しらつゆもしぐれもいたくもるやまは したばのこらずもみぢしにけり
白露も時雨もいたくもる山は 下葉残らず紅葉しにけり 貫之 (60㎝×23㎝)
本歌出典の大元は古今和歌集の
“もる山のほとりにてよめる
白露も時雨もいたくもる山は 下葉残らず色づきにけり 貫之”
とのことで、滋賀県の守山と雨露が洩るとが掛詞になっていると。
先ずもって何故「伝 藤原行成筆 大字和漢朗詠集切」なるものを臨書するのか、
それは、この大字和漢朗詠集切は高野切第一種と同じ筆者によるものとされているからです。
(尚、三蹟の1人伝藤原行成となっていますが、彼でないことは定説(?)のようです。
またここでいう“大字”とは他の書写本と比べて大きい字という意味で、現在の書道展で見る大字とは違います。)
拙ブログでの書道は、年初から高野切第一種の臨書を主にやってきましたが、その延長線にあるともいえましょう。
そもそもの本体 『和漢朗詠集』は、
平安の中期、それまでの漢字、漢文から、我が国独特の和歌や仮名などの所謂“国風文化”が栄え、
両者が混在し始めた時代に編纂されたと。
(古今和歌集が914年頃、和漢朗詠集は約100年後の1012年頃)
編者は藤原公任卿、その名の通り“朗詠”に適した漢詩・漢文588句、和歌216首からなり、
漢詩などは白居易(白楽天)が最も多く(日本人のものも)、
和歌は古今和歌集などからで紀貫之の歌が最多とのこと。
構成は上下二巻で、上巻は春夏秋冬の歌を、下巻には雑歌を。
本歌は上巻の秋の“紅葉附落葉”の項に白居易等の漢詩の後に歌われているもの。
そして『大字和漢朗詠集切』は、関戸本、太田切、伊予切などと並んだ写本の一つ。
先に書きましたように伝藤原行成筆となっていますが、
彼ではなく高野切第一種の筆者と同じとされています。
私が入手したこの「平安朝かな名蹟選集 大字朗詠集切」には、
秋、冬、雑の中の数項目しか残っていないようで、
一つ一つが大変貴重な史料でもあります。
本作、書道として見た場合、先ず中央の“志多はの”のところが目に入り、
中でも“志”の字は最も多く練習しました。
1行目、“毛(も)”が3か所でてきていますが、微妙に字体を変えているのも驚きでした。
2行目、最下の“茂(も)”は初めて接する仮名で、
3行目、“ちし”の連綿での太細の変化のつけかたも印象的でした。
漢字で書かれた漢詩のところも立派な字でありますが、
やはり仮名の字がより美しく自分には見えます。
これからもこの仮名の数首を臨書したいと思っています。
ところで、高野切第一種の練習をする中で、
高野切第一種と大字和漢朗詠集切双方の筆者の関係や、
藤原行成と上二つの筆者、中でも行成の娘との関係などについて、
大胆で貴重な「推定」があることを知り、大変興奮したことがありました。
そのことを記した拙ブログを[参考]に再掲載させていただきます。
[参考]
(2023.2.20付拙ブログからの再掲載)
仮名書道の最高峰とされるこの高野切第一種は、一体誰の手によって書かれたのか。
今回はこのテーマについて、平安三蹟の一人・藤原行成(以下「行成」とも)との関係を探りながら
記したいと思います。
自分の勉強と記録を兼ねたやや細かい内容となりますが、お許し下さい。
高野切の練習を始めたころのある日、「角川 書道字典」(仮名の部)を見ていましたら、
次のことに気づきました。
ある字の出典に「高野切第一種」のそれがあり、
そのすぐ後に「大字和漢朗詠集切」(伝藤原行成)が続き、
この二つの字には、よく似た風情というか “気脈通じるもの”を感じたのです。
たとえば、あ、か行の2行の中だけでも、
あ(安)、う(宇)、お(於)
か(加、可)、き(支)、け(計、介、遣)、こ(己)
・・・などなど、多くの字でその同じ気脈を感じるのです。
「大字和漢朗詠集切」は、当時できた和漢朗詠集をやや大きめの字で書かれたものの切(きれ)で、
行成の筆と伝えられています。
角川の字典では、この二つの出典が相前後して配置され、その上あまりに似ているので、
第一種もあの行成と何らかの関係があるのではないか、と俄然、興味が湧いてきました。
そこでかって拙ブログ(2021.3.8付)でも取り上げた
「和様の書」(2013東京国立博物館等編集)を見直しました。
そこでの「大字和漢朗詠集切」の作品の解説を読んでびっくり、
何と、「筆跡研究の結果、この切は高野切第一種の筆者と同筆と明らかにされた」とありました。
両者は、角川の字典で感じた気脈どころではなく、第一種の筆者の方に纏められていたのです。
それでも、それでも「伝藤原行成」となっていることから、
行成と第一種の関係の解明は捨てがたく思い、あらためて
今回お手本の「高野切古今集[第一種]」(二玄社)を読み直してみました。
監修者・小松茂美氏は、巻末最後の最後の方で次のように記されています。
「・・・もしも、想像をたくましくすることが許されるとすると、
あるいは、この第一種書風は、女性の手ではなかったか。
歌合せの清書に乞われて筆をとった、名流の血筋をうけた藤原行成の女(むすめ)の手に、
それを推すことができないであろうか。」と。
第一種の監修を担当されるほどのお方が提起された大胆な説であり、
しかも行成との関係を示唆されており、二度目のびっくりでした。
因みにということで、今回ウィキペディアも調べてみましたが、そこでは、
「(第一種の)筆者については藤原行成の子の藤原行経とする説が有力だが、確証はない。」
となっていました。
(藤原行経は行成の三男、公卿、能書家 1012-1050(享年38歳)和様の書に彼の作品は見当たらず?)
どちらも“推定”ではあるものの、『第一種は行成の子供が関係している(かもしれない)』
ということのようです。
素人なりに、角川の字典で感じた“気脈通じるもの”から、
結果としてではありますが、第一種と行成の関係の、貴重な「推定」があるのを知り、
ひそかに満足している自分でありました。 (再掲載終わり)
何事も極めれば普通では見えない部分が見えるのでしょうね。
作品ですが、凡人には筆の流暢な流れ、濃淡、バランス等々が素晴しいぐらいしか言えないのが恥ずかしいですが、やはり素晴らしいですね。
こちらもいよいよ晩秋、色々な木々が時期をずらしながら紅葉し、落葉後も地面を彩っています。
ちょうど敬宮愛子内親王の誕生日特集を見ていたこともあり、日本人なら誰でも敬愛してやまない愛子様が学習院大学文学部日本語学科で学ばれておられる中に、作者が突き詰めているような、歌、文字、字体から作者、流派など日本語の奥深さを追求なさっているのではないかなと勝手に想像してうれしくなりました。