わずか75年の命を生かされた経験では
物申す何ものも、何事もなく
戦争中に生まれたという
その後の心の貧困にならないための
物質欲と、
自分にこだわる勝気な戦いだけは
避けながら、、、避けながら、、、
選ぶことを極力しないで
最後に残った、
人がやりたがらない仕事を担当することで
男3人、女性一人、戦争の生き残りと
疎開地で生まれた「戦争を知らない希望の子」を
母にとったら、巨大な喪失感のPTSDを
疎開地で乗り越えたのだろうと
75歳になった私は、しみじみと振り返り
今頃になって、
「心のエネルギー」が「リカバリー」によって
復活するか、どうか?、、、
父の捨て身の判断だったと思うときがあります。
東京の丸の内線の真ん中で
ごくごく自然に
明治維新の文化の切り替わりを体感しながら
慈恵会医科大学で医学を学んだ父が
口癖のように、おりにふれて言っていたことは
「病気を診るという事は病人丸ごと
環境や、人間関係丸ごと診るという事を心がけ乍ら
厄介なのは、
格差社会と
戦争のもたらす心の欠損が
依存体質や、
殻に閉じこもってしまう事や
柔軟性に欠けることが
無意識に心の障害となって
本人の循環系から病気に発展することが多いことに気が付くのだよ。」
心が満たされないと、心の中の自我の爆発的なエネルギーが
とんでもない行動に出たり
上下関係のある職場のルールが
自分の前に立ちはだかる障害物に思えたりして
心が満たされているときにはありえない
他人のせいにしてしまい
常識を逸脱するという、、、はけ口をみつけてしまう、、、。
病気で来院しても、原因の解らない訴えで、あちこち痛がったり、、、
戦後の貧困家族の中には
家庭内のしわ寄せが、病人をつくってしまったり、、、
娘の行基の原因が母親の孝導に有ったりと、、、
「お父さんはね、、、医学というよりは、、、
患者さんが先生であったことを、
物語のように話してくれました。
戦前は「お坊ちゃま」として育っていたであろう、、、父。
慈恵会病院の本院で博士論文の出来上がった年に
富国強兵時代の政策で
外科医は戦場に行くことで
御国への御奉公に勤めることになりました。
外国の地で、男の子2人、女の子一人、
流産が一人、、、
ボロボロになって、戦後の日本の
疎開地に、七つの村で
唯一の外科医として
日夜、、、、いつ眠るのかという激務をこなしながら、
戦地での勤務を思えば、
今は、夢ではないかと、
と中に目が覚めた、、、と言っていた。
大陸からの連絡船の最後の便は、
窓が完全に閉められて、
外が見えない海を渡って帰還できたと言っていた。
小学校6年の時
私は両親とともに
東京の下町の
お寺の跡地に母と兄弟で帰ってきました。
父は疎開地に残り、新規開業の為の準備をしていたそうです。
父の故郷は市ヶ谷の文人道りの近くで、
早稲田中学に通っていたそうです。
弟の叔父さんは早稲田中学を出て、
戦後、学徒出陣から、生き残って帰還したあと、
28歳で早稲田の理工学部に進学して
学生時代に出逢った学芸大学を卒業した先生と結婚しました。
明治時代に生まれた祖父は現在の筑波大学の前身の
師範学校を卒業して
27歳でアメリカに留学して
晩年は校長先生やら、町長さんやら、
三つ揃えの姿しか覚えてないほど
戦後の復興の社会参加で飛び回っていました。
父が東京の家族と合流できたのは、
御爺ちゃんやお祖母ちゃんが
開業資金を貸してくれたことが大きかったと
晩年は、毎月、祖父に生活の感謝金を渡す名目で
健康管理に行っていました。
東京に父母が合流できたとき、
私たち兄弟は中学生でした。
兄から見た父、
母から見た父
私から見た父
思い思いに畳に円陣の家族は
喜びで、絵を描きました。
同じモデルであるはずなのに、、、
兄弟という同じ環境で育っていても
父母は別人のように表現されています。
<人は、見る人の次元で表現されるから
本当の父母を知っているには、、、
各人の「心の造詣の深さ如何によるものであって」
あの人は、、、
こういう人である、、、という形は無くて
千差万別であることを
このときに思ったのでした。
まして、
自分が思う自分は、
自分を見ている人の数だけあるという事だと、
形亡き父母の姿は
永遠に私の心の中に住んでいるのです。
そうなると、、、写真が映し出す「形」というのは
光によって違いますが
人間の心の器を正確な陰影で映し出していることだけは確かです。
人って、、、いったい???、、、何を持って、、、「人」なのか?
このえを描くことで、
私は一生涯、、、化粧をしない自分で生きてきました。
美容院に行って、パーマをかけたのも、
3回ぐらいです。
伸びてくるままの髪型で、
長すぎるときは、
おさげにして、鏡を見ながらバッサリと
自分の勘に頼って
長さを決めました。
文字道理、、、髪は私の友達でした。
友達は、、、髪、、、だけだったかもしれません。
社会に順応した、ルールで生きてきたので、
親友というのは、
相手が私を親友扱いしてくれる人が
親友だろうと、、、
心の扉は開けていたのではないかと、、、
小さな垣根を張り巡らしていて
垣根の内側から話に応じていた他人のような自分が
笑顔で、過ごしてきたような気がするのです。
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