潮の変化が体調に及ぼしたりや、満ち潮や引き潮も少なからず影響するらしい。二・三日すばるが部屋中を駆け回るわ、わたくしの耳が痒くて堪らないと異変を知らせていた。Aさんの手当に連日通っているのも、同じ症状が起きて来て分かり易い。従って、幹部への枇杷葉生葉を貼るにも、疼きが教えてくれるのが有難い。
再入院も決まっていてその間での施行だが、生葉が真っ黒から転じて来ない。弁当の配達が無い時には午前中に、ある時には帰路を寄ろうとの算段。昨夜は、ぐすっり眠れて今朝の目覚めが爽やかであったそうだ。わたくしは医者の資格はないが、常日頃からの拘わりで言葉が口から出た感じで症状が解る。本人も納得で。
枇杷葉茶の恩恵を話していたら、入院中には洗髪も入浴も我慢していたそうだが看護師さんから好い匂いだと言われたと話す。枇杷葉の匂いは自然な香りであり、それが本人の持つ体臭と相まってのことで微妙に異なる。科学的な香料も多々あるけれど、自然のままでは毎年匂いが異なるらしい。で・持ち味が匂い立つの。
香害とも云うが、人工的な物は反吐が出そうな位になるし臭い。洗濯の香料にもヘドモドなので気分が悪く辟易している。ヘリオトロープも花からだとけぶるような香しさがあるが、人工的に調合するとげんなりしてしまう。枇杷葉には、葉茶も花芽茶や種茶にもやさしい香りがあって好ましい。体臭も消してくれるのよ。
で・Aさんは点滴を刺したり検査で来られた看護師さんに、とてもいい匂いですね と言われたそうだが自分では??だったらしい。何気ない香りと云うのも、自分では慣れてしまっているので気づかないもの。年齢を重ねるとなる加齢臭が消えるのは確実なの、災害時に入浴しなくても平気な理由は枇杷葉の援けでもある。
今朝の新聞の余禄を読んでいたら、この季節のことが書いてあって若葉のころと呼ぶそうだ。ザ・タイガースの再結成でシローさんが歌ったのだが、あれは映画の小さな恋のメロディ。萩尾望都作品では三月うさぎが集団でで、こっちはマークとのんの。どこかで聴いたと記憶が若葉のころだったとは、作曲ビージーズ。
一般的な季語と云うのは、年代と共に変化があるものとは思うがどうにも違和感が抜けない。旧暦では未だ弥生で卯月でも皐月でもない。5月であってメイなのを皐月と云うのは可笑しい、旧暦ならそれでの暮らしをすればいいし、米国や諸外国のやり方が良いならそっちで。それを何もかもひっくるめてだと支離滅裂。
日本の伝統や古来からのしきたり等を、新暦に合わせてするのは異なることに気づいてほしい。朔日と云うのは旧暦での用い方で1日・月の始まりをさくび(朔日)というのだ。翌日は二日であり更に翌々日は三日である。拘りをするなら徹底しての使い方でありたい、と個人的には思うのです。勝手な解釈は厭だなぁ…。
強風に煽られている通草をじっと見ていたら、2㎜程の小さな実が見えてびっくりした。わおっ、あちこちにあるわあるわでニンマリである。今年は思いの外の生りであり、酢の散布が効いているのは確かだ。余りにも小さな実であるから気づかなかったが、他者のブログで付いている写真を見つけた。強風が受粉したの。
再入院も決まっていてその間での施行だが、生葉が真っ黒から転じて来ない。弁当の配達が無い時には午前中に、ある時には帰路を寄ろうとの算段。昨夜は、ぐすっり眠れて今朝の目覚めが爽やかであったそうだ。わたくしは医者の資格はないが、常日頃からの拘わりで言葉が口から出た感じで症状が解る。本人も納得で。
枇杷葉茶の恩恵を話していたら、入院中には洗髪も入浴も我慢していたそうだが看護師さんから好い匂いだと言われたと話す。枇杷葉の匂いは自然な香りであり、それが本人の持つ体臭と相まってのことで微妙に異なる。科学的な香料も多々あるけれど、自然のままでは毎年匂いが異なるらしい。で・持ち味が匂い立つの。
香害とも云うが、人工的な物は反吐が出そうな位になるし臭い。洗濯の香料にもヘドモドなので気分が悪く辟易している。ヘリオトロープも花からだとけぶるような香しさがあるが、人工的に調合するとげんなりしてしまう。枇杷葉には、葉茶も花芽茶や種茶にもやさしい香りがあって好ましい。体臭も消してくれるのよ。
で・Aさんは点滴を刺したり検査で来られた看護師さんに、とてもいい匂いですね と言われたそうだが自分では??だったらしい。何気ない香りと云うのも、自分では慣れてしまっているので気づかないもの。年齢を重ねるとなる加齢臭が消えるのは確実なの、災害時に入浴しなくても平気な理由は枇杷葉の援けでもある。
今朝の新聞の余禄を読んでいたら、この季節のことが書いてあって若葉のころと呼ぶそうだ。ザ・タイガースの再結成でシローさんが歌ったのだが、あれは映画の小さな恋のメロディ。萩尾望都作品では三月うさぎが集団でで、こっちはマークとのんの。どこかで聴いたと記憶が若葉のころだったとは、作曲ビージーズ。
一般的な季語と云うのは、年代と共に変化があるものとは思うがどうにも違和感が抜けない。旧暦では未だ弥生で卯月でも皐月でもない。5月であってメイなのを皐月と云うのは可笑しい、旧暦ならそれでの暮らしをすればいいし、米国や諸外国のやり方が良いならそっちで。それを何もかもひっくるめてだと支離滅裂。
日本の伝統や古来からのしきたり等を、新暦に合わせてするのは異なることに気づいてほしい。朔日と云うのは旧暦での用い方で1日・月の始まりをさくび(朔日)というのだ。翌日は二日であり更に翌々日は三日である。拘りをするなら徹底しての使い方でありたい、と個人的には思うのです。勝手な解釈は厭だなぁ…。
強風に煽られている通草をじっと見ていたら、2㎜程の小さな実が見えてびっくりした。わおっ、あちこちにあるわあるわでニンマリである。今年は思いの外の生りであり、酢の散布が効いているのは確かだ。余りにも小さな実であるから気づかなかったが、他者のブログで付いている写真を見つけた。強風が受粉したの。