閑居シニアの写真館

リタイヤして30年、いろいろと写真を写し続けています。最近は身近な風景を見たまま気ままに写真を楽しんでいます。

私のカメラ変遷史2

2023-09-08 10:00:05 | アルバム
私のカメラ変遷史2

中学(旧制5年制)4年生になる年から新制高校3年制に変わり、新制高校1年生になった。
高校在学中に、リコーカメラより日本初の二眼レフカメラが発売された。
当時の大学卒の初任給が4千円前後の頃で、カメラの価格は確か7500円位だったと思う。
日本初の二眼レフカメラと言う事でプレミアが付き、12000円位した。
二眼レフカメラは距離合わせが自動に出来、ピンボケが無くなった。
このカメラは、ボデーはブリキ板のようなちゃちなボデーだった。


父に10000円を借金して、このカメラを購入。
ピンボケが無くなるだけでも最高にありがたかった。
その後,1952年にワゴーフレックスと言うカメラがワルツと言う会社から発売された。
これはドイツ製のローライフレックスと同じような形をした本格的カメラだった。
価格も23000円と少々高かったが、リコーフレックスを売り払い、残高を父から借金して購入した。


この頃、国内では懸賞写真が大流行だった。
カメラの宣伝、企業のPR、観光名所等、毎月2~3件の募集があった。賞金は当時としては破格な物で、一等賞金5万円はざらだった。
中には10万円と言ったものもあった。
大学卒の初任給が4~5千円くらいの時代だった。
そんな中、ワゴーフレックスの発売元から、ワゴーフレックスで撮影した写真コンテストがあった。
早速購入したワゴーフレックスで友人の妹のポートレートを撮影し応募、見事に最優秀賞を獲得、賞金5万円と副賞商品3万円相当を手にした。
この賞金で父からの借金を返済した。
この時から写真運が付いてきたようで、懸賞写真に頻繁に入賞するようになった。

注・大学卒初任給は記憶が曖昧のため、違っていたらご容赦下さい。
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私のカメラ変遷史1

2023-09-05 09:27:51 | アルバム
私のカメラ変遷史1

老骨が写真に興味を覚えたのは、小学校5年生(1943年)の時だった。
工作の時間に「ピンホールカメラ」の制作が有り、カメラに印画紙を入れ、一時間程被写体に向けておくと、白黒反対(ネガ)の写真が写る。
それが面白くすっかり「ピンホールカメラ」にのめり込んでしまった。

戦時中ではあったが、「東郷カメラ」と言う玩具のカメラがあった。
それは簡単な仕掛けのカメラだったが、一応ネガの現像が出来た。

撮ったフイルムを押し入れの中で現像する事が出来た。
そのネガを当時はやりの「日光写真」の要領で印画紙にプリントする事が出来た。
日光写真と言うのは、ネガに当たる紙製のものが有り、偉人の顔とか有名観光地の風景、漫画のキャラクターなどがあった。
そのネガと印画紙を重ね合わせ、ガラス板に挟んで太陽に向けて数分置くと、ポジの写真が出来る仕組みで、子供の間では人気者だった。

東郷カメラによって、益々写真が面白くなり、すっかりはまってしまった。

1945年8月15日太平洋戦争は終戦、旧制中学(5年制)の2年生だった。

1944年4月に愛知県に疎開していた。
1946年3月帰京。

中学一年生の頃には玩具のカメラもなくなっていて、写真からは遠ざかっていた。
高校3年の時、同級生が昔のカメラを見せてくれた。
その頃はまだフィルムも無く、ただカメラを眺めるだけだった。
時たま手に入ったフィルムは印画紙をフイルム状にしてカメラに装着できるようになっているものが有り、仕上がりはピンホールカメラと大差なかった。

1947年頃、父の友人がカメラを貸してくれた。
その頃にはフィルムも幾らか出回るようになっていた。
借りたカメラは蛇腹式のカメラだった。


平らに格納されているカメラで蛇腹を引き出し、セットする様になっていた。
ファインダーも格納されているものを開いて使うようになっていた。

露出合わせは手動、シャッター、絞り、距離合わせ(目測)は自分でセット。

特に距離合わせは目測で、カメラの距離目盛にセットする。
露出合わせ(シャッター,絞り)はその日の、天候や撮影場所によって自分の感でセットする。

フイルムは6X9センチの大きさで8枚撮りだった。
写したフイルムのコマ送りも勿論手動。
カメラ背面の赤い小さな窓に見える数字を一枚分送る。
写したらすぐに巻き上げる癖をつけないと巻き忘れて二重撮りになってしまう。

かくして8枚写し終えてカメラ店で現像してもらい、出来上がったフィルムを見ると、満足な露出とピントが合っているものは、上手く行って、4枚くらいと言った感じだった。
5割が成功ならば万歳と言った所だった。
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一寸涼しかった日

2023-09-03 09:17:24 | アルバム
一寸涼しかった日

この二~三日湿度が低く一寸涼しい日があった。
一寸涼しいとはいえ気温は32度位、曇天で日差しが無い分幾らか涼しく感じる。
そんな日の夕方、暫くぶりに一寸した散歩に出た。
歩けばやはりすぐに汗ばんでくる。



散歩の度に気になっている我が家近くに唯一残った農地、一か月前には畑には里芋が奇麗に植えられ、ああ・・今年もこの農地は宅地化さにれず残っていると安堵したものだが、何と里芋畑は雑草に埋もれてしまい、手入れが全くされず、里芋畑の様子は全くなくなっていた。
遠くに見える畑も雑草に覆われているようだ。
人手が無いのだろうか、或いは農家に何か異変があったのだろうかと心配になった。 


反射ミラーに映る路地二方向、右に行く事にした。



塀の脇にオシロイバナ?が道端に植えられている。
自生したものかも知れないが、その分道幅が狭くなり、歩行者に危険が及ぶかもしれないと危惧する。


終わりに近いコスモスが乱雑に植えられていた。


内藤神社に出る。
内藤町の氏神様だ。
この神社の鎮座する所は日吉町だ。
日吉町に何故内藤町の鎮守様が鎮座するのか。
その昔この辺りは内藤新田と言う新田開発地で、そこの鎮守様だった。
何時の事かは知らないが、内藤町は南に移動し、その後が日吉町となった。
その際、内藤神社のみが日吉町に残された。
今でも秋の祭礼は内藤町の人々が執り行っている。




境内にはお稲荷さんも祭られている。


内藤神社を後にして短い散歩を終わった。
脊椎管狭窄症発生以来、歩行が困難になり始め、短距離しか歩けなくなって来た。
何時まで散歩が出来るだろうか自分にもわからないが、歩けるだけ歩こうと心に決めている。
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花と遊ぶ

2023-09-01 09:48:58 | アルバム
花と遊ぶ

花と遊ぶと言うのははおかしいが、花を撮影する時は常に自分なりに見た花、感じた事を自分なりの表現で、写して見たいという気持ちになる。
時によってアートフィルターを使う事もあるが、多くは構図にこだわる事が多い。
どちらかと言うと写真作品を意識している。

ブログにアップする写真はそのような事にこだわらず、現場の雰囲気を伝えると言った感じで、比較的安易にシャッターを切ったものが多い。


白いバックに横長に花を配した構図。


同じ白バックに置いたバラの花。
ハイキーがかった調子に素粒子効果を狙う。


黒いバックにスポットライト。
赤い花を強調する。


一輪挿しのバラ。
これもバックは白で、ややハイキー的な表現。


これもハイキーな表現。
窓辺の暖かい雰囲気を出して見た。


時にはハイキー調で合成写真。


野外では、アジサイの花一輪に当たるスポットライトふうの光を使い、アジサイの美しさを強調。


バックを暗く落とし、バックに玉ボケの美しさを取り入れ、メルヘンチックな表現にしている。
この様に花の撮影では色々と遊んでいる。
花一輪をどのように写すか、あれこれと試行錯誤するのが楽しい。
歩行も困難になりつつある老骨にとって、花と遊ぶ時間が益々増えている。
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