枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

選択の余地

2010年10月20日 | Weblog
 金木犀も、銀木犀も散ってしまった。秋薔薇が蕾をつけていたのが、今朝は咲きそうになっている。ピンクのを2本と、白を1本切った。挿し木で芽が出たのに、小さな蕾が見える。これは携帯で撮った。桑の木を見ると、黒い物が生っている。赤いのもある。あれれ・・・実がなっているんだ。取って口に入れてみる。あらまっ美味しい。孫に声をかけ食べさす。今時、桑の実が熟れるとは?気候が春の終わり頃と同じ条件らしい。

 しかしこれは拙くないか?枇杷葉の苞に、多少なりとも影響がなくはないか?花芽がちゃんと咲くのか。それらが実になるのかは、甚だ心許無い。どんなに気をつけていても、自然には逆らえない。太陽の恵みや、風の吹き方に、雨の降り方にも、人間の決められることは、何一つない。当たり前の事実を、そのままに受け入れられることは、極めて無駄の無いことだが、至極難しいこと。

 リエさんが贈ってくれた本は、そういったとても小さなことに感謝したり、想いを馳せられることによって、ありのままを受け取ること。これが幸せでなくて、何であろうか?有名なデザイナーの服を着、飾り物をして、贅沢をしていることが、幸せとは思えない。地球上には、明日の食べ物に困っている人も居る。国に依っての違いや、生活習慣の差は否めないが、日本人は、幸せを履き違えているのでは?

 貧乏のどん底の生活をしてみればいい。食うや食わずのギリギリの中で、そういった物は、哀れみや蔑みこそあれ、生きていくことでは、価値は薄い。以前は過去の事実であっても、今は現実に置かれている立場が大切なのだ。そのことに気づかなければ、我が身を滅ぼす。慢心、というのか。驕り、というべきか。人間の資質の違いが、立場を狂わせ、事件を引き起こす。総じて、自分を見誤ったことに尽きる。

 旧暦を見ていると、とても不思議なことに思い至る。陰陽師の安倍の清明も、宇宙の仕組みと、人間の生死を、捉え方に依っては、操れるものではない。と、知っていたようにも思える。知れば知るほど、深まり往く謎に突き当たる。命の根源は、何処から来て、何処に向かうのか?其処に往って還って来た者も、逝って終った者もいよう。或いは恐怖に身が竦んで、行かなかった者もいる。光と闇の狭間には、何があるのだろう。

 リエさん。『きみは地球だ』、とても難しいね。人間として、当たり前の事柄なんだけれど、こういったことへの想いを、一体何人が持てているだろうね。私は、枇杷葉と関わって、心底ありがたい。と感謝している。御仏のお導きに違いない。心に念じる、願う、祈ることで、苦しんだり、悲しんだりの挫折感で、直向きに前を向くことは、とてもありがたいことです。

 枇杷葉の、苞の状態です。とても香りが佳く、心身ともに癒されます。
コメント
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