お金持ちは奨学金は
宛てにはしない。
昭和戦前に産まれた夫の時代は
戦争突入のころでもあり
英語も使用禁止
牛、豚の肉類など食卓には上がらない
ハムもバターもチーズもない。
不衛生な、小豆の、アイスキャンデーが
おやつ、、、水とわずかな。。。あずき。
東京は武蔵野が緑豊かに
井戸水がおいしい
しかし、、、水洗は普及していなかった。
戦後は、
生活もままならないほど厳しくて
兄弟や家族は
ジフテリアなどにもかかり
血清を脇の下に接種したとか?
ほんとうなの?
無毒化毒素で
ワクチンがあったのとちがいますか?
戦後の生活は
すさまじいほど
生活用品や食料も、ごらくも少なくて
活動写真、(トーキ)が、無い場合
無声映画があった。
徳川夢声???、
栄養失調で
戦役から漏れてしまった父の
入院やらで、
夫の母上は
一家で。全員が一思いに
死んでしまおうと思ったこともあったらしい
向日が丘遊園地が
子供の為に選ばれた、極楽への
逃避行の入り口だったとか、、、。
いつもは口にすることのない御馳走が
子供たちにふるまわれていた。
幼かった夫は、
母の顔を覗き込んで
「母ちゃん、、、死なないで、、、
俺、、頑張って医者になるから、、、」
夫の子供時代は
日本総家族。皆貧困であったらしい。
夫は貧困の中
幼稚園には通える文化地帯に
住んでいたようだ、
地域の文化が、
子供を育ててゆく、、、結果が見えるようだ。
幼稚園では卒業の時
園長賞をもらったと、
後期高齢者の年代になっても
園長さんが書いてくれた
夫の小さな胸像の油絵を
大切にしている。
母ちゃんを
喜ばせようと
頑張ったのだろうね。
私と結婚してからも、
れぢーすゴルフクラブに
入っていた時の、ゴルフ道具は
勝手に練習に持ち出して
雨ざらしになったまま、
寂びてしまった。
結婚してからは
一度も
私は、ゴルフのコンペには出ていない。
夫が同僚と親睦ゴルフに参加して
「迎えに来てくれー」と電話がはいる。
島松の入り口で、2時間
芝に座って
ワンセグを観ながら、
やっと出てきた夫を迎えて、
ハンドルを握る。
明治の、、オレおれ 文化の時代の
哀しき教育を受けた犠牲者だから、
結婚しても、女は鉄漿でも塗って
井戸端会議をしてればよいぐらいに
奥方という認識がない文化を持っている。
初めは戸惑ったけれど
おかみさんか、
家政婦か
お母ちゃんの代わりに
旦那のことだけ考えているのが
嫁さんなのだと
戦争間ただなかの、
もんぺ姿の、
座布団式防空頭巾の時代の
文化遺産であると
割り切って、生活すれば
何とかここまで来れました。
母ちゃんの為に
喜ばせて
生きる力を引き出そうと
勉強したそうであるらしい。
夫のいじらしさで、
母上は、生きることを選んだ。
そして、、、40歳で男の子を産みました。
それからの母上は
末っ子が生きがいになり、
一家の共通の宝物の存在で、
結束できたという。
末っ子は、国立大学の
宇宙物理を専攻し
定年後、教授様になり
生涯、母上の希望となったから、
戦争の終りが。もたらす幸せは
新しい命だったのですね。
お話を聞いていると
我が家だけの話ではありません。
学校では
一家心中が、ホームルームで話されるとき
私も、6年生の時、
友達をなくして、泣きました。
そして、奨学金を借りて
国立一期校を卒業して、
国家試験ボイコットの波が来て
なかなか
医師になる修行が出来ないでいるとき
内科外科で開業していた私の父が
54歳で、亡くなりました。
若い、内科医の兄は、
外科医である、夫が、
一緒に仕事に加わってくれるというので
縁談になり、
付き合う暇もなく
母親と、兄貴が気に入ったから、
とにかく
医師を助けられるのは
医師しかできないから
私は、、、運命だと
之は、出逢うとか
愛するとか、
恋をするとかではなく
両方で
必要な状態であっただけの
不思議な結婚への
状況だった。
家庭内から
結婚という戦場への
赤紙が渡されたのでした。
しいて言うならば
良家の、
戦争後の
来るべきして来てしまった心の貧しさが
無意識で
結婚が、解決してくれるのではないかと
信用できるか、
出来ないか、、、
それだけの判断で
前に進んでしまったのでは
無かったろうか?
薬剤師として、総合病院で働いていたのを退職し
父の後に入ってくれるという
外科医との結婚に
実家の立て直しの希望をかけた。
しかし、、、
税金で、奨学金で医師になった身は
故人の都合で
私的な生き残りのためには、
振り回されるほど
無邪気な自由は、ありえなかった。、
大学からも、世間からも
学閥やら、
地域の慣例やら、
卒業大学の医局を離れることは
冒険であった。
博士号を取得するまで
母校で頑張り、
母校から、
横浜日赤に派遣されるコースを
待っていた。
その間の収入はない、
実家の応援と
ラジオ局のアナウンサーの
アルバイトで
結婚の貧困を打開しながら
手探りで
北海道の文化になじんでいったのでした、
来年は、
東京に行って
我が家の立て直しに
加わってくれるのかな?
毎年、区切りを待ち続けた。
しかし、、留学の話があり
アメリカの教室のトップから
親書が届きました。
、
小包だらけで
、出発を待ちながら、
一年2年と、
、交代の先輩の帰国が延長された
先任の先輩が、帰ってこなくて
延期が続いているうち
博士号が取得できました。
之で、羽ばたける!
外科医になるための修行が続き
単独で、トップの許可を得ると
初めて、、、夫として
月給をもらえる病院に勤めてくれました。
ピークの若さを
事務長は、
まるで
技術ホステスのご機嫌をとるように
実に上手に、若き医師の
向学心と、自尊心を心得ておられ、
月給と名のつく報酬を知らない無給医を
23万円の初任給で雇った。
実家が開業医だった私にすると、
ショックを受けた。
24時間、嬉々として、
水を得た魚のように
張り切る夫、
少しずつ、、、月給を昇給させてあげてゆく。
事務長の医者を使う上手さに
私は「舌」をまいた。
誕生日などは
ケーキを囲んで
医局は結束して
24時間体制のストレスを
ドレナージするのが上手だから
家庭は
夫の誕生日は
母子家庭
2~5日後には
誕生慰労の仲間の写真が
机に無造作に置いてある。
命を相手に戦う外科の現場には
普通の家庭の「愛」は邪魔なのだろう。
結婚した。
手術は成功。
後は回復は体力とクランケの
自分を治す、、自らの力による。
家庭も、結婚という
手術は成功した。
彼の出番は
仕事にある。
???????
完全に、仕事と自分という
まりも、、、の島?
置き去りにされた家庭には
てんこ盛りの
雑事が時間を占領する。
取り残されるほど
仕事に向かせる
事務長は、40年前は
遊び上手でもそのセンスは高かった。
人の心を操れる
凄い家庭の強敵でした。
月給は、ほどほどに、
やる気を起こさせる学会参加の応援や
美人の気立てのよい、
出来る看護婦を
仕事の相棒に配置換えする。
慰労会には
ゴルフなどに
各課交流のコンペを開き
ハンデのつけ方も
上手とは言えない夫が入賞できる。
景品は奥さんがほしがるような
調理器具やワイン。
一般の会社員よりは10万は多かった。
しかし、丸善からの月の請求も10万は下らない。
学会は30個近く入っているし
給料を、家計に入れるには
医者として、時代についてゆくための
自己研鑽の費用が多すぎるのが
医療の世界かもしれない。
となりの病院の同科の医師に
技術が劣ると
患者さんは
そちらに行ってしまう。
医師のライバルは医師。
夫と違って
補給路のある医師が多い。
この世界、、
補給路のある資源の多いアメリカが
初めから勝っていたのと似ています。
医師になりたくても
医者になってから医師をするのは
財政的にも
生活の営み的にも
サポーターの居ない貧乏家族は不利である。
一人娘で
医師と結婚することを
希望している親子と
愛称が悪くなければ
条件結婚をした方が
「医師をすることを続けるには都合が良い。」
医療行為の相手は「命」だから
「命」のマイナス要因を受けて立つ医師の生活は
片道のガソリンしかない特攻隊のように
病気に突っ込んでゆく。
後方は、夫からエネルギーをもらうどころか、
無料奉仕団の後方部隊として
整備士を兼ねるような
家庭を任される。
、
少しでも、「愛」があれば、
解ってくれるはず。
私個人として道が開ける兆しが見えると、
結婚の時に持参した私の愛用の
ゴルフクラブを持ち出したように
先手先手で、奥さんの時間を
自分のサポートに使えるような確保に
瞬発力を発揮する
鋭い賢さがあるから、、、勝てない。
薬剤師として勤めれば
私自身の人生は、評価も、社会性も
充実感も、自分発になる。
「店」をもって、家庭と両立できないかと、
手頃な居ぬきを探して歩いたりもした。
店、、、意外と開業は難しい。
家庭と両立はなおさら難しい。
田舎に行けば、実現するかもしれない。
あのころの、
ピークの年齢の働き手の医師を
24時間、
家庭を考えない仕事バカに育てたのは
医師の世界も、
開業や、医局人事以外で動くのは
孤立するのかもしれませんね。
孤立したら、
知識や技術の補給路が断たれるので、
命の源を失う結果になるから、
医師は「お金」のことを考えないで
「医師をすることに」
全力を注ぐのかもしれませんね?
「医師をする事の出来る実力」
医師の財産は、子供も、孫も引き継げない
一代限りのアスリートに似てますね。
医師が人生を走り切った後には
廃墟になった「妻が居る。」
スカーレットのように
「朝考えましょう。」
妻の思惑など、考えるはずもない
病院事務の、キャプテン。
あの、事務長さんだと
私は、今でも、人捌きの上手さによって
夫を医療にとられたと
家庭婦人としては
敗北を感じている。
病院の実績も上がり
患者さんもどんどん増えて、
評判は大学まで届いた。
患者さんからも、
院内に、贈答物は禁止を表示してあるのに、
手製のいくらの塩醤油漬物など
お手紙付で送ってくださる。
デパートのカタログで
イクラの値段を調べ
70パーセントのタオルセットをお送りする。
「お心は嬉しいのですが、病院からは禁止されています。」
失礼のないように
感謝の心をこめて、はがきを書き
タオルは、回復時に重宝なのでお使いくださいと、
病人の、藁をもすがりたい依存心を
砕いてしまわないように
受け取ってあげることが
治療につながることもある。
てんこ盛りの藁を用意せねばならないのも
部隊裏でした。
夫はどんどん立派になりました。
付き合ってくださる方も、
社会のリーダーが多くなりました。
影を務める私は
顔を知らなくても
なんとなく、
夫を通して知っているような
錯覚に陥ります。
冠婚葬祭の時など、
うっかり、、、
『知っている方と』間違えて
ご挨拶してしまい、
は!と、気づく事がしばしばあった。
関係ない夫の世界なのに
影を務めたせいか
自分の時間を注いで雑事を通して
名前を覚えたのか、、、
夫のコートの裏地になってしまっている。
夏はコートが要らなくなり、
寒い時だけコートは必要なのだ!
脱ぎ捨てられたぼろぼろの裏地を
とりかえればよいのにね。
いつしか、大学に呼び戻され、
学問の「基礎」と「臨床」の
両輪のまわる大学生活の
スタッフとしての充実感を感じたのだろう、、、
能力のある
未来の医療を背負うだろうと
後輩の素晴らしさを話す毎日が続いた。
医学会に一石を投じるだろう後輩に
心からほれ込み、
彼らの時代が来るまで
自分にもできることがあると、、、
チームの一員として
出来ることがあるから
大学が呼んでくれたと、
月給が大幅に減ることなどは
頓着なく
夢を追って
家庭を捨てて、
医学仲間の集団に巻き込まれていった。
医師になった彼は
家庭より、
「医師をする事」を選んだ。
ローンで、進学で、大学で、、、
どうやって切り抜けてきたのか、
家庭と、大学を両立させるには
あまりにも、時間が貧乏過ぎて、
子供たちと、すれ違った生活を余儀なくされた。
当時は、「無給医」の時代であった。
技術の向上を目指し
家庭を振り返る暇のない
「医師をすることを選んだ男ありき」
あるときは、過労で病気発生!
4か月も微動できない
手術を実行できる強靭な体力を取り戻す為の
2回の手術入院が、
何か月か続いた。
そして、、、回復期は遠く
単身赴任、
手術後の体力が回復して
健康を取り戻してからも
ひたすら、、、医師をすることしか考えない。
現在の医師の皆さんと違って
無給医や、医局の都合が優先する時代であるから
我が実家の為に、
医師を引き抜くなんて
出来ない相談であることがわかったのは
50歳も近くなっていた。
国立系をローテションしていたので
私立に進学した息子たちの
授業料と、
舅、姑の寝たきり時期や
葬儀やら、
法事やら、
医師をすることにしか興味のない夫は
生き仏の為の、医療行為が
何よりも優先する、、、不器用な、、、仕事バカ?
結局、私一人で、親類や、親の葬儀やら、
姪達の結婚式に参列する。
いつも、飛行機嫌いの伴侶の居ない肩身の狭さ。
しかし、、、戦中の
貧しい日本の家族時代を送った夫の家の結束は固い。
末っ子の弟さんが実行する感謝もあって
経費の送金だけは、義理を欠かない。
振り返れば、、、何にかかったのか??
さっぱり解らないめまぐるしい忙しさで
人生の90パーセントの
持ち時間はすっ飛んで過ぎた。
「医師をする事、、、一本に絞り」
正月も、ゴールデンウイークも
むす子が小学校一年生になってからは
実家に帰ったことがない。
そして、。学会や研修で、
医師の皆と、ボストンや、ロチエスターや
ニュウヨークやカリフォルニアに
行くことはあっても
夫婦そろって、パリ、ロンドンは知りません。
森鴎外ゆかりのドイツ、
医師として、
行ってみたいドイツ
ドイツには
二人でゆきました。
いつも、どこにいるのかわからないほど、
一人で、すたすた、勝手に興味を追いかける。
皆で、銅製のビールパイプの走っている
著名な、ビール園に立ち寄った、
「君は、ジュースね」
自分は、ドイツのビールにご満悦である。
何を考えているのか?
家政婦と、長い間間違っているのは解るが、
ドイツに来て、、、
ツンボール!!!て
腕を交差させて、
ジョッキ―の泡で
夫婦らしいドイツをしたかった。
ご満悦で
ローレライを
ドイツ語で歌い
ビール樽のような
体格の良いご婦人を
笑わせていたけれど。
私の顔は、見ないようにしているのかと
うたがいたくなるほど、
勝手な、自由を闊歩している。
人生の、50歳からは、
医師をすることに、
それなりの、役がついてきて、
家庭は、どこの部屋にも
夫のものが、あちこちを占領し、
家政婦代わりの奥様の
掃除の仕方も込み入ってきた。
結局、全てのものは動かして
全てのものは拭き掃除するが、
夫のものは、名刺一枚捨てられない状態なので、
散らかりまくって、
本だらけで、
背広や、ネクタイや、ワイシャツだらけで
手入れはするが、置き場所はそのまま。。。という。
「空気だけ、澄みきった部屋になるように」
埃撤去の掃除方法となった。
応接室もない、
夫婦の寝室もない、
よくもこんなに。。。
愛着物で、家が埋まっているものよ。
真空管のTVだけでも2台ある。
バージョンの上がるごとに買い換えたPC.
VM21,MAC,WINNDOW。
ペンティアム 1234 ヴァルースター ラヴィエ
ヴィスタ、 7 、、、
周辺機器、ビデオデッキだけでも3台
箱型TVが、2台
初代のイス型肩もみ器
二代目リクライニング肩もみ器
医療用革製の肩もみき
足ごろごろもみき
エキスパンダー、、、、
(@@)** ++ ==
体重計だけでも3台
メダカの鉢にメダカが30匹!
何がなんやらわからない家庭を、運営してきましたが
指でなすっても
埃はありません。
ちなみに、、、結婚指輪の立て爪は
ドクターと言われる風評被害では
奥様は、旦那様から贈られて
持っていると思うでしょう?
一生、待てど暮らせどくれなくて、
母が、いつか旦那様からの指輪がはまるようにと
V型の指輪を、里帰りしない娘の為に
東京から、札幌まで届けてくれました。
マーキスカットのVの指輪を
父が亡くなったときから。10以上もたったけど、
嫁には一文字、娘にはVを
なにも、持たせられなかったから、受け取って、、、
母の形見になりましたが、
お値段は10万ぐらいの、
日常いつもさせる指輪でした。
、、、いつの間にか、、、亡くしてしまったけれど、
宝石類は、一切買わない夫は、
地下街に行くと、
一万ぐらいまでの、原石のサンプルを買うようです。
庭に巻いても、ほしくないような、
理科の教室にあるような石に
名前を付けて、お菓子の空箱に集めています。
、、、孫が、、、喜ぶ、、、(^^!
妻としても、恋人としても、愛する人としても、
我が家の奥さんは該当しませんが、
薬剤師になるまでに培った「処理能力」は
認めてくれているようで、
実に、整理、分類、処理の必要な人生でした。
今回も、粗大贅肉に変わりつつある
人生のごみカタズ家をしました。
世間様の風評被害の
医師は小金もち、、、という
なんとなく、ねたまれる割には
老後の蓄えもすっからかん。
宵越しのお金を持たず、
ひたすら「医師をする事」という
たった一言ではありますが、
もしかしたら、、、
医師になるより根気が必要なのではないでしょうか?
簡単に、医師は高給取りだとか、
税務署の目が向きますが、
像さんは、藁を食べて、
ひたすら、人命という重き荷物を背負って
一歩一歩、医師をすることを続けました。
98パーセント、
医師をすることの時間を歩き続けました。
家庭は、藁の、寝床でした。
老後のお金も、宵越しのお金を持たなかっただけに
働けるときが全てです。
マグロじゃないけど
とまったら、、、
医師をすることを、、、泳ぎを、、
ストップした時は
彼らはおしまいです。
40歳から、やっと
月給をとり始め、
50歳から
世間さまのおっしゃる
げっきゅになったときは
息子たちを「医療人」として
社会にお返しするための
育児に消えて、
人生は、着のみ着のまま
棺桶に送られて、
孫子を照らす「一筋の光になるのです。」
もうくたびれたから、、、
ぴんぴんころりと、、、休むかな?