花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

戦中から戦後、心の耐力

2017-07-31 10:01:32 | Weblog

 

6年生の時

父が生まれ故郷の東京に帰れる日が来た。

振り返れば、、、、

日本が封建制度から明治になって、

世の中が激動する時代に

世界中の先進国の植民地政策のアジアは、

戦争商人も横行し、麻薬も社会問題になり

世界中、あっちこっいで、、、戦争が勃発していたさなかに

父母は、青春時代から、子育て時代が重なっていた。

大陸に兵隊が出征して、切り傷、弾傷、火薬爆発の傷などを

現地の医師には治療が出来ない時代であった。

大学で、イギリス医学の外科を学んだ父のもとに

大陸で、西洋式の手術や治療、診断を含めて

銃後の奉公をする医師を派遣する作戦にのっとって

4人の子供たちの父である我らが父に白羽の矢が当たった。

銃後の務めとは、戦地至近の土地に外科病院を経営して

外科の医局の無かった現地の大学病院の外科を引き受けて

現地の医師に西洋医学を指導する役目であった。

外科だけにはとどまらず、戦場でのお産を

指導しながら遂行するという、、、とんでもない激務に

神の、思し召しとしか、表現の出来なかった事件の中で

日本の軍部は、あたら優秀な学生も戦場の露と消え行く

額と出陣に、もはや、誰も居場所は無くなりつつ、滅びに向かっていった。

やがて戦争は、敗戦色が濃くなって、

現地の空気も、日本人には風当たりが強まってきた。

母の父、、、つまり祖父は、若き頃27歳で渡米していた経験上、

太平洋戦争は、資源力も、科学力も、アメリカは大人であると、

そして、マカ―サーの言ったという「日本人は12歳」という言葉は

あながち、間違ってはいなかったと、晩年疎開先で、孫たちに言っていた。

「敵を知り、己を知れば、百戦、これ、危うからず!」、、、と

孫の私たちには、島国の、スケールの小ささを悲しんでいたのが

記憶に残っている。 

敗戦の一年前、、、昭和19年夏!

7月には

サイパン島が陥落し、インパール作戦が中止になった事もあり

ビルマからもインドからも撤退

戦場の真っただ中に向かうトラックに乗っていた父は

軍医としての最後の命がけの命令が、

日本に帰還してよいという命令に変わり

次の乗り継ぎの所で、軍隊が居るはずが、

迎えのトラックさえなくて、

誰も居なくて引き返した事件があった。

仁川まで引き上げてきた軍医と衛生兵は、

本土の引き上げが許可されたそうである。

町長やら、村長やら、校長さんやら、アメリカ帰りのインテリという事で

あれこれ頼まれていた祖父のもとには、

神風特攻隊作戦の若者たちの居場所の亡くなった作戦が

日本人特有の「全員で腹切り」という光景に見えて

涙が止まらなかったそうである。

、、、日本も、、、もはや、、、学徒の居場所さえが、、、戦場に代わってしまった。

帰りの燃料を積んでない、、、ゼロ戦、、特攻隊。

********************************

地域の住民の代表の立場に居た祖父には、

戦争の終結に導かれるために内閣が変わったのかと思ったら

同じ陸軍大学校出身の軍人が内閣になった時は、、

戦争続行のイデオロギーの軍人の中から内閣が再び選ばれた以上

本土決戦を覚悟しなければならない危機感が襲ってきたという。

最後の決戦地で家族一緒に国にご奉仕をする場を迎えるべく、

祖父は、単身、娘の家族を迎えに

大陸に向かってくれたのでした。

その時、日本から祖父が大陸まで迎えに来て居なかったら、、、

我が家族は、次の戦場に向かうトラックにのって居ただろう。

娘の家族を日本まで連れて帰ったという祖父は

傷痍軍人の松葉づえを創る職人らに

持っていた山を開放したり

ありったけの知恵を捧げて、

自らも、鶏を何百羽も飼育したり

ヤギの飼育を指導して、ヤギの乳から乳製品を創る指導をしたり

亜米利加で身に着けた農業全般を、最後の生き残りの疎開地で指導していた。

電気のない山間に「ダムを造り電気を引く。」

最後の町長の仕事だった、

ダムが出来た時、全てはダムのある地域の長老の行った業績として

引き継がれ、祖父の業績としては足跡は無い。

自治体の、了解が無ければ、水没する民家を説得するのは無理であった。

全ては、自治体の財産となり、ダムのある村の村長の業績として

歴史のページには記されていった。

13年かかった地区への電源の確保は

集落を開放し、無医村だった所に赴任した外科医の父が

最後に、公的に奉仕できた疎開地の出来事であった。

男ばかりの作業場には、17歳の美少年をめぐる恋もあり

悲劇もあった。

父は、激動の終戦時の集落に、方々から疎開してくるいろいろな人々を

集落の地元民が、快く受け入れてくれるまで

医療も、無料奉仕で、日夜、山奥まで往診に応じ

疎開者と、傷痍軍人らと、地元民の共通に必要とする医療の要を果たしていった。

疎開先には13年という歳月が流れ、

子供たちの、戦後の教育環境を考慮した父母は

村人が、地べたに座って、父が村を去る事の哀しみに大泣きしているのを

断腸の想いで、東京に帰還する努力を始めたのでした。

母が一足早く東京に帰り、

引き留められるままに2年間弱、父は疎開地で最後のご奉仕をした。

ダムが出来上がり、血に染まった工事現場の怪我人が出なくなった落成式の後

父は、祖父もつれて、村を出た。

祖父も、父も、先祖から伝わる山々を全部放棄して、

地元の古い本家に捧げて、村を出た。

ダムは、、、地元の、旧家から引き継いだ集落の長が

全てを全うしたダム完成として、水没した家の村民の癒せぬ心を

背負って、地元の宝として、ダムはいつしか、次代の財産として

洪水を防ぎ、電気をもたらし、観光地となって、村人を活性化する大きな

戦後の復活に役立ったと、父も、祖父も信じて、この世を去ったに違いありません。

祖父は叙勲され、晩年は皇居にご奉仕に行くと言っては、

緊張と、喜びに少年のように張り切って、出かけておりました。

祖父は最後まで座右の銘のように、枕元に積み上げていた本には

昭和天皇の、摂政の時代の記事のある読み物や

美智子妃殿下の婚姻の時に発売された写真集などでした。

校長先生として、毎朝、白い手袋をはめて、勅語を朗読していた戦前の生活が

生涯を通して、老いの枕元を、大輪の心の花で取り巻いているように

明治20年代生まれの祖父の時代は

天皇陛下ととともに歩んで生涯だったのだと感じました。

敗戦の玉音放送のラジオも、東京に出発するまで祖父は大切にしていました。

全て、、村落に寄付して上京した後、

何十年か経って、弟が、疎開地を訪ね、祖父の事を。父の事を知っているという

村の御婆ちゃんに逢って案内されるままに、写真に残してくれました。

祖父の住んでいた洋館は、どこかの会社の工場になっていたと、、、

弟は、淡々と語りながら、写真をアルバムにして一部おいて行ってくれました。

あの村では、弟は、「戦争を知らない子」が

医者に生まれた!!!!!、、、と、

村中で大騒ぎして祝ってくれたのを、幼い私の目に今も残っています。

一升瓶を持った村人が、「先生!今日ぐらいは飲んで飲んで酔え!」とか、、、

すでに真っ赤になった顔で、父を追い掛け回して

クダ巻いてる村人のオッサンに、父は苦笑いしながら

逃げ回っていた、、、け。(^^

父は下戸でしたから、、、

13年間の万感の思いを胸に、、、私たちの去った二年後

村人の引き留める手を優しく離れて

父は卒業校の慈恵医科大学の同窓生を頼りに

廃墟になった東京に戻って行ったのでした。

本籍の有った市谷は、もはや戻れる状況には非ず、

実家も、門も跡形なく他者の者になっていた。

戦前は、新宿から代田橋まであたりまで、先祖代々の土地だったそうですが

敗戦で、、、

全て、召し上げとなって、多くの地主が居なくなった如く

我が家も、一文無しで疎開したのでした。

国の復興の事もあったのでしょうか?

企業の聡明さなのでしょうか?

三井、三菱、や東芝が、新生日本の生き残りの日本人に

希望と、国際性のある意識改革の戦後を

東京にくりひろげて行ったと、、、

母が言っていました。

東芝は、日本の女性の文化を荷なった日本の家電の旗であると

戦後の紙切れになった国債の束を見ながら、

東芝の株を買ってみようよ、、、と、

主婦の洗濯機を5~6台も買い込んで、村人に提供していた、、

あの笑顔は、、、主婦の快晴の笑顔でした。

今母が生きていたら、、、東芝の斜陽をきっと悲しんでいるでしょうね。

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13年間で、東京の下町の、どぶの多かった江戸川の近くの

お寺さんが空襲から免れたものの

檀家が居なくなって、しまった大きな建物が改築されて

診療所兼入院病棟として、地域医療に尽くす道が開かれて、

山に囲まれた南紀の疎開地を出て、家族は

再び東京に帰ってきたのでした。

社会的にも、ダイナミックに移動していた父は

疎開先では、肉体労働者の方も舌を巻くほど激務に耐えていたが、

7か村の人々に「必要とされていた」奉仕者のように、

人としては、幸せだったに違いないと、

70過ぎて、私は、疎開時代の父の笑顔を振り返ることが多いのでした。

東京には戦後の下町で、すでに開業していた同窓生に歓迎されて

助け合って、地域医療に専念する晩年が、早く着すぎました。

戦後の下町は、手術をして、入院しても、

なかなか、代金が払えない人が多く、

父は、請求することもなく、

「仕方がない、、、」と。

戦後の事情は、語るだけ虚しい新規開業でした。

それでも1日に150人ほどの外来を、

新進気鋭の医師になりたての長男と

近所の同窓生や、先輩たちと助け合いながら

軌道に沿うかのように、日々忙しくなってゆきました。

13年ぶりの東京の家族と会う父に

初めて、知ったのは

父には2人の妹が居た事でした。

学徒出陣した弟は帰還してから28歳で

 早稲田の理工学部に入学した。

父とは10歳以上も離れている事や

ともに戦争で外国の地で、戦場の話などで

兄弟の絆以上に。

親子のような愛情が

父と叔父さんの間にはあったのが、

幼い私にも伝わって来ていた。

東京に戻った父は、同じ下町に集いあった妹たちとも

再会を果たしたのだった。

真新しい人にどんどん出会いながらも

大自然のおおらかな包容力の中で過ごした13年間が

私にとっては親鳥に飛ぶ練習を受けていたかのごとく

懐かしく思い出しては忘れることのできない心の豊かさだっただけに

ドブの多い、濁った大きな川には

なかなかなじめずに、

学友の話も上の空で、頭の中は

アユのぶつかり合う清流の瀬音の中に居る自分であり

わけもなく微笑みながら、聞き逃す事の方が多く

うなづきながらも、良く聞いていないまま、その場を過ごした。

父の二人の妹のうち、姉さんにあたるオバサンは、

学校の先生をしていた時

同じ学校の先生だった叔父さんと結婚したという。

ルノアールの絵の女性のような

ふっくらとグラマーな女の子と

ヒステリックなさえばしった美人の妹の女の子二人の他に

ボーとした、話のテンポのゆっくりした男の子が、真ん中。

3人の従弟がいっぺんに紹介された。

先生の家だけあって、面白そうな本が並んで居た。

雪の女王、小公子 小公女、等々、、、。

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親類の家の本棚は

手塚治虫の作品のリボンの騎士とイメージが重なって

その頃は、6年生だったけれど、

小岩一中前の図書館で、本を探しては、借りてきた。

一日中、図書館浸りの毎日を送るようになった。

少年ケニア、

大きな大蛇が出てくる、、、ダーナー

破壊という長編小説では

教壇に立っていた先生が、告白する

「」という言葉に、

疎開先の南紀の集落を重ねて、

戦争や、アメリカの奴隷制度の歴史や、黒人。白人。

さらには、ガンジーの事まで、考えながら、

いまだに混沌として、

人の心も、歴史も、理解に苦しむことが多いのでした。

ひょんなことから、人の心の闇が、身近にもおこりうること。

嫉妬や、転落を喜ぶような、

貧乏な心が原因ではないかと考えるようになった。

戦争の原因が、ささやかな、貧乏な心が

導火線になるのではなかろうか?

 

物質を求める心や、飽食のディナーをむさぼり

スイーツのバイキングに列をなす心を

戦前戦後を生き抜いた我らが時代には

考えられなかった現象であると、驚いている。

 

むしろ、満たされない物があり、

マンション育ちが増える中、

心が育つであろうと思われる

森羅万象のすべてが自然のままに在ったなら、、、?

 

昭和あたりまでの

「とうちゃこ」自転車の村落の人々には

親子3代ご近所さんも結構残っていたりした時代は

経験豊かな長老の知恵で、

近所も、家庭も、それなりに

旅芸人の大家族のように

人生劇場のシナリオには

人情もあふれ

演歌もあふれ

庶民はそれなりに、、、喜んだり悲しんだり

デラックスな都心の幸せとは、かなり異質のものであった。

疎開地には竹藪が多くあり、セセラギの音がまるで音楽のようであった。

小学校一年生の頃、、、65ねんまえになるだろうか?

竹藪のそばに、田舎芝居の剣劇と人情の人気者が

夏場には小屋を建てて興行していた。

大きなスピーカーの音が、、

「国定忠治、、扮しまするは、、、谷、、何とか?」

あたり一帯に聞こえると、

夕食前には、地元の叔父さんやおばさんが

孫を伴って、芝居見物に集まっていた。

壁が筵で造ってあり、隙間だらけなので

親や爺婆がついてこない子供らは

隙間から中に入って、いつも無料見学だった。

役者が、、「今宵の虎鉄は血に飢えている、、、」

見栄を切ったとき、役者は自分でも気持ちよさそうに

眉をあげたり下げたりしていた。

会場からは、「いよ~~~」大きな掛け声がかかたりしていた。

父は、どこにでも往診に答えて、迎えの車に乗って出かけていた。

一緒に芝居を観たいと言っても、我が家だけは、

親たちに「時間がないと」あっさり断られ、兄や弟たちと観劇に行った。

世に言う人情芝居であり、子役は小学生ぐらいから出演していた。

「森の石松」とか、「八百屋お七」「清水次郎長」

「あ夏清十郎」とか、「番町皿屋敷」「東海道中、弥次喜多」

色々な出し物がありましたよね~~~。

最近は、新しいことをする気力が眠ったままである。

幸いなことに、

北海道では名門と言われていた「雪印」が経営していた病院に、

新進の外科医として勤務していたことがあり、

回りには、北大病院はじめ、大病院の取り巻く地区で

若き日には、往診などにも応じており、

学会の症例報告や、

手術や、往診、周りの大病院とのコミュニケーションなど、

ほとんど帰宅は深夜になっていた。

雪印はさすがに北海道を代表する会社だけあり

社長さんは質実剛健な、

むしろ私的生活の地味なのには敬意を払いました。

無給医時代が続き、息子も生まれ、

17000円の風呂のないアパート暮らしの生活は5年で脱出

留学の話がタフト大学から来ており、

大学からは、なかなか都合がつかず、

外科医の居ない病院に、博士になりたての、若き医師が

単身で、勤めることになったのでした。

初任給は23万円でした。

何年か勤めて、大学に呼び戻される頃は40万ぐらいに昇給しており、

家も建てたばかりで、ボーナス払いが23万円が2回と

土地、建物が毎月15万ちょっとあり、

大学に戻ると手取りは28万ぐらいで生活することになるから

めちゃめちゃ、きつい生活になると、、、覚悟して、

臨床力を身に着けた貴重な、サポーターメンバーとして、

未来の、北海道を背負って立つ若き後輩の為にも

外病院で臨床力を身に着けたDr、が、

大学に呼び戻され、

本州に負けない優秀な若手の未来に希望を託して

医局のオール雑用、外交、幹事さんのような仕事から、、、

新任若手の便宜を図り、東奔西走の30代後半から40代後半を

家庭は、もぬけの殻、のように、時間はすっ飛びました。

本人は、充実して、きっと、チームのお役に立てていたのでしょう。

主人のクラス会の「写真集を創るから、家族全員の写真を出してください」

この要求にこたえようと、ハタと、、、アルバムを探しても、

写真は家族全員で映っているのが、、、一枚もなかったのです。

友人からもらった、エスニックな夏服を着て、

子供たちを連れて

支笏湖に写真を撮りに行きました。

、、、、主人には、家庭の事を考える時間を忘れさせるほどに

回りは賢く、「医師の心の習性を満足させるイヴェントを挟んで

若きピークの働き手の時代を、心の充実を与えることで

自ら仕事に没頭して時間を忘れる主人でした。

組織の力が向上してゆくことを共有できるという魔法のような刺激剤は

自発的に、家庭を振り返ることなど、考えの枠の外に押しやっていきました。

「大学なんて、、、教授になる人が残って勉強するところじゃないの?

そろそろ、自分の人生の行く末を考えたら?」

主人は、小さな目をまん丸く大きく見開いて

「基礎の免疫抑制剤が完璧な効果のない時代に

心臓移植した北海道は、次の若手が育つときには

基礎も臨床も万全の協力体制で、いつの日か、

心臓移植を再開せねば、北大の使命がかかているから、

亜米利加で。心臓外科の臨床を、がっちりやって来た名医が

未来の優秀な若手を育てる土壌として呼び戻された以上

夢に向かって、必死に頑張り始めているのだから、

自分も、行くに立つ部署を与えられた以上は、

全てをそのチームが、要求する仕事は、天職と思って参加したい。

私には、、、男の、ビジョンは、主役がのめりこむのは理解できますが

チームの一員として、幹事役が、家を忘れるぐらいにのめりこめるのは

男の人生としては、幸せなのかもしれない、、、と、

主人の家庭参加をあきらめることにしました。

どこか、私の知らない世界で、立派に肥やしになって、

全国から、再び評価される北大の

心臓移植の評価が、それほどチームの願いなら

しかも、実現できそうな、優秀な後輩が入局したというなら

私の知らないところで、

わっしょいわっしょい、、御神輿を担ぐチームの幸せに生きるのも

止める理由はなかった。

あれから、、、20年以上、、、

とうとう、日本中の医局からも認められた外科医が現れた。

医療の神髄の基礎と臨床のコラボレーションを果たした移植手術が

何十年ぶりかで、道新に報じられたとき、、、

エースの若手が現れたからこそ、

主人の人生の、役割もあったと思う、

野球チームのように、守りが大切なのは、

大学や、大きな病院でも言えそうですね。

スタンドプレーに走った、臨床力だけでは

手術は成功したが、、、患者は死んだ、、、となってしまう。

手術は成功して、

患者さんの自分で治す回復力につなげてゆく基礎の分野も含め

医学とは、臨床とは、、、基礎医学とは

チームの連携がいかに大切かを、、、垣間見た気がしました。

道新に、心臓の手術の成功例の記事を観ながら、

軸になれる優秀な若手が現れた時、

全ての先輩医師達が、この人こそ、次代の役割を果たす人と

一致して感じたというから、、、

男の世界は、出会いですね!、、、

置き去りにされた家庭ですが、

故郷の東京に帰ろうと、、、夢見ていた私ですが、、、

北海道の、地道な、夢追う人たちが、

日常の生活に藤生しないようにと、おせっかいな世話焼き心があったから、

普通の家庭のように、、、夫婦愛情いっぱいとは程遠い

蚊帳の外から、応援しながら

ふと気が付くと、天涯孤独の老後が忍び寄る中で、

息子や孫が、近くに居た、、、これが、私の仕事の結果だと、

勝手に育った家族たち、未来に放たれた矢のように

何処に飛んでゆくのか、、、楽しみでもあり、、、

自分の存在感が0に近くなる誕生日に、

73歳という、貴重な人生の一瞬を、

思い出に、、、ふけっていました。

これは、公開していない日記のブログですから、

明日になったら、半分は、、、

要らないことだと、、、文を消すかもしれません。

孫子を観ていて、、、私はいきていたんだな~~と。

多分、主人も、後輩や、勝手に育った孫子を観て

自分は、この人たちの存在のおかげで、

人生は、、、何かしてたんだと、、、感謝する年齢になりました。

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点と線を繋ぎながら、、、昔の本や漫画を思い出しては

若返ってゆく。

もう一度読み直してみると、

差別が消滅した戦後の近代化の中で

スマホやパソコンが、もっと、溝を埋めてゆくかもしれないし

奇想天外な溝を張り巡らすかもしれません。

面白かった本の、記憶に残っているシーンには

掌から、真珠がこぼれて、臨終の言葉が印象的だった

「大地」。

戦争と平和、、、トルストイ、、、

嵐が丘。。。。などなど。

 再び読み直して、全く別の印象を受けたものなどが多い。

破壊、、、

藤村は学生たちにとって、テストに出題される作家だった。

今のように

「アナタノ スイゾウ ガ タベタイ 」と言ったような

若さが怖くなるほど、

深層心理を突いた作品は見当たらなかったが

人間の業というのか、、、戦争を舞台に炎の中の蝶のごとく

本の魅力に焼き尽くされた時代の中で

橋のない川

枯れ木灘

竹田の子守唄

鶴の恩返し

漫画では

カムイ伝

ナチスの「我が闘争」

等は、、、

再版されて、今なお、、、売れていると、、あるサイトには書いてあった。

暇を造って、又、老眼に覇気を送って、読み返してみるとするかな?

振り返れば、多感な中学校を過ごしたものであったな~~~~!。

中学校になってから、

小学校の時に読んだショッキングな本のうち

二度目の「藤十郎の恋」を読んだとき、

世の中の男性族は、すべからく藤十郎であろうと思うようになった。

カッコよい、男の子には、

誰もが、胸がときめくように、

私も例外ではなかったが

人間関係の、ややこしいのは、避ける方であるからして、

「一方的に、相手の 人格まで、

自分の都合に合わせられる、、、便利な片想いが良い。

俳優や、歌手に、」

都合よく青春の恋人役を押し付けることが出来て

結構、、、楽しんでいたりした。

欣也ちゃんの、時代劇から八甲田山

裕ちゃんの天然の「イカス!」

健さんの、裸電球のような哀歌のある背中

王様と私の「ユールブリンナー」、、、あれは決して「ハゲ」ではなかった。

三船敏郎の椿三十郎、、、最高のおとこくささだったね~~~

アランドロンの太陽がいっぱい

美貌の青年だけに「悪」が凄味があるよね~~~。

ゲリークーパーの西部劇

イングリッドとの鐘が鳴る、、、心の涙の鐘が鳴る

戦争と平和と、作品との間で、、、悩んでしまう。

風と共に去りぬ、、、「クラークゲーブルと「ビビアンリー」

「ロバートミチャム」

クルトユルゲンスの、、、青い瞳!、、、眼下の敵

アランラッドの金髪!

ドクトルジバゴの作品の伝えてくるもの、、、

ブロマイドを集めたりもしていた。

日本映画で、もう一度見たいのが!!!

日輪!、、、月形龍之介と、片岡知恵蔵の、、、土手の上の出会い!

読書と、映画にくるっていた青春時代だった。

実際の、同級生や、上級生には、誤解の多い17歳まで

一切関心を寄せないように

節度、調節、恋愛ブレーキ、青春脱線予防のためにも、

アイドルや、人気俳優のブロマイドが、

マイペース保持剤のように、

結構な枚数、カバンに入っていた。

女性同士で、

休み時間に、写真を真ん中に置いて、

彼らが出ている映画や、

LPレコード、舞台の話で盛り上がっていた。

映画、、、シャンソン、演歌、ジャズ、ラテン、、、、フォークソング

外人部隊の、ポールアンカ、、、や、

青春は、言葉のサラダを盛り付けたように

自分だけの世界を、あたかも、共有している錯覚で

友達と、はしゃぎまわっていた、、、中学時代~高校2年まで。。

 大学を卒業するころからは、

銀巴里で、丸山明宏?こんな字だったかな?

仲代さんのシャンソンを聴きに行っていたりした。

ヨイトマケノ歌を聞いたときは、、、感情がこみあげてきて、

貧しさの中の日本の風景が、涙の向こうに歪んで見えた。

平和ボケした昭和の晩年から、、、

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息子の代になって

息子は「マルタ」のサクソフォンに魅せられて、

高校時代は受験勉強は、

「一拍、、、休んでしまった結果となりました。」

誰かに、魅せられるという事は

その人に、青春の時間、、、

いいえ、人生での追分で

思わぬ方向について行ってしまうから、

時間が空洞になったまま、時だけが過ぎてゆく。

気が付いたときは、浪人、、、。

振り返れば、よそ見は遺伝子の中に組み込まれていたのかもしれません。

私の兄弟は、皆、

受験にまっしぐらという直情型ではなかった。

アッチで道草、こっちで道草、

試験よりも真剣に、全身全霊で、漫画本とか、音楽とか、、、

国体目指して、体操とか、、、卓球、テニス、、、、

恋愛ままごとが、無駄な時間に思えない、、、笑える性格?

 

弟だけが、千葉大の医学部に合格したが、

弟の同級生は、結構な回数我が家にやって来ては

食事をして言ったりしていたせいか?

いまだに、仲良しの延長上で、あるようだ、。

今も釧路あたりで、夏を楽しんでいるかもしれない

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うらやましいほど、魅力のある性格をしているのが

弟であります。

天然に計算抜きで、、、物事に打ち込み、長続きする、、、!!

まさに夢追う真っ直ぐな若さの頭脳が永遠に続くだろう。

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兄貴は、年がかなり離れているせいもあり

戦前生まれの「男優先。女性差別、女はこうあるべき、、という石頭。」

私は、遠くからお付き合いをしている自分に気が付きます。

兄嫁とは、喧嘩も一回もしないほど、

きちんと向き合って話したことがないまま

庭の、いろいろな季節の花を観ているように、

傍観者であった自分に気が付きます。

若かりし青春の受験の、真っただ中で

疎開地の緩やかな、おおらかな時間の流れになれているせいなのか?

あくせく、受験に専念するという気分にはなれなかった。

      (^^!

高校時代には、サインコサインを授業する数学の先生を主人公に

「モグラ」の一日、、、と題した8コマ漫画を描いて居たりして、

「モグラ」というニックネームの数学の教諭に見つかってしまった。

 

怒られるかと思って立ったら、

「オイ!この漫画、先生にクレ!」と言われて、

クラスからは「クスクス笑いが聴こえる中、しどろもどろで、、、」

「ハ、ハ、ハィ!」と答えて、

一瞬、真っ赤になっている自分がわかるような熱線が、

ホッペタあたりに感じた事を、今も思い出す。

 

弟を除いて、、、弟だけは天然の素直な夢追う頑張り屋だ。

 

兄弟姉妹の我ら!「残り三人は、私立大学に進学した。

何たる怠慢!何たるドジ!、、、何たる力の出しそこない。

戦争傘下で戦いに次ぐ戦いの

両親の苦労も知らず、、、力をだしきったのか?

親に恥ずかしくないのか?

自問自答したのは、大学中に父が亡くなり、反省した時であった。

日大に通っていたことが幸いした。

ありったけの取れるだけ免許をとって、卒業することに方針を変更した。

ESSクラブに入っていたこともあり、英会話の為に

大学受験生の英語と化学の家庭教師を始めた。

北大に現役合格した同級生が、夏休みは交代してくれた。

彼にとっても、帰省代金を稼げるので、上機嫌であった。

私は、その間、夏山登山で、100種類の生薬植物を採取するのに、

ヤサツとドウランを担いで、黒姫山まで、山、又山を越えて、

すかんぽと、小魚やエビ、野草のお浸しを食べながら、

大学の夏の宿題の100種の薬草を集めて、歩き回った思い出が懐かしい。

あの時習った、滝戸先生と、山内先生とは、

晩年に薬剤師として復帰した時に

現役薬剤師に戻って、息子たちの私大の授業料を稼いでいる時代に

薬剤師会を通して、イベントで再会できたのでした。、

生薬、漢方、植物学の天然の魅力に引き込まれながらも

大学時代に父親を失った事の自覚は大きく人生を左右するほどに

「自立して生きてゆく事。未亡人の母を守る事。実家の存続に努力を惜しまない。」

自戒の念がありました。、、、欲を抑えて、一族の存続に沿って進路を選ぼう。。。と。

大学院に行きたかった。日大は、学門をする同級生より、

臨床に、実践に、生きてゆく同級生が多かった。

薬学科では、一部の学生が、工業化学の大学院に進学していたが

ほとんどが、大学院には進学しなかったように記憶している。

私は、4年間の在学中に、夜間の大学院の講義を受講することで

教員免許をゲットしました。中学と、高校の物理と化学、地学などの理科。

充実したフィールドワークに参加させていただいた地学の実習を思い出します。

昇仙峡を歩きながら、ヒスイの原石の蛇紋岩を探したときは、、、ヤッター!!!

大学時代は、青春そのものだった。

日大は、一部の学生が学門のドアをたたけば

必ず答えてくれる奥行きがあることは、素晴らしい事でした。

しかし、、、私立である以上、金銭的な裏付けがないと、前に進めません。

大学院での自分の為の研究生活をあきらめて、

断腸の想いで、就職することにしました。

教授の紹介で、東京大学の医学部の薬理学教室に就職しました。

寿退職で、技官が辞めてしまうので、補充するという求人でした。

教授の恩師にあたるの先生の研究室という事でした。

、、、寿退職の、、穴埋めスタッフというわけでした。

研究者は貧乏だというイメージが強い日本ですが、

外見が地味なだけで、

恵まれすぎる豪華なご両親の息子さん方が目立ちました。

研究生活をしていて、、、万一、人生で、何も出来なかったとしても、

食べるために稼ぐ必要のない環境の

選ばれた、本当の意味の豊かな人々のようにお見受けしました。

滝戸先生も、東京大学のとある研究室で学問されて、

日大の教授になられて、私たちに授業してくれたのですよね。

子育てもピークの40歳の後半に、

仕事の延長で、薬剤師会の学会に参加して、

長野県の山々のフィールドワークで、

上田(あげた先生)先生の会長の学会に集積しました。

韓国の薬科大学の女性の教授の先生方も

大勢参加されていました。

長野県に於いては「延喜式」という古典の資料にも記されているように

朝鮮ニンジンの栽培が成功した貴重な土地柄でもあり、

輸出された朝鮮ニンジンは

紅参になって、

再び日本で消費されたという時代でした。

滝戸先生の教え子という、ラッキーな参加で、

国際学会を、済州島で体験することが出来ました。

次代の生薬学の教授候補の先生方の

最先端の発表の中に

バイオ革命の時代にふさわしい報告もあり、

再び学問の面白さに、、、振り回されました。

韓国の、国際学会の付属した済州島の日の出峰の登山にも参加できました。

参加メンバーが、プロのフィールドを職業としているだけあって、

私は、どん尻で、

やっとついて行った事が、

今も、苦笑いしながら、楽しい思い出です。

でっぷりと、研究生活を送れる先生方とも

生薬学がすたれてしまわないように、、

臨床と結びつけた研究の大事さを

参加していた韓国の教授が、フィールドの雑談で、話されていました。

すったもんだの青春から、結婚後の第二の節目の

日大の恩師との再会で、頭脳が刺激を受けて、若返りました。

振り返れば、敬遠していた長男の頑張りと

母のピアノ教授の、たくましい収入のおかげさまで、

父の早逝にも関わらず、大学卒業しましたが

卒業旅行のお金は出せないと、兄から言われ

犬山城と川下りは、断念ですが参加できませんでした。

しかし、、、大学を出ておいたことが、

晩年

若年性痴呆になりそうな、家事雑用に閉じ込められた主婦から

結婚前の、知人や恩師に再会できて、刺激を受けたおかげさまで

今日73歳になった今も、日記を綴る頭脳の若さをキープできました。

日大は、追求する生徒には門戸が開かれていると思いました。

社会の縮図を見るように、全てのジャンルの学部があり、

国際的にコミュニケーションがあり、

日大の懐の深さは、入学した生徒に生涯教育の実際を与えてくれました。

今でも、正会員としての登録は、母校への感謝です。

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御嬢さん教育を受けながら、、、お金がないという、、、

一族大勢、祖父も皆、、居候を抱えて、父は復員してきた弟を

早稲田卒業して、結婚式まで世話するという、

戦後の、一族の復活の大黒柱が

重量制限と、従軍中の父の体のダメージが、耐量をオーバーしたという

働き過ぎの、突然死でした。、、、

寂しかったよね、、、焼き場の煙を観ながら、、、涙が湧いて出てきてしまった。

惜しいよね、、、54歳で、美しい、、、男盛りのハンサムだった父。

北海道大学の学生だった同級生は、試験中だったのに、

帰還して、一緒に悲しんでくれた。

彼は、札幌に帰って、すぐに結婚したと知らせが届いた。

別れあれば、、、出会いがあるね、、、

今の主人は、、、北大卒ですが

全くの、付き合いはありませんでした。

東京に帰るつもりだったこともあり、

東京に帰っても、私の家が開業だったので

従業員の住宅もあったし、父が外科医だったので、

看板を下ろすよりも、

我が家の開業に、当座入ってくれるとい鵜ことが、

母との間で、彼の先輩を通じて交渉されたものであり、

事態が事態だけに、、、、私は取引の商品として、

一人の国立での外科医が

我が家の益男(サザエさんの漫画のマスオ)さんになってくれるなら

母が「お父さんが、、、若くなって還ってくるのよ」という、、、

藁をもつかむ未亡人の、復活を祈って、私は、商品化した一瞬でした。

医学部出ているから、付き合わなくても、最低のマナーはあるはずと信じた。

おっとりとした、絵に描いた餅を喰えると思うほど、

雑念が無いように見えた主人との出会いは

少なくとも、無給医の、奨学金の返済を迫られるぞん底からの

未来の出世払いにすべてを託して、

我が家の、来ていただけるはずの未来の相棒への投資からの出発でした、

こんな、結婚の動機ですから、子供を産み育て、家事をして、又、

薬剤師として働きながらも、東京へ帰還する日に備えた。

兄からの、手紙も、経営状態や、会計報告や、100通を超える通信の中

彼は、封も切らず、返事もせず、黙々と、我が道を進んでいった。

息子が小学校の時、大学からの呼び戻しの声がかかった。

自宅の電話を握る主人の手は、まるで汗をかいた額のようであった。

東京に帰還するつもりの舵が、

大学に還り教官になる事になったのです。

、、、、帰還の種の貯金は、大学生活の再突入で、

大学生活の軍資金に回る事となった。

、、、、裏切られたわけではないが、、、

一介の開業医の相棒を努めるよりは、

母校で再び呼んでくださったのですから、

次代を担う若手のエースが現れて、そのサポートに

何らかの役割を担えると判断したのでしょう、、、

舵はヘヤピンカーブを曲がるがごとく、、、実家の東京を削除したのです。

それからの私は北海道に住人としての傘下ですから、、、

よそ者の一代目の疎外から、甘んじて、実績を造り、

子供は北海道の子供に育て、北海道の大学を卒業させて、

北海道のお嫁さんを迎え、

二代目は北海道人として、本籍も札幌に移しました。

大学に戻った主人は

民間病院と、大学を繋ぐ要素の一翼を果たせたこともあり、

医師会から感謝状をいただいたり、

大学でも、どのグループにも中立で、同門会長を任されたり。

民間病院に移ってからは、東京の出身であることも多くの仕事上の

人と人の立会人にもひつようとされて、

故郷は北海道の主人に生まれ変わりました。

主人には、北大での友が居てくれる。

主人には職場の人が、温かい、

札幌で、衣料一筋に生きた50余年は、

今でも主人を必要としてくれる患者さんが居るという事。

元来、、医家に育った私は

父が医師だというだけで

2歳の時、囲炉裏に突き落とされて、

大やけどを受けている。

医師の御利益に預かる立場の、のうのうと生きれると思われる娘は

それだけで、嫉妬の的になるほど、恵まれて見えたのでした。

戦争で親を亡くした者や、

片手や片足で復員してきた父に、育てられて、中卒後すぐに

我が家の使用人になっていた、ハンデを背負った職員を

父は、准看に育てて、村の若者との仲人をしていた。

患者さんの中には、貧しさから精神を患った人もいた。

5人の我が子を、一晩で命を奪った事件も起きた。

私の火傷は、妬みから解き放たれるためにも

必要な事だったのかもしれません。

父は、その職員を解雇することもなく、

准看にまで育て上げて、心からの謝罪を言える大人になる手助けをした。

私の火傷は、多くの名医との出会いをもたらしてくれました。

京都大学の、近藤鋭矢先生や警察病院の大森先生。

生涯忘れられない主治医でした。

日大の理工学部の試験の時の面接でも、

右手の火傷の事に質問がありました。

ピアノが弾けること。

試験管を右手で3本操作できることなどの実践をクリヤーして

その日の昼には、「他大学を受けていたら、全てキャンセルして下さい。」

あなたは合格です。と通達を受けた。

右手は見事に完治していた、

植皮の皮膚の色の違いは、機能的な完治の前には問題にされなかった。

この時からも、医学には深く敬意を払っています。

医師と結婚しても、愛情など、むしろ邪魔だと思っていた。

社会へ貢献できる年月が、一日でも多くと祈るだけでした。

54歳で死んでしまった父を、もったいないと思う反面、

子供だった我ら兄弟が、我勝ちに父の愛情を欲したことが

甘えだったと気が付くとき、

夫には、、愛情も、甘えも無関係な家庭を築いていたのだと思ったのです。

人は自分が大好きだ、自分が可愛いでしょう、、、俺俺俺、、、の、

自分愛だからこそ、艱難辛苦の医学部を突破できたのだと理解して、

便利な存在に徹するような、心の自立で、孤独な北国の冬を

黙々と、雪を搔いて70歳を過ぎました。

主人も、北大を卒業したのでなかったら、きっと、、寂しかったはずです。

北大の先生方はインターナショナルな広い心の方が多く、

女性の世界のように、きっと、疎外も、妬みも、意地悪も、無くて、

片腹痛いと、かんらかんらの、大きな心の人たちでしょう。

高校時代の同級生が、早稲だと、横浜の医学部と、合格して、

迷っているとき、名に迷ってるのよ!

考えること要らないでしょう!北大でしょう!!と

背中を押したには私でした。

受験雑誌で、蛍雪時代という本のインタビューの座談会で

学校代表で、出席した時、掲載された蛍雪時代の本の

1ページ目の写真が、北大のポプラ並木でした。

学生が一度は思うでしょう!!

北海道の、こうした学び舎で、大学時代を送ってみたいと、、、!

主人は、北大に入学して7年の間に

故郷東京を捨ててしまうほどの、心の居場所を創り上げたのでしょうね。

頭の知識の中だけで、

故郷東京からの祖ですりあうまで行かなかった私に

着得そうだった故郷の再来を感じて、

母に向かって、私は、(東京に帰り、無くなった父の代わりに)

お宅を手伝いますから、、、」と。

消えそうだった故郷さんの袖を思わずつかんだ行動が

私本人では無くて、私の母へ

「故郷に帰る足場になってほしいと」

とどのつまりは、私は、

主人の故郷を懐かしむきっかけだっただけだったと。

結婚生活の70歳を過ぎてから、

しみじみと、、、思いました。

心の中で、北大という大地の父に抱かれながら

故郷の今は何も無くなってしまった幻を、思い続ける寂しさを

「惚れぬいた北海道の女性」と再婚して、

故郷を忘れること以外

もやもやと、故郷を思う寂しさは、

私では埋めるのは無理でしょうね!

そのくせ、、、故郷に帰るチャンスが来たときには

大学にUーターンしているし、

男心の人生のヴィジョンと

実力不足の間で、もやもやと、時は流れた。

「精一杯、、、便利屋を請け負ってあげるから、」

後期高齢者になっても、劇的な恋の出会いが有ったら

その時は、あなたの人としての目覚めを祝って、

私の御役目終わりとして、、、本州に還りますから。

全てを捨てて、北海道しかないと、気が付いて、

地元の患者さんを通して、地元への貢献を、

人生の目的にしてほしいと思っています。

恋に出逢えなかったときは、人として、今一つ、、足りないまま

便利屋さんの私に出逢えたことは、

神様の医師をする者への

尊いご配慮と、神に感謝して、

便利屋さん以上でもそれ以下でもなかった

私に、思いやりの心で、開城して、

人生全うしてください。

 

*****************************

つまり、、、主人はは欲張りなのかもしれません

自分発の事柄でないと、ネットで裏をとるように人を認めません。、

一枚の着物の表と裏で、同体であるとか

普通の男女の一心同体の出会いがありません。

孤独なのか孤高なのか?

追求しないことにしています。

プロポーズの言葉もいまだにありません。

母からもらったから、、、という。

母が音楽大学を卒業して居ることを評価していたり、

忘れられない初恋の女性が東京芸大卒業して居るとか、

がんちゃんという幼馴染が東大にいったとか?

大学にも一番2番3番とあるようです。

その人が、何を大学で学んだかが気になりますが

何処のだいがくを出たかという事に

順番を付けてほしくありませんね、

東大出て、ハーバードに行って、、、

何を習って身に着けてきてかという事は大切だと思いますが

職業に、順番が無いように、

優秀でなければ意見は却下というのであれば、

優秀な大学卒業というイメージに凝り固まった思い入れは

受験戦争の刷り込まれた、、、洗脳された価値観としか思えない。

日大は「社会の縮図のような大学だっただけに、

玉石混合で、価値観も幅広くて

何処にでも、私の居場所はありました。

北大は、北海道で、強烈な競争相手の大学や私立大学に

囲まれていないから、なんでも一番だから、

大きな、、、大きな、、、見落としが出来るのかもしれませんよ!

人間の「持って生まれたエネルギーは一定で平等だから!」

エネルギーの配分を、学門や研究にかけた大学を絶対勝ちの原点に据えて

頭の中に独自の放物線のグラフを書いて、勝手に価値づけられると

都合の良い便利屋以外に、、、価値がみえなくなりませんか?

もっと、、もっと素晴らしい

大自然が設計した、

行動する者だけが、

行動で描く価値に満ち溢れた

共感する感動の一瞬を共有して

順番はつけられない

友達以上になれなせんか?

 

医学部は、病院は、私にとっては結界のある「聖域」だけに

病院以外の話題や、話で、人生を共有したかったのですよ。

今までの50年は

私は、傍観者なので、

見たまま感じたままを書き連ねただけで

男社会の、深い面や、

理解されないジャンルの仕事関係彩との間で

苦労もあったに違いありません。

個人病院から、出発した札幌発展の黎明期には

中央東京都、札幌自治体の綱引きの中で

緩衝剤になれたら、物事は、穏やかに進むわけですから

主人の性格は、必要な旗を持ちながら

全体が決める場所に素直に立ち尽くす正確には、

頭が下がりますが、

薬剤師の私は

「薬の中では上品(じょうほん)」と思っていますが。

取り留めもない日記ですから、

思った時に書いておかないと、、、

すぐに忘れてしまうので、

 

あなたは、、、どこにいらっしゃるのか?

主張がないのでわかりません。

、留守宅に還ってくるあなたの魂は、病院に残したまま、

高校野球を見に帰ってきているようにしか、、、

感じられないのは

不思議でしょう?

その点、、、

無くなったはずの父は、いつも私と居てくれるから不思議です。

 

 

 

戦争に行って、全身的に栄養」障害にかかっていたのかもしれない父は

54歳で、過労死で、診療生活のさなか、患者さんの救急の手術の執刀の翌日、、、

私立に在学中の娘と息子を4人、残し過労死。

母は、、、

「お父さん、、、ずるいわよ!全部私に、、、後を頼むなんて。」

さすがに、、、しょんぼりしてしまった母でした。

    **********************

我が家のピンチに、当面してから、

われら、兄弟は、弟を除いて三人は

全身に電気が走ったような危機感に目覚めた。

    **********************

昨日までの、ノーテンキな学生時代は

いきなり、、、幕が降りた。

大学の卒業旅行にも、参加できなかった、、、

アルバイトと重なってしまって、、、。

西銀座のファーマシーで夜間の販売を担当しているときなんか

近くの航空会社のホテルに泊まっているという外人さんが

薬品には目もくれづに、妊娠予防のスキンを30箱も購入して

「サンキュー!!」と笑顔で現金で支払っていったときのことが

文化の違いとは申せ、

人種の違いの性生活のギャップを感じたものでした。

父が亡くなってから卒業までは、14科目のうち

13科目まで優をとれてしまうほど、

落第は出来ない!、、、と緊張感を持って試験に臨みました。

ピンチになっても、火事場の馬鹿力が、卒業まで導いてくれました。

**********************************

振り返れば、、、人生で

「放っておいてください、、、と背中に書いているがごとく」

授業が終わると、図書館に行って、自分の世界に閉じこもっていた

中学生時代が、最高に、自由でした。」

 

楽しかった中学時代の

校門の目の前に、大きく両手を広げて建っていた図書館の事が

折に触れては思い出して、心はいつも解き放されるのは本の中でした。。

中学三年生まで、幸せだった。

思いっきり楽しめる本がすぐ読めた。

柔道漫画のイガグリ君など

手塚漫画とサザエさんと、

勝山ひろし、、、目にお星さまの少女を描く挿絵画家が任期だった小説本。

カバヤキャラメルなどを買うと、籤運の強い予期は

『あたり』くじで、世界名作文庫が一冊ゲットできた。

父が、戦争で、かなり、膵臓など

わかりにくいところが故障している可能性があったとも知らず、、、に。

カバヤ文庫が欲しくて、

当たりくじが出るまで、キャラメルを買っては

友達に、「キャラメルの箱を配っていた、、、バカな私。」

でも、、、、あの時の自分が、、、

嫌いになれないのが、おかしくて一人笑いしている。

                              つづく

 

 

                             つづく

 


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