自分にとって多くの新情報が詰まった著書だったが、その中でも特に注目した、開戦を避けるために努力した駐日大使グルーと、日本を救った駐在大使、ハリマン大使(ソ連に駐在)二人の名前を紹介しておきたい。
以下は、半藤氏の著書から一部抜粋しつつ、まとめたもの。
開戦前、日本がいかに開戦を回避しようと努力しているか、について米国ワシントンに進言し続けた当時の駐在大使、グルー。近衛文麿首相がルーズベルト大統領とのトップ会談を望み、グルー大使も力になろうとしたが、ルーズベルトはチャーチルと会談中。ハルはグルー大使に耳をかさず、開戦となった。「あの時、首脳会談が実現し合意していたならば、日本の真珠湾攻撃は恐らくなかっただろう」とグルーは交換船で帰国の途、述べている。
(95ページ)
もう一人は終戦後の米駐ソ、ハリマン大使。スターリンは病死したルーズベルト元大統領との間に、「日本を二分割して統治する約束があった」よって、「日本占領にアメリカ軍司令官とソビエトの軍司令官、ふたりを置こう。」とソビエトのモロトフ外務大臣がハリマン大使に言う。それに対し、
「とんでもない、米国は日本と4年戦ったが、ソビエトはわずか2日ではないか。二日しか戦っていないソビエト軍になぜ日本の統治権の半分を渡さなければならないのか」とはねつけた。
これに対し、モロトフは、
「それはお前の勝手な意見ではないか。ワシントンに問い合わせて聴け。トルーマンはそのように言わないはずである」
ハリマンは、
「トルーマン大統領に聞かなくても分かっている。…全権は私にある」
といって突っぱねた。彼一人の判断でソビエトの要求を退けた。(のちに話を聴いたトルーマンも絶賛)
それでもソビエトは諦めず、
「北海道を留萌と釧路を結ぶ線で二つに分けて、その北半分をソビエト軍が統治したい…略」
この箇所を読んだ時、なるほど、北方領土を未だに返さない筈だ。日本を二分割、それがダメなら北海道の北半分をよこせ!と言っていた国なのだから、と思ってしまった。
ソビエトの要求(北海道に関しては、書簡でトルーマンに送ったらしい)に対し、トルーマンは、
「もはや日本占領軍最高司令官は、マッカーサーただ一人に決めてある。ソビエト軍は一人たりともその統治に加わることを得ず」
と返信。
スターリンはカンカンに怒り、その腹いせのように…
満州各地の工場などから機械そのほかを押収し、シベリアに運びはじめた。中国をはじめ連合国は仰天して抗議した。満州における日本資産の処理は共同協議のうえ決定されるべきと。しかしソ連は大砲などと同様、戦利品をうけとったにすぎぬ、と突っぱねる。日本の捕虜、シベリア輸送も大問題となった。第一に捕虜とはあくまでも国際法的には戦時捕虜であり、停戦協定、で武装解除した兵が、はたして捕虜なのか? 54万6千余名の将兵、それに一般人12万3千余名のシベリア輸送が始まった。
スターリンの野望の底までを見抜けなかったのは、敗戦でうちひしがれた日本のみではなく、戦勝の余裕のあったアメリカでさえも、だ。
世界戦史上、満州でソ連が行ったようなことをした戦勝国はなかった。連合諸国も「まさか あそこまでは…」と予測のつかないことであっただろう。(半藤一利:著『昭和・戦争・失敗の本質』2009年 新講社 158ページ~178ページ参照)
そして今、同じ著者による「昭和史」というタイトルの分厚い本を読書中。歴史に「もし…」はないが、色々と読みながら想像してしまう。歴史は世界情勢の中から日本を眺めるとより分かりやすいが、日本が全く知らない水面下でソ連、米国、イギリスといった各国によって日本の運命も決定されようとしていた、という、これまで知らずにいた面も多い。
PS Hawks カープに勝ちましたね。これで2勝1敗1引き分け。今夜もホームでの試合。赤ヘル応援団に負けないよう、声援を送るつもりです。
では、Happy All Saints' Day!