皇帝クラウディウスが妻の野望により命をたたれたあとを継いだのは、わずか16歳の前皇帝にとっては義理の息子、すなわち2番目の妻アグリッピーナの連れ子であるネロだった。アグリッピーナはまだ少年でしかなかった息子、ネロの方が自分の意のままに操れるとでも思ったのかもしれないが、ネロとて いつまでも少年ではない。アグリッピーナが息子の教育係に…と選んだ哲学者であり教育係ともいえるセネカは、生まれはスペインだが、著者、塩野氏によると、本国ローマ以上にローマ人といえる人だった。若くして皇帝となったネロに、国を統治するとはどういうことか? 何が必要かを問いている。それが何とも深い。2000年近くも後の時代を生きる自分たちにとっても深いので、以下、21ページ1-3行目より抜粋して紹介したいと思う。
「同情とは、現に目の前にある結果に対しての精神的対応であって、その結果を生んだ要因にまでは心が向かない。これに対して寛容は、それを生んだ要因にまで心を向けての精神的対応であることから、知性とも完璧に共存できるのである」
もう一つ興味深いことは、「教育の成果とは、教える側の資質よりも教わる側の資質に左右されるものである」と塩野氏が述べている点だ。遂、教わる側としての自分はこれまでどうであったか、或は逆の立場では?と自分に置き換えて考えこんでしまう。さてネロ皇帝の場合はどうか?
当時のローマ市民には 「国家の敵」と断罪されてしまう。国家のために何もしなかったのではない。それどころかローマ市内が大火災に会った時など、暑さを避けてローマから50キロ離れた別荘にいたネロは、直ちにローマ入りし、テキパキと被災者救済の命を下した。ネロの敏速さには驚くばかりだ。「初めてのことじゃから」と言った何処かの国の高齢の首相とは違う。屋根がある公共施設すべては、避難民のために開放され、それでも収容しきれなかった避難民のために大量のテントが張られたという!ローマ人の軍隊はテント張りには慣れている。軍を指揮して被災者救済の指揮をとる若き皇帝は、ローマ市民にとって、さぞかし頼もしかったことだろう。実際、市民の支持率(世論調査などないだろうが)かなり上がったらしい。被災を免れた地区から小麦をすべて運ばせ、食料の提供も忘れなかったばかりか、すべて無料だったという。現代の日本なら…これは古代ローマの話。若き皇帝にも このようなシステムにも驚くばかりの私‼
では、なぜネロ皇帝は、悪名高き皇帝として名を残すことになってしまったのだろうか…? それについては割愛し、どうしても憎めないどころか私にはむしろ良き皇帝で、愛着すら感じる彼について、忘れられないエピソードを書いておきたい。
ネロはギリシア文化に魅せられていた。ギリシア発祥のオリンピック。これをローマでも始めようと提案。実際にローマンオリンピックがネロによって開催された。ただ、競技に参加するのは市民ではない。では、誰かというと、元老院の執政官たち…日本でいえば、国会議員や官僚たちだ。映画『テルマエ・ロマエ』の影響で、ローマといえば風呂好きローマ人の姿が浮かぶが、実際、古代ローマは上半身裸で風呂に入り、使用人である奴隷の前では、裸も見せてはいた。 見せてはいたのだが、競技場という言ってみれば公共の場で たるみかけた腹を見せつつは走ったり、やり投げをしたりする姿をローマ市民に披露することを好んだのでは勿論なかったらしい。皇帝の命令だから…と、元老院たちは仕方なく従ったようなのだ。「皇太子の命令だから。。。」と仕方なく安倍氏や大臣たちが競技場でかけっこをしたとしたら…市民である私は、お腹を抱えて笑い転げるかもしれない。実際、塩野氏の文章を読みながら、声を出して笑ってしまった。ネロ皇帝、やってくれるじゃない🎵ってなもんである。元老院側から見れば、苦々しく思ったようで、こうしたことも元老院を反ネロ皇帝派にしてしまったようだが…。
更にネロは、「歌う皇帝」でもあった。琴を演奏し、自作の歌を歌うことも好んだ文化人の皇帝は、地方で試しに歌手デビューしている。その時の拍手喝さいに気を良くしたネロは、ローマ市内で遂に中央デビューも果たした。のど自慢のようなイベントに出場し、一般市民と同じく歌い終わったあとも檀上に残り、最後の審査員の結果まで座っていたという。主催者は、ネロ皇帝には無条件に優勝を…と申し上げたらしいのだが、ネロ自身が断った! 檀上でハラハラしながら結果を待つ皇帝の姿にローマ市民の反応はどうであったのだろう。ローマンオリンピックで面白いものを見せてもらった時のように、やはり皇帝というよりは一般市民のようなネロに親しみすら感じたのではないだろうか。
最期は自ら命を絶つという運命を辿る皇帝ネロ。私にはどうしても憎めないのだ。実際、ネロに ノーと言ったローマ市民だったが、時期皇帝が立った、わずか数か月後には、ネロを懐かしむ声がささやかれることになるのだった…。
そして ここまで続いたユリウス・クラウデゥス朝も終焉の時を迎え、一年の内に皇帝が三人も変わるという混迷の時代となったのだった。