人たちも、下町に帰って来ていた。
そこは、、、ドブだらけで、、、蚊の発生があり、
金鳥の蚊取り線香を、
切らせることはできなかった。
山の手で育った父の弟さんは[叔父さん]は
学徒出陣で無事に帰還、
28歳から、
早稲田合格、、、兄さんの家(我が家)から
兄さん(私の父)の経済力で卒業し、
めでたく、、、
学芸大卒の彼女と結婚。
結婚式は、我が家の2階に、、底が抜けそうなほど
知人縁者を集めて挙式。
私が、皆にお酒を注いで回る役でした。
母の弟も、シベリア抑留から帰還、
日本大学の工学部の学生をしているうちに、、、中退。
従兄弟も、、嫁さんの親まで、、、親戚中同居の居候を抱えた。
准看護婦の学校に従兄弟の娘を進学させたり、、、。
あしながおじさんとして、勤めのように尽くした。、
ドレメ、やら、高校やら、、8人の学費を背負う父。
母の弟の娘が、医師と結婚をして、
その一家は全員、我が家の居候から脱出していった、
その妹も、千葉大の法律家と結婚して、
都心のマンションに出て行った。
私が、高校を卒業するころ、、、
一人抜け、、二人抜け、、、
我ら家族6人だけになった冬の日に
2月の寒い日に、、、父は
最後の患者さんを手術して、、、麻酔が覚めるまで仮眠をすると
明け方、就寝するころ、そのまま天国に行ってしまった。
54歳でした。
兄が初めに気が付いて、皆を呼び集めた時は
手のぬくもりが残っていた。
働き過ぎて、、、面倒見が良すぎて、、、
自分がガス欠になってしまったような、、、残念な結果でした。
その父が、、、
最後の力を振り絞って帰ってくれた東京を、
心ならずも、私は失った。
**************************
6月の北海道は梅雨が無い。
何やら、経済力の有った父のもとに同居して、
戦後は、「居候」もつらかっただろうが、
同居を余儀なくされる「医師家族」も
大根の葉っぱまで、
サラダ菜で痛めて、お茶漬けにするほど、
十数人と居候が多すぎて、、、
父の得てくる経済力の報酬を分け合った。
北海道に、6月に、初めて飛行機から降りたった時、
理由もなく、、、神様が、ここに住め!と、、、言っているような
運命が待っていた、
私の力では、どうすることもできない
北海道の大地の、原始の、、、何もないという、、、
無、、、無、、、という、勝てない力に出逢ってしまった。
6月の北海道に、、、住んでみようかと、、、
ほんの2~3年だけ、、、、雪の美しさの中で
大の字になって、空を見ながら
死んだふりがしてみたかった。
戦後の一億総貧乏の東京から北海道に来た医科大生。
「3年経ったら、東京に帰り、
あなたのお父さんが亡くなった跡を、
あなたの兄さんたちと、支えます」という、、、
外科医の卵の言葉に、母が心を動かされた。
「お父さんが、、、若くなって帰ってくるのよ、、!」
北海道に3年住むのも、あなたには、きっと、、、
人生の宝物になるはず、、、
母は、戦争で、長女、二男 三男と失っていた。
父が54歳で亡くなったことは、、、、喪失感に耐えられなかったのだろう。
私は、母が寂しくならなくて済むのなら、、、と。
目下、車なし、免許なし、自宅なし、貯金なし、
奨学金の返済を引き受けるところから
我が家にお迎えする戦力の婿殿と、、割り切って、仕えることにした。
全ての費用は、母が北海道まで来て、住居を整えてくれた。
たった、、、半年たたないうちに
階下の大家さんの息子夫婦がガス学発を起こした。
母の揃えてくれたすべては焼けて吹っ飛んでしまった。
結婚生活は、銭湯に通う、二間と3畳の物置の
木賃アパートの二階から、
修理された火元の夫婦の住んでいた一階に移動。
北海道の医師の卵の貧しさが、
無給医の時代ヘと延長された。
3年で博士号を取得して、我が家の経営陣と合流する約束が
博士号を臨床で取得したため、
症例数が集まるまで
7年かかり、
借金経済を「ゼロ」にするためにも
北海道の月給をくれる病院に出向することになった。
そして、、、
医局制度のために、
東京に帰って
どこかの大学の医局に所属して、
そこから、
私の実家に働きに来るという計画は
時すでに遅しとなっていた。
40才近い年になっていた。
卒業した大学の医局を離れた生き方をするのには、
年をとりすぎてしまった。
そして、私は、
24年間の東京の学友たちと、
さようならの、、、
他人の縄張りに入ってしまった人生が始まった。、、、
明日は、、、東京に帰ろう、、、と
毎日思いながら、、、73歳になっていた、
******************************
私の知っている、意地悪ばあさんの青島さんや
石原慎太郎さんが都庁に入られたころは
戦後の汚染の掃除の始まったころでした。
「夢の島少女」だったかな?
詩のようなNHKの番組が有った頃ですよね。
丁度、東京湾を、
ゴミで埋め立てる工事が、マスコミでにぎ合っていました。
あの番組を作っていた佐々木昭一郎兄さんの家に
私は、、、下宿したことが有った。
母同士が親友だったから。
音で詩を表現できる、、、素晴らしい感性のお兄さんだった。
将棋を指したこともあった。
あのころは、、、天下のNHKも制作費が厳しくて
お兄さんは、、、こうしたい、、でも、、出来ないから、、、
NHKは、費用の枠内で仕事するから、、と
シナリオを書き直していました。
東京の街の音を録音して編集した作品が
イタリア賞をとれたと、、、おばさまが!!!目を輝かせていました。
大学に、朝通う道の、駅に行く途中
佐藤首相の家の前に護衛の制服が立つっていました。
おはようさん!というと、、、敬礼してくれました。
古池都知事は、、、多分このころは
東京をご存じないでしょうね。
東大か、一ツ橋か、早稲だか、慶応か、、、日大理工もそうかな~?
東都10大学があって、、、
皆、自分の大学以外は、、茶化して大学の歌が歌われていました。
私が、一番興味があって、
今でも地球の医者だと思っている農学部なんか
大根踊りをして、、、笑わせたものでした。
そういう時代でしたよ。
東京を、
戦後から復活させていたのは、、、
東都大学卒業生?もいたのでしょうね!
でも、復活の頭脳をしていたのは、東大や一橋大や
東京工大、早稲田、慶応、、、駿河台の大学の
教授クラスの人たちが、巨大な政治の後ろの
世界のシステムを説得してゆく力が有ったのでしょうね?
*********************************
兄貴は両国高校のトップに居たのに
文系の科目が及ばず、国語がダメだった。
東大の理類は不合格、
同級生が一ツ橋に受かり
従兄弟が東京工大に受かり、
兄は、、、日大の医学部に進学した。
卒業すると、夢が有ったのか、、、
東京の築地のがんセンターに研修に通い続け、
胃カメラの指導医を取得して
開業に専念した、
母がピアの教室を運営していたので
なにかとお金もかかたのかもしれません。
母が亡くなると、
千葉にある、大きな国際的に開かれた病院に勤務医として出発した。
開業の医療施設を開くよりも、閉院の方が大変だと言いながら、
多くの親戚や兄弟の思い出の下町の開業は、
兄の代で閉院した。
兄弟への分け前は一銭も出なかった。
開業中は税制優遇でも、
閉院は壊滅状態にならざるを得ないらしい。
残った金銭で夫婦で介護施設に移り住み、
兄の人生は、兄弟が手の届かないゾーンに行ってしまった。
石原慎太郎さんを、少し若くした年代です。
私たちが、帰ってくると思っていたのは、
40歳を過ぎるころは、かんがえなくなっていた。
開業の時代は過ぎた。
胃カメラだけでも、毎年ヴァ^ジョンアップしているから
経費倒れだ、、と、愚痴っていたことが有った。
開業というのは、、、何だったのだろうか?
****************************
医師は本人一代だけで、誰も後を継げない、
芸術家が、、、その人一代であるように。
医師を志し、医師をする事の難しさは
回りの人間が、痛感する。
回りのサポートが下手だと、医師は、医師をすることが苦痛になる。
世間の風評とは裏腹に、時間もお金も労力も
ひたすら、見えない堤防のアナを
ふさぐにも似た、見えない影の維持に専念し
評価されないサポートに徹せねば、
風評に流されて、
医者の奥さんなどという椅子があると勘違いして
いい気になっていると、、、持ち上げて、骨折するぐらい落とされるのが
内情を解らない世間の嫉妬が集まる、、、
位置に座っていることは確かである。
スカットする表現を軽い気持ちでギャグったりすると
本気にとられて、痛くもない腹をさすられるのが
医師という誤解されやすい、一見「金持ち」
期待に応えようと、イイ振り子いて頑張ると、、、続かない。
閉院や、挫折や、
同業者と支える社会から、、、さりげなく、、、
外されそうになるのです。
品性が大切ですよね。
侍の心は、、、品性だと思います。
男は、輝くプライドの為には、命を懸けて一途になってほしいと
大和撫子の心は、誉ちゃんのように強いのです。
さて、、私事を鏡に映して、、、茶化すなら、、こうなります。
忙しく、、、50年間雪を搔くマシーンを得た主人は
雪国で、スコップを持ったことのない時間を過ごせた。
洗濯機を動かす洗濯機の私は、
化粧をして、
主人を待つという心を知らないまま
73歳になった。
パーマもかけなかった。
まっすぐで居たかったから、、、
彼が、心を表現できる人であったなら、、、こう言うでしょうね。
「俺の人生の、医師を続けるためには、都合の良い家の管理人」
君は、こんな感じの人生だった。
「病院を立ち上げた頃から、ひたすら仕事の事だけ考えた、、、医者バカ」、、、これが僕。
「後ろを守ってくれる都合の良い管理人なら、、、多分
誰でもよかったのではなかろうか?」、、、僕って、、
****************************
父もきっと、、、同じだったのだろう、、、
母は、、晩年「ピアノ教室に打ち込んだのは、、、正解だったかもしれません。」
医者をする事しか興味のない人と出逢った以上
一生医者をしながら、昇天するまで、家の管理人をして、
医師を続けるための、管理人に徹して、
後方に憂いを残させずに、、、医師をすることを全うさせる
雑役をして、
女性の人生は長いから、、、それがすんだら、、、
東京に!DKのマンションでも借りて、、、父母の眠っているお寺、、、
宝仙寺のお墓参りを、、、余生とするかな?、、、
のりかけた船だからと、
俺の事、医師をする事しか興味のない相棒の
便利屋をしながら、、、雪を搔いて50年過ぎました。
夫には、中学の時の初恋の女性が心に住んでいて
プラトニックの世界で、
遠く離れて、芸大を出て、工芸品を作っている彼女の
夢を追って生きてる姿こそ、、、永遠のライバルで
永遠の女性なのですね。
結婚という現実は、女性は女性ではなくなり、、、家の管理者。
家に居てさえくれれば、、、安心して働ける。
管理人が、きちんとした仕事さえしていれば
姿かたちは観ていない。
家じゅうの部屋には、全部自分の物を置き、
全ての部屋に入るから。
奥さんという存在を維持する事の出来る個室は無い。
もしも、医学や。仕事や。自分への執着や
中学校の時の才媛が、心の執着から解き放たれていたのなら
「愛情」を育てる心の余裕が出来たかもしれないと、、、
心の貧乏は、、、欲張りからくるのだと、、、ふと、、、
相棒が、、、可愛そうになり、、、
この人から、、、仕事をとったら、、、何にも残らない、、、と思うとき、
、心も、仕事も、友人も、学校も、、はるか東京に置き去ってきた私が
無であったために、子供を育て、孫にも出会え
男女の愛は知らないで過ごした73歳だけれども。
こどもを育てるまでの天与の愛は心の宝物である。
相棒が、父親になり、夫になり、人間として、出逢える日は
きっと、、医師の仕事が亡くなったときから、、、
相棒は、、、家庭人としての「愛」に気が付くのかもしれません。
それまで、、、生きていたら、、、生まれ故郷の東京に
帰ろうかと、、、ふと、、、思うかもしれませんね。
でも、北大を卒業した医師は、、、
どこの出身であろうと、、、北海道人であると思います。
私が、、、東京に帰れる日は、多分、、、