昭和38年
高校を卒業した私は、東京に住みながら、
東京を知りませんでした。
13歳まで、南紀の疎開地で、
川遊びや、ハイキングや、
小さな自営農家の集落の中で
何にも考えなくても、、
、何とか過ぎてゆく日々を
ぼんやりと過ごしながら
疎開という、
異邦人だったような気がします。
何をしても、
仲間になった感じはしませんでした。
作文や、発表を通じて、
観光紀州、、、という雑誌や
村と村、、という名の学校の作文集などに
掲載していただいたことがありました。
観光紀州というパンフレットに近い薄い出版物には
白黒写真が出ていました。
畏れ多くも、
民間の間では「火星ちゃん」と呼ばれていた宮さまが
紀州を,、、ご訪問されたのでしょうね、、、きっと。
出版物には、宮様のお写真と、
紀州を案内されている、、、髭の長い
不二彦?という文字だったと思いますが、、
宮様のおそばで、紀州の風景を説明しておられるような写真でした。
子どもの日の詩や
「鯉のぼり」
「私の右手」
こうした、文を書くのが好きでした。
「私の右手」という作文は
、、、父母が、
夫婦の会話として、
予期しない災難に遭った娘の右手を
2歳という年齢の時だけに
親の方が責任を感じて
特に母の方が
外科医ではあるが
夫の専門とは、、、又、、、違って
手のひらの手術、
指と野癒着の肉塊、、、
団子のなってしまった右手、、、
専門外の掌の手術に、、、四苦八苦しながら
とうとう、、、完治してしまうまでの話ですが
私自身は、2歳の時に受けた受難ですから
兎の耳は長い
象さんの鼻は,、、長い
私の右手は、、、かろうじて
親指と、人差し指で
「消しゴム」がつかめた。
他人事のように
親の気持ちを書いた作文でした。
「親のプライドにかけて、、、娘の火傷と闘った日々」
やっと、5本の指が切り離され、、、
手のひらの「手相が見えるまでに回復!」
親の思いを作文に書いて
今、、、心のはけ口として
日記帳のように、、、文を書くように
何の狙いも無く描いた文を
小学校の和尚さん先生が、、、弁論大会で
話すと良いと、、、指導してくれました。
小学生の私は、、、「弁論って、、、なんやの?」
「朝の川の瀬音の河原で
水の音にかき消されないような声で
心の音を、
大自然に向かって聞いてもらうんやな!。
「ヨウ、、解らんけど、、、
気持ちがスッキリしそうやから
弁論、、、教えてくれたら、、、
大会に出てもええわ!」
そして、作文を、暗記してしまうまで、
滝の傍の、水野音に負けないように
大きな声で暗唱して
和歌山の、、、弁論大会に
和尚さんと、ほかの上級生の参加者らと
山奥から、、、田辺市あたりまで、、、
泊りがけの大会参加をさせてもらいました。
記憶では、、、
三谷小学校の、、、
オオクラ ミノリ 、と名乗った小学生が
弁論大会の常連で優勝者だと,、、和尚さん先生は言っていた。
田辺とか、、、和歌山とか、、、
疎開地の山奥と、、、ちがうな~~~!
三段壁にも行った。
地下洞穴の海賊の船の隠し場所にも行った。
何よりも「南方熊楠」の、、、粘菌の研究の
独学の話を聞くことが出来た。
ともかく、、、戦後の疎開地で
目下、、、coronaに閉じ込められている様な
大人も子供も、、、
疎開地という山中に
閉じ込められている様な日々は
大人たちにとっては、、、
何か!!!
ストレスの突破口が必用だったのかもしれないと、、、
お金も、道具も設備も要らない、、、弁論で、、、吐き出す!!
何かを吐き出しているつもりが、、、
川原で、水の瀬音、、、瀧の音に負けじと
自己の作文を大声で、、、
自然に向かって言っているうちに
訳も無く,、、すっきりとしたことが
記憶に残っている。
coronaの時代をサバイバルにかけて
必要最低限の事しかしない、、、2年が過ぎて
しみじみと思うのです。
あの時の、、、
火傷は、、、
coronaの被害よりは、、、まし
生きているのだから、、、!
coronaで、、、死んではけない、、、と思うから、、、
ストレスは、、、国のレベルで発散できる、、、
オリンピックが、、、発散させてくれるから
corona対策だけをしっかりと
緻密に対処して
オリンピックに乗じて
外国のテロや、政治犯や、麻薬や、コカインが
すき間から入ってこないように
水際を
緻密にチェックして、
corona戦争だと認識して
自衛隊の力は、武力だけではないと思えるのですよね。
自然災害、、、corona、、、オリンピック
外国の選手団に交じって、、、
関所手形を堂々と、、、提示しながら
coronaの感染源は
港の積み荷の蟻んこのように
忍者のように入り込んでくると思うから、、、
持ち込ませない!
日本に親戚の居る者への海外土産
大きすぎるカメラ、、、
不自然ではない設置物、、、
売店の海外からの展示物
飲み物はコカ・コーラ―だけにすると言う
イベントのスポンサーは、責任をかんじて
ありうることは、、、水も漏らさない注意という
corona戦争は、、、
観客がいなくたって、、、国単位の
大きなストレスを吐き出してくれるという
今回は、昨日も
サッカーはじめ、、、オリンピック番組に
でっぷりと漬かりながら、、、
たまたま回したチャンネルで
「東京の湾岸の巨大建物の建築まで」の
圧巻の技術の建築記録TVに
男性の,男性による、、、男性の仕事!!!
すごいな~~~~!っと、、!
東京で25歳までいたのに
未だに、、、湾岸は、、、夢の島だと
ぼんやり過ごしてきた、、、50年は過ぎて
東京に帰りたい、、、と願っていたが
東京は宇宙になっている様な、、、
私の知らない東京が、TVを通してみることが出来ました。
オリンピックの誘致は、、、多くの文化を実現させている。
coronaにさえ勝てれば、、、
日本が、、、coronaの時代に
オリンピックをやってのけたことは
聖火の炎が、、、ウイルスを焼き尽くすようにと
店への祈りに近い、、、実行だと
最後の最後まで、、、
coronaを蔓延させないで
とうきゅオリンピックは、、、
運動,、、だけではなく
精神の守り方のオリンピックでもあることが
示される結果になれば、、、
日本人の、、、見えない部分の力が
世界に対して、、、発信されることが
77歳を目の前に、、、婆ちゃんの願いです。
目指せ、、、心の金メダルも!
防御を優先させると、、、それもありかな!?
地元の住人の皆からすると、、、
やがて、村を出てゆく、、、
よそ者だけれど
父が、無医村地区の、、、
唯一の医師だったことが
異邦人の子供だけれど、、、医師は居なくてはならない貴重な人だったから
私にとっては,、、
居場所があったという事でしょうね。
やがて、
父の生まれ故郷の東京に
帰る日が来ることは
暗黙の裡に、、、感じていたから
本を読んで、
学校の教科書も繰り返し読んで
父の勤務する村の診療所の
待合室の
毎月新刊が来る雑誌や
マンガ、
新聞なども
小学生の私は、喉の渇きを潤すように
愛読していたのを、、、
苦笑いしながら
親も、姉弟も、、、
見ていた時代が在った。
母は、このような,知識や自分の興味に走り
女の子らしくない
、自我の強い私が嫌いだったようです。
夢見る夢子さんの様な、年子の兄が
母にとったら、、、娘の代わりだったようでした。
兄は、絶対音の持ち主で、
誕生日の買ってもらったアコーデオンなど
譜面なしで、なんでも演奏できました。
バタやんシリーズです、、、とか言って
マドロスさんの様な歌を
よく、、覚えていられるな~~~と
感心しながら、聴き惚れました。
兄は廣澤寅蔵、、、とか、、、
浪曲の真似をしては
母は、おなかをひねって笑い転げていました。
兄の誕生日も、長男の誕生日も
弟が誕生してからは
弟の誕生日も、
母にはワクワクする日だったようです。
私の右手が、ピアノにも、楽器にも
ハンデになって、、、
音楽にそっぽを向いて、、、
本ばかり読んでいる娘が
可愛げが無かったのかもしれません。
東京都でも、
女学校の音楽の教諭をしていた母にとって
音楽を教えることのできない娘は
ため息しか出なかったのかもしれません。
学校ではクラス委員や、、、
一年生から5年生の終了まで
総代,、、を仰せつかりながら
総代って、、、なんやの?
何の感動も、嬉しさも感じないまま
私自身は、勉強して、
父の様な、必要とされる人間に成らなければ
自分の居場所は無くて、、、
国籍なしの、、、小林旭さんの映画のように
ギターを抱えた渡り鳥でも
力が在れば、、、活劇の面白さだって
存在感を、、、肯定しているではないか!!
必要とされる、、、力を持てば、、、
右手がドウの、、こうの、、、と
いう条件下には就職しなければいいのだから!!
卑屈になった事は無かった。
前しか、、観ないようにしていた
幼年時代だった。
ここの村の人は
田畑も、ヤマも、川もあるけど
私は勉強して、父のようにならないと
居場所が与えられないという
暗黙の疎外が
疎開先の集落にはあったように、、、
感じていました。
お祭りの餅つきの日に
父母より早く会場について
持ちをつきたくて、、、うずうずしていた。
私の順番は飛ばされた、、、
遅れて、父と母がやって来た。
父と母用の、、、持ち付きの臼が
特別に用意されて
村の若い衆までもが
掛け声をかけ乍ら、、、
持ちをひっくり返しては
ハイよー!!!と
父母の周りは,、、祭りの勢いが集中して
私と、、、弟は、、、
父母が来てから、、、村の人の笑顔で
餅つきの、、、順番が回ってきたという、、、哀しさよ!。
「医者の子ら」という 言葉で
父母の力で、居場所が創られるという
案山子の様な、、生きてないけど役割が与えられた。
疎開が終ったら、、、出てゆく人たちに
村の人たちは、、、
賢く付き合うという事なのでしょうね、、、
友だちを造らないけど、、、よってきてくれて
友だちになってくれる素振りの子供たちには
私は「必要最低限の反応」を
していた記憶があります。
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異邦人のように、われ関せずに、、、過ごす癖のまま
東京に引っ越してきたのが
6年生の一学期でした、
そういう訳で、、、東京都という首都には
父の様な、先代から
何代も、、、市ヶ谷界隈に居たという
歴史も知らない、、、
飯田橋当たりの神社の前で
父が、、、川中島の武将2人の話をしてくれた。
毘沙門天という、、、神社の守り仏は
初めて耳にする、、、仏さまだった。
戦後の復活期からの東京、、、
つまり、、、
焼け野原になった後の東京を
父とともに、思い出話を聴きながら
イメージの中で構築していた
小学校の6年時代でした。
昭和30年ごろからの
江戸川区を知っているという
私の知っている東京は
戦後のドサクサから、、、
ようやく復活に向かう東京だったと
記憶している。
そして、、、25歳に、、、北海道に嫁いでしまった。
駿河台を舞台に、
将来は、自分を仕上げ乍ら
肝心の父が、、死んでしまったのですから、、、
東京にこだわるという
心が薄れてしまった時期に
北海道に行ってしまったのでした。
新しい街には、、、
居場所が作れるのではないかと
期待もあった。
札幌は、、、ミニ東京都だと
当時は言われていました。
自然と、街と、人のバランスが
最高の街だって、、、聴きました。
東京音痴が、、、いつまでも、、、東京に帰りたいと
毎年思ったのは、、、何故だろう、、、
東京は、小学校から大学まで卒業させてくれた
私という「躯体」を構築できた
だい恩のある、、、かけがえのない、、、
居場所に出来る都会だったかもしれないのに
札幌に住んで50年 。。。 以上たちました。
NHKの「湾岸の巨大建築物の記録」を放映するのを
TVで観乍ら、、、
湾岸は、、、
夢の島という、、、ゴミ置き場だった!
浦安あたりは海だった。
木造の舟の生活の人々が
一生懸命に生きていた昭和30年代
埋め立てられた東京湾には、、、
昔は、、、「のり」が美味しかった。
東京を昭和45年に離れて
北海道に嫁いだ時、、、
別の国の様な、、、気がしたっけ、、、
息子達が、幼稚園小学校中学校高校大学と
札幌の通勤圏の学校を卒業して
帯広、網走、常呂、札幌と
サラリーマンになったころ艪から
息子家族を訪ねては
近くの温泉に泊まっていたこともあり
息子の居たところだけは、、、心の故郷になりました。
息子家族は、、、まぎれもない、、、北海道人として
私にも、、、居場所らしい、安心できるスポットを
造ってくれました。
主人の事は、、、個人的に、、、かっての父母のように
私自身が、、、案山子になってしまうので、、、
日記には、、、書こうと思っても、、、文が出てきません。
医師と結婚すると、、、薬剤師として認めてもらうのは
家を捨てて、勤務しない限りは、、、おさんどん以下で
雑用に徹して、、、当たり前の、、、座布団一枚!
主婦なんて、、、
社会からもはぐれた哀しい時代の
戦前の教育を受けた、、、昭和生まれの主人は
医師という、、、自分の事だけに徹する
男人生のプロだけに、、、
奥さんの為に、、、たんじょうび?
奥さんの為に、、、結婚記念日?
考えが、、、そこまでたどり着かない。
子供2人抱えて、、、
風疹で40度近い熱が出た私を、、家に残して当直!
「出がけに」、、、
いった言葉が、、、腹が立つ!!
「風疹じゃ死なないかラ、、、
熱さまし、、、そこに置いたから。」
母の葬式にも現れませんでした。
東京に行って帰るのは、、、
下手をすると一週間、、
付き合う事になるから、、、
その間、、、助かる患者さんの手術が延期になるからという
暗黙の、、医者の考えが伝わってきました。
一週間後、、、サッポロに着いた私は、、、
たった一人で、、、母の葬儀に出るのは
寂しかったのだろう、、、
初めて、、、うつ病になりそうな危険な心を体験した。
半分が、父と母の世界
半分が、、主人と子供と、札幌の世界、、、
混沌として親恋しさに、、、
観光旅行の会社で
最高の宿泊所の,、、
副智院という
寺院でありながら宿泊所という
主人のように、姑の葬儀にもピンと来ない医師の夫に
観光旅行を兼ねた、、、楽しい墓参りを企画して
高野山に一緒に行ってもらいました。
母の菩提を弔うために
主人が行ったことが無かった「金剛峯寺」にお参りして
母の墓参に替えました。
その日から、、、私自身、、、
奇怪な現象に出逢わなくなり
ちっと母の世界と、、、この世での今が
二重に見えるという
奇怪な,、、現象が、、、消えましたが
帰宅して、現像した写真に
目の球の黒目だけが、、、無い
父の姿と、、、
中の橋の杉の上の父に向かって
手を差し伸べている、、、老女の写真には
私も息子も、、、主人も、、、深刻になってしまい
高野山の、宝亀院の 宮本さんという
偉い、、、お坊さんに、
ネガも写真もお送りして
一年間 お焚きあげの念仏の毎日を
お願いして、、、
母の葬儀以来の、、、奇怪な、、、
科学では割り切れない、、、仏の世界への
義務を果たしてからは、、、
「私が死んだら、、、高野山に灰を流してもらってね、、、」
60歳過ぎての母とは疎遠だっただけに
あの世では、、、父と母の傍に行って
娘の役割がしたいのです。」
主人に、、、「長生きしたら、、、私の灰は
高野山に撒いてよね、、、」
頼んであるのです。
お父さん、、、お母さん、、、
また会えますからね、、、
54歳の父は、、、男盛りのハンサムな仏様で
無意識に、、、ありがたくって、、、
手を合わせてしまうでしょうね、、、
母は、、、80歳過ぎていたから、、、
お婆さんで、、、
びっくりしてしまうかもしれません
人は、、輪廻転生、、、信じたい!