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花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

戦後の日本

2019-12-15 06:33:13 | Weblog

今回のノーベル賞の先生は、かの地の栄光の授賞式の前に

学生たちを訪問されていらっしゃったのを、TVで拝見しながら

にこやかな、子供とおんなじ笑顔で

未来のノベル賞に続く少年少女に貴重な夢のぬくもりの言葉をかけられていた。

この方の受賞直前の

人生のマキシムの瞬間の言葉を、

スエーデンの少年は体感として何かを受け取ったに違いないと

画面を通して、すごいエネルギーが感じられました。

敗戦後の、ドサクサの日本を立て直したのは

まぎれもなく、、、団塊の世代の、、、すごいパワーだと認識している。

世代交代の時には、この時代の人々は70歳を前後の第二の人生の入り口にいるはずです。

「年齢の本」という、かってのひそかなベストセラーの

令和版を、十年後、二十年後に増補版としてできるとしたら、

日本の、原子爆弾2発で、

身も心も精神も「物質」「元素」「ガス」と分解したはずの日本を

戦後生まれた、戦争を知らない、

新しい時代を背負った

[団塊の世代]が

進駐軍にも、駐留軍にも、堂々と学ぶことは学び.卑屈にはならないで

日本人の遺伝子に潜む「忍耐力のある優勢な因子」は、

復興へと向かっていった。

弟も、団塊の世代の、

はち切れそうな、新時代へ向かう年齢層だ!

疎開先の、うつむいた、、、何かを失った大人たちの

徘徊するかの如く、

迷いのある大人たちの消極性と違っていたのは

物心ついたころより、

姉の私を、部下のようにリモコンしていた。

私自身は気が付かずに、いつものように、弟の便利屋をしながら

弟が可愛くて仕方がなかった。

 

私の弟でありながら、

何をやっても、私より上級生のように優秀だった。

弟の意見道理に動いていると、

難局は切り抜けられた。

 

外国人の家庭のように、姉の私を呼び捨てながら、

あれをここに動かして、

そちらのをここに持ってきて

こうして、斜めにして、、、など命令するのだった。

 

そのトウリ、、、言われたままに、、、動かしていると、

物差しで測った如く、ピタリと納まった。

 

たまたま来ていたお客さんが、、、

「小さいのに、お姉ちゃんを呼び捨てにして、、、

お姉ちゃんに命令して、、、

 

お姉ちゃんも、弟に使われて、、、どえらい姉弟やね~~~!」

 

「呼び捨てにしないで、、、

『お姉ちゃん』と呼んだらええよ!。

 

お姉ちゃんも、お姉ちゃんや!、

弟に呼び捨てにされて、、、ホイホイ動く姉が、、、

どこにおるんじゃい?」

 

褒められてるのか?

貶されているのか?

注意されてんのか?

教えられてんのか?

??????????

私は、、、弟の顔を覗き込んだ。

弟は、即座に

「お姉ちゃん、そっちのは、ここに持ってきて、、、」

何事もなかったかの如く、

この瞬間から、、、

私は「お姉ちゃん」という呼び名に変わった。

子供のころから、弟が高校生になるまで、

優秀なのは弟だった。

卓球場に行くと、弟の名前は木札で掲示されており、

私のように、入場のお金は要らなかった。

お手合わせを頼まれている弟は

卓球場の、師範代のような、特別優待の無料待遇だった。

 

戦前は総合病院の院長だった父は、終戦後は多くを失い

弟が新しい世の「希望の息子」だった。

戦争で院長をしていた病院のすべてをなくし、

三人の子供も失い、

病院も実家も、すべて無くし、

PTSD???戦後の心の混乱状態の母の為にも

疎開したとき、

弟が生まれた。

 

戦争を知らない世代の誕生に、

戦後の日本の復興の夢を託して、

疎開先から、

生まれ故郷の東京に戻ろうと決心できたのも

弟の誕生と、

日本の復興には、新しい時代の教育が必須だと思ったと、

父は無理を承知で

新規開業をためらわなかった。

戦争帰りの疲れた体で疎開地の熊野の山の中の山村へ

村の診療所へと赴任した。、

七ケ村無医村の

唯一の外科、

そして、

軍医の時代に体得した先陣の医師としての機転の利く術。

引き止められて13年も疎開地に居た。

そのおかげで、、、弟は、、、南紀の恵み多い自然の中で誕生した。

多感な幼少時代は、山あり、、、谷あり、、、川には魚や材木が流れてきた。

いかだを組むこと、箱眼鏡を使って、魚を追いかけること、

山に登ること、高野山から、素焼きの小皿を、、、

面白がって、投げる弟は、生き生きしていた。

村中も、、、

医者の家に男の子が生まれたと、、、

お祭り騒ぎをしてくれてから

10年、、、

 

父は、このまま、、、

天の子供のように、山野に置いたら、

幸せかもしれないが

日本の戦後は、教育が変わるから、

復興する若者が学ぶべき学問のあるメッカの東京に戻ると決心した。

 

東京には卒業した慈恵会医科大学があるし

同級生が教授にもなっていた。

しかし、戦地で御奉公の身体には、見えないダメージが来ていた。

学徒出陣の父の弟も、

戦地での医療行為が厳しすぎたのか、、、

仲の良かった父と弟にあたるおじさんは

偶然にも、二人とも、、、54歳で、突然亡くなったのでした。

一人の為の金メダルより、団体のメダルを獲れるように、、、

カラーTVが茶の間の 主人公になっていた。

松島トモ子さんなどが、ワイドショウの常連として出ていた。

ある評論家が、あるタレントのにわか批評の発言に、、、ム。。。として、

「タレントは世論の代弁者ではないから

ワイドショウでは、質問とか、話の進行に勤めるとかして、

自分の思った意見は、

生放送では控えてください、、、」と言っていたのを思い出す。

TVなんだから、、、茶の間だから、、、面白ければいいというのは、、、

困ります!!

本気で怒る批評家は、それなりに、日本の戦後を考えていたのかもしれません。

新生「日本」になるか、、、?

戦後のドサクサの下剋上の世の中になるのか?

寅さんのような、、、屋台の在る時代でしたからね。

団塊の世代は、馬力がありました。

父が生きていた頃は、「私立の名門を受ければ、少数科目で足りる」と言って

化学などは、真っ先に割愛だと称して怠けていた弟が、

父が亡くなったとたん、、、

奮起して、多くの科目をやりはじめ。

国立一期校の医学部に合格したのでした。

姉は、、、弟には、、完敗でした。