国分寺資料館付近と楼門
国分寺資料館内の七重の塔(レプリカ)付近も紅葉が綺麗。
赤い七重の塔とのコントラスト美しい。
旧本多邸の裏門付近。
古風な門構えに散り落ちた枯れ葉、晩秋の風情が漂う。
楼門前には一本のモミジがあり、今まさに紅葉真っ盛り。
角度的に楼門全体を入れることが出来ないのが少々残念。
11月25日、紅葉の絶好のチャンスに恵まれ素晴らしい紅葉の写真を写すことが出来た。
国分寺資料館付近と楼門
国分寺資料館内の七重の塔(レプリカ)付近も紅葉が綺麗。
赤い七重の塔とのコントラスト美しい。
旧本多邸の裏門付近。
古風な門構えに散り落ちた枯れ葉、晩秋の風情が漂う。
楼門前には一本のモミジがあり、今まさに紅葉真っ盛り。
角度的に楼門全体を入れることが出来ないのが少々残念。
11月25日、紅葉の絶好のチャンスに恵まれ素晴らしい紅葉の写真を写すことが出来た。
風邪をひく
今年初めからこの日まで風邪を引いたことが無かった。
3~4日前から何となく鼻がむず痒く洟が出る。
何時もならば自然治癒に任せるのだが、この所色々と予定が詰まっているため、何とか早く治したいと医者に行く。
抗生物質とか何だとか、数種類の薬が処方された。
ええ!こんなに飲むのと驚いたが、早く治すには仕方ないか・・・・と飲み始めた。
2日ほどクラブ活動を休む。
今朝は何とか治りつつあることを実感している。
風邪をひいても寝込むことは今までも無い。
外出はせずに室内にいるが、例によってカメラを持たないと気が済まない。
家の中で被写体を探す。
花器の中にはサツマイモの切れ端が活けてある。
切れ端から出た葉が何とも格好よく伸びていた。
探せば見つかるものだ。
我が家では野菜の切れ端を水栽培のようにしてそこから出る葉や芽を楽しんでいる。
この花器は30年ほど前に京都三千院を訪れた時に土産として購入したものだ。
撮影しながら過ぎ去った昔を思い起こした。
10月上旬
初秋の昭和記念公園を訪れる。
初秋のボート池。
ススキの穂が開きそよ風に揺らいでいた。
小春日和の天気に恵まれ、ボートをこぐ人、池の周囲を散歩する人達で賑わっていた。
ソフトモードにセットし、初秋の雰囲気を出して見た。
何時もの散歩コースをたどり、蓮池(勝手に自分でつけた名)に出る。
咲き残ったスイレンが彼方此方に残っていた。
たまたま花の近くに鯉が現れ、餌をねだるしぐさが可愛らしかった。
この池もソフトムードに仕上がるエフェクト操作で撮影。
何処となく絵画的に見える所が面白い。
ハーブ園には名は知らぬが黄色い花が咲いていた。
左側の枯れた花が気になったがそのまま写してしまった。
これもソフトな感じに仕上げた。
暫く歩くと、金木犀の匂いが漂ってきた。
見ると金木犀の大木があり、花がびっしりと付いていて芳香を放っている。
青空の中の黄色い花が美しかった。
ここから今日の目的の一つコスモスの花畑に向かう。
大谷寺と庭園
平和観音の近くに大谷寺(大谷観音)がある。
大谷寺は凝灰岩層の洞穴内に堂宇を配した洞窟寺院。
本尊は凝灰岩の岩壁に彫られた高さ約4.5mの千手観音で、一般的に大谷観音と呼ばれている。
大谷観音と云えば大谷寺のことを言う。
この寺は外観の撮影はOKだが、堂内はすべて撮影禁止になっている。
カメラに手を触れただけで制止されると云う厳しさだ。
堂内の岩壁に彫られた石仏は見事なものだった。
これらの石仏を紹介出来ないのが残念。
庭の所々に仏像が安置されている。
寺の裏手に庭園があり、その中に弁天堂があった。
弁天堂の両側には白蛇の置物があり、それに触れる事で幸せになると云う。
庭園内の木々は微かに色付き始めていた。
短い時間だったが素晴らしい仏像を拝することが出来、心が洗われるような気分だった。
表参道付近
表参道、原宿駅近く。
代々木公園内の道路が日曜日に開放され、1975年頃、「竹の子族」と呼ばれた若者たちが、色々なパフォーマンスを繰り広げ話題になった。
1964年頃、既成の秩序にとらわれず、自由な考え方や行動を示す青年たちが現れた。
これらの若者たちを「みゆき族」と呼んだ。
彼らが銀座みゆき通り近辺にたむろしていた事から、「みゆき族」と呼ばれるようになった。
この時代、自由に自分を表現したいと云う若者たちが輩出した時代だった。
その頃の、原宿竹下通り。
「竹の子族」と呼ばれる若者たちで賑わった。
現在も若者たちのメッカになっている。
アイスキャンデー売り。
エアコンが出来たのは1958年頃、当時はクーラーと呼ばれ、冷房だけだった。
まだ高価で一般家庭にはまだ普及していなかった。
庶民のクーラーは、かき氷にアイスキャンデーだった。
アイスキャンデーは一本10円だったと思う。
私も学生時代にアイスキャンデー売りをしたことがある。
買う側は涼しくなるのだが、売る側は汗だくだった。
ポートレート
この頃は、知人友人のポートレートを撮影する事も多かった。
ハイコントラストな男性のポートレート。
ハイコントラストにすることで男性の力強さを表現しようとしたものだ。
叔母の紹介で知り合った女性。
有る喫茶店の中での撮影。
この頃の撮影は比較的ローキー気味の写真が多かったような気がする。
こんなコミカル?な写真も撮った。
場所は早朝の新宿、西口京王デパート横の坂道だ。
現在とは全く違った道だった。
こんな馬鹿げた写真もあった。
今思うと何を意図したのか自分にも良く分からない。
この写真も何だったのだろうか、女性の躍動感を表現したかったのかも知れないが、今となってはその頃のイメージがはっきりしない。
この頃はとにかく何でもいい、何か自分の思いを写真にしたいと云う事のみを考えていた試行錯誤の時代だった。
1954年度 富士写真コンテスト
1954年度フジフイルム全国写真コンテストが開催された。
プロの部、アマチュアの部、カラーの部の3部門があった。
私は、アマチュアの部に応募。
全国を6ブロックに分けて予選があり、予選通過作品が本選にノミネートされて、順位が決定される。
私は関東甲信越ブロックに応募。
全国の応募数約9000点程有った。
幸運にもアマチュアの部3等に入選。
獲得賞金は、賞金3万円と副賞があり、計5万円相当であった。
ちなみに1等賞金は10万円、2等賞金5万円プラス副賞であった。
当時のコンテストでは最大の規模だった。
その後「浴衣の写真コンテスト」で、左の写真が最優秀、右が佳作に入選。
賞金5万円獲得。
モデルは例の友人の妹で、私の妹の同級生。
当時の彼女は17歳だった。
彼女には賞金の一部を手渡し、次の撮影に備えて私の賞金の中から彼女の衣装などを購入した。
この年を皮切りに、コンテスト応募に熱が入った。
田んぼの案山子
川崎平衛門像の前の方には写真のような小川が流れ、そこに白い彼岸花がずらりと並んで咲いていた。
その前には田んぼが広がり、稲が黄色く色付いていた。
その土手には白と赤の彼岸花がずらりと並んで咲いていた。
そして田んぼには案山子が十二~三体並んで立っていた。
こんな具合に並んでいた。
案山子が多すぎて、田園風景にしてはやや不自然な感じだ。
一眼レフカメラを持ったカメラマンで大賑わいだった。
皆さんどんな写真を撮ったのか見たかった。
彼岸花と案山子を田んぼをバックに遠くの案山子を入れながらアップで撮る。
同じく彼岸花を主役に案山子と田んぼを入れ、田園風景とまでは行かないがそれに近い風景として写す。
写真は、カメラの特殊効果を利用して絵画的な面白さを表現して見たもの。なかなか行けてると思うがどんなものだろう。
真知子巻き
久し振りに古いアルバムを引っ張り出して見た。
私が若い頃1949年頃から1955年頃に撮影した写真が出てきた。
私が18歳ころから25歳頃だ。
写真は、真知子巻きをした女性。
1953年(昭和28年)に「君の名は」と云う映画の岸恵子演ずる真知子がストールを頭からかぶるように巻いていた事から、それが真知子巻きの名で流行し、一世を風靡した感が有った.
この映画は1952年(昭和27年)にNHKラジオで放送されたドラマ、「君の名は」を映画化したものだ。
このドラマの放送が始まる午後8時から9時の間は「銭湯から女性が消えた」と言われたほどの人気だった。
翌年それが映画化され、女性の間では真知子巻きが大流行、猫も杓子も真知子巻きだった。
写真は真知子巻きをした女性と、当時吉祥寺にあった映画館、武蔵野映画の夜景イルミネーションとを合成したものだ。
神輿と八幡神社
御幣をもった人を先頭に神輿が来た。
この神輿も女性が担いでいた。
神輿はダイヤ街に入ってきた。
神輿を担ぐ人、手拍子をとる人、スマホで撮影する人など女性が目立つ。
五日市通りに面した八幡神社。
「武蔵野八幡宮例大祭」9月15日と書いた幟りが立っている。
吉祥寺の氏神様としての八幡様の例大祭は15日なのだ。
参道の両側には露店が並び、大勢の参拝客で賑わっていた。
子供の頃このお祭りが楽しみで、待ち遠しかったものだ。
普段は小使いとして10銭貰うのがせいいぱいだったが、このお祭りの日には、母にせがんで50銭を貰い、出店で物を買うのが最高の楽しみであり、贅沢だった。
{昭和十五年、(1940年頃)10銭は現在の1円の1/10、当時の屋台で食べる「支那そば」が一杯10銭、銭湯の子供料金が10銭だった}
社殿は作り変えられたのだろうか、真新しく立派になっていた。
境内にしばし佇み、子供の頃の思い出に浸っていた。