花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

我が家の元旦は1月2日、

2022-01-02 20:57:43 | Weblog

元旦に大雪が降った、、、此処札幌の羊ケ丘界隈!!

 

  和歌山県で生まれて東京で24歳まで過ごし

     未亡人の母の為にも、

       近所の総合病院に、大学病院勤務中に

           臨床の教授に紹介状を戴き

               移動したのは24歳の4月だった

        

       大学時代に北海道は北見から来たという女子学生が

          当時、大學サイドからの使命で「クラスの幹事」をしていた関係上

            地方から来た入学性の相談や質問を受ける機会に恵まれ

         入学当時の教養時代には

            長野からの入学生、

              千葉、埼玉、、山梨、、

               北海道の[旭川]

                   北見。

                 秋田の美人学生、

                   富山。石川県、新潟と、、、

                日本中から来ている学生たちと

                  東京の事を話したり、

                    各県のトピックスを話したり、

       幹事という「雑役同様の、連絡係」を

               させていただいたおかげで

                   ごくごく、、、自然に

                     地方から来た同級生と情報交換が出来ていた。

 

            北海道から来たという、、、おかっぱで

                足を8の字に足首だけ、、、外又に歩き

                  カーキ色のコートで

                     東京の女子学生とは、、、一目見て異質の物を感じる

                   しゃれっ気の無い女子学生と

                 授業の要領に関して話す機会が増えていった。

 

              そして、、、初めての正月が来た、、、

             彼女は北海道に帰らないで、飯田橋の下宿にとどまっていた。

             正月なのに、、、電話がかかってきて、、、

              東京の正月を、1人で過ごしていると、、、ぼやいた。

               「帰郷すればいいでしょう!!!、、、親は待ってると思うよ!!」

             常識的な事を言って電話を切ってしまった。

 

             それから、、彼女とは学年が違ってしまい、、、何年も会わないまま

             私は、自宅の至近距離にある総合病院の薬剤師をしていた。

               まだ、、、2か月しか立っていなかった。

                 薬剤師の人数が少ないので

                   東京大学で研究室の1年間弱と

                    東京医科大学の臨床薬剤師の修行が

                      困ったときの相談相手をつくっておいたことで

               

                仕事を出来る環境を、、、やっとの思いで手に入れた時であった。

 

              5年ぶりに、、、

                入学当時に知り合った

                「北見からの女子学生」の

                  Tさんから電話がかかって来たのだった。

 

                考える余地はないと思った。

                  北見の実家に帰省して、

                       親元に行くのが、、、普通だと思って

                   「正月なのに、、、遊びにいらっしゃいと、、言えなかった。」

 

           彼女は東京で、独りぼっちの正月を過ごしたのだろうか?

               彼女は2人の子供を育て、、

                 1人は医師になって

                   社会に独り立ちしたころ

                     彼女は天上に逝ってしまった。

 

                 ひょんなことで、

                北海道に嫁いだ私は、、、時々、、、彼女のことを思い出す。

           結婚して、北海道に住むようになって

            正月に、北海道の実家に帰省するという事は

             大雪の時期だけに、東京の学生は

               帰るというより、、独りぼっちの正月を

                    過ごすことになるという事が

                      身にしみてわかるようになった。

 

               北海道に嫁いできた私は、

              雪の降る冬を体験した

              初めての正月は、、、留萌の寿町

               家は雪でうまっている。

                海鳴りは怒涛の如く、、、

                 、、

              -28度の厳寒の屋内は、

                     、、

                      暖房が無い!!

 

                    昼間の買い物も、天気の良い瞬間をとらえて

                   寿町の坂道を、、、転がりながら下って行き、

                  ちょっぴり大型に近い個人商店なのか?

                

                  ストーブには、、、燃料が無い!!

                   街に行って、、、石油を売ってください、、、と言えば

                 「オイルショックで、、、売るほど無い!」と

                 けんもほろろに断られた。

 

                寮に帰って、、、                  

                ヤッケの上から、、布団をかぶって

                 ワイヤーが飛び出した椅子に

                        座ると、、、

                  白黒TVは 

                 画面は「雨降り状態であった。」

                 声だけは聞こえる。

                 風の治まった凪の時だけ、、

             、画像の様な人影が見える。

               主人は

             、寮には帰ってこない。

                  私は、、、

                    

                      初めての正月は、、、留萌だった。

      

                「ス,、ㇲ、、、すごすぎる、、、カルチャーショック!!」

 

                お鍋を囲みながら、、、

                 「それにしても、、、留萌の冬」は、、

             「雪山の様な手厳しい気候」ですね!!

                私は、セーターの上からヤッケを着たままで

                  

              「慣れると、、、寒くないものですよ、、、

             主人は宿直でした。

              

             北海道は、、、

                  人間が住んでいるのが、、

                     不思議に思える、、、北国の吹雪だった。

             落ち込んでいた気持ちも、、上向いてきて、、、

 

             自分的には「敗北者になった気分でした、

 

           

             、母の一言で、、、私は、、、再び

                  北海道に向かったのでした。

                

              「お父さんが、、、30歳になって、、、若くなって

                 帰ってくるのよ、、、

                2~3年、、、北海道で暮らすのも

                   良い思い出になるはずよ、、、」と、、、

         母の目は、、

                                          父が帰ってくると信じている目だった。

          

                                                                                     こんな発想をする、、、私の母は

                        芸術の大学を選んだだけあって、、、自己中な

                         主観の強い所が、、、武器になっているタイプだった。

                           本当の愛を知らないのかもしれない。

                                 

 

          7歳と3歳の子を残して、、、

             結核で死んでゆく。。。

                  学校の先生だったという母親は

                    自らを療養中の家ごと燃やして感染をくい止めるように

                       手配して、、、死んでいった28歳の二人の子の母であったという。

 

             2人の子供の母は、、、愛しているはずの子に、、、最後に伝えたのは

               「親の愛」より

                「親が、我が子が生き延びること」を願った。

                    血も涙もない方法で、、、我が子との別れを

                  穂のをで焼き尽くし

                 村落に結核の感染が起きることを防いで、、、死んでいった。

              「忍耐をすること」を、

                最後に、、愛の代わりに伝えたのだろうね、、、」

                 

           「母の愛を知らないで育った母は、、、

                       愛を伝えるより

                「身勝手な忍耐を。。愛だと言った、。」

 

              母の夢かもしれない、、、外科内科の復活、、、

          その年は、、、正月は留萌で過ごした思い出だけが

                   強烈に、、、私の人生を通して、

                           鮮明に残っている。

                    留萌の冬の、、、マイナス28度の雪の中で

                      私は、、男の子を流産した。

                   和歌山で生まれた私は、、、冬将軍に完敗した。

                      母に、、、離婚したい、、、ハワイに行って

                     頭を温め、、、人生の出直しをする、と。

                   正月の孤独な東京の実家で,

                                                                                 母に、人生の出直しを言ったことがあった。

                  しかし、、、母は、自分の生い立ちを話してくれながら

                      北海道に帰って、何年か先には

                       家族みんなで、、、東京に引っ越してきなさい、、、、と、言った。

              「30代のうちに、、、東京に帰ってきなさい、、、小さいころは

                  子供を北海道で育て、、教育は東京で受けさせなさい。

                       計画を持って、、、もう一度、、、北海道に帰りなさい。」

               母の決心は、強いものが、、、あった。

                  感染症で、、実母を7歳の時に無くした母が

                      どうやって生きてきたのか、、、

                     その時に放してくれました。

 

                感染症は、、、、家庭を壊す、、、恐ろしい現象の連鎖が

                   家族を襲う前に

                     感染症をくい止めることに

                       ベストを尽くすことの大切さを、、、肝に銘じた。

 

                 

 

              今年は、、、coronaでの感染症で

               正月を迎えられなかった、、、という、、、

                   予期せぬ寂しい正月を過ごしている人も多いと思います。

 

 

 

 

              

               我が家も、、、正月元旦は、、、

                       結婚50年以上の反省と

 

                       医療人である以上、、、

                      医療を優先に、コロナに感染しないように

                       家庭は振り返る暇は無くても

                     てんでんこに、、、正しく怖がり

                個人の努力で、、、

                  忍耐という「磨かれ続けた孤独の強さ」は

                    コロナ対策には持久戦に戦える

                  

                 短所が、、、長所として、、、

                  corona2年目の正月は

              

             1月2日,、の今日になって

           

              多くの、、、coronaで亡くなった患者さんの事を考えると

            「おめでとうございますという、、、言葉は、、、出ないまま、、」

 

           来年の正月は「おめでとうございますと。。。」

                医療家族は、心から正月を迎えたいと願っています。

           気を緩めずに!!

 

 

               重症化しないと報道されている「オミクロンコロナ株」であっても

            未知の事が多すぎるので

              感染を防ぐ為の

                マスク!

                  手洗い!

                    三密を避ける!

                       ディスタンスをとる

                         消毒

                          バランスの良い食事で免疫をつけて

                            

                   coronaを抑え込みたいと願っています。

 

    重症化しなくても、感染症が増えすぎると、、

               病院崩壊が、、、置きます。

 

                  元来が、、、助かるはずの患者さんが

                    診療を受けられないで

                       死亡するケースだけは

                         避けねばならないと、、、

                   

                            国民は一致団結して

                   経済が元に戻るという事は

                 病院の医療崩壊の無い社会で

               企業者の健康が守られて、、、信用に役立ち

               金融の信用が

              国民が安心できる社会に戻すことが、

                  大切ではないでしょうか??

 

         医療人は専門家なので、、

           、権力や政治で支配できませんよね。

                 話し合って、専門家の意図するところを

                    政治との妥協点で

                      医療は労働では無く

                         医師の方がたは、、、使命感で

                             ベストを尽くされていると思います。

                どんなに、、、すごいエネルギーで

              命を取り戻せたか、、、どんなにスゴイお金がかかる学問を取得されて

                  患者さん衣寄り添っているか、、、

                     助かった患者さんは知る由も無く、、、

                           薬で助かったと、、、思っているかもしれません。

          薬は使いようで「薬にも、、、毒にもなります。」

            医師の指示で、、、必ず、、、医師の指示で、、

                     服用してほしいですね、、、。

               命は一つしかありませんから,、、!

                 

 

             医療のネットワ~クは

                医療の専門家が、政治家と話し合って、、、

               臨床に従事している医師のつ業を聞き入れて

                 国民の為に

             働きやすい組織を

               組みなおすことかもしれませんね。

           

 

            昭和の時代は医師が少ない上に、、保険制度が出来たばかりで

           医療行動のほかに

              キキン事務所への保険の申請事務の煩雑さで

                     父は過労のダメ押しに遇ったのかもしれません。

           

                       専門家の見えない部分の

                        頭脳の中の働きで

                         過労になるのを、、、防ぐような

                   医療システムを考え直さないと、、、

                  素人が、、医療を解ったつもりで支配すると

                 どんなことになるかは、、、

                  、。

             77才、、、正月ですが、、、coronaで亡くなった人の為に

                  一月一日は、、、過去の反省会の日にしました。

                 1月2日、、、改めて、、、

                  今年こそ、、、医療崩壊の危機も無く

                 経済が復活し、、、

                  「ワンコインそば」を

                     井戸端仲間で、、、食べに行ける日を、、、

                       取り戻すためにも、、、

                  オミクロンを、、、集団免疫だと、、、勘違いしないように

 

                 感染症の防止の「基本」を大切にするという

                    一人一人の国民の協力が

                北京オリンピックの金メダルが

                      本当に健康とともに帰還できる

                          協力になると信じています。

 

           もうちょっとだ!!、、、頑張れ!!日本国民の一人一人の

               コロナ対策「基本」を守ろう❕!緊張は正しい対策で、、

                  こころ、、、の張は、、、緩められるだろう!!

 

             感染症は、、、戦争だと、、、昭和生まれの婆ちゃんは

                  気合を緩めずに、、、ベストを尽くすことを、、、祈っている。