子供のころから、医師の父は忙しい人でした。
夏休みに、川に泳ぎに連れて行ってくれると約束しても、
早朝、、、患者さんにつかまってしまって、、、行けなかった。
兄は両国高校に通っている頃は、面白い洋画が来ると
弟妹を連れて行ってくれました。
医師になってからは、「親父が、、開業施設を残して逝くから、、、仕方ない!」
早朝5時から、跡取り息子は診察室で、働き始めて
深夜まで、母屋には帰らないようでした。
義姉は、一般家庭から嫁いできたせいもあって
家庭的な時間がすれ違う事もあって、良く外出していました
弟は医師になってからは、勉強の毎日で、
貧困家庭だと、ぼやいていました。
兄は、父の後を告いでも、
開業は自営の仕事なので、デパートのショウウインドウではありませんが、
生き生きとしたイメージが大切なので、
週末は、健康維持に本人はリハビリーのように熱心に
ホテルのプールに泳ぎに行っていました。
民間からはゴルフは贅沢に見えますが、
小さな室内業務で椅子に座って診断の時間が多い生なのか?
精神を休め、足腰に働かせて、腕を振り回すゴルフ場は
体力あっての開業だからと、月に何度かコースに行っていました。
弟には、学者になる事を進めてきた割には
金銭的な応援は、思うように行かずに、
奥さんの海外旅行代金になっていたようでした。
父が亡くなったとき、私はまだ大学生だったので、
卒業まで、家にいてよいという事と引き換えに
相続の全面放棄の印鑑を、義姉が押してほしいと言うので
薬剤師になってしまえば、就職はあるので、
卒業までの権利の方をとり、遺留分は放棄しました。
5年間働いて、後は家庭に収まりながら、
主人に万一の事があれば、子供は自分が育てるという気持ちから、
認定薬剤師の講習会には18年間継続して、
いつでも、職業につける様に
認定薬剤師をいただいて、今日の治療薬は毎日目を通す習慣をつけました。
主人が、予期せぬ病気やら、単身赴任二なったときは
正社員として、
血液製剤の管理や、医療機械の流通の仕事で
管理薬剤師をしながら、
主人が帰ってくるまで、母子家庭を3年弱、経験しました。
全快した主人が帰って来ても、
50近くまで国立に居て、転勤や移動が多い生活でしたので、
家庭の事に関する雑事や、育児は
私が任されるという、、、孤独で奮闘する50歳代~60歳でした。
ドクターヘリの飛びかう大きな病院の外科医なので、
外科医は緊急事態に備えて待機するので
週末に帰宅すると、爆睡していました。
はじめは4人の外科医で、めまぐるしく働いているうちに
30人ぐらいの外科のメンバーが切磋琢磨するという
地域からも、開業医さんからも
大切な存在の病院に育ってゆきました。
あれから30年経ちました。
医者のトップは院長ですが
経営者のサイドには別の職種の事務長さんがいらっしゃります。
立ち上げのころは、自宅が病院のような生活の主人でしたが、
70歳を過ぎてからは、
泊まりの日以外は、8時になると帰宅するようになりました。
母親と二人きりで過ごす事の多かった長男には
何かと、私が影響してしまったのかもしれません、、、
私自身が、うらやましいと思えるほど、
薬のスペシャリストになり、病院薬局ではお役に立っているようです。
孫も、「薬剤師になりたいと、、、勉強中です。」
そのうち、、、成りたいものが、、、代わってくるかもしれませんよね。
今は、親父さんを尊敬しているので、
おなじ職業に目が行くのでしょうね。
次男は、30代のころ。
初恋をしていたようですが、
医師の国家試験の忙しさの時期に、
「医師として、医師をするための勉強に追われて、時間がつくれずに。。。」
いつの間にか、忙しいドクターヘリの飛ぶ病院のスタッフになり、
仕事、、仕事、、、仕事の毎日が続き
いつしか45歳になろうとしていますが、、、独身です。
叔父さんが、国立がんセンターの研究者として
医学部の教科書や、参考書を世に出していたせいか、
目標を高く持ち過ぎたのかもしれません。
今は、定年退職して、第二の人生を、民間で送っている叔父さんなので
若き日に教えていただいた写真が、、、宝物になっている姉の私です。
忙しすぎる弟には、会うのには一か月ぐらい前にアポをとらねばならないので
なかなか、、、兄弟でも、会えないのですが、
学会や、仕事で、、、ひょこんと、我が家に現れたりしていたのですが、
目下、、、忙しい毎日で、なかなか大変な時間貧乏のようです。
私も、後期高齢者になるので、白髪になりました。
いよいよ、いつ何時ボケが来るかもわかりませんので、
思い出の写真を、載せますので、
お兄さんや兄嫁さん、、、姪っ子、甥っ子、、親戚の方々
この「日記ブログ」を見つけたら、、、
「懐かし~~~写真ね、、、と、、、思い出してください。」
あなた方が遊びに来てくれた日の事が、昨日のように思い出されます。
家の周りも、雪が積もり、きっと、見つけることはできませんよ。
2月に亡くなった父の命日が近いせいでしょうか?
父と母の事が思い出されて、我が家の思い出の写真を
父母と兄弟、息子たち、親戚に、観ていただけるように。
おやすみなさい
次男は、大学の附属病院の科長さんをしているようです。
息子の大学のHPがリニューアルしたので、
今日は、一日中HPを観ていました。
皆、それぞれに開かれたHpですから、
クリックして、病院巡り、附属病院巡りをしています。
卒業生ばかりではなくて、日本中のいろいろな大学から
指導者の先生が、いらしているのですね。
観ていて、医療の事がいろいろとわかり、楽しい大学病院巡りでした。
地域に拠点病院があるという事は、開業医にとっても
自分の患者さんにとっても、頼もしい機関ですよね。
皆で支え合っている大病院で
お役に立てているのですから、、、
個人的なことは、後回しになるというのも
解るような気がします、
一人は多くの社会の人々の為に
多くの人々は、一人の為に結束して頑張ると
私の父が良く言っていました。
父が慈恵会医科大学を卒業した時代は昭和の初めの
富国強兵時代で、
植民地にならないためにと、日本は強い国になろうとしていました。
戦争も大小さまざまに、起きていた時代です。
植民地になるぐらいならと、、、戦いを余儀なくされた日本も
原子爆弾の2発の投下は
ピカソのゲルニカの村が荒れ地になったよりも次元が違うほど
広島、長崎は人間も建物も、動物も木々も
炭素や、多くの種類の元素に分解されました。
人と人、国と国、イデオロギーとそれ、哲学と哲学、、、
こうした理論的に勝負しかないという戦争と違って
問答無用の、地球丸ごと、その地域は
人、物、植物、町、建物。。。ゲルニカもびっくりの、、、破壊で
全ては元素になって、無性別の物体で、
生きた人間の姿は、炭素になってしまった。
日出国の、、、日本の森羅万象地球丸ごとの相互のバランスから
長き年月で培われた知恵も、技術も、歴史も、伝統も、
人間の優劣や、身分や、功績や、罪も、
無差別に炭化した現状は、、、、、終戦であって、
人として、敗北したのは、原子爆弾という
無差別の破壊兵器を使ったという、、、人間の体温や愛や、ビジョンや、、、
いとおしいまでのみずみずしい、、、戦う努力を、
問答無用の破壊で、、、、人工知能の世界のような、
心のない時代を、つくってしまったことは、
天災の被災地の復活のような
パッションと、やる気と、起き上がる頑張りでは、、、歯が立たない分解だった。
74年間、、、原子爆弾の戦争が無かったことを感謝します。
これからも、こうした戦争手段において、戦いが起きないように、
原子爆弾を使ったら、勝敗はルール違反として、認めないという
国際法が必要だと、お茶の間の婆ちゃんは思いながら
未来の平和を、祈りながら、、、
人生の坂道を、オリオン座を見ながら、、、美しい月を見ながら
この美しい地球に生きてこれたことを、感謝して、
若者が、破壊予備軍にならないように、
命尽きるまで、、、、破壊戦争が地球の星を汚して
本当の宝物を喪う事を、伝えねばなりません。
人工知能が組み立てた人工人間の
最後の部品を仕上げたとき、、、
人間よりは優秀な学習能力で増殖してゆく知恵や能力は
武蔵野が東京になって、スカイツリーの脳みそアンテナで
世界が鳥瞰図のごとく把握しても、
果たして、、、「心」、、、が宿るのだろうか、、、
魂という言葉が、、、死語にならない未来を
若者に、伝えて、便利だけでは
キイボードをたたきながら
ゲームのごとく、
人として、愛くるしい心或る命を、、打ち落としてしまうという
デジタルの世界のタブーを
国際法で、守ってゆく時代が来たのではないだろうか、
人の命の、たおやかな麗しさ、みずみずしさ、、、心、、、
人工知能に変えられない香しさを愛する限り、
医師という職業は命の前に大切な職業として
国際的にも、国内的にも、心ある人間からは
働き方改革では解決できない10時間もかかる手術だって
こなしてきた外科医の舞台裏の応援団は
医療には、医者バカは、、、ありだと、、、苦笑しています、
どんなに大変でも、、、
充実して仕事に従事している様子がわかります。
病院のHPはどこのをサーフィンして拝見しても
HPでは、皆頑張っている医療界のチームの皆さんが
充実して表現されているので、
健康第一にご注意を払いながら、頑張る様に祈っています。
次男は子供のころは、寂しがり屋で、
私がお兄ちゃんばかりに気をとられていると
寂しくなってしまうのか、
可愛がってくれる叔父さんに会う時などは
興奮して、嬉しそうでした。
皆さん、、、今年も、よろしくね!