花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

平和への祈り 戦後の日本の8月に思う事

2015-08-17 01:29:04 | Weblog
昭和20年代、
和歌山県の小学校に
疎開入学した時のことでした。

お盆の日は
「たかび」と呼んでいた松明が
どこの家にも、高く高く燃えていた。

太い青竹のてっぺんに
松の松明をともし

故人が
我が家をすぐに見つけられるように
高く高く松明を挙げて
迎え火とするんだよ。

言葉が標準語のしなやかな
間、と余韻のあるテンポで話す
お父さんの口調を
疎開地の少女達が、
口真似をした。

夕月の下で、
父は弟を片手に抱っこして、
疎開地の近所の小学生や中学生と
影ふみのひと時を楽しんだ。

文化のない疎開地には
アメリカの、
ワシントン大学を卒業した親戚が
タバコや雑貨を売っていた。
疎開地という
他人の土地で幸せな日々を送るには
それぞれの特技や文化が物を言った。

戦争後の
気のみ着のままのぼろぼろの中で
各自の才能が輝いていた。

自転車屋さんは
廃自転車の山から
子供たちの自転車を組み立てていた。

加治屋さんは
疎開地の刃物や農耕具をトンカチ創った。

父と母も、得意のダンスを
戦後のトラウマから立ち直る心のケアに
毎週診療所の二階を開放した。

ド田舎の。ピアノを見たことがない子供たちに
ピアノを教えた。

叔父さんは
日大理工学部を中退し
シベリアに従軍した後、
父の診療所に合流した。

学徒で従軍し
運よく帰国できた父の末の弟は

28歳から早稲田の理工学部に入学した。
父は、従業員も。従兄弟も、姪っ子も
学問の為に進学する者たちを
全て、サポートして同居もした。

進学を考える時期になって、
父は、終の棲家のような自然の恵みを捨てた。

初めに、母と子供が東京へ、
2年遅れて
父が従兄弟たちと東京へ、

親族で一丸となり新規開業へ。

もしも戦争が無かったら、
、、
あれから、一言も口にしない父。

東京の本籍の邸は戦火で消えたから
思い出すのも苦しいだろう。

神楽坂の毘沙門天の縁日に
祖父母と行った思い出が
父の本籍、
市谷の自宅のあったころの

お盆の思い出話であった。

東郷さんが、
日本海の戦いに行く前

我が家に来てくれたんだよ、
君たちのおじいちゃんが
宮内庁に勤務していた時のことだよ。
おじいちゃんは、
剣道が5段だったから、

きっと、武芸友達だったのかもしれないね。
お母さんが、御かわりのお盆を差し出すと、
お茶碗を置いた手が、
あまりに力強くって
お盆が下がってしまい
器をあわてて、手で押さえたと言っていた。

当時は
お茶碗の半分くらいの少しだけ、
ご飯を盛り付けるのが礼儀だった時代なのに

器にいっぱい御かわりの飯を入れたと
父は、苦笑いをしていました。

市谷という、町内は
かような方々が
役目を離れて行きかう地区だったそうですよ。

戦前は新宿から代田橋にあたるあたりまで
土地を持っていた旧家の育ちだった父は、

母も亡くし、すぐ下の弟も亡くし
家も、土地も、亡くし、

戦時中は二人の息子と、娘たちを亡くし
喪失の日々が続いた。

家族が幸せな市谷の屋敷に住んでいたころは
お祭りが大好きだったそうです。

お祭りは、
浅草や神田まで、観に行ったそうである。
花火は屋形船で楽しんだそうです。

父の時代に
東京大学進学か
さもなくば、外科医になる道が
進められる環境とは?

どれほど
窮屈で。
価値観が狭い範囲の押し付けで
自由がなかった家庭だと想像すると
シルクハットで
手の曲げにくい
ピチピチのモーニングで
顔を洗うのに
苦労している
イギリスかぶれの
ハイカラさんを想像してしまいます。

確かに!
あの時代!
父はイギリス医学を習い、医師になった。

しかし、
イギリスはビルマを植民地にして
日本は、ビルマ独立を名目に
東南アジアで戦争したと

社会科の先生は
「ビルマの竪琴」を
皆に読んで聞かせながら、
自分で泣いていた。

未熟な日本には、
過去を振り返り、
ひたすら、大人になるための
勉強しか
戦争被害者にお詫びする道はないと、
父は考えたのでしょうね。

第二次世界大戦で生き残った
長男4男次女の3人の子供と、
戦後、
疎開先で誕生した
戦争を知らない団塊の世代の末っ子と

自然の恵みの中で
疎開開業をしていた父であった。

戦争をはさんで
語りつくせない喪失と
この世とはかけ離れた戦地を体験した年代。

疎開地で、末っ子が生まれたことは
日本の夜明けにつながった
団塊の世代の復興の誕生でもあった。

父母の希望が
疎開地の人々にも伝わり、

待ちから
いろいろな先生をお呼びして
おけいこ事も盛んになった。

お寺の和尚さん先生は
お経の代わりに
小学生に「弁論」を推奨し
県下で優勝する者も出てきた。

イノグチ先生という
憧れの「弁護士さん」がテーマになって
子供たちの「弁論大会」で
若き希望の主張が優勝などした時、
和尚さん先生は
奮発して、優勝カップなどを
学校にもたらしていた。

新しい時代の
新しい教育を受けさせたいと

日本には、世界を知り
世界のそれぞれの価値観を
認めることのできる大人になれる教育は
自分の生まれた故郷の東京だと考えたのでしょうね。

子供の時代の
来たるべき社会変化を
考えなければ、

父は、故郷を遠くで想いうかべ
疎開地の医療の人として生きて
長寿を全うし、
アユかけを憩いとして
幸せだったに違いない。

市谷で生まれ、
早稲田中学を卒業し
外科医として
戦地に赴き
戦う生涯を生きてしまった父。

熊野の疎開地は
永遠の恵みの続く自然と溶け合った
天然の永住地になれたかもしれなかった。
戦争の傷跡は
この地の自然の豊かさが
皆の心に太陽のエネルギーを注ぎ
甦らせたと
私は、個人的に思っている。
自然のエネルギーは
太陽のエネルギーの
照り返した力であると。!

自然や資源や、地球規模のエネルギーの
補給路のない、肉弾三銃士が
マスコミに踊らされ、

かくも、哀しき英雄として
小学校の子供たちの演じる学芸会にまで
登場した、、、あまりの哀しさ、、、

父の仁川での写真の中に
日赤の看護師さんと一緒に映っている
一枚の写真があった、

晩年、父の東京の診療所の院長室に
内科医の兄が引き継いで
額に入れてあったのを思い出すのです。

父が最後の力を振り絞って得た東京の診療所は
兄の時代で、他人に売られて行きました。

戦後の日進月歩の医学の進歩には
もはや、若き兄は
永住の地を見いだせなかったのかもしれません。

四葉会という
ピアノの教室を経営していた未亡人の母の
額縁のように
開業の継続は、母を守り、
父に逝かれた未亡人の孤独を救っていた、

兄の患者さんや、兄の先輩の子弟も
お弟子になって、一緒に演奏会などを
楽しそうにしていた。

母が亡くなる直前に
兄は、開業を、閉店した。

まるで、新規開業と
見間違うほどの
花束が贈られ、

父の時代からの診療所は
兄嫁の住む、
大きすぎる個人の自宅と変貌した。

母は、3日前まで
ピアノの指導をしながら

寝ているように、、、逝った。

開業の時代は終わった。
医学は医者になった本人だけのものであり、
引き継げる性質の遺産ではない。

母の葬式は
立派に社会人として
父の夢だった「医学はこうありたい!」と
国立がんセンターが出来た時、

日本の希望のセンターが出来たと
兄に、話した。

兄は父が残した開業を継ぎながらも、
国立がんセンターの
崎田先生や
市川先生
黒崎先生のもとに通い

内視鏡の指導医を許された。

そして、母の死の直前
兄は、千葉の亀田病院の職員として、
長男の義務を果たしてから
技術を翼にして
大空に飛び立った。

母の葬式は、すでに
国立がんセンターのスタッフになっていた弟と
母のピアノのあ弟子さんが
お寺の庭がうずめつくされるほど
母を忍んでくれていた。

母の死に間に合わなかった、、、北海道の私。
長男の姿は見えない。
昨日の夜
通夜の時は寄り添っていたのに
早朝、人が来始めると
居なくなった。

喪主の弟の長女が
小学生のちっちゃな体で
御婆ちゃまを守っていた。

「みなさん、静かにーーー!!!
御婆ちゃまが、起きてしまうでしょう!」

一番かわいがられただけに
母の死、
つまりおばあちゃまの死が
受け入れられない様子であった。

日本のCTの発展の黎明期を
世界のレベルで発信していた
東芝、東北大、もちろん千葉大の市川先生ら。
弟は、団塊の世代の役割を、
医療面でしっかりと果たしているだけに、

マスコミでしかお目にかかったことのない
病院長さんや、スタッフが
「寿命の直前まで、ピアノの先生をされ
社旗参加をされていた母上から
私たちも、多くのことを教えていただきました。」

御目にかかったのはなじめてなのに、
庫裡の割烹着の私を探してくださり、
「お姉さんですか?、、、このたびは、、」と

何もできなかった姉に変わって
弟は、たのもしい限りでした。

後日、母が兄に宛てた手紙と、葬儀の早朝
父と母と、僕(長男)だけが居た家庭が
静岡に有ったのだよ。
幸せだった、静岡の
父と母と僕だけが行った事のある海に
お兄ちゃんは行っていたのです。

内容は、母から兄に
社会に飛び出す腕がありながら、
学会からは蚊帳の外の開業を
父に代わって守っていたのは
解っていました。

ありがとう、、、長い間、、、
父を25年間も
私のそばに引き留めていてくれたことは
私の生きる力の源でした、、、

その手紙は
私に見せる必要のない
母と長男の世界でした。

戦争で、多くのものを失った
父母と長男。
父の早逝で、
父親代わりの自意識の呪縛で
社会参加の遅れた兄は、

母の死んだ日
父と母と自分だけの知る時間を
回想したかったのかもしれないと、、、。

全てに「外野」の
明治の父母を送る私は、
いまだに「千の光」になって
私を照らす母と一緒にいる。

昨日、従軍看護婦さんのTV放送を
深夜に見ていた。

戦争で、死のみが
苦しみから救う。
しかし、
何処までも、自分は生きていたい!
自分が一番になってしまう、、、
そう話す看護婦だったおばあさんの
瞳が語ることの深さに
胸がつぶれそうになった。

戦争は二度と起こしてはなりません。
看護婦さんの叫びでしたね。

話は疎開の思い出に再び戻りますが、、、
祖父は、言っておりました。


ソビエトと闘ったとき
日本の資源の乏しさを
一部は認識していただろうと思うのに。

リメンバー パールハーバー !!!!!!!!

大国のアメリカ、
機械力のアメリカ
他民族合衆国の文殊の知恵のアメリカを

日本は対等に戦える相手と思ったとは?
今でも信じられないのです。

考え方が、12歳の子供であると
マッカーサーは言った。

旧家の二男の祖父は
日本人のゾーンを
サンフランシスコ
ロスアンジェルスに
開拓に入った長男の兄の所に
幾度となく渡米していた。

戦後、長男はアメリカで亡くなり
祖父だけが、兄嫁と帰国した。

明治維新まで
ちょんまげを結って
刀を差していた、お城のあった国。

祖父の軍刀も
名刀を、つくりかえたものでした。

アメリカで、
多くを学んだ祖父と叔母さんは
疎開地の中のアメリカ人のようでした、

洋館に住み
地下室には井戸もあり、
200羽~300羽の庭tp利を飼い
石垣はイチゴで真っ赤になり

アプローチはアジサイの花が
マッスを重ね
紫や真っ黒なアゲハチョウが華やかに舞う。

花壇には、グラジョウラスや、トリトマや
洋花が、魅惑する、
菜の花も、蓮華もあたりを色とりどりに染めてしまう。

此処だけは、戦争の傷が癒される
オアシスだった。

*****なんで???
***戦争をしたのか***


理屈も感情も、全ては貧困のなせる
心の貧乏が、赤子の手をねじるように
世界の先立ちに、翻弄されてしまう
心の貧しさと、受験戦争に似た
勝つことが正しい結果を生むと信じた
点取り虫の原点の貧しさが
有ったように思えてr成りません。

一言、、、言うなれば
日本は、貧乏国だったとしか、
ほかに理由が見つからない。

ペリーが
黒船で
下田にやって来たときから

無理に無理を重ねた近代化の渦の中で

名君も「そうせい」としか
言葉の出なくなるほどのスピードで
時間は矢より速く、
鉄砲玉より速く、、、飛んだ。

一部の天才は
一秒に地球七回り半のスピードで
近代化をとらえてたが

今の国会答弁のTVの討論のごとく
国は、
未来への希望の政策へのベクトルが
一方方向を向くほど
円熟した大人は
世間には受け入れられる時代では
なかったのだろうか?

明治、大正は、まだまだ
ハイカラさんのアピーラーの時代で
教育程度も、文化も、世界観も
実りの秋には
時間を要したに違いない。

刀を差した武士が居たことは
問答無用で切られてしまうことだって
無きにしも非ずのお国柄だったのですから、、、。

凝り固まった頭脳の一部は
戦争という死に場所を
自らつくってしまったのだろうか?

成熟したアメリカが
リラインを引いたことが
小学校の社会の時間に教わった。

後後まで
同じ民族とは思えない
考え方の違いや
経済力の違い
教育の違い、

利害の食い違い、、、

縄張り問題のような
物質的な原因が
多く生まれてしまい
まるで、2つの国になった。

一致団結
国民は一枚岩にならないと、
内乱を起こすべく作戦が見抜けず
仲間同士殺し合い
国が廃墟になったころ
外側から支配される結果には
ならないだろうか?

まるで
孫子の兵法のようですね


親子、兄弟も逢えない。
先生は、涙ながらに授業をしていた。

再び、、、疎開地の父母が
戦争のトラウマを
どのように、乗り越えていったかを
考えることにします。

世界のことより
夕食に白米が食べれるかどうか?
そちらを気にしながら
話が七曲りする。

お寺の和尚さんと先生の兼任していた。

七か村 無医村で、
全科をこなせる医師

父は、疎開地の
医療を
日夜、寝る暇もないほど
たった一人で担当し
戦後の時代の
復興を民衆とともに生きていた。

たたく事より
必要とされることが
激務の中で
回復していったのでは
なかっただろうか?

お盆になると、

たか火が燃えて

各家庭の
戦争の英霊が帰宅すると
信じられていた。

自然と生きる疎開地は
時間が緩やかに流れた。

ミカン畑のお爺さんは
一週間の天気予報屋さんでもあった。

8月はTVは
「戦争の傷跡画像」が連日放映する。
時代とともに、
状況は解釈が修正され
私が学生時代に教わった歴史観とも

微妙に変わってくる

祖父の時代、
和歌山には「アメリカ村」があった。
祖父の洋館建ての
バルコニーの下の玄関には

ゴールデンゲイトブリッジの
油絵がかかっていた。

青山師範を卒業した祖父は
27歳でアメリカに渡った

3か月近く、汽船に揺られ、
嵐を越え、アメリカの農業を学び

日本人町をカリフォルニアに創るのは
砂漠を、緑にすることから始めたと
話してくれた晩年は
南紀の町長やら、村長やら、校長さんやら

頼まれれば引き受ける行動活発な
祖父であった。

晩年は
皇居の奉仕団に入って
お掃除などにも出かけては

お気に入りの懐中時計を見ては
忙しそうに、人と会っていた。

何やら、叙勲も受けたようでしたが
子供だった私には
ピンとこないながら、

親戚がおじいちゃんの経営する旅館で
盛り上がっていたのを思い出します。

このおじいちゃんが
終戦まじかに
戦地まで、娘夫婦を迎えに来たというのです。

身の回りのものだけ持って
最後の関宇連絡船で、引き上げたというのです。

護衛の船もなく
東京に着いたときは
実家は爆撃で無くなっていたというのです。

祖父は母の故郷では、
アメリカ帰りの近代化の魅力も
加味された頑固さは

指導者的立場だった事と
大いに関係があるのではと
私は子供心に思っていた、

急きょ出来上がった
疎開地の診療所の

あたり七か村、
唯一の医療施設の

医師として、疎開生活が始まったのでした。


*******************


コメも、着物も、何もない到着の日

昔なじみの知人が精米所に居て
コメを「一俵」くれた時、
涙が止まらなかった、、、と。

「医者を連れてきてくれたんだ!
米俵ごと、持って行ってくれ!」

昔なじみとはいえ、
コメが貴重品の終戦直前の時代であった。

父は、子供たちと話す暇もないほど
働いていた。

傷痍軍人の患者さんに
義足をつけて、
働くことを促したり、

トラックに片足とられた少年の
救急手術や、リハビリーや
義足を、作り、歩くまで付き合っていた。

彼らは、理髪業の店を開店し、
客として、髪を切りにいた時
耳たぶを間違って切られ、
床屋代金が無料になったばかりではなく
スイカなども暮れたことがあった。

13歳まで、自然の中で、
共存出来た知恵は
天与の授かりものとして、

生涯困ったときは
あのころに立ち返り、

人間としての財産は
健康と、
足ることを知る自然態と
天与の季節の恵みと

万能の人間は居ないのだから
思いやりと
広い価値観と

ケースバイケースで
今、
必要なことに絞り込めることが
生きることには、
イロハであると

疎開地は
教えてくれているような気がした。

戦争のTVは見ていてもつらい、
、、
誰が悪いのでもなく
世界の相関関係が
上下がありすぎた時代に生まれていた。

PS.の時代に、
国民もナンバーで呼ばれる時代に

最高頂点で時代を創るスタッフは
聖人君主であろうと思えるが
キーひとつで

今度は
地球ごと吹っ飛ばせるのである。
心して日本は
文殊の知恵で動かないと
権力に走っては
欲に走っては
損得に走っては
それだけでは
未来が見えない
神の域に
科学は足を踏み入れたのではなかろうか?

子が親を殺しては
地球は吹っ飛ぶ。

がん細胞のように
強すぎる細胞だけが蔓延するのは
大自然という
水道も排水もない
墓場に似た
石に似た
高層ビルの
不毛のゾーンで地球に
呼吸を停止させる結果にならないか?

宇宙の空間に咲くアジサイの
葉っぱを食い
穴だらけにしてしまう
自分だけがかわいいという
戦争被害者を
創るのだけは
皆で防ごう!

機械は果たして人間の思惑どうり
ロボットになって、
人工知能の益ばかりを
人類の未来に与えてくれるのだろうか?

今回のTVでも

原子爆弾は
色が問題になっていた。

実験だったのか?
悪魔もそんなことはしないはず!?

人間が元素になって
最後のピースが復元されたとき、

愛、信頼、こころ、涙、感謝、、、五感、
総合バランスの感情はもどるのだろうか?

子供を産まなくなった背景には、
未来が保障されない不安が
あるのではなかろうか?

医師の家庭に育ち
世間の風評とは
あまりにも違う

自分のことしか考えられないという
病気という状態の人間と
日夜、逢い続け
診療し、
それ以外の時間を
配偶者や家族、
身近なものが代行して、
ひたすら、
診療に持てる時間を使えるように
配慮の専門家になっても
まだ足りないサポートを、

形では見えない水面下の支えが
いつまでも続く。

人間が、人間の重さに気が付いて
医師の身体が
ベストな時の診断が
必要だった時代は

触診とか、医師の五感に頼る診断だった。
今は、機械力が主流となりつつある。

それでも、
医師を助けられるのは医師しかいない。

医師の仕事は
専門家でないと助けられない。

父は長男を医師にしようとしていた、
孤独だったのだろう、

こんなに、村人から慕われ、
取り巻かれていても、

医師でない者は医師の孤独は救えない。

孤独は裂けられなかったのだろう。



東京へ、再び帰ろうと思わなければ
父は、孤独ながらも
多くの住民に必要とされ
それなりに、
長寿全うしたのではなかったろうか?



子供の教育は、
アメリカの考え、
東洋の考え
世界の情報の入る東京に戻ろう!

実家のあった市谷では
開業は成り立たない。
4人の息子や娘の為にも
生まれた実家のある東京へ帰ろう!

昭和30年に母と長男が東京入り
開業の同級生が近くに居る下町に
44歳の父は開業したのです。

大学勤務の時、
戦地の銃創や、切り傷など西洋医学の指導者として
総合病院の院長を仰せつかり
戦地の大学には
「外科」の医局が無い時代
戦争は激しくなり、
西洋医学の指導の下、
銃創を、切り傷や、粉砕された骨、などの
処置を指導し、

滅菌感覚のない
当地の医療従事者に
任せられない激務の中に
とうとう、
戦場の
野戦病院の従軍が決まったのでした。

父の人生を思い浮かべると
七転び、敗戦を超えて、
家族を守ってくれた感謝がこみあげてきます。

開業のストレスや激務の為
たった、、、十年で内科医の兄にバトタッチ!
54歳で永眠しました。
戦争で、疲れた時代の医師の人生は

TVなどで、
面白おかしくアレンジされた
セレブな夫人の目線の高い人生とは
まったく異質の展開を余儀なくされた

医療のシステムの近代化の
荒波の時代であったと
振り返ります。

皆、それぞれが頑張った、

オリオン座を見ながら
寂しい時は
空の光の中で、
オリオン座で逢いましょう。

戦争は、、、もう、、、起こさない。
戦争には、もう、巻き込まれない、

外側から、
日本を分断する作戦が駆使されたとしても

日本人の絆は揺るがない!
外国に評価され、
平和の指導者として
信頼されて

日本が日本であるためにも!
日本人は一枚岩の結束と助け合いと
商売、損得抜きの
至誠天に向かって、通じることを
日本人同士が
見えない心が結束するとき、

拡がって広がって。
世界の多様性のある価値を知り
日本人が、世界中で必要とされれば

日本はどこですか?

日本は世界中です。

日本の本国は
世界遺産となって
時間が止まっているように見えるけれど

世界の平和への覇者であることが
解ってもらえる日がきっと来るのです。

周辺国が心からリッチになるとき
冷静に見て、

平和を乱そうとする悪魔は、
まず
仲間割れの戦場を創り始めるのです。

戦場にしてはいけないと思うなら、

東洋の国同士争いに巻き込まれないように
仲間を大切に、知恵の出し合い。
助け合い、過去のこだわりを捨てて
未来の平和を目指すべきです。

地球がちっちゃな星のひとつなのですから、
自然を壊さない足ることを知り
戦いで、地球の恵みを壊してしまう事のないように

戦争の空しさ、
破壊しかない原子爆弾の禁止
平和への地球家族になれたらと
祈る思いで

8月の「戦争番組を、涙で見ておりました。」




       つづく

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