どこかで梅の花が咲いてるでしょう、、、!
後楽園の梅も、香りを楽しむ人たちで、
きっとにぎわい始めているでしょうね
南国では、
花が空に向かって、
両手を挙げて
はじけていることでしょう
北国の三月は
タイヤの跡が溝になたっまま、凍り付いた道路を
リュックを背負って、
転ばないように、
スパイク長靴で歩いています。
北海道に来るまでは
3月が、待ち遠しかった季節ですが、
三月は
冬将軍の、最後の兵法のように
足首を 立ち止まらせる戦場です。
スコップを持つことも、ごみを捨てることのない主人は
患者様のお肌に触れる、敏感な手を
手袋に包んで、、、眠る。
私の手は、、、
グローブのように節くれだっている。
主人にゴミ捨ても、
ダンボールタタミも、、、頼めない。
持ち込んでくる書物も、
天井に着くころ、
ダンボールに小分けして、
しまい込む。
北国の、、、
勤務医の奥さんになる場合、、、
マンションに住むことをお勧めしますよ。
羊が丘のふもとの一軒家は
夏は別荘地ですが、
一年間を通して、
鶏のように、家の番をする。
4月の終わりには、
冬物の手入れをして、
来年に備えて収納する。
大雪だけを考えて設計されているかのような
我が家は、収納は、一部屋だけにしかない。
枕カバー
座布団カバー
クッションカバー
衣装ケース、
ダンボール、、、
冬が終わるころには
冬の防寒服や、
マフラーや 靴下、手袋、
セーターに、エトセトラ、、えっとせとら、、、
電気毛布に、
電気絨毯
あちこち置き散らしたミニミニマット。。。
10枚以上、、
一体、、、この部屋は何なのですか?
物置にしては、、、クッションだらけ。
枕だらけ、ダンボールだらけ、、、
一室丸ごと、、、
冬物収容の足の踏み場もなくなる。
第二次世界大戦の始まったころ
生まれた主人は
日本全員
「我慢、、、我慢、、、」の時代の記憶がある。
自家用車は25年間乗っても、
セーターは毎年、、、あれこれ買っては
毎日違うものを着るのが、、、ご機嫌という
バス、地下鉄、JR、、歩き、、、と
いつも、乗り合わせる隣人からは
毎日、新しい人に見えてるかもしれない。
夏は、
主人のお気に入りの冬用コート、
冬は、
主人の買い散らかした夏物のお気に入り上着、、、
引き出しには、
学会に行くときの、
お気に入りの、下着がいっぱい詰まっている。
医局のみんなと、
アメリカの学会に参加した時に、
胸に、英語で、「ハーバード」などと書いてある
ワインレッドのシャツを
息子たちの分まで買ってきたのが、、、
引き出しを一つ埋めてある。
道内の私立大学に通っていた息子は、
お土産にもらったこのシャツを
「有難う、、お父さんらしいね、、」と言って、
持って行かなかった。
行き場のなくなった、ネッカチーフには
「メイド イン ジャパン」と英語のタグが付いている。
有難う、、、と言って受け取って、、、
シルクだと思って買ったというが
通気性のない、、、
化繊によくある、、、不自然な光沢!。、
マイアミの海の
サイケな色彩の模様がある、、、これ!
風呂敷にも使えない派手な、、、これ。
どう見ても、、、日本製には見えないが、、、?
タグには「made in japan]
国内の学会の帰りにも、
桐生のシルクだと、
お土産店のおばちゃんに進められて、、、
緑に金色の化繊の糸の
機械刺繍の帯を買ってきてくれた。
、家を空けて、4日も経てば
敷居が高い玄関の
踏み台にでも使えますが。
飾っておく、、、アトラクションの、、、帯でしょう!
重かったでしょう、、、
とうとう、、一度も使わないまましまってある。
戦前戦後、、、日本人、、、
全員貧乏家族の時代に育った主人は
バルブ時代の幕開けで、
にわかに、、、買えなかった物を買い集める。
最終的に、ごみ!、
見かけだけの良いものが、部屋をうずめていった。
しかし、、、
本人は、毎日違うセーターで
ストレス解消にはなっているのがよくわかる。
季節の終わりに、、、
テレビのコマーシャルタイムは
主人の冬物の「毛玉取り、、、の時間である、」
部屋中に、
スライド式の一間幅のドレサーが3本ある。
全部、主人の服入れである。
背広に、Yシャツ ズボンに、、、ハーフな上着、
めったに行かないゴルフウエア―
全部、、、行きがけの、思い付きの
ストレス解消買い物であるらしい。。。?
安物ばかりの、
店頭品を、、、
あまりよく考えないで買うようだ。
一つでも、二つでも、
ブランド品があれば、
もらってくれる人もいるでしょうが、、、
枕カバーや、
座布団カバーの中で、
飽きられた着古しが、
部屋をうずめる。
主人の買い散らかした衣類の
手入れのおかげで、
私は衣類に興味がなくなった。
結婚してから、一枚の着物も買っていない。
たった一枚のブランド品も買っていない。
ひたすら、
TVコマーシャルタイムには
息子たちが着たジャージの生地を、
マルク切ったり、
四角に切ったりして、
雪かき用の靴下のかかとの補強をする。
手袋には人差し指にかかるゾーンを、
裏から補強する。
大好きな靴下は、
いつの間にか、
ツギ当てゾーンで別物に見える。
そんなこんなで、
3月に突入した。
春に向かう最悪の季節には
外出する暇もないほど
主人が、一冬お世話になった
衣類たちの
冬物のリフレッシュで過ぎてくれる。
週末に帰ってきたかと思うと、、、
救急車が緊急手術の患者さんが運ばれてきたからと
電話が鳴る、、、
ゴールデンウイークも,
お盆も、
暮れも、
正月も、
我が家には寝室がいらなかった。
呼び出しで、
病院で、漬物になっているのではと心配だった、
仕事を主体に考えた家の構造は、
全室が主人の部屋と
医学書や、パンフレットで埋まっていた、
晩年、手術に入らなくなったころ、、、
病院も、スタッフが増えて、
主人にも、人並みに休日がある人生に突入した。
休みになれば、温泉ぐらいにはゆくのかと思ったら、
一日中部屋で、何かを調べていたり、
時には昔の映画を買ってきては
深夜まで見ている。
外出しないで、一日家に居て、、、休まった!
ご機嫌で、翌日、、、
仕事に出てゆくのである。
冬も終わろうとする3月には
仕事に出かけてゆく主人を見送りながら、、、
この人から、、、仕事を取ったら、、、
何もないのではないかと、、、
フト、、、苦笑したくなる半面、
こんな調子だから、、、
昔の患者さんが、
今でも、通ってきてくれて、
回復の喜びの、お葉書や
お手紙を、、、くださるのかもしれません、、、ね、
主人には負けてしまった、、、人生でした。
医者の家に生まれ、
娘なんて、、、
父の付録、の時代から、自分を探していたような気がする。
医者と結婚したら、、、一生付録だから、、、
女医になりなさい、、、という父。
19歳で父が亡くなったとき、
高校生の弟が居た。
ダイナミックで、繊細で、骨太の包容力のある
戦争を知らない時代の
「団塊の世代の、
日本を復興させた男たちである、」
子供時代から、私より、はるかに利発だった、
父の時代は、、、日本は、富国強兵政策で
戦争モードに、心の平和はizukuyara ,,,.
軍医に従軍した父
野戦病院では、食べるものも、薬も、包帯もなくなった、、、
命の限界を体験して、
体はきっと、、、内臓から、、、ボロボロだったのかもしれない
54歳で、これからという年齢で人生の幕が降りた。
私は19歳、、、だったかな?
医師一年目で、
弟妹と未亡人のピアニストの
母の未来を任された、、、
内科医の兄、、、
お化けを背負った気持だったかもしれませんね、、、。
スピードスケートのように
弟は群を抜いて
走った、
父の若死にで、
生前言っていた父の言葉に導かれるように
命の剣ヶ峰の医療に向かっていった、
国立がんセンターで、
がんとの戦いに
医師生命をささげた
CTって何ですか?、、、という時代から
へりかるCT が、普及する時代まで
がんは死ぬもの、、、から、
がんと共存して、働きながらの治療の時代へと
日本のがん治療の黎明期を、、、弟はがんセンターで仕事をやりぬいた。
少なくとも、私の息子が、
おじさんの生き方にあこがれて
放射線科の医師になった。
弟は、最後の一周で、兄弟を一気に抜いて、
世界の名医の中で、知られるところとなった、、、
本人は、新聞に出ようが、ハーバードに呼ばれようが、、、
ヨーロッパG7にような、、
医療界のメンバーに選んでいただこうが、
その日その時に全力投球するだけの、根っからの医師だ。
不治の病のがんに、果敢に、向かっていった、
金メダルのスケートチームのように
素晴らしいチームにも恵まれていたようだ、
定年のあたりに、、、
日本の政権が変わり、、、
生涯をささげるはずのがんセンターが
独立法人になるという、、、
、、、、、
そしてまた、変わり、、、
何が起きたのか?????
せだいこうたいなのか?
、、、、???
ともかく、日本の明治生まれの父母の時代から
日本の家電や電気の文化を支えた名門の電気の会社の
東芝も、北京で見たのを最後に、、、
ごたごたの、、、激動が起きたみたいだ。
日本の富士山
東芝、、、日立、、、
電気はサムスンとか???
中国製品とか?
グンユウカッキョ、、、の時代に突入。
遠く離れた、北海道でも、本になり、テレビに出演し、
新聞雑誌に載り、ジャーマという英語雑誌でも
紀伊国屋で、弟の本を見つけては、、、買った。
前後して、サインの入った本が、、、郵便受けに入っていた。
「心から、うれしかった、」
医師として、自分の家庭は振り返れなかったとは思うが、、、
医の道を、まっしぐらに、発展させるメンバーとして
医学のリンクで、
すごいスピ^ドで、
世界の強豪の居る医療の世界のリンクで
マススケートの菜奈さんのように、
走り切ったと思うのです。
北海道から、わくわくしながら、目が離せませんでした。
医師の姉は付録以下でもいいのです。
頑張る兄弟が居ることだけで、頑張れたのですから。
医師の後ろの家庭婦人は
「愛」が入る隙間のない
すっ飛ぶ速さの時間の渦の中で
歳だけ重ねて、、、鏡の中の自分に
「あなた、、、だれ?」、、
自分の時間が、
いつ消えたのかもワカラナイママ、、
歳をとって、
根こそぎ、医師の生きてゆく時間帯の
メビウスの輪の「裏側の時間を
ぴったりと走っていたのだけは確かです。
しかし、、、
医師の仕事の世界を生きる主人とは
とうとう、、、出会うことなく、、、
今日も、メビウスの裏側の時間ゾーンを、
走り続けるのです。
医療の仕事の中でも、
「愛」が邪魔でない科もあるでしょうね、、、きっと。
彼らは、有機化学の世界から、
永遠の命を目指して、どこに向かってゆくのでしょうね?????
医家に生まれ、
医師の兄弟
、医師の夫
、医師の息子
医療関係の嫁たち、
世間に向かって、確実に貢献してゆく足跡が
雪の草原に見える。
窓から、、、社会への貢献の足跡を見つめながら
彼らは、自分の世界を生きているから、、、
家庭という、最も近い距離に見えて
永遠に出会うことのない
メビウスの輪の至近距離で
表と裏で走り続けた、、、
三月の、雪のわだちにはタイヤの跡が交差している
私の人生には、、、足跡はどこにもない。
しかし、、、確実に、
未来に向かって、何本かの「矢」が飛んでゆく。
子供たちが、孫たちが、、、
私に代わって
社会に還元してゆくだろう
人生の、、、雪の野原の足跡を探す
**************************************
主人も、この世を旅立つ一日前まで、
患者さんのことを考え、
仕事に生きて、
医術という、役に立つ面で、
社会に参加し続ければ
メビウスの裏側から、
お互いに、見えない時間を過ごしたけれど、、、
、、笑って、、、旅立てると思いますよ、、、。
子供が、メビウスの表で、バトンタッチして
走ってゆくと、、、気が付いただけでも、、、
お互いの出会いはなかったが
存在だけで
役目を果たした、お互いでした。
医師の家庭で医師でないものは
人間社会に交わりを持つと
付録扱いになることが多いから、
出会いは、自分の生涯の仕事の配置決定と思って
医師という、患者さんを中心に、自分の医術を磨くことしか考えない
一見、、自己愛の怪物と間違うほど、
強敵に囲まれた中で
自分にしかできない医療の居場所を作らねばならない、、、人生の受験生と
結婚しても、大変なことは知っていた。
社会的には、どんなに頑張っても、
寄らば大樹の陰を、、、ぬくぬくと生きてるイメージになる。
大樹にとまった、、、蝶ちょかな?
薬剤師の腕を持っていても、、、
後ろの大樹の医師に止まった、依存女性として、扱われるから
私は、必要以外のところにはゆかなくなった。
人生の自分の登山を一歩一歩歩みながら、
最後に、、、二人で、、、
メビウスの輪の、、、表と裏から
同じ「ご来光」が、それぞれを、、、達成感の輝きの中に「感動」できれば、、、
人間同士の「夫婦の愛」を
はるかに超えた、同格の一から
二人で見上げる人生の終焉の輝きが
私たちの場合、、、「出会い」だと、、、
なぜ?「相棒」だったのか、、、?
この人の、相棒は、ご来光のように、天命だったのだから
人生を振り返ることも、待つことも、愛することも、、、一瞬の瞬きだと
ご来光を見ながら
光の中に、、、一足飛びに、、、吸い込まれて、
私は、今度は、、、孫子の足元を照らすことができる、、、粒子になって
社会では知らなかったみんなと、
大きな光を投げかけて、
「愛は光になれることかもしれない、、、」
今日も、セーターの毛玉を取りながら、、、
私の時間は過ぎてゆく、、、
真珠貝のように、
海の底で、体内に痛みを運ぶ小石があるから、、、
毎日毎日、毛玉を取り、
私の魔術で小石を巻いてゆく。
いつしか、、心の痛みも、、、真珠のように
光輝き、患者さんが、
胸にかけて健康に過ごせるように、、、。
人知れず、、、
真珠貝になって、
人生の、
だれもやりたくない
小石の角を巻きながら
一粒の真珠を世に送り出す。
私には「足跡はない。」
光る真珠の存在を知るだけ。
孤独とは言えないが、、、
私だけの、海の底の人生の営み。
結婚した多くの女性の中には
共鳴できる方々が、、、きっといると思っています、
3月の、、、わだちの凍り付いた雪道は
春を信じて歩き続ける、、、女性たちの主婦という仕事の道
足跡すら、、、ない、、、道に似ていると思ったのでした
そして、主人とは「存在そのものだけで、息子や家庭の城壁だったのかもしれませんね???