今年も衣替えの後は、紅葉の季節が始まっている
昭和生まれの私たちの年代は
戦後の混乱の中を、
ゆっくり頑張るという、、、鳥もちにも負けない、、、
父母の背中を観ながら生きてきた。
雨だれが石に穴を開けてしまうがごとく
13年間も
疎開地で心身を建てなおし
戦地で失った子供たちの遺灰を抱きしめて
新たに、、、
戦争を知らない団塊の世代の子供たちを
高齢出産で取り戻す、、、
?????つもりだったのか?
ポジティブに被災を克服してきた。
小学校高学年になった私は
父の生まれ故郷の東京にやってきた、
市ヶ谷の文人通りに有ったという父の実家は
大手会社のビルが建ち
帰るすべもなく、、、
湿地帯だった江戸川の近くの高台に
お寺があって、その跡地に診療所を始めた、
戦争前は総合病院の院長だった父は
晩年に向かって、息子たちの戦後の教育の為に
命を懸けて、生まれ故郷の東京に還ってくれた。
不思議なことに、
山河を相手に自然を先生として
マスコミも、新聞もない生活だったのに
東京の小学校に転向するなり
私は「クラス委員をさせていただく羽目になった。」
、、、、、
東京と言っても、、、疎開地に負けないほど
貧しい村落が点在していた、
陣地???と呼んでいた「バラック」村落も
点在していた。
ドブだらけで
「蚊」が、
蚊取り線香の煙の中で
ランデブーをしては、
水たまりはボウフラがはね泳ぎをしていた。
慈恵会医科大学を卒業していた父は、
東京タワーに連れて行ってくれました。
母校の病院には「エスカレーター」があり、
父の親友が教授になっていらっしゃいました。
戦地で過ごした父には
同級生が暖かく帰還をよろこんでくれて、
新規開業にも、大きな力となりました。
新橋から、歩いて銀座に出ました。
不二家のペコちゃんの顔の看板があるビルで
食事をしました。
疎開地では見たことのなかった
デコレーションなアイスクリームや
オムライスを注文したことをおもいだしています。
銀座4丁目まで来ると「服部時計店」がありました。
そのショウウインドウに、、、
びっくりする展示物がありました。
砂の上に、、、動物のシャレコウベ、、、割れた「お釜」、、
勅使河原創風、、、、
生け花作家の作品だった。
原子爆弾で分解された人類は
動物のシャレコウベ扱いなのか???
原子爆弾で元素になった生き物は
人と言わず、、、動物と言わず、、、
砂漠の中の置き去りにされた生命の残渣なのか?
ワレタ釜は、、、
飯など焚くことも
もはやなくなった、、、物質となった Fe
シャレコウベ
というCaの元素なのか?
人間がナチスの扱い以上に、分解される、、、,、
元素になる。
原子爆弾で炭になったボディは、、、炭素C
生命科学者は叫んでいる、、、
イオンの移動も、スピンも、、、岩石も、、、命だと???
「生け花作家の作品は、戦慄の瞬間の「ゲルニカ」と重なった。
元素になった人間は、、、
もはや、人格もない化学物質になった。
動物も、釜も 砂も、、、さっきまで人間だった「人」は
地球上の構成元素と同類の扱い?
奨学生だった多感な時代の私に、
父が見せたかったのは
母校でもなく、、、ペコちゃんでもなく、、、
説明不可能な、、、
命亡き命の残渣の敗戦の跡。
日本の現状から
未来の子供たちへ、戦争の恐怖を
生け花作家の展示物を通して伝えてきたのだった。
「戦争は夢も希望も、命も地球も壊してしまう、、、」
田舎の疎開地には豊かな自然と
躍動する生命の美しさが有った!
東京は、、、もう、、、いやだ!と
一瞬思った。
子供の頃の記憶とは人生に大きな影響を与えるものだと思った。
勉強はともかく、
登山の機会あるごとに山に行った。
山裾から頂上まで「日本の四季」が移ろいながら楽しめた。
花屋さんの花と「別物」だった。
群生する山の花は命の合唱だった。
今でも忘れない、、、
信州の鉢伏、入笠山、茶臼 蓼科、、、
山頂近くの岩登りは、、、しんどかったけれどネ。
核戦争さえ今後起こさなければ
日本にはみずみずしい生命の躍動が山頂から見えた。
弟も、私も、戦争からの戦後の廃墟を感じながら
地道な努力で、復興に参加してきた年代である。
弟の名前の出ている単行本を地震の中から避難させた。
私の中では、
がんという、、、早期発見によって延命につながる病を
見つけ出すところから頑張った医学の黎明期の本は
出来上がった世界での主導権争いとは
根本的な出発点において違う別物に思えてしまう。
登山で、山裾から山頂までの、植物の生態を
一日で観ながら、翌朝ご来光に祈り、
下山したとき、
だんだんと現実に還り、、、東京に還ってきて
花屋のガラスケースで
大輪の花を見たとき、、、
同じ花として認識するのには、一週間の時間が必要だった。
心の中での、私的な価値観が反転させる時間が必要だった。
横綱の貴乃花も
お父さんのハンサムな貴乃花も
戦後の日本の、元気をくれた、、、
日本のお相撲さんである。
栃錦、若乃花、貴乃花の時代に生きた私の中のお相撲さんは
戦後の日本のヒーロだった。
茶髪の新人類がいつしか中年の折り返し点になったとき
日本の相撲は、モンゴールからの力士が増えていた。
お相撲さんも、日本の侍のような髷が似合った。
戦後の日本を復活の元気にみちびいてくれた
子供も大人も共通に楽しめるスポーツだった。
団塊の世代を立派に果たしたスポーツマンだった、
男たちの背中に見える達成感は
本人の宝物だったと思います
女性だって、、、無我夢中で働いてきた。
ふと、、、振り返ると、
せっかく、、、医師になったものの、、、
息子は、仕事が大好きで、
ビョインの300メートル以内の居ることが多いようだ。
43歳、、、いまだに独身である。
主人と同じように
車の免許があっても「車は運転しない。
寝ぼけていることを考えると
真夜中でも「オンコ ̄ル」に飛び起きる不規則な人生で
車は予期せぬ事故になるからと、、、
運転しない事に
はっきりと決めたという。
もっぱらタクシーで睡眠時間を買っている。
人は、、、お偉いさんとか、、、贅沢とか、、、
間違っておもうかもしれません、
私も、
主人の車で
助手席に乗って買い物などしたかったが
さかさまである。
「医師をする」という行動には
欠かせないことが分かるだけに
実験室で実験をしているような
裏方を続けてきた。
多くの勤務医の奥さんは、、、
ご主人と一緒に
生きているという実感はあるのだろうか?
奥さん方とは付き合ったことが無いので
聴いてみたいと思ったりしている。
主人がすぐに仕事に行けるように
全ての事を、、、
元のように戻しておく仕事。
スタンバイできる状態にする役どころかしらね。
70過ぎて、休みも取れるようになったときは
家に居るのが最高にリラックスするらしく、、、
どこにも行かない。
休み明けには、きりりと立ち直り勤務に向かう。
仕事だけが生きがいの主人です。
息子の時代には
医師はほんの少しだけ給料の良いサラリマンであるから
勤務医は
「医師をすることの必要経費」は
税金では認めてもらえない。
民間のお見合い相手は、、、
43歳の医師ならお金持だろう?
たぶん期待すると思うのですよね。
現実は、
私立医科大学を卒業するまでに経費が掛かった分を
社会に返済しながら、
一人前になるのは
40歳過ぎである
家もない、、
車もない、
救急患者さんに間に合うようにと
病院の至近距離の寮で
不規則な生活をしているのが現状だと推測できる。
もったいないような
お嬢さんを紹介してくださる人もいた、
しかし、、、結婚するには、、、
期待に応える経済力がない。
あまりにも歳ばかり取りすぎてしまった。
環境を整えるには
やはり女性は、36歳ぐらいまでの方が
現実的だと思ったりしながら、、、
次男の孫とは会えないで、、、
私の人生は終わりたくないと思いました。
戦後の貧困の時代の
心の貧乏を体験している主人は
自分がしっかり生きて行けることで、
後は,、、縁だから、、、、という。
本人は時間貧乏であり、
医師の仕事以外は余裕もないようだ、
大学勤務だけに、
女性が期待している「お金持ち」の部類には程遠い。
大恋愛で、万難を排して、
この男性についてきてくれるような
女性と出会う機会はすでに時は過ぎてしまったようだ。
。
仕事は責任ある位置になっている。
仕事も好きであるから、
独身でも充実しているようだ
日曜日は自宅待機で、昼頃まで爆睡している、、、、、、
しかし、、、
後期高齢者に入った親にとっては
人間としての
ごく自然な
当たり前に思っていた結婚生活が
無い人生が
我が子に回ってくることは
想定外の大地震のように
心が揺れる。
心配は尽きない、
地震以来
電気はついているか?
飲み水はあるか?
重いものは床に置けよ!
次男から、、、
メールが入り続けるから
親のことを
心配してくれているのだろう、、、、
優しいところがあり
臆病なところもあるようだ、、、
余震に負けるなよ、、、!
鈍感なぐらいが
ストレスを回避できるからな、
地震の中で、
長いスパンで後かたづけをするつもり。
人生の後片付けになるかもしれない年齢ですが
気持ちは、
まだまだ、、、
復活のチャレンジ精神で明日に向かっています。
次男が結婚してくれれば、
母が天国に行っても寂しくはないはずです。
しかし、、、結婚していないうちに
両親が居なくなると、
寂しがり屋の次男は、落ち込むだろうと思うと
今一つ、、、頑張って、、、生きていなくてはと!!!、、
モルタルの大きく落下した家は、補強して、
これからの地震に備えなくてはと思った。
北海道の地震の余震のあることを考えると
両陛下のお気持ちはTVでありがたく拝聴しながらも、
安全の上にも、安全を優先して、
被災地ご訪問は、安全な期間が確実に来るまで
両陛下のご健康こそ、復活の力が湧いてくる
大きな、、、大きな、、、光へのお導きだと思います。
今日も、皇室の宝、、、というTV番組を見ながら
日本の魂を感じながら
日本人の心は
研ぎ澄まされた魂と努力と永遠の根気が世代を超えて
引き継がれてゆくべきだと、
その心こそ、、、宝と思って観ていました。
皇室の世代を超えた圧倒される心の光が
高きよりふりそそがれる光の瀧しぶきに目覚めるように
感謝の心が湧いてきます。
昭和生まれの私たちの年代は
戦後の混乱の中を、
ゆっくり頑張るという、、、鳥もちにも負けない、、、
父母の背中を観ながら生きてきた。
雨だれが石に穴を開けてしまうがごとく
13年間も
疎開地で心身を建てなおし
戦地で失った子供たちの遺灰を抱きしめて
新たに、、、
戦争を知らない団塊の世代の子供たちを
高齢出産で取り戻す、、、
?????つもりだったのか?
ポジティブに被災を克服してきた。
小学校高学年になった私は
父の生まれ故郷の東京にやってきた、
市ヶ谷の文人通りに有ったという父の実家は
大手会社のビルが建ち
帰るすべもなく、、、
湿地帯だった江戸川の近くの高台に
お寺があって、その跡地に診療所を始めた、
戦争前は総合病院の院長だった父は
晩年に向かって、息子たちの戦後の教育の為に
命を懸けて、生まれ故郷の東京に還ってくれた。
不思議なことに、
山河を相手に自然を先生として
マスコミも、新聞もない生活だったのに
東京の小学校に転向するなり
私は「クラス委員をさせていただく羽目になった。」
、、、、、
東京と言っても、、、疎開地に負けないほど
貧しい村落が点在していた、
陣地???と呼んでいた「バラック」村落も
点在していた。
ドブだらけで
「蚊」が、
蚊取り線香の煙の中で
ランデブーをしては、
水たまりはボウフラがはね泳ぎをしていた。
慈恵会医科大学を卒業していた父は、
東京タワーに連れて行ってくれました。
母校の病院には「エスカレーター」があり、
父の親友が教授になっていらっしゃいました。
戦地で過ごした父には
同級生が暖かく帰還をよろこんでくれて、
新規開業にも、大きな力となりました。
新橋から、歩いて銀座に出ました。
不二家のペコちゃんの顔の看板があるビルで
食事をしました。
疎開地では見たことのなかった
デコレーションなアイスクリームや
オムライスを注文したことをおもいだしています。
銀座4丁目まで来ると「服部時計店」がありました。
そのショウウインドウに、、、
びっくりする展示物がありました。
砂の上に、、、動物のシャレコウベ、、、割れた「お釜」、、
勅使河原創風、、、、
生け花作家の作品だった。
原子爆弾で分解された人類は
動物のシャレコウベ扱いなのか???
原子爆弾で元素になった生き物は
人と言わず、、、動物と言わず、、、
砂漠の中の置き去りにされた生命の残渣なのか?
ワレタ釜は、、、
飯など焚くことも
もはやなくなった、、、物質となった Fe
シャレコウベ
というCaの元素なのか?
人間がナチスの扱い以上に、分解される、、、,、
元素になる。
原子爆弾で炭になったボディは、、、炭素C
生命科学者は叫んでいる、、、
イオンの移動も、スピンも、、、岩石も、、、命だと???
「生け花作家の作品は、戦慄の瞬間の「ゲルニカ」と重なった。
元素になった人間は、、、
もはや、人格もない化学物質になった。
動物も、釜も 砂も、、、さっきまで人間だった「人」は
地球上の構成元素と同類の扱い?
奨学生だった多感な時代の私に、
父が見せたかったのは
母校でもなく、、、ペコちゃんでもなく、、、
説明不可能な、、、
命亡き命の残渣の敗戦の跡。
日本の現状から
未来の子供たちへ、戦争の恐怖を
生け花作家の展示物を通して伝えてきたのだった。
「戦争は夢も希望も、命も地球も壊してしまう、、、」
田舎の疎開地には豊かな自然と
躍動する生命の美しさが有った!
東京は、、、もう、、、いやだ!と
一瞬思った。
子供の頃の記憶とは人生に大きな影響を与えるものだと思った。
勉強はともかく、
登山の機会あるごとに山に行った。
山裾から頂上まで「日本の四季」が移ろいながら楽しめた。
花屋さんの花と「別物」だった。
群生する山の花は命の合唱だった。
今でも忘れない、、、
信州の鉢伏、入笠山、茶臼 蓼科、、、
山頂近くの岩登りは、、、しんどかったけれどネ。
核戦争さえ今後起こさなければ
日本にはみずみずしい生命の躍動が山頂から見えた。
弟も、私も、戦争からの戦後の廃墟を感じながら
地道な努力で、復興に参加してきた年代である。
弟の名前の出ている単行本を地震の中から避難させた。
私の中では、
がんという、、、早期発見によって延命につながる病を
見つけ出すところから頑張った医学の黎明期の本は
出来上がった世界での主導権争いとは
根本的な出発点において違う別物に思えてしまう。
登山で、山裾から山頂までの、植物の生態を
一日で観ながら、翌朝ご来光に祈り、
下山したとき、
だんだんと現実に還り、、、東京に還ってきて
花屋のガラスケースで
大輪の花を見たとき、、、
同じ花として認識するのには、一週間の時間が必要だった。
心の中での、私的な価値観が反転させる時間が必要だった。
横綱の貴乃花も
お父さんのハンサムな貴乃花も
戦後の日本の、元気をくれた、、、
日本のお相撲さんである。
栃錦、若乃花、貴乃花の時代に生きた私の中のお相撲さんは
戦後の日本のヒーロだった。
茶髪の新人類がいつしか中年の折り返し点になったとき
日本の相撲は、モンゴールからの力士が増えていた。
お相撲さんも、日本の侍のような髷が似合った。
戦後の日本を復活の元気にみちびいてくれた
子供も大人も共通に楽しめるスポーツだった。
団塊の世代を立派に果たしたスポーツマンだった、
男たちの背中に見える達成感は
本人の宝物だったと思います
女性だって、、、無我夢中で働いてきた。
ふと、、、振り返ると、
せっかく、、、医師になったものの、、、
息子は、仕事が大好きで、
ビョインの300メートル以内の居ることが多いようだ。
43歳、、、いまだに独身である。
主人と同じように
車の免許があっても「車は運転しない。
寝ぼけていることを考えると
真夜中でも「オンコ ̄ル」に飛び起きる不規則な人生で
車は予期せぬ事故になるからと、、、
運転しない事に
はっきりと決めたという。
もっぱらタクシーで睡眠時間を買っている。
人は、、、お偉いさんとか、、、贅沢とか、、、
間違っておもうかもしれません、
私も、
主人の車で
助手席に乗って買い物などしたかったが
さかさまである。
「医師をする」という行動には
欠かせないことが分かるだけに
実験室で実験をしているような
裏方を続けてきた。
多くの勤務医の奥さんは、、、
ご主人と一緒に
生きているという実感はあるのだろうか?
奥さん方とは付き合ったことが無いので
聴いてみたいと思ったりしている。
主人がすぐに仕事に行けるように
全ての事を、、、
元のように戻しておく仕事。
スタンバイできる状態にする役どころかしらね。
70過ぎて、休みも取れるようになったときは
家に居るのが最高にリラックスするらしく、、、
どこにも行かない。
休み明けには、きりりと立ち直り勤務に向かう。
仕事だけが生きがいの主人です。
息子の時代には
医師はほんの少しだけ給料の良いサラリマンであるから
勤務医は
「医師をすることの必要経費」は
税金では認めてもらえない。
民間のお見合い相手は、、、
43歳の医師ならお金持だろう?
たぶん期待すると思うのですよね。
現実は、
私立医科大学を卒業するまでに経費が掛かった分を
社会に返済しながら、
一人前になるのは
40歳過ぎである
家もない、、
車もない、
救急患者さんに間に合うようにと
病院の至近距離の寮で
不規則な生活をしているのが現状だと推測できる。
もったいないような
お嬢さんを紹介してくださる人もいた、
しかし、、、結婚するには、、、
期待に応える経済力がない。
あまりにも歳ばかり取りすぎてしまった。
環境を整えるには
やはり女性は、36歳ぐらいまでの方が
現実的だと思ったりしながら、、、
次男の孫とは会えないで、、、
私の人生は終わりたくないと思いました。
戦後の貧困の時代の
心の貧乏を体験している主人は
自分がしっかり生きて行けることで、
後は,、、縁だから、、、、という。
本人は時間貧乏であり、
医師の仕事以外は余裕もないようだ、
大学勤務だけに、
女性が期待している「お金持ち」の部類には程遠い。
大恋愛で、万難を排して、
この男性についてきてくれるような
女性と出会う機会はすでに時は過ぎてしまったようだ。
。
仕事は責任ある位置になっている。
仕事も好きであるから、
独身でも充実しているようだ
日曜日は自宅待機で、昼頃まで爆睡している、、、、、、
しかし、、、
後期高齢者に入った親にとっては
人間としての
ごく自然な
当たり前に思っていた結婚生活が
無い人生が
我が子に回ってくることは
想定外の大地震のように
心が揺れる。
心配は尽きない、
地震以来
電気はついているか?
飲み水はあるか?
重いものは床に置けよ!
次男から、、、
メールが入り続けるから
親のことを
心配してくれているのだろう、、、、
優しいところがあり
臆病なところもあるようだ、、、
余震に負けるなよ、、、!
鈍感なぐらいが
ストレスを回避できるからな、
地震の中で、
長いスパンで後かたづけをするつもり。
人生の後片付けになるかもしれない年齢ですが
気持ちは、
まだまだ、、、
復活のチャレンジ精神で明日に向かっています。
次男が結婚してくれれば、
母が天国に行っても寂しくはないはずです。
しかし、、、結婚していないうちに
両親が居なくなると、
寂しがり屋の次男は、落ち込むだろうと思うと
今一つ、、、頑張って、、、生きていなくてはと!!!、、
モルタルの大きく落下した家は、補強して、
これからの地震に備えなくてはと思った。
北海道の地震の余震のあることを考えると
両陛下のお気持ちはTVでありがたく拝聴しながらも、
安全の上にも、安全を優先して、
被災地ご訪問は、安全な期間が確実に来るまで
両陛下のご健康こそ、復活の力が湧いてくる
大きな、、、大きな、、、光へのお導きだと思います。
今日も、皇室の宝、、、というTV番組を見ながら
日本の魂を感じながら
日本人の心は
研ぎ澄まされた魂と努力と永遠の根気が世代を超えて
引き継がれてゆくべきだと、
その心こそ、、、宝と思って観ていました。
皇室の世代を超えた圧倒される心の光が
高きよりふりそそがれる光の瀧しぶきに目覚めるように
感謝の心が湧いてきます。