温故知新,,,
この言葉が手探りの私の60年の先生でした。
戦争中に防空壕の中で生まれた私は、
,,,おりこうちゃん!,,,が,「ダメ!」と言われている言葉だった。
食べ物が無い,,、
おりこうちゃん!、、、夕方まで待ってね!
洋服が無い,,、
おりこうちゃん!、、、これを着ていてね!
,,,兄のお下がりを手直ししたごわごわの、、、上着。
防空壕では、
泣かない赤ちゃんだったことが生き延びた。
「おりこうちゃんね!」と。
この言葉は、拳骨や、ピンタ,恐喝,恫喝よりも、一瞬全身がフリーズした。
戦前の日本は
「欲しがりません!」精神が叩き込まれていたようだ。
このような時代、敗戦の物資の無い中で、
「生きるとは!」ということを
全身が細胞レベルで探知しながら時を緊張で重ねていた。
池田隼人首相が「貧乏人はカレーを食べよ,,,」
カレーは私には御馳走でした。
マスコミは、
言葉を言葉でキャッチして、「カレーを喰え」となって流行した。
「マスコミ」に,「バカヤロウ!」と
水をかけた偉大な日本を立ち直らせた首相もいた。
軍医だった父は帰国後,
七か村でただ一人の外科医として疎開先の村で復帰して行った。
軍で鍛えられた勤務ぶりは,
「何時寝てるのか?」と思えたほどであった。
戦争さえなければ、30人の医師の働く、病院の院長だった。
戦争さえなければ、兄2人、姉1人死ななくてもすんだだろう!
異国の丘,乃木大将、静子夫人、、、。
お子様を戦争で無くされ,
時代とともに,生きた。
自ら戦争の時代に終止符を打ったように亡くなった。
この方のような,,,
何があっても時代に従って生きる方もいた。
お父さんは生き残っただけでも幸せだよ,,,。
傷痍軍人の白い衣に、
「あんたは生きているから幸せなんだよ。」
「ボロボロになった日本を,一本足があれば、頼らずに自分で立って復活させるんだ。」
当然,,,診療報酬ももらえる状況ではなかった。
診療報酬は、ウナギや鮎、とうきび、クリ、大根,,、と,
払える人には支払えるだけ払ってもらう
患者さん任せであった。
「教育だ、新しい時代の新しい教育を受けさせ,子供達を、敗戦から
未来の日本に飛んでゆけるように、教育の翼をつけるんだ!」
45歳の父は、
既に焼けて誰の物ともわからなくなった実家のあった
故郷の,
「東京」に、
残った子供達を連れて戻ってきた。
銀座では「喧嘩太郎」として
愛称で通用していた医師が、開業していた。
「診療の代金は患者さん任せで,回復した患者さんが、経済状態に応じて
支払っているようでいた。」
当時の医師は「生活の程度に応じて」報酬を受け取れない事も多かったのでした。
長年の無理が評価されたのか!
55歳と言う若さで、
奴隷のような無料診療の激務から
開放し永久休暇を授かりました。
大学生になったばかりの私は、死の前日手術を受けた患者さんが、
泣いているのを見て、もらい泣きしました。
母は「お父さん!あなただけ休むなんて!ずるいわよ!」
涙も出なかった母でした。
父の死んだあと、未来の日本に向けて、
兄弟はひたすら自分自身を仕上げる為の「生き残り戦争」の
教育の戦場へと突入して行ったのでした。
振り返れば,,,「エースコックのインスタントラーメン」を
エネルギー源として夜食に毎日食べていたのを思い出します。
次回につづく
この言葉が手探りの私の60年の先生でした。
戦争中に防空壕の中で生まれた私は、
,,,おりこうちゃん!,,,が,「ダメ!」と言われている言葉だった。
食べ物が無い,,、
おりこうちゃん!、、、夕方まで待ってね!
洋服が無い,,、
おりこうちゃん!、、、これを着ていてね!
,,,兄のお下がりを手直ししたごわごわの、、、上着。
防空壕では、
泣かない赤ちゃんだったことが生き延びた。
「おりこうちゃんね!」と。
この言葉は、拳骨や、ピンタ,恐喝,恫喝よりも、一瞬全身がフリーズした。
戦前の日本は
「欲しがりません!」精神が叩き込まれていたようだ。
このような時代、敗戦の物資の無い中で、
「生きるとは!」ということを
全身が細胞レベルで探知しながら時を緊張で重ねていた。
池田隼人首相が「貧乏人はカレーを食べよ,,,」
カレーは私には御馳走でした。
マスコミは、
言葉を言葉でキャッチして、「カレーを喰え」となって流行した。
「マスコミ」に,「バカヤロウ!」と
水をかけた偉大な日本を立ち直らせた首相もいた。
軍医だった父は帰国後,
七か村でただ一人の外科医として疎開先の村で復帰して行った。
軍で鍛えられた勤務ぶりは,
「何時寝てるのか?」と思えたほどであった。
戦争さえなければ、30人の医師の働く、病院の院長だった。
戦争さえなければ、兄2人、姉1人死ななくてもすんだだろう!
異国の丘,乃木大将、静子夫人、、、。
お子様を戦争で無くされ,
時代とともに,生きた。
自ら戦争の時代に終止符を打ったように亡くなった。
この方のような,,,
何があっても時代に従って生きる方もいた。
お父さんは生き残っただけでも幸せだよ,,,。
傷痍軍人の白い衣に、
「あんたは生きているから幸せなんだよ。」
「ボロボロになった日本を,一本足があれば、頼らずに自分で立って復活させるんだ。」
当然,,,診療報酬ももらえる状況ではなかった。
診療報酬は、ウナギや鮎、とうきび、クリ、大根,,、と,
払える人には支払えるだけ払ってもらう
患者さん任せであった。
「教育だ、新しい時代の新しい教育を受けさせ,子供達を、敗戦から
未来の日本に飛んでゆけるように、教育の翼をつけるんだ!」
45歳の父は、
既に焼けて誰の物ともわからなくなった実家のあった
故郷の,
「東京」に、
残った子供達を連れて戻ってきた。
銀座では「喧嘩太郎」として
愛称で通用していた医師が、開業していた。
「診療の代金は患者さん任せで,回復した患者さんが、経済状態に応じて
支払っているようでいた。」
当時の医師は「生活の程度に応じて」報酬を受け取れない事も多かったのでした。
長年の無理が評価されたのか!
55歳と言う若さで、
奴隷のような無料診療の激務から
開放し永久休暇を授かりました。
大学生になったばかりの私は、死の前日手術を受けた患者さんが、
泣いているのを見て、もらい泣きしました。
母は「お父さん!あなただけ休むなんて!ずるいわよ!」
涙も出なかった母でした。
父の死んだあと、未来の日本に向けて、
兄弟はひたすら自分自身を仕上げる為の「生き残り戦争」の
教育の戦場へと突入して行ったのでした。
振り返れば,,,「エースコックのインスタントラーメン」を
エネルギー源として夜食に毎日食べていたのを思い出します。
次回につづく