麻生首相は、病院を経営されていらっしゃるから
いろいろな、医師の
暇なとき、忙しい時、余裕のある時、無い時、、、etc,
たぶん、いろいろな角度から先生方を見ていらっしゃるのでしょうね。
私の周りにも、父、主人、兄、弟、甥、親戚、、、、と
いろいろな「お医者様」がおります。
周りの医師の趣味を考えて見ました。
音楽、ゴルフ、囲碁、将棋、スパでのリラクゼーション、
父の時代は明治の気風が残っておりました。
周りの友人たちはいろいろな趣味がありました。
父は戦前は趣味もいろいろあったそうですが
戦争を境に、趣味どころではなくなりました。
疎開中に、村の方から「鮎かけ」を教わりました。
診療が忙しく、日曜は川に行ったかと思うと
患者さんに呼び戻されてしまうのです。
夜中、、、夜、、釣りに行くのです。
真夜中の田舎道は村人も怖がる淵に降りてゆくのです。
「ここまで呼びに来る時は、
よほどの重傷だろうから、、、ネ。」
地域医療で90パーセント患者さんの時間の父の逃げ場が
村人も怖がる「深の淵」の夜釣りでした。
村の若い衆が日曜に囲碁を教えてほしいとやってくる。
以後の途中、休日なのに、何度も診察に呼ばれる。
若者は、根気よく待ち続け、又、囲碁を続ける。
リハビリ―と、戦後の精神状態の回復にと
週に何日か自宅を開放し、蓄音機をかけてダンスの集いをしていた。
母は一日かけて町からやってくる、本屋さんから、
待合室で、村の子供たちが読めるように、雑誌や漫画を
毎月取り寄せていた。
少年、少女、少女ブック。少年、少年ブック。
譚快、、、?こんな字だったかな?
この本には「巨人ガランガラン」という連載が出ていた。
手塚マンガの手書きの吹き出しセリフに「手塚治虫」の
自己の宣伝がよく入れてあった。
「月世界旅行」など、斬新な「かぐや姫」の科学版といえる作品が
父の待合室に並んでいた。
その中でも、「砂漠の魔王」は傑作であった。
色彩もきれいで、魔王が壷から出てくるシーンは
子供心に、砂漠のメルヘンに引き込まれていた。
父母の、患者さんへのサービスの本は、だんだん増えて
子供達は、受診しない日でも、我が家に来ていた。
「貸して!」「いいよ、読んだらまた持ってきてね!」
「みんな待っているからね!」
持って行った本が、帰って来ることはなかった。
私は小学校に入学する前には、
マンガや雑誌の字が読めるようになった。
父の人生は、、、振り返るとあまりにも忙しすぎた。
夏の日、スイカを持って父と川に泳ぎに行く途中も
呼び戻された、、、。
上品な語り口で、穏やかな笑顔だけが思い出される。
親の苦労の時代が過ぎて、
昭和の高度成長期を境に、
二代目の時代は恵まれていた。
、、、、開業という檻に閉じ込められた閉塞感が
事あるごとに、非現実の自由を求めて
自己の感情バランスを取るかのように
必死に、まるで、義務のように、、、趣味に走った。
医師は閉じ込めると、、、悲惨な閉じ込められた虎のように
檻の中を歩き回るがごとく、、、出口を求めてモガキマワル!。
父の趣味は「礼儀」「常識」すべてを含んでいた。
乗馬、社交ダンス(ワルツ、タンゴ、ブルース)
ビリヤード、釣り、囲碁、剣道、ゴルフ、
現在の医師は「患者様」という「勘違い訴訟」の嵐の中ですね。
訴訟は、証明義務は片手落ちの法律であり、
医療行為と「証明のための時間、労力は両立しない。」
訴訟を事前に防ぐためにだろうか????????!
どんどん、専門化して、
絶対に自信のある分野しか診療しなくなった。
しかも、「認定医」や「専門医」やもろもろの資格が義務づけられ
研修を終わるまでいは33歳~35歳と婚期も遅くなる。
患者さんに説明義務もある。しかし、、、
医学に素人の視点の患者さんへの説明は
常識では考えられない工夫がいる。
先生方への注文は100パーセントでは足りない。
病気の人間は、精神も正常ではなく
感情的で被害妄想で依存的である場合が多い。
「命」という宝石以上の輝きを扱う医療。
ドバイには1泊250万円のホテルがあるそうですね!
病院は、差額の千円とか一万円の単位のお金を
不払いで、
しかも「ありがとう」の無い
当然のような
「勘違いの訴訟」。
真摯な態度で、対応する医師の苦労は
常識では考えられないのです。
甲状腺の手術の後、転移があってはと全身検査し
乳房に「必ず癌細胞になる細胞が見つかった!」
「やっぱし!転移していたか!」
さっそく手術をした。
その後、弁護士にそそのかされた患者さんは、
「癌になっていないのに手術した!」と訴えてきた。
病院側が勝訴したら、
弁護士が勝てると進めてきたから訴えた。
弁護料は不払いである。
しかも自分は「客」であるから、
再び病院の患者として、当然という態度で受診にやってくる。
常識があったら、、、
やっていられないのが医師という職業ですよね。
愚痴る話を聞いているだけで胃潰瘍ができます。
患者様、止めましょうよ!「患者さま」って呼ぶの!
「客」という立場とは違うのではないですか?
医師サイドは、この病気は自分が診察すれば治癒すると判断すれば、
患者さんの病気に向かってゆくのでしょうが、
患者さんと医師という立場は、
「信頼関係」で初めて成り立つ「関係」なのですから、
「常識では考えられない艱難辛苦の伴った診療」にも
信頼関係で、お願いされれば、患者さんの見方になって
病気という敵と一緒に戦うのが父の姿でしたね。
麻生さんは経営者というお立場なので、きっと現場の
修羅場を体感なさってないのかも知れませんね?!
基礎系の、患者さんを診察しない、医学誌は
教授や学長になられ、学問的な実績を世に問うでしょう。
臨床医は患者さんが教科書です。
常識では「右」に心臓があります、、、と。
本に書いてあります。
臨床では、、、左に心臓がある人もいる。
臨床医には常識を覆す毎日があるのですから、
常識を求めるのはかわいそうです。
常識の「本」を読む前に非常識な現実が毎日起きるのですから、、、
手伝っているスタッフも、非常識に思える言動があるとおもいます。
いろいろな、医師の
暇なとき、忙しい時、余裕のある時、無い時、、、etc,
たぶん、いろいろな角度から先生方を見ていらっしゃるのでしょうね。
私の周りにも、父、主人、兄、弟、甥、親戚、、、、と
いろいろな「お医者様」がおります。
周りの医師の趣味を考えて見ました。
音楽、ゴルフ、囲碁、将棋、スパでのリラクゼーション、
父の時代は明治の気風が残っておりました。
周りの友人たちはいろいろな趣味がありました。
父は戦前は趣味もいろいろあったそうですが
戦争を境に、趣味どころではなくなりました。
疎開中に、村の方から「鮎かけ」を教わりました。
診療が忙しく、日曜は川に行ったかと思うと
患者さんに呼び戻されてしまうのです。
夜中、、、夜、、釣りに行くのです。
真夜中の田舎道は村人も怖がる淵に降りてゆくのです。
「ここまで呼びに来る時は、
よほどの重傷だろうから、、、ネ。」
地域医療で90パーセント患者さんの時間の父の逃げ場が
村人も怖がる「深の淵」の夜釣りでした。
村の若い衆が日曜に囲碁を教えてほしいとやってくる。
以後の途中、休日なのに、何度も診察に呼ばれる。
若者は、根気よく待ち続け、又、囲碁を続ける。
リハビリ―と、戦後の精神状態の回復にと
週に何日か自宅を開放し、蓄音機をかけてダンスの集いをしていた。
母は一日かけて町からやってくる、本屋さんから、
待合室で、村の子供たちが読めるように、雑誌や漫画を
毎月取り寄せていた。
少年、少女、少女ブック。少年、少年ブック。
譚快、、、?こんな字だったかな?
この本には「巨人ガランガラン」という連載が出ていた。
手塚マンガの手書きの吹き出しセリフに「手塚治虫」の
自己の宣伝がよく入れてあった。
「月世界旅行」など、斬新な「かぐや姫」の科学版といえる作品が
父の待合室に並んでいた。
その中でも、「砂漠の魔王」は傑作であった。
色彩もきれいで、魔王が壷から出てくるシーンは
子供心に、砂漠のメルヘンに引き込まれていた。
父母の、患者さんへのサービスの本は、だんだん増えて
子供達は、受診しない日でも、我が家に来ていた。
「貸して!」「いいよ、読んだらまた持ってきてね!」
「みんな待っているからね!」
持って行った本が、帰って来ることはなかった。
私は小学校に入学する前には、
マンガや雑誌の字が読めるようになった。
父の人生は、、、振り返るとあまりにも忙しすぎた。
夏の日、スイカを持って父と川に泳ぎに行く途中も
呼び戻された、、、。
上品な語り口で、穏やかな笑顔だけが思い出される。
親の苦労の時代が過ぎて、
昭和の高度成長期を境に、
二代目の時代は恵まれていた。
、、、、開業という檻に閉じ込められた閉塞感が
事あるごとに、非現実の自由を求めて
自己の感情バランスを取るかのように
必死に、まるで、義務のように、、、趣味に走った。
医師は閉じ込めると、、、悲惨な閉じ込められた虎のように
檻の中を歩き回るがごとく、、、出口を求めてモガキマワル!。
父の趣味は「礼儀」「常識」すべてを含んでいた。
乗馬、社交ダンス(ワルツ、タンゴ、ブルース)
ビリヤード、釣り、囲碁、剣道、ゴルフ、
現在の医師は「患者様」という「勘違い訴訟」の嵐の中ですね。
訴訟は、証明義務は片手落ちの法律であり、
医療行為と「証明のための時間、労力は両立しない。」
訴訟を事前に防ぐためにだろうか????????!
どんどん、専門化して、
絶対に自信のある分野しか診療しなくなった。
しかも、「認定医」や「専門医」やもろもろの資格が義務づけられ
研修を終わるまでいは33歳~35歳と婚期も遅くなる。
患者さんに説明義務もある。しかし、、、
医学に素人の視点の患者さんへの説明は
常識では考えられない工夫がいる。
先生方への注文は100パーセントでは足りない。
病気の人間は、精神も正常ではなく
感情的で被害妄想で依存的である場合が多い。
「命」という宝石以上の輝きを扱う医療。
ドバイには1泊250万円のホテルがあるそうですね!
病院は、差額の千円とか一万円の単位のお金を
不払いで、
しかも「ありがとう」の無い
当然のような
「勘違いの訴訟」。
真摯な態度で、対応する医師の苦労は
常識では考えられないのです。
甲状腺の手術の後、転移があってはと全身検査し
乳房に「必ず癌細胞になる細胞が見つかった!」
「やっぱし!転移していたか!」
さっそく手術をした。
その後、弁護士にそそのかされた患者さんは、
「癌になっていないのに手術した!」と訴えてきた。
病院側が勝訴したら、
弁護士が勝てると進めてきたから訴えた。
弁護料は不払いである。
しかも自分は「客」であるから、
再び病院の患者として、当然という態度で受診にやってくる。
常識があったら、、、
やっていられないのが医師という職業ですよね。
愚痴る話を聞いているだけで胃潰瘍ができます。
患者様、止めましょうよ!「患者さま」って呼ぶの!
「客」という立場とは違うのではないですか?
医師サイドは、この病気は自分が診察すれば治癒すると判断すれば、
患者さんの病気に向かってゆくのでしょうが、
患者さんと医師という立場は、
「信頼関係」で初めて成り立つ「関係」なのですから、
「常識では考えられない艱難辛苦の伴った診療」にも
信頼関係で、お願いされれば、患者さんの見方になって
病気という敵と一緒に戦うのが父の姿でしたね。
麻生さんは経営者というお立場なので、きっと現場の
修羅場を体感なさってないのかも知れませんね?!
基礎系の、患者さんを診察しない、医学誌は
教授や学長になられ、学問的な実績を世に問うでしょう。
臨床医は患者さんが教科書です。
常識では「右」に心臓があります、、、と。
本に書いてあります。
臨床では、、、左に心臓がある人もいる。
臨床医には常識を覆す毎日があるのですから、
常識を求めるのはかわいそうです。
常識の「本」を読む前に非常識な現実が毎日起きるのですから、、、
手伝っているスタッフも、非常識に思える言動があるとおもいます。