納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています
トレードは球団最高機密事項。話が固まらないうちに外部に漏れると纏まる話も壊れてしまうのが通例。しかしこの時期はどこからともなくキナ臭い話が漏れ伝わって来る。
◆ ロッテ:木樽、江藤放出
ロッテでとりわけ気になるのは高給取りでありながら成績を上げられなかった選手や、監督・コーチ陣と衝突して睨まれている選手の動向だ。ロッテのゴッドファーザー・カネやんは好き嫌いがハッキリしているだけに一度睨まれたらチーム内での立場は危うくなる。先ず筆頭はミネソタツインズから6万ドル(1800万円)で入団したブリッグス選手。シーズン終了を待たず既に米国に帰国してしまい、球団からの再三の来日命令を無視している。南海や近鉄からのトレード話もあり6万ドルをドブに捨てるくらいなら放出も有り得る。
年俸1200万円の江藤選手もトレード候補。カネやんは江藤を後期からコーチ補佐の肩書を付けようとしたが江藤は拒否。あくまでもバットマンとして働きたい希望があり他球団移籍は必至だ。他の野手では飯塚選手の成長と芦岡選手の遊撃コンバートで宙に浮いた千田選手とラフィーバー選手。投手では木樽投手と松岡投手もトレード要員である。補強ポイントは大砲の指名打者。狙いは太平洋の土井選手、巨人の柳田・淡口選手、大洋の中塚選手だ。淡口を獲得する為なら成田投手の放出も覚悟しているという。カネやんは昨年張本選手の獲得に動いたが交換要員の差で巨人に奪われて失敗。それを反省してレギュラークラス選手の放出も辞さない覚悟でいる。
◆ 阪急:狙いは巨人の末次
ベテラン勢の衰え対策が急務なのだが波風を立てたくない恩情主義が今まで大型トレードの実現を阻害してきた。トレードで獲得したのは巨人からの島野投手ただ一人。昨季は日本一になった為に余計にその傾向が強かった。新たな血を注入しない限り今季のように後期になるとスタミナ切れを起こすことは目に見えている。そこで交換要員として名前が挙がっているのが森本選手と大熊選手。森本は昨年にもトレード話があったが成立せず残留し、新人の蓑田選手とのポジション争いに勝ち、試合の勝負所で決定打を放つなど健在ぶりを示せた。
だが森本は34歳、大熊も33歳と選手としての峠は過ぎており今季以上の活躍は望めず交換要員としての魅力に欠ける。代打の切り札として活躍した正垣選手も交換要員の一人だが他球団が欲しがるかは未知数だ。交換要員のバランスが取れない場合はプラス金銭で交渉する構えだが、相手球団がその話に乗ってくる可能性は低い。一方で狙っているのは巨人の末次選手、ロッテの江島選手、広島の水沼選手らだが、いずれもレギュラークラスの選手だけに獲得するには阪急も相当の出血をする覚悟が必要だ。
◆ 近鉄:益川、梅田を狙う
昨季は若手選手の成長で後期優勝を果たしたが、相手球団に研究された今季は抑えられ優勝を逃した。したがってかなり陣容の入れ替えが予想される。近鉄が狙うのはヤクルトの益川選手と中日の梅田選手。益川は大阪興国高出身のファイター。梅田は今季太平洋から中日に移籍したばかりだが、実は近鉄も井本投手を交換要員に太平洋と交渉していたが中日に奪われてしまった経緯がある。近鉄にとっては2年越しとなるトレードだ。
他には日ハムの行沢選手を獲得して内野ポジションの総入れ替えを計画している。トレードで獲得するには当然放出する選手がいる。梅田獲得の為に中日の地元中京商出身の加藤投手を用意している。ただ加藤はプロ10年目で新鮮味に欠け、中日が拒否した場合はプロ2年目ドラフト1位指名の福井投手の放出も検討している。野手では昨年の永渕選手(近鉄➡日ハム)に続いてベテラン勢がリストアップされ、小川選手の名前が挙がっている。
◆ 南海:中日・新宅を狙う
再び中日とのトレードを模索している。去年は星野秀・藤沢の両サウスポーを獲得。今年は稲葉投手に目をつけている。稲葉は昭和47年には20勝をあげながらその後は精彩を欠いている。野村監督は稲葉の再生に自信を持っていて山内投手(巨人➡南海)のように過去にも投手を再生した例があり、稲葉自身も野村監督率いる南海入りを望んでいるだけにトレード成立の可能性は高い。使える投手が喉から手が出るくらい欲しい野村監督はヤクルトの上水流投手の潜在能力の高さにも注目している。
監督・捕手・四番を兼務する野村監督の負担を減らすことが最近の南海が抱える課題であり、ドラフトやトレードで補強を試みてはいたが、なかなか四番を打てる選手の獲得は難しい。そこで球団は捕手のトレードに狙いを定めて幾つかの球団と交渉してきた。今年は阪神から和田選手を獲得したが思うような活躍は出来なかった。そこで今度は中日の新宅選手やヤクルトの久代選手を狙っているが捕手はどこの球団も人材不足で獲得は困難だ。
9月に入り、いよいよ終盤を迎えたペナントレースの裏で早くも来季のチーム作りの動きが火花を散らしている。今年は監督の座は比較的安泰と見られているが、それでも2~3球団の監督は冷たい批判を浴び、更迭のピンチに晒されている。トレードによるチームの刷新を図るチームも多くなりそうだ。これは渦巻く怪情報の総集編だ。
ジッと耐えた秋山監督は留任するか?
秋風が吹き始めると首筋が寒くなる監督の名前がチラホラと聞こえてくる。いま注目されているのは秋山監督(大洋)、鬼頭監督(太平洋)、与那嶺監督(中日)、吉田監督(阪神)の処遇だ。中でも秋山監督と与那嶺監督は注目度が高い。昨今のロッキード事件で耳にするようになった " ガバナビリティ " つまり統治能力が欠如していると酷評されているのが秋山監督である。監督とは現場の最高責任者として全てをまとめ、取り仕切っていくのが業務内容である。大の男たちを自分の考え一つで自由自在に動かして勝負する。負わされる責任は大きいが、やりがいもまた大きい。
ところが現在の秋山監督に全面的な指揮権はない。攻撃・守備の権限はボイヤーヘッドコーチが握り、投手に関しては児玉投手コーチとの合議制となっているが実際の投手起用は児玉コーチが決めている。要するに秋山監督はお飾りであり、選手交代を審判に告げに行く伝達係に過ぎない。先日のナゴヤ球場での中日戦、草薙球場での阪神戦では試合中にも拘らずベンチを抜け出してタバコを吸っている姿を目撃されている。それもベンチ裏で一服ではなくビジター用の控室や場内放送室の中で腰を下ろしてくつろいでいた。「今のお前はツキが落ちている。しばらくボイヤーに任せてみろ」との中部オーナーの鶴の一声で現場の指揮権を剥奪された秋山監督の何やら考え込んでいる後ろ姿には孤独の影が滲んでいた。
「成績不振の責任を取って身を引くのは簡単だ。しかし与えられた任務を途中で投げ出す訳にはいかない。男にはジッと耐えなければならない時もある。今がその時だと思う」と秋山監督はジッと我慢の子を決め込んでいる。球団内部ではこの秋山監督の忍耐力を評価し、来年もう1年様子を見て留任させてもよいのではないか、という声もあるがボイヤーコーチの手腕に期待する勢力との内部対立が顕著になってきており秋山監督の去就は流動的だ。最終的な決定をする中部オーナーの胸の内には別当薫氏をはじめ、2~3人の候補者が存在していると伝えられている。
牧野の線より与那嶺監督留任が強い
はっきり言って最も安泰と見られていた中日・与那嶺監督がBクラス転落でにわかに「もしかしたら危ないかも」という空気が漂い始めている。小山球団社長の信頼が厚く与那嶺監督の任期はあと1年残っており留任の見方が依然として強いのだが、結果が全ての勝負の世界では「絶対」はない。仮に監督解任となったら次期監督は誰か?第一候補は2年前まで巨人のヘッドコーチだった牧野茂氏であることは名古屋地区のマスコミ関係者の間では公然の秘密となっている。
昨年末、名古屋市内のホテルで牧野氏の長女・弘子さんの結婚披露宴が催され、来賓に招待された小山球団社長がスピーチの中で「牧野君はいずれドラゴンズの監督を引き受けてもらいたい人物である」と発言した。勿論、リップサービスだろうが当時それを伝え聞いた与那嶺監督がわざわざ東京から名古屋の球団事務所に駆けつけて発言の真意を問い質したというのだから穏やかでない。結局小山球団社長が「他意はない」と否定したことで一件落着した。折も折り、時期を同じくして中日OBの杉下茂氏がライバル球団の垣根を越えて巨人の投手コーチに就任したことも牧野監督誕生の現実味が帯びた原因の一つである。
だがこの小山発言を快く思っていない中日新聞幹部がいる。「中日出身でありながら巨人のヘッドコーチとして花を咲かせたのが牧野だ。ただ牧野は選手として大成したわけではないから中日色がそれほど強くなく名古屋のファンも大人しくしていたが、今度はスター選手だった杉下までもが讀賣の軍門に下るとは何たることだ」といたく気分を害しているようで、巨人の手垢がついた " 牧野監督 " は聞捨てならない発言だったらしい。当の牧野氏は最近、中日に近い関係者に「中日のウォーリーは幾ら貰っているの?エッ1800万円、ずいぶん安いんだな」と尋ねて驚いたそうだ。牧野氏の年収は2500万円ほどで余程の好条件を提示されない限り監督就任はないだろう。したがって与那嶺監督留任が固いのである。
難しい田淵間違えば波乱
昨季は43本塁打で念願の本塁打王に輝いた田淵選手(阪神)だが今季は不振にあえいでいる。不振は打撃だけでなく守備の面でも「プロ失格」と評論家から酷評されるも本人は気にも留めていないから始末が悪い。田淵を持て余している阪神が田淵をトレード要員にして大型トレードを画策しているのではと書く在阪スポーツ紙は1社だけではない。トレードはないにしても、このままの状態が続けば大幅減俸は免れない。田淵は年俸3200万円の阪神きってのスター選手。昭和49年1200万円、同50年には2000万円の大台を突破して、昨年末の契約更改で球団史上初の3000万円台の高給取りとなった。この金額は王選手の5800万円、野村選手の3500万円に次ぐ日本No,3だ。しかも王にはコーチ料、野村には監督としての報酬が含まれており実質的には田淵が日本最高なのだ。
「20%ダウンは当然でしょう。それでも2500万円ですよ。本当なら1年前の2000万円に戻してもいいくらい」と話すのは阪神OB評論家。田淵本人は減俸を覚悟しているそうだが、問題は減額幅。阪神担当記者は「恐らく球団は大幅ダウンを提示できないだろう。なぜなら詳しくは話せないが博子夫人が球団代表と監督の急所を握っているというもっぱらの噂話があるんですよ。彼女が裏で駆け引きをやっているから球団は強い態度に出れない。せいぜい現状維持かダウンしても3000万円は切らない。問題は他の選手の動向ですね。球団の弱腰ぶりを目の当たりにした選手たちが強気に出る可能性がある」と声を潜める。
阪神という球団は不思議なチームで、かつては小山・村山、最近では江夏らスター選手の扱い方で揉め事を起こしている。スター選手の我が儘を許すことで他の選手との間に溝を作り、チームの和にヒビを入らせてきた。スター選手がスターらしく振舞い、リーダーシップを発揮して活躍すれば問題はないのだが、時としてスターに相応しくない言動でチーム内で浮いた存在になることが阪神では繰り返されてきた。今回の田淵がどのような態度で契約更改交渉に臨むのか。もしも球団から大幅ダウンを提示されてホールドアウト(契約拒否)といった態度を示した時に吉田監督の出番がくるかもしれないが、扱い方を間違えると吉田監督自身の進退に火の粉が降りかかる可能性もある。
別所毅彦(昭和17年~昭和35年)
鉄腕というと稲尾を思い浮かべる人が多いだろうが、元祖は別所である。それを示すのが2リーグ分裂前の昭和22年に記録したシーズン最多完投記録の47試合だ。ちなみにセ・リーグ記録は昭和30年・金田(国鉄)の「34」、パ・リーグは昭和44年・鈴木啓(近鉄)の「28」である。昭和18年に若林(阪神)が39試合に先発して全試合完投をしたが当時の打者の平均打率は1割9分6厘と打撃の技量は低かった。別所が記録達成した年の平均打率は2割3分2厘と向上しただけに価値がある。更に巨人に移籍した昭和25年以降の勝率6割6分8厘(207勝103敗)もセ・リーグの通算勝率記録(投球回数2000イニング以上)として現在でも破られていない。
また南海の球団史上、唯一のノーヒットノーラン達成投手でもある。プロ入り2年目の昭和18年5月26日の大和戦で記録したのだが、惜しかったのは4日後の同じく大和戦で1安打完封したのだ。もしもこの1安打がなければ空前絶後の2試合連続の大記録だった。その後も昭和27年、30年にも1安打試合はあったが、ノーヒットノーランは達成できなかった。特に昭和27年の松竹戦の1安打試合は9回二死までパーフェクトに抑えていたが、27人目の打者に内野安打を許し大記録を逃した。
この27人目の打者はプロ入り2年目の控え捕手の神崎安隆。代打に起用されたが打てそうな気配はなく、二度セーフティーバントを試みたが失敗。別所も大記録目前で力が入り制球を乱してボールカウントは2-3のフルカウント。6球目を打ったが詰まったショートゴロ。遊撃手の平井が懸命に前進し打球を処理したが、前日の雨でぬかるんだグラウンドに足を取られて一塁送球が遅れて内野安打となった。大記録を阻止した神崎はプロ在籍4年で放った安打がこの時の1本のみ。別所にとって悔やんでも悔やみきれない結果となった。
別所の特筆すべきは投げるだけではないこと。昭和17年に滝川中学から南海に入団し、10月10日の巨人戦でデビューしたのだが、投手ではなく「三番・左翼手」だった。いかに投打ともに傑出していたかが分かる。選手層が薄かった終戦直後の昭和21年には投手として42試合に登板する傍ら、一塁手で22試合・外野手として5試合に出場した。他にも代打に起用されたのも一度や二度ではない。その間の打撃成績は2割5分3厘(二塁打15・三塁打6・本塁打4など計62安打)と野手顔負けだった。昭和23年は51安打、昭和25年も51安打し打率は3割を優に超えた。17年間で通算499安打・打率.253。本塁打は31本を放ったがこれは金田(36本)、米田(33本)に次ぐ歴代3位である。
吉田義男(昭和28年~昭和44年)
昭和28年、阪神に吉田義男が入団した。1㍍65㌢ はプロ野球界は勿論、一般社会でも小柄な部類だった。当時の監督は松木謙治郎。松木は春季キャンプに明治大学時代の恩師でもある岡田源三郎を招いた。岡田はノックの名人で左中間に直径2mの円を描いてホームベース上からその円を目がけてノックをすると打球は10球中5球は円内に落ちた。話はキャンプに戻る。遊撃のレギュラーは白坂長栄で新人の吉田は当然控え選手だった。キャンプイン2日目、ノックをしていた岡田が松木を呼び「おい松木、これから白坂とあのチビ(吉田)にノックをするからよく見とけ」と言うと3バウンド目で二塁ベース上を通過する球を打った。白坂は5~6歩ダッシュしたが二塁ベースまであと1mほど届かなかった。次は吉田の番。打球は白坂の時と寸分たがわぬコースを行き二塁ベース上を通った。次の瞬間、松木は目を疑った。二塁ベースの2m後方で吉田が捕球した。遊撃のレギュラーが吉田に決まった瞬間だった。次の日から白坂は二塁手として練習するようになった。
打撃と違い守備を数字で評価するのは難しいが吉田の守備範囲の広さを物語る数字がある。補殺数である。補殺とはその大半がゴロを捕球し一塁などに送球してアウトを記録すると残る数字だ。吉田は昭和28年464補殺、29年448補殺、30年436補殺を記録した。吉田とは同世代で同じ遊撃手として人気を二分した広岡(巨人)の最多補殺数は昭和30年の384である。昭和41年頃から年齢的な肩の衰えが見え始めた吉田は二塁を守る機会が増えた。それに伴い、吉田以外の阪神遊撃手の補殺数は目に見えて減少した。昭和40年の吉田は471補殺、吉田の二塁転向後の昭和42年の阪神遊撃手の合計は380補殺だった。その差の全てがそうだとは言えないが吉田なら捕球しアウトにしていた打球を安打にしてしまった可能性は高い。
打撃に関しては小柄でグリップエンドを大きく空けてコンパクトなスイングに徹していたせいもあり、三振の少ない打者であった。規定打席以上の選手の中で最少三振打者になったのが10回。昭和35年から40年にかけては6年連続でセ・リーグの最少三振打者になっている。昭和39年には3月28日の対大洋戦、7回に高橋投手に三振を喫したのを最後に6月2日の同じく大洋戦で大崎投手の速球に空振り三振するまで実に179打席連続無三振だった。こうした場合は記録を意識するあまり中途半端なスイングになり打率は下がりがちになるのが通例で、過去に昭和30年から31年にかけて浜田義雄(東映)が196打席連続無三振記録を残した時は打率1割8分1厘の低打率だった。しかし吉田は3割1分6厘・4本塁打だった。
通算4490奪三振の金田正一が一番の苦手としたのが吉田だった。 " 打撃の神様 " 川上から9年間に41奪三振、長嶋からは7年間で31奪三振なのに吉田からは17年間で僅か15奪三振と1シーズンに1三振に満たない割合だった。しかも昭和35年からの4年間はゼロである。ただ三振しないだけではない。17年間の対戦で329打数102安打・打率3割1分0厘。吉田の通算本塁打は66本だが金田からは8本と、金田をお得意様にしていたのが分かる。そんなカモにしていた金田に対して昭和44年は8打数無安打に終わった。この年限りで吉田は引退するのだが、9月21日の試合が金田との最後の対戦となった。7回に代打に起用され遊ゴロ、9回は最後の打者で二ゴロに倒れ金田は勝利した。ちなみにこの試合が金田の現役最後の完投勝利試合だった。
黄金の足と言われ、1億円の傷害保険が掛けられている阪急の福本豊選手。しかし、どうしたことか今年はその出足が鈍いのである。6年連続盗塁王の福本に鉛のような重い足。いったいどうしたというのだろう
昨年の盗塁数減少とただいま2位
タイトルの常連は辛いものだ。王選手が少し調子を崩して本塁打を放つペースが減速しただけで周りが大騒ぎをするように、塁に出れば盗塁するのが当たり前と思われている福本選手の盗塁のペースがダウンすると「福本はどこか故障しているのでは?」や酷いのになると「もう福本は限界や。なんや鉛の靴でも履いているようや」などと言われてしまう。そんなに今季の福本は走れなくなったのであろうか?確かに6月2日現在、盗塁数トップは藤原選手(南海)で福本は2個差の18個で2位だ。数字的にも盗塁のペースは例年に比べて遅い。106個のシーズン記録を達成した昭和47年は5月末で28個だった。
勿論、7連続盗塁王を目指している福本にとって現在の18個は満足できる数字ではない。しかもペースダウンは昨季からで、盗塁王のタイトルを獲得したものの63個は福本にしては寂しい。63個は過去6年間で最低の数字だ。昨季については福本自身「とにかく打撃フォームがガタガタでヒットが打てなかった。出塁できないのだから盗塁数が増えないのは当たり前。打率3割は当然と根拠なく考えていた自分の慢心が原因。とにかく前期は最悪だった。後期で盛り返したけど1年トータルしても最悪のシーズンだった」と振り返ったように前期の極度のスランプを脱した後期には3割近くの打率を残したが、トータルでは打率.259 に留まり、盗塁数も伸びなかった。
まだ " 4足 " で足りているシューズ
今季は昨季に比べれば格段に打撃の調子はいい。開幕から打撃ベスト10に顔を出し、首位打者も狙える位置にいる。なのに盗塁数は思ったほど伸びない。昨季のような打てないから盗塁できないという言い訳は通用しない。となると原因は何か?「上手くは言えないがどうもタイミングがしっくりしない。相手バッテリーの呼吸を読み取るのが下手になったのかなぁ」と福本本人も首を傾げている。そういえば今季の福本は盗塁死よりも牽制で刺される場面が目立つ。上田監督に言わせれば「フク(福本)に対する牽制はボークまがいのものが多い。審判がもう少し厳格にジャッジしてくれたら牽制死はかなり減る筈」と。
他球団の投手がボークぎりぎりの牽制球をするくらい福本の足は依然として警戒されており、まだまだ健在であるが気になる現象もある。それはスパイクシューズだ。例年ならこの時期ならスパイクを8足くらい履き潰している。それが今季はまだ4足。盗塁で滑り込みをする機会が多い福本のスパイク消費は他の選手より早いのは当然。それだけ今季は盗塁する回数自体が減っていることを表している。また他にも今季の阪急打線の攻撃パターンの変化が盗塁数減少の原因ではないかという意見もある。これまでは出塁した福本が盗塁してスコアリングポジションに行き、次打者以降の適時打で得点するのが阪急の得点パターンであったがそれが今季は変わったと言うのだ。
今季の阪急打線の特徴は上位、下位の分け隔てなく長打が多いのが顕著である。特にマルカーノ、ウイリアムスの両外人が打ちまくっていて、福本が危険を冒して盗塁しなくても長打で一塁から長駆ホームインする場面が多い。「今年のウチの打線は長打が多いから盗塁しなくても得点できる。段々走る意欲が減ってきたよ(福本)」と苦笑い。確かに6月2日現在、チーム打率はリーグ1位。先発レギュラーメンバーだけで80本を超す長打を誇る打線の破壊力は絶大だ。つまり攻撃力の増大でこれまでの足を絡めた攻撃パターンが不必要になったせいで、福本の盗塁数も減ったという意見だ。
阪急のマジック灯した福本の快足
つまり福本の足が衰えたのではない。徐々にだが福本の存在感が増してきている。6月2日、近鉄戦前の日生球場の阪急ベンチ内では今後の試合日程が話題になっていた。走り梅雨の影響で5月中の試合がかなり中止になり、そのしわ寄せで6月の日程は9日間で11試合を消化する超過密で試合前の空気は重かったが「頑張ろうや!」と福本が一喝すると「よっしゃ~、やったろうやないか」とベンチの雰囲気は一変した。試合は8回表一死、左前安打で出塁した福本が二盗、三盗を鮮やかに決め、加藤選手の適時打で近鉄に競り勝って、マジックナンバー「18」が点灯した。
徐々に調子を取り戻しつつある福本は「去年は100盗塁を目標にしながら63個に終わり不本意なシーズンだった。今年も前半は去年を引きずっている感じだったけど、今後は追い上げてみせる。目標は勿論100盗塁」と自信も蘇ってきた。福本は気分屋で気持ちが入るとガンガン飛ばして手がつけられないプレーを見せるが一旦落ち込むと再上昇するまで時間がかかるタイプといわれている。6月の阪急は5月以上のハードスケジュールが続くが独走状態で前期優勝は間違いない。相手チームの視線は既に後期に向いており、福本の盗塁にさほど神経質になっていない今なら勢いに乗って盗塁数を増やすことも難しくない。
盗塁王と新記録に首位打者も狙う
昨季が終わった時点で通算550盗塁まであと46個。目標通り100盗塁をクリアすれば広瀬選手(南海)が持つ日本記録(593個)更新も実現する。更にもう一つの目標が首位打者のタイトルだ。現在のトップは同僚の加藤選手。「チャ(加藤)は粘り強く向こう意気が強い。フクはソフトで気は優しく、二人は対照的だがウチの打線はこの二人が中核」とナインからの信頼も厚いライバル同士。「去年までとは違って今年のフクは相手投手の球を最後までしっかり見ている。球を呼び込んで強く叩くタイミングも文句なし」と上田監督もベタ褒め。ヒットを打って出塁すれば必然的に盗塁のチャンスも増える。首位打者になれば盗塁王のタイトルもついてくるだろう。
盗塁数を増やすことがファンの声援に応える術である。中でも福本最大のファンは美津子夫人である。シーズン直前、美津子夫人が「あなたの公式戦の成績は毎年オープン戦の成績で占えるのよ知ってた?オープン戦が良かった年は公式戦の打率はいいし、盗塁の数も増えているんです」と夫人お手製のスクラップブックを持ち出してデータを示してくれた。振り返ってみれば今年のオープン戦は打率.372 ・8盗塁だった。確かに打率は打撃ベスト10から落ちることなくトップの加藤を追っている。ただし盗塁数は40試合を消化した時点で例年なら25個前後はあっていい筈なのだが16個留まり。美津子夫人の為にも6月の声と同時に猛ダッシュをしていくことになるだろう。
この声、不満、お願い…切符も取れない。テレビも見れない。ファンのイライラどうするの?
堀内がコケたらシュウマイが売れた。巷ではそんな現象が起きているそうだ。つまり堀内が打たれて巨人のリードが無くなり試合は延長戦へ突入。当然日本テレビの中継は終了してしまうが、今ではローカル局のテレビ神奈川でリレー中継を行なっている。そのスポンサーがシュウマイで有名な某●●軒で、CMを見た視聴者のシュウマイ購買量が増えたというわけだ。今季の巨人は打高投低で打線が爆発し攻撃時間が長くなったり、逆に相手打線に打ち込まれてこれまた試合時間が伸びてテレビ中継の枠に収まらないケースが多々あった。6月3日の中日戦では日本テレビの中継が終了した時点は7回表で4対2で巨人がリード。巨人ファンの多くがテレビ神奈川にチャンネルを変えた。そしてまたシュウマイが売れたのだ。
テレビ神奈川を見られないファンの「あぁウチの地方ローカル局もリレー中継しないかなぁ」と嘆く声が多いという。ローカル局にとってこれほど局のイメージアップはない。全国ネット局の傘下にないローカル局はいろいろな努力と工夫を凝らしてきた。ネット局が扱わない東京六大学野球や高校野球の地方予選の放映など数少ない人数で早朝から夜遅くまで関係各位を飛び回り " 持たざる局 " の悲哀をグッと堪え、もがき苦しんで頭を絞って考え出したのが巨人戦のリレー中継なのである。
テレビ関係者によると「成功するだろうという漠然とした思いはあったが、ここまで爆発的な人気になるとは」と驚いている。スポンサー協会の「第5回・民放テレビ局サービスエリア調査」によると昭和48年に約300万台だったテレビ神奈川の受信台数は昭和50年には約80%増の550万台に達した。リレー中継は後楽園球場で行われる巨人軍主催の全42試合をカバーする。テレビ神奈川に続き千葉テレビ、群馬テレビもこれに追随したことからもリレー中継の人気が分かる。「いつもハラハラドキドキする場面で時間切れになるのが癪だからリレー中継を見たい。放送を見るにはどうすればいいのか教えて欲しい」という視聴者の声が各ローカル局に殺到しているという。
長々とリレー中継の話をしたのはそれだけ多くの野球ファンがナイター中継の「誠に残念ですが間もなく中継を終了します」という時間切れに対して不満を抱いている事実の証明になるからだ。否、不満というより怒り・憤慨に近い気持ちだろう。『ギャートルズ』や『花の係長』でお馴染みの文春漫画賞受賞作家・園山俊二氏に言わせると「試合のクライマックスで平然と中継をやめてしまうのは世界でも例のない愚行である。だって一番面白い場面でやめるなんて漫画や小説の世界では有り得ない。『続きは次号で』なんて手法を何回も使ったら読者にソッポを向かれてしまう。よくもまぁ野球ファンは大人しく黙っているよね」と嘆く。
日本テレビの関係者はヤケ気味に「いっそのこと午後7時半からテレビ神奈川に中継してもらってウチはその後にやればいいんじゃないかな」と。いい例が4月の大洋戦。この試合は終了時刻が午後10時過ぎだったが、日本テレビの中継時間は1時間20分、テレビ神奈川は1時間17分と差は無かった。テレビ神奈川の視聴率も凄い。昨年は平均16%でこれはローカル局としては異例の高視聴率だ。一方で中継を打ち切られたファンの抗議の電話が日本テレビに殺到する。「責任者を出せ」から始まり挙句には「社長を出せ」とエスカレートする。ならば日本テレビは中継を延長すればいいではないか。だがそんな単純な話ではないのだ。
もう既に来年の巨人戦ナイター中継のスポンサーとの交渉は始まっている。野球に限った話ではなく午後9時以降の番組スポンサーも決めなくてはならない。その席で午後9時半まで中継してはとスポンサーに進言しても相手から色よい返事は来ない。早々と9時前に試合が終わったらどうするのか。例えば9時から野球と無関係の別番組を放送するとしてもスポンサーは納得しない。視聴率を稼げない番組に巨人戦用の高額スポンサー料を払うことは割に合わないと判断するからだ。テレビ局側が1分1秒で他局と視聴率を争っているのと同様にスポンサー側も高視聴率の対価としてお金を払っているのである。
「全国ネット局は貴重な時間帯を売っているので完全中継は無理だがウチは開局以来、ローカル局としての使命を果たしている」と胸を張るのは神戸で昭和44年の開局後8年間ずっと阪神の試合をプレーボールからゲームセットまで中継しているサンテレビの関係者だ。甲子園球場での試合だけではない。広島に遠征すれば25人の中継スタッフがチームに同行する。近畿以西はサンテレビが担当し、名古屋に行けば三重テレビ、川崎に行けばテレビ神奈川に依頼して阪神戦を中継する。こういうローカル局による共同制作、共同セールスはこれからのローカル局にとって業界を生き抜いていく理想的な形なのではないだろうか。
さて野球中継に関してファンの間でもう一つの不満が「なぜ巨人戦ばかりなのか」である。他球団同士の試合も、パ・リーグの試合も見たいという声が少なからず存在する。そうした声に応える形で誕生したのがフジテレビで午後11時10分から放送された『プロ野球ニュース』である。30分番組であるが巨人戦だけでなく全12球団を扱う番組は画期的であった。しかし、巨人戦以外の生中継にはまだまだ高いハードルがあった。フジテレビの関係者によると「プロ野球ニュースの成功で巨人戦以外の試合を中継したこともあるんですが、結果は大失敗でした。次回?ウ~ン、ちょっと難しいかな」と低視聴率に終わった事実を明かした。
アンチ巨人派やパ・リーグ愛好者が「巨人戦以外の試合を中継しろ」と声高に叫んでも視聴率という高い壁の前ではどうにもならない。ファンの気持ちは理解できる。しかし現状の視聴率では無理だ。そもそもスポンサーが付かない。「中継するだけで大赤字。どうしてテレビ局が奉仕しなくちゃならないのか」とフジテレビ以外の局員も言う。「パ・リーグの試合を中継する方法がある。各親会社がスポンサーとなること。南海や阪急は勿論、ロッテだって今や一流企業。自分の球団の試合にお金を出してくれれば明日からでも中継できる。自分達でお金は出さず他人任せは虫が良すぎる」とテレビ局関係者は言う。当分はスポンサー不要のNHKに頼らざるを得ない。
もやもやしていたヤクルトの監督問題は、どうやら2年間は広岡体制で臨むことが本決まりになって一件落着のようである。しかし " ポスト広岡 " には実力者・武上コーチが控えており、フロントの意思も完全には統一されていない事から気の早い人は早くも来年のストーブリーグの目玉商品になりそうと気を回しているのだが、一体ヤクルトには何があるのか。
V1の " 切り札 " 広岡への評価
11月26日付のスポーツ紙には " 広岡監督2年契約 " の見出しが躍った。しかし遡ること半年前、荒川前監督が休養した時は確か佐藤球団社長は「広岡ヘッドコーチには監督として来年から向こう3年、指揮を執ってもらいたい」と明言していた筈。年数が減っただけではない。全日程が終了しても監督就任がなかなか発表されなかった。報知新聞が『未だに未契約、おかしな広岡の周辺』、日刊スポーツが『契約は1年?3年?』と報じたり、系列紙のサンスポに至っては『更迭の可能性も』と衝撃的な見出しも。シーズン終了と同時に正式発表しておけば混乱を避けられた筈だがフロント陣の先延ばしの方針が混乱に拍車をかけた。
なぜ発表を先延ばしにしたのか?そこには「武上コーチの存在がクローズアップされる(ヤクルト担当記者)」というのだ。武上コーチは現役時代から将来の監督と目されていた。片や広岡監督は佐藤球団社長から優勝への最後の切り札とチームを託されていて当分は広岡体制が続くと誰もが思っていたが、情勢は少なからず変化していた。当初は佐藤社長の思惑通り広岡ヘッドコーチを監督代行へ、その後正式に監督就任。そして留任という流れがいつの間にか監督更迭というムードへ変わっていった。その辺の事情を「佐藤社長がノンビリ構えている間に武上派の役員が動いた形跡がある」とフロント関係者は証言する。
そのフロント関係者によると広岡監督の評価は球団内でも分かれているという。
❶ 性格はだいぶ柔らかくなったが、まだ馴染めない選手もいる
❷ 会田投手を開花させたが井原投手と西井投手を潰した
❸ 内野手育成は広岡監督の担当だが期待していた渡辺進選手は伸び悩んでいる
これら3つの理由と5位に終わった結果を受けて広岡監督の手腕に疑問を持つフロント陣も少なくないという。
寝首を掻かれた恰好の佐藤社長だが、例えて言うなら任期満了で国会を解散した三木首相は総選挙後も引き続き政権を担当する気だったが、自民党内の反対勢力である福田派・大平派が虎視眈々と権力奪取を画策している政治の世界と似た構図である。リーグの会合に出席した際に鈴木セ・リーグ会長に「一体ヤクルトはどうなっているんだ?」と問われた松園オーナーは「広岡でいきます。ただし3年、5年とか長期の契約はしません。監督も選手同様に1年・1年が勝負ですから」と答えたと伝えられている。これが事実ならば松園オーナーの頭の中には既に " 武上監督 " が浮かんでいるのかもしれない。
チームの生え抜きで現役時代からファイターとして知られ、歯に衣着せぬ物言いで武上コーチの言動はクールな広岡監督とは全く別の存在感がある。しかも万年Bクラスのチームには得てして外様監督には選手の心理や行動を把握しきれないものが潜んでいる。そんなチームを一つに纏めるには生え抜きが適任であるという考えをフロント陣が持っていたとしても不思議ではない。三顧の礼を尽くして自分を迎えてくれた佐藤社長から具体的な契約年数を告げられないままでは広岡監督の気持ちもスッキリとしなかったであろう。
森バッテリーコーチ招聘のジレンマ
「頼んだぞ、と言った社長が何時までたっても契約年数の話をしない。スタッフも決まらずトレードも進まないときては広岡さんもイライラしていたんじゃないかな。契約は1年で充分だ、1年経ってまた再契約した方がよっぽどスッキリすると広岡さんも開き直ったと聞きましたよ」と某紙の担当記者は言う。広岡監督としては契約年数よりもコーチングスタッフ、特に森バッテリーコーチの処遇の方が重要であると考えていた。佐藤社長が11月22日に森氏と会い入団を要請したが森氏は返事を留保した。「森氏は現場に戻る意思はあるがヤクルトの現状を不安視しているのでは」と担当記者は推測する。
広岡監督が仮に短期政権だと、至上命令の優勝を逃した場合のスケープゴートにされてしまう可能性が有る。森氏も敢えて火中の栗を拾って自らの野球人生に汚点を残したくはないだろう。広岡監督も球団も森氏をバッテリーコーチとして迎えたい。森氏もその気があるのに快諾できない。監督の契約年数問題が人事にも影響を与えている。こうした情勢下で11月25日に広岡監督と松園オーナーとの会談が行われた。「私としては1年で勝負したいです(広岡)」「気持ちは分かるが2年以上はやって欲しい(松園)」と当初は意見の隔たりがあったが最終的に両者は歩み寄り結局、2年契約で決着した。
ただしこれでスッキリ解決した訳ではなかった。この会談の場に佐藤社長は同席していなかった。同席どころか東京を留守にしていたのだ。「広岡君の契約に関しては選手の契約更改が終わる12月上旬以降に本人と話し合う予定だ。契約年数もその時に決めたい」と言明していた佐藤社長が不在のまま松園オーナーとの直接会談で決めたのだから話は少々ややこしくなる。あえて " ややこしい " と表現したのは「広岡君となら3年と言わず5年契約を結んでもいいくらいだ」と話していた佐藤社長の算段と乖離が生じたからだ。どちらかというと子飼いの武上コーチを可愛がっている松園オーナーと敢えて直接交渉をした広岡監督のフロントに対する苛立ちは想像に難くない。
今季コーチになったばかりの武上コーチが来季から監督に就任するのは時期尚早なのは松園オーナーも分かっている。分かっているが5年も待てない。そこで間をとって2年に落ち着いた、それが恐らく実情だろう。「広岡擁立派は佐藤社長と徳永球団代表。反広岡派は相馬専務ら複数のフロント幹部(担当記者)」と対立しているそうで、それは松園オーナーも先刻承知である。ヤクルト本社の役員も「チームが強くならないのは現場とフロントがしっくりいっていないから」と。そういえば荒川前監督時代、コーチングスタッフの編成でフロント内の意思統一が出来ず紛糾し松園オーナーに一喝されたが、相変わらず解消されていない。
納会には出席しなかったオーナー
もうひとつ気になるのは後援会々長でもあるヤクルト本社の山下専務が最近めっきり表舞台から姿を消している事だ。二軍が使用する練習場は武山球場だが10年も間借り状態が続いていた。それを解消して埼玉・戸田市に新たな練習場を作り上げたのが山下専務だ。しかし当初の山下専務の構想では練習場の近くに合宿所を併設する計画だったが資金不足で着替えとシャワー設備のみの簡易なクラブハウス建設に後退してしまった。そのせいなのかは不明だが山下専務はそれ以降は球団への情熱が冷めてしまったようである。「この不景気では野球どころではないのもあるが、球団内のゴタゴタに山下専務も嫌気が差しているのでは?」と本社の別の役員は言う。
勝てない、人事の決定は遅い。トレードなどの補強もままならないでは全ての声が批判がましくなるのも致し方ない。「スタッフも今のまま。トレードも諦めて現有戦力を鍛え直して勝負するしかないですね」といささか自棄になる広岡監督の心中は察するに余りある。11月17日、銀座の東急ホテルで行われた納会に松園オーナーの姿はなかった。過去に松園オーナーはどんなに多忙で予定があっても、僅かな時間を割いて顔を出したり中座する事はあっても納会を欠席する事はなかった。ところが今年は選手やフロント陣に向けたメッセージという前代未聞の痛烈無比な手段に打って出た。
「マスコミの皆さんも今年はヤクルトが優勝するのではないかと宣伝してくれた。私自身も戦力からいってその気になっていた。しかしシーズンを終えてみるとどうだ。昨年の最下位だった巨人が優勝し我がヤクルトは想像だにしなかった5位ではないか。これはフロントから監督、選手に至るまで何かが欠けていたと判断するより仕方ない…(以下略)」進行役が代読したメッセージは松園オーナーの怒りであり失望であった。後日、松園オーナーは「納会に出なくて正解だった。良い薬になったろう」と苦笑していた。財界人同士の集まりで優勝できない事を冷やかされて悔しい思いをしてきただけに今年の不甲斐なさには腹わたが煮えくりかえる思いだったに違いない。
" 東大エリート " を静かに拒否し続けた男
今シーズンが終了して間もなく井出峻外野手(中日)が「もう僕の役目は終わった。今季限りでユニフォームを脱ぎたい」と球団に退団を申し入れた。これに対して小山球団社長が「本人の意思は尊重する。ところで野球を辞めた後はどうするのか?」と問うと「別に今はこれといったアテはないです。しばらくはゆっくり休んで、身の振り方は後々考えたい。プロで10年やってきました。10年一区切りですから新たな道で人生を再スタートするつもりです(井出)」と答えた。井出は親会社の中日新聞からの出向という身分になっているので球団としては新聞社の仕事をするなど引退後も極力中日グループと関係を保つよう要請したが色よい返事は得られなかった。
それから1ヶ月後の11月22日に行われた納会の前に井出は小山社長ら球団幹部と会って今後の自らの去就について話し合った。球団側は引退後も球団に残ってチームの為に力を貸して欲しいと求めたが、井出は環境を変えて第二の人生の再スタートを切りたいと伝えて球団からの申し出を丁重に辞退し、正式に退団する事が決まった。新たな職場は美弥子夫人の実家が経営する藤森工業KK(東京・中央区馬喰町)で野球とは無縁の世界で再出発する事となった。藤森工業は包装材料の製造卸を行なう、いわば中小企業である。そこでは東大卒の肩書を一切かなぐり捨てる覚悟だ。
新宿高校を卒業後に一浪をして東京大学理科二類に合格し、いわば日本のエリートコースを歩んで来た。東大卒業時には三菱商事に入社が決まっていたのを中日がドラフトで指名。周囲の反対を押し切ってプロ野球の世界に飛び込んだ。当時もそして現在でも「野球なんかやらずに三菱商事へ行ったら今頃は中堅社員として世界中を駆け回るエリートサラリーマンだったのに…」と会う人、会う人に何度も言われた。そうした声にも井出は静かに笑ってやり過ごした。「いくら僕の気持ちを説明しても納得してもらえない。だから黙っている方が…(井出)」と。井出のこうした気持ちは本人ですら論理的に「こうだ!」と説明できないのかもしれない。
少年時代から野球が好きで高校生の時は母親には内緒で野球部に入部し白球を追う生活を送った。浪人時代ですら予備校仲間と野球チームを作り興じていた。大学卒業時に思いもしなかったプロからの誘いに井出は「好きな野球をとことんやれ、とのお告げだ」と衝動的にプロ入りを決めた。気持ちの赴くまま未知の世界に飛び込める井出には普通の常識では考えつかない「何か」を持ち合わせているようだ。こうした経緯を辿っていくと、一見物静かに見える井出には実は恐ろしいくらい激しい情熱を持った男なのかもしれない。それはつまり、ある種の自己に対しての異端児とでも言えそうだ。
中日新聞、解説者などの優遇も捨てて中小企業へ飛び込んだ理由
名古屋の地元マスコミは「井出なら解説者にうってつけだ」とばかりテレビ・ラジオ放送局がこぞって誘った。また中日新聞からの出向制度には出向していた期間に応じて本社に戻る際に社内職歴として加算されるシステムがあり、一般の転職組とは違って新入社員扱いはされない。こんな結構な待遇はそうザラにある話でない。しかも井出には東大卒という学歴もあり、中日新聞社内には喜んで入社するであろうと考える空気があった。それを振り切って中小企業へ飛び込み、一から裸一貫やり直すという井出には、三菱商事を捨ててプロ入りした時と同じような気概を今なお持ち続けているとしか考えられない。
東大卒のプロ野球選手第1号の新治伸治氏は今、大洋漁業の社員としてアメリカで活動している。井出も三菱商事に入社していれば今頃は専門のバルブ関係の仕事で世界中を駆け巡っていたに違いない。「東大から入社した同期はカナダで頑張ってますよ」と話す井出の目はどこか遠くを見ているようだった。今季の井出は開幕して暫くは二軍にいた。肩書は選手だがキャリアや技術を買われてコーチ補佐役の立場も兼ねていた。一軍が低迷から脱せずにいると「井出を一軍に上げてチームの雰囲気を変えるべき」との声が高まり、やがて井出は一軍に昇格した。相手のサインを解読したり、井出ならではの頭脳は中日にとって欠かせぬ存在になっていた。
今にして思うと井出はこの頃から身を引く考えを持ったようだ。巨人の10連覇を阻止した昭和49年の優勝にはチームに貢献できたと自負があったが、最近は代走や守備固めに起用される事が多く、戦力としてチームへの貢献度が低くなっていると感じていた。実は49年の優勝の3年前にも一度引退を決意したが与那嶺監督から「君はチームの戦力である」と慰留された過去がある。それだけに49年の優勝で「これで与那嶺監督の期待にも応えられたし僕の役目も終わった」と気持ちは一区切りしていて、この2シーズンは井出にとって附録であったのかもしれない。とうとう井出は最後まで本心をオブラートに包んだまま球界を去ることになった。
燦然と輝く沢村栄治の不滅の伝説
一代の英雄、沢村栄治は伊勢市岩渕町にある近鉄線・宇治山田駅裏の一与坊墓地で静かに眠っている。昭和9年秋、ベーブ・ルース一行を迎えた静岡・草薙球場での快投。昭和12年、タイガース相手にプロ野球史上初のノーヒットノーラン。同年12月、タイガースとの洲崎の決戦から優勝決定戦までの3連投。応招を繰り返した後の戦死。等々エピソードは数多く今なお当時を知る人物によって語り継がれている。「ワンバウンドすると思った球がホップして低目にズバッと決まった」と語るのは草薙球場での大リーグとの試合をバックネット裏で観戦した小坂三郎氏。また職業野球人として巨人軍との契約第1号選手だった三原脩氏もその一人だ。
三原は「金田と沢村はどちらが速い?」「絶好調時の江夏とは?」「稲尾は?」と聞かれる度にわざわざ「沢村という伝説的選手を美化する気は毛頭ないが」と前置きをして「私は躊躇なく沢村だと言える。金田も江夏も速かった。でも沢村には及ばない」と答えるのが常だった。また「今の投手のように球の種類がたくさんあるわけではない。スピードボールと懸河のドロップの2つで抑えた。リストの素晴らしさで一度ポーンと上がってからストーンと落ちるドロップ。あれが本物のカーブだ」と語るのは沢村が京都商に在籍していた当時に対戦した元巨人軍選手の南村侑広氏。
南村は旧制・市岡中学のエースとして昭和9年5月に藤井寺球場で沢村率いる京都商と対戦した。南村は4年生、沢村は5年生だった。沢村の速球は唸るというよりブルブルと震えるようだった。市岡中は全く歯が立たなかった。その証拠に市岡中は9回終了時点で25三振。27個のアウトのうち25個が三振だった。だが一方の南村も好投し京都商を無得点に抑えて試合は延長戦へ。11回、南村に四度目の打席が回ってきた。南村は考えた。「まともにいっても打てない。奇策でいこう」と。そこで初球をセーフティバントを試みた。なんとか速球をバットに当てたと思った瞬間、南村は呆然とした。
カ~ンという乾いた音と共にボールはバント処理に前進してきた遊撃手の頭上を越えて左翼手の前にポトリと落ちた。あまりに球が速いので反発力も強く左前安打になったのだ。日本の野球史上、セーフティバントが左前安打を記録したのはこの南村しかいない。この話には続きがある。南村は市岡中学を卒業後、昭和11年に早稲田大学に進学した。当時は市岡中学から早稲田大学へ進学を希望する選手が多く競争率は高かったのだが、南村の場合は早稲田側から入学を求められた稀有な選手だった。というのも、あの沢村から左前安打した選手として南村の名前が遠く離れた東京でも評判になっていたからだ。その安打がセーフティバントだったと知る大学関係者はいなかった。
甲種合格でなかったら戦死も…
今でこそ硬貨を入れて遊ぶゲームマシーンは街中で見かけるが、巨人軍が初めてアメリカに遠征した昭和10年当時は殆どの選手にとっては見たことのない物だった。5セント硬貨を次々と取られてしまう選手が続出する中、沢村は勝って小遣い稼ぎに成功した。沢村は筆マメな一面もあった。「この前、街中を歩いていたらアメリカ人にサインを頼まれた。俺も有名になったもんだ」と日本の知人に手紙を書いたが、実はそれはカージナルスのスカウトが差し出した契約書だったという逸話が綴られていた。明るく陽気で茶目っ気もあった沢村。色々な知人に送った手紙には普段は表面に出さなかった悩みも打ち明けていたという。
「戦況が厳しくなる中、往年の快速球が影を潜め、勝てなくなった沢村は巨人軍からも冷遇されるようになった。独り者の沢村は私が世話をしたアパートに住んで、朝・昼・晩と私の家に来て食事を摂っていた。中野駅前14番地にあった中野荘という一戸建てアパートの2階を間借りしていた」(藤本定義著『風雪三十年の夢』より抜粋)。短い生涯だったが淡い恋も経験した。当時の巨人ナインの間で " 一塁側スタンドの令嬢 " が話題となっていた。沢村が登板すると必ず母娘が観戦に訪れた。他の選手にひやかされるとベンチ裏に隠れてしまう程シャイな男だった。若い頃に沢村の球を捕った山口千万石氏は、そのあまりの剛球ゆえに左手の指が曲がってしまった。そのせいで徴兵検査で「第二乙種」となった。「沢村もねぇ甲種合格にならなければ…(山口)」と涙を浮かべた。
昭和13年1月に入営。武漢作戦の軽機関銃手になり、手榴弾を78㍍も投げたという。左手に被弾し負傷して昭和14年8月に除隊となった。グラウンドに戻って来た沢村の身体は天性の柔軟性を失い、持ち前の快速球は影を潜めていた。それでも昭和15年7月に対名古屋戦で自身三度目となるノーヒットノーランを達成した。しかし昭和16年10月に再応召されミンダナオ島へ派遣された。昭和18年1月に日本に戻り飛行機製作工場に職工として配置される。昭和19年に三たび応召されその年の12月2日、乗船した艦船が台湾沖で撃沈され沢村は船と共に深い海へ沈み日本の地を再び踏むことはなかった。
沢村の向こうを張った酒仙投手・西村幸生
伊勢が生んだもう一人の名投手がいた。沢村は宇治山田の明倫小学校のエース。同じ町の厚生小学校のエースだった西村幸生だ。やせ型でスラリとした容姿の沢村に対し西村はガッチリ体型のやんちゃ坊主だった。沢村は今で言うところの野球留学で京都商業に進学したが、西村は地元の山田中学を経て関西大学へ進んだ。関大のエースとなった西村は昭和7年暮れから翌8年春にかけて東京六大学のチームを撃破した。今でこそ関西の大学が関東の大学と互角に戦うのは普通だが、当時は「大横綱の双葉山の70連勝を阻止した安芸の海に匹敵する快挙(大和球士氏)」と称賛された。その大和氏が後に西村を酒仙投手と名付けた。
昭和12年にタイガースに入団した西村は沢村がいた巨人を抑えてタイガース黄金期を支えた。西村の根底にあったのは東京への反抗、ライバル沢村への敵愾心だ。西村は酒を浴びるように呑み、「幸さん酒を慎まないと投手生命を縮めるよ」と周囲から忠告されても「投手がダメならおでん屋でもやるつもりだから心配御無用」と意に介さなかった。だが巨人も負けていない。打倒・西村を合言葉に猛練習を積みやがて第一次黄金期を迎えることになる。こうしてタイガースと巨人が競い合い、切磋琢磨したことで創設間もないプロ野球界を繁栄させたのである。
「東京のチームに負けるのが俺は大嫌いだ。我慢できん」と常に公言していた。ある日のことタイガースと巨人の選手が同じ列車で移動することがあった。西村は食堂車でコップ酒を一杯あおりながら「(前日の試合に負けた)巨人の野郎どもはきまりが悪いのか誰も食堂車に来んな」と毒ついた。あたりを見渡した後輩の御園生選手が「幸さん車両の後方に藤本さんと水原さんがいますよ。大声は控えて下さい」と言うとやおら振り返り「やあやあ御両人。後楽園では失礼しました。どうか気を悪くせんといて下さい。こちらは祝い酒ですがそちらは何酒ですか?ワッハッハー」とトロンとした目つきで挑発し、「おい西村…」と立ち上がった藤本を水原が抑えた。
だが忘れてならないのは西村のもう一つの顔だ。「酒ばかり呑んでいてあの投球が出来る道理はない。僕が知る投手の中で西村ほど練習をした投手はいない。他の投手の2倍も3倍も練習していた。だから僕も後輩の彼に負けるもんかと練習に励んだのが後の好成績に繋がったと思っている」とライバルでもあった若林忠志氏は述懐した。人の2倍も3倍も練習したという事実こそが先輩の藤本定義や水原茂に対して「おたくらは何酒?」と嘯く反骨心に燃える豪傑の支えであったのであろう。西村は戦争で短い生涯を閉じたが、愛妻はハワイで多くの孫に囲まれ暮らしている。
ドラフト会議で2番くじを引いた中日が社会人や大学で名の知れた即戦力には目もくれず中央球界では殆ど名前を知られぬ無名選手を指名した事が冒険的な賭けをやったとプロ野球界の注目の的になっている。中日の無名選手指名は果たして冒険であったのだろうか?
『裕次郎』、『裕之』 って誰?
11月19日に行われたドラフト会議に中日は小山球団社長・中川球団代表・土屋総務・与那嶺監督・法元スカウトなど球団首脳総動員で臨んだ。ドラフトの成否はくじ順にかかっている。中日は2番くじだった。昼食休憩を挟み指名が始まり1番くじを引いたヤクルトは迷うことなく酒井投手(長崎海星)を指名した。続く中日は斉藤投手(大商大)か佐藤投手(日大)か、会場が注目する中で中日が指名したのは「都裕次郎」だった。各球団のスカウト連中には名前を知れてはいたが、2番くじで指名されるとは想定されておらず会場内は「おや?」という雰囲気に包まれた。まだざわめきが残る中、3番くじの大洋は「シメシメもうけた」とばかりの表情で斉藤投手を指名した。
意外な指名は続いた。2位指名は生田裕之投手。他球団のスカウトでさえ「聞いたことないな」と呟くほど無名な存在で、勤務先の「あけぼの通商」の名前がドラフト会議で呼ばれたのが初めてだったので無理もない話である。3位指名の宇野勝選手(銚子商)はまだしも就職が決まり他球団が見送った今岡均投手(中京商)、高元勝彦投手(廿日市)とまさに意表を突く異色の指名だった。名を捨て実を取る。これが今ドラフトの中日の方針だったが、いわゆる即戦力選手ではなく無名の選手を選んだのはなかなか勇気のいることなのである。その裏にはスカウト達の地道な活動と苦心の努力があったのは言うまでもない。
都投手を指名したのを耳にした鈴木孝投手は「都くんの指名を聞いてちょうど4年前に自分が指名された時を思い出しましたね。あの時も中日は2番くじ。甲子園の優勝投手だった仲根くん(日大桜ヶ丘⇒近鉄)を指名出来たのに無名の僕が指名されて驚いた。都くんも心配しないでプロ入りして欲しい。来シーズンは一緒に頑張りたいね」と懐かしんでいた。当時はどうして人気抜群の仲根投手ではなく鈴木投手を指名したのか、と批判もされたが二人の現在を見れば中日スカウト陣に軍配は上がるだろう。こうした過去の実績が今回の指名に少なからず影響を与えているのかもしれない。
見てビックリ、捕手が捕れぬ快速球
中日の関西地区担当は法元英明スカウト。関大出身で投手から打者に転向し昭和31年から13年間中日のユニフォームを着た。関西では高校から大学・社会人に至るまで顔が広い。今年の5月頃、奈良を訪れた際に郡山高の監督から聞き捨てならぬ情報を教えられた。「滋賀県の堅田高に三振をじゃんじゃん奪う投手がいるらしいよ。京都の伏見工を相手に22奪三振したと聞いた」というものだ。伏見工といえばかなりの強豪校で俄かには信じられなかったが、百聞は一見に如かず。とにかく自分の目で確かめようとその足で堅田高に向かった。京都駅から湖西線に乗り換え大津を過ぎて堅田という湖岸にへばりつくような町に降り立った。
堅田高は県立校で進学校。校庭の練習を見渡しても野球部員はパラパラ程度でいかにものどかな雰囲気。そんな中、都投手は一見して分かった。1㍍80㌢の長身から投げ下ろす速球に捕手は右往左往していた。捕球するのに精一杯で少しでも高目に投げるとミットをかすめて後方へ抜けた。「ワー、これじゃ投手が気の毒。他の部員とレベルが違い過ぎる(法元)」と驚いた。それからしばらくして練習試合があると聞いて再び訪れた法元スカウトは二度ビックリ。左腕投手で球が速ければ大抵はノーコンと相場は決まっていたが全く違っていたのだ。「これは間違いなく本物だ」と法元スカウトは確信した。
名古屋に戻ると直ぐに東方利重スカウト部長に「まだ他球団のスカウトは来ていません。この分なら今年の掘り出し物になるかもしれません」と報告した。その日以降、法元スカウトは大阪方面に出かける度に都投手の元を訪れるようになった。しかしこれだけの逸材を他球団が見逃すことはなかった。在阪の南海・阪急・阪神らのスカウトが堅田を訪れるようになるのに時間はかからなかった。やがて夏の地方予選が始まると東方部長自ら堅田に足を運んだ。試合の行われる皇子山球場へ向かう湖西線の車内で顔見知りのスカウト達と遭遇。「おや、東方さんも都投手がお目当てですか?」と聞かれ、「もうバレたか」と内心ドキリとしたが平静を装った。
事前の接触が実を結んだ高元
法元スカウトは昨年は同志社大の田尾選手を担当し田尾選手は見事に新人王に輝いた。選手を見る目には定評がある。その法元スカウトが都投手と同様に高く評価していたのが高元投手だ。広島・廿日市高から地元の三菱自動車広島に就職が内定していた投手である。当然地元のカープも目を付けていたが視察に訪れる他球団のスカウトの姿は見当たらず5位か6位ぐらいの指名を考えていた。ところが指名直前に中日に5位で指名されて逃してしまった。「それにしても中日さんが高元を知っていたとは…」とガックリ。たまたまウエスタンリーグの広島戦に帯同した横山育成課長が二軍戦の合間に練習試合で投げる高元投手を見て惚れ込んだ。
学校関係者に挨拶を済ませた後に日を改めて法元スカウトが高元家を訪れた。しかし夏の県大会予選が終了した頃に両親から「就職が内定しました」とプロ入り辞退の連絡が入った。ドラフト会議を2日後に控えた17日に東京のホテルでスカウト会議が行われ、その場で高元家に電話で最終確認をしたところ「もし中日さんが指名してくれるのなら三菱自動車さんには内定辞退を申し入れます」との返事が来た。高元投手が三菱自動車の練習に参加した際に同じ野球をするなら社会人もプロも変わらない。それならプロへ行こうと決めたのだ。スカウト会議で高元指名が衆議一致した。中日はドラフト会議後にカープの真意を知り胸を撫で下ろしたのだった。
無名選手指名は綿密な作戦から
4位指名の今岡均投手(中京)も日本石油に内定していたのを東方部長が事前に礼を尽くしていたからこそ「中日ならお世話になってもいい」という好意に繋がったとみてよいだろう。東方部長は昭和45年まで球団代表だった。親会社の中日新聞時代には運動部長を務め、野球に限らずスポーツ全般に明るい。円満な人柄と緻密な仕事ぶりはスカウト業の元締めとしてうってつけで、中日がドラフトで効果を上げ始めたのは東方部長の存在なくしては有り得ない。ともすれば選手出身のスカウトはデータ収集やプランナーといった面を不得手とする傾向があるが、サラリーマン経験のある東方部長はお手の物だ。
部下達も多士済済で田村次長は中央大OBで冒頭で触れた鈴木孝投手のドラフト指名に深く関わったスゴ腕の持ち主。" 堂上2世 " の呼び声が高い2位指名の生田投手は地元・東海地区担当の山崎スカウトが昨年あたりから目を付けていた。もともと生田投手は解散した愛知県瀬戸市にある丹波羽鉦電機(昨年のドラフトで日ハムが指名した福島投手・中村投手が在籍)で控え投手だったが山崎スカウトは注目していた。チーム解散後に福岡県にある「あけぼの通商」に移った後も接触を絶たず今回の指名に至った。今ドラフトに関して「なんだ訳の分からない指名をして…」という声が一部にあるのは事実だが、中日スカウト陣のたゆまぬ努力の結晶なのである。
都裕次郎 : 243試合・48勝36敗10S
生田裕之 : 一軍出場なし
宇野 勝 :1802試合・打率.262 ・338本塁打
今岡 均 : 一軍出場なし
高元勝彦 : 1試合・0勝0敗0S
" ルール違反ではない " では通らぬ
仮に原選手が巨人入りしたらどうなるのか?もちろん巨人は万歳三唱するくらい大喜びするだろう。道義的云々は後で述べるとして、原選手ほどの素質のある、しかも絶大なる人気を兼ね備えた選手に巨人のユニフォームを着せたら後楽園球場は満員御礼の日々が続くであろう。あと1万や2万人多く収容できる球場に作り代えてもお釣りがくる。人気だけではない。魅力なのはホームランバッターではなく確実性の高い中距離バッターである点だ。身のこなしも軽快で三塁手としてプロでも十分通用する。長嶋の後継者としてこれ以上ない選手なのだ。だが巨人以外の球団関係者やマスコミは一斉に巨人を非難することになるであろう。
「巨人軍は自ら球界の盟主を任じながら、その秩序を自分の手で破る暴挙に出た。その責任は計り知れない」
「荒川選手(ヤクルト)のようにダーティなイメージが付いてしまう」
「原も原だ。親子して大学進学を発表しておきながら急に態度を変えてプロ入りするとは何事だ」
「いや、これも全てドラフト制度が生んだ悲喜劇だ。悪いのは原選手ではなく制度だ」
「プロ野球はルールに則っての商売だ。少なくとも原選手はルールを破ってはいない」
ざっとこうした声が上がるのは予想できる。その結果、巨人を処罰すべきという声が他球団から上がるであろう。しかし厳密に言えば巨人はルールを破ってはいない。他球団が指名した選手を強引に横取りしようとしているわけではない。大学進学するだろうから巨人を含めた全球団が指名を見送った。しかしドラフト会議後に原家の事情が変わったとか、酒井投手(長崎海星)がヤクルトに指名されたのに触発されてプロ入りに気持ちが傾いたとか理由はどうあれ、自由獲得対象選手がドラフト外でプロ入りするのに何の問題もなく、問題があるとすれば道義的責任だけである。
「そんな暴挙がまかり通るのならドラフト制度など止めてしまえ」などの声が球界内外から沸き起これば巨人とすれば思う壺。ペナルティどころかありがとうとお礼をしたいくらいだろう。いずれにしても巨人としたら一時だけ各方面からの非難の声に耳を塞いでひたすら沈黙を守れば時間と共に騒ぎは収まる。あれほど大騒ぎとなったロッキード事件ですらまだ幾らも経過していないのに世間は忘れ始めている。ケシカランと怒ったところで一般大衆の怒りや記憶はその程度のもである。ただし原家や東海大学は巨人とグルになって大芝居をしたとして風当たり強まるだろう。更には高野連も巻き込んでアマチュア野球界は大混乱するかもしれない。
田淵・大北にまつわる巨人謀略説
実は巨人のこうした動きは初めてではない。今から8年前、法政大の田淵選手は「巨人以外にプロへは行かない」と宣言した。しかし指名したのは巨人より指名順が先の阪神だった。阪神はあの手この手で交渉を試みたが既に巨人と裏交渉が進んでいた田淵は拒否。しかし如何に巨人でも他球団が指名した選手を横取りは出来ず事態は膠着状態に。「どうしたらいいのか…」思い悩んだ田淵が巨人スカウトと密会している場面が暴露され、田淵・巨人双方に非難が集中した。結局、田淵は大学の先輩などの助言もあり阪神入りした。
今回の原選手と似たケースだったのが大北選手(高松商)の場合だ。中西2世と呼ばれたスラッガーで12球団がリストアップしていたが本人・家族・学校が揃って進学を表明し各球団は指名から撤退していった。中日は西村ヘッドコーチが高松商の先輩でもあり最後まで熱心に口説いたが進学の線を崩せず指名を諦めた。その裏で動いていたのが巨人だった。11月9日、ドラフト会議が開かれ巨人が2巡目で大北選手を指名した。大北選手に進学のアドバルーンを上げさせたのが巨人だったのだ。会場の他球団は驚いたが時すでに遅し、まんまと巨人が12球団注目のスラッガーを手に入れた。
この時は高松商OB会が大北選手の除名騒ぎにまで発展したが、ルールに違反していない巨人には何のお咎めも無かった。今回の原選手はこのケースと似ている。では今回も巨人が裏で動いているのか?大洋の平山球団常務は否定する。「あれほどの声明を出しているのだから進学で決まりでしょう。もしこれがひっくり返るようになったら原親子は勿論、松前総長への非難は相当なものになるでしょう。松前総長といえば各方面で影響力を持つ人物で裏で巨人に肩入れしていたとなれば、その地位や名声を失いかねない。そんな危ない橋を渡るとは思えない(平山)」と語る。
ではひとまず原選手を東海大学へ進学させた後に、すぐに退学させて巨人入りさせる裏技はどうか?これは明らかなルール違反で、この場合はコミッショナーが全球団に対し原選手が中退した旨を通達し、入団交渉を希望する球団が複数あった場合は抽選を行う規定が定められている。となると残された方法は原選手自身がどうしてもプロ入りしたくなったと前言を撤回し、東海大学側も本人の意思が強固であり不本意ながら入学は諦めると言う他ない。「もしそうなったら巨人はフェアじゃない(鈴木セ・リーグ会長)」「全国の野球ファンを裏切る行為(阪急・渓間代表)」「ドラフトの意味がなくなる(南海・森本代表)」等々、大騒動は必至である。
松前総長の遠大な構想の旗手へ
「東海大学は高校・大学と一貫した教育を方針としている。東海大の付属校の生徒は推薦で大学へ進むことが普通です。他の大学へ進学する生徒以外はもう東海大学に入学したのも同然なのです」11月24日の会見で松前総長は断言した。何としても原親子を東海大学に迎えたいと考えている松前総長とはどのような人物なのか?松前重義氏は東北大学出の元通信院総裁で元衆議院議員、現在は社会党の顧問である。今年にロッキード事件が起きた後に社会党・江田三郎氏、公明党・矢野絢也氏、民社党・佐々木良作氏らと『新しい日本を考える会』を結成し座長を務める一種の政界フィクサー的存在である。
その松前総長には政治とは別に東海大学を更に大きく格式のある総合大学にしたい夢がある。その一環で先頃、最後の学部として医学部を創設したのもその為である。またスポーツによる建校という精神から東海大学が所属する首都大学リーグの一層の繁栄にも力を注いでいる。「松前氏は5年ほど前から貢氏を大学野球部に誘っていた。また忙しい中、暇を見つけてはリーグの本拠地の駒沢球場へ行き試合を観戦し将来的には駒沢球場を3万人収容のものへ作り替える構想もあるらしい」と担当記者。先ずは貢氏を監督に迎えてチームを強化し、ゆくゆくは全国各地の有力選手を入学させて大学野球界に旋風を巻き起こす野望を持っている。
その第一歩として原親子は何としても手放したくない。「東海大学から原家にそれ相応の支度金が出た筈ですよ。プロへ行けば5千万円の契約金は確実な選手だけに当たり前の話だと思います」と某球団スカウト。例え将来はプロ野球で身を立てるにしても大学教育を受けてからでも遅くはないという原家との考えとも一致する。松前総長は「原君が野球選手として生きていくのか、或いは学苑の徒として才を伸ばすかは分かりませんよ。なのにどうして皆さんは学業半ばの青年に今プロへ行くのが原君にとって最良の選択だと書き立てるのですか?」とマスコミに対して苦言を呈した。
ポスト王貞治へ天性のスター性と素質
巨人軍の原選手獲得熱は想像を絶するものがある。そこまで固執する理由とは何か?正力オーナーが提唱する「巨人百年の大計」によれば原選手は何が何でも獲得しなければならない人材であるのだ。将来の巨人軍を背負って立つだけの力と素質を持っている。ドラフト制がなければ例え何億円を積んでも入団して欲しいと公言する。過去、田淵や山口、江川など欲しい選手を獲得できなかった。それだけに自由獲得対象となった原選手をどんな手段を駆使してでも獲りたいと思っても不思議ではない。やがては現役から退くであろう王選手の後釜が何としても必要なのだ。
「長嶋君が引退した時に第一の危機が訪れた。しかしまだ王君がいた。その王君が引退したらどうするか。それは4年も5年も先の事だろうが巨人軍は常に長期的視点でチーム作りをしている」と正力オーナーは言う。ポスト王を一日でも早く確保する必要がある。長嶋監督は原選手について「原君は僕の高校時代と比べても遥かに素晴らしい選手。しかも天性のスター性を兼ね備えている。ポスト長嶋、ポスト王として数十年に一人の逸材ですよ」と熱く語る。原選手を三塁手に起用し遊撃手の篠塚選手と三遊間コンビを組ませ、これに王・張本らのベテランを絡ませれば黄金時代を続けられるという計画である。
原選手が大学に進学しても4年後には今と同じく獲得に動くがドラフト制度がある以上は巨人に入団する確率は十二分の一。巨人が原選手を確実に獲得できるのは自由競争になった今を除いてはないのだ。それだけに巨人軍としては道義的に世間から非難を浴びようが形振り構わず獲得に動いているのだ。ドラフト会議前のスカウト会議で一応は指名して交渉権を得るのが良いのでは、という意見も出た。しかし出来レースではと痛くもない腹を探られるので、自由獲得選手になってから交渉に入るのが得策であるとして指名は見送られた。ドラフト会議後の正力オーナーの「手は打ってある」という発言はこうした球団内の意思決定の経緯を指していたのだ。
更に一部スポーツ紙が記事にしたアマチュア球界の大物・X氏にはドラフト会議前に下交渉の依頼は確かにしていた節は有る。ただし巷間言われているような密約とか謀略の類ではなかった。密約とは松前総長の長男・達郎氏(九州東海大学長)が来年の参議院選挙に出馬する際には読売グループがバックアップするというもの。しかしこれは現実的ではない。大手マスコミがいち政治家を応援するなど有りえない話だが、いかに巨人軍が原選手を欲しがっているかを誇張してそんな噂話が独り歩きしたようだ。巨人は松前総長の断にもかかわらず12月の総選挙後に正力オーナーと松前総長の会談に望みを賭けている。果たして逆転満塁サヨナラホームランなるか注目である。
二軍に行くならオレが鍛えてやる
原家ではこの1年間は生涯最大の悩める期間だった。一つ目は父・貢氏の去就であり、二つ目は言わずと知れた原選手の進路だった。貢氏は度重なる大学野球部監督就任要請を断り続けてきた。「原監督は口を開けば、オレは高校野球の監督であり続けたいと言っていた」と担当記者は言う。福岡県の三池工を率いて甲子園全国制覇を成し遂げ、松前総長に乞われて東海大相模高を全国屈指の強豪校に育て上げた。その手腕を松前総長は首都大学リーグで発揮させたいと東海大学野球部の監督就任を要請したのである。恩のある松前総長の要請だけに貢氏も悩んだ。大学には大学を取り巻くOBや組織があり、そこへ単身乗り込んで思い通りの仕事が出来るのか。
悩んだ末に出した結論は監督就任受諾だった。8月下旬の事だった。残る問題は原選手の進路。貢氏は常々「プロへ行くのもいい。しかしプロになるという事は野球で一生の身を立てる事だが現在の辰徳の力では一軍では通用しないだろう。2~3年ファーム暮らしとなればファーム組織と指導力が確立しているチームでなければならない。だとすればプロへ行くなら巨人が最適だと考えている」と話していた。また母・勝代さんは「野球で生活するか別の世界で生きていくのかを18歳で決めなくてもいいと思う。息子には好きな道を進んで欲しいけど、決めるのは大学で判断力を高めてからでも遅くないと思います」と。
では肝心の原選手はどうなのか?本人は終始一貫してプロへ行くなら巨人へという希望を持っている。「子供の頃から長嶋さんのファンで巨人ファン。今年の阪急との日本シリーズも後楽園球場で観戦しました。あの0対7の劣勢からサヨナラ勝ちした第6戦です。あれでまた惚れ直しました」と原選手。だが一時は巨人以外の中日や阪急、大洋、ヤクルトもいいと思っていた時期があった。18歳の野球青年の気持ちをいかにプロ球団側が揺り動かしていたかを物語っている。ただし原選手という青年は父親の立場や生き様をジッと観察もしていた。父親は余り気の進まない大学野球に身を預けるのだ。それが禄をはむ者の信義なのだ、と感じている。
父は気乗りしない大学野球の監督を引き受けると決めたのだ。息子である自分も父と一緒になって今はまだ東京六大学リーグと比べてマイナーな首都大学リーグを繁栄させる為に頑張ろうと決めたのだ。「巨人は大好きです。その巨人が僕を誘ってくれて本当に嬉しいです。でも進学することにしました。4年後に再び求められたら最高だと思います。どうしても来てほしいと言われるような選手になれるように頑張ります」と原選手はキッパリ言い切った。貢氏は「私どもの進路は決まりました。ハッキリ態度を明言してプロ球団の方々に迷惑がかからないようにしました」と原親子の進路を表明した。
原番記者の苦しく長~い一週間
11月19日、ドラフト指名漏れによって生じた " 原騒動 " 。プロ入りを拒否しているにもかかわらず巨人が獲得声明を出すと、負けじと広島も古葉監督が獲得の意思を表明するなど対抗意識をメラメラ。元々が巨人志望だった原選手だけに巨人からのラブコールに拒否宣言との板挟みに。ドラフト会議後の一週間は生涯一の長い時間であったろうが同じく、否それ以上に担当記者にとっても長~~いものだった。翌20日には巨人・淡河コーチ補佐が神奈川県相模原市の原家に長嶋監督の親書を持参した事が明らかになると、スワ一大事とばかり担当記者は殺気立ち、各マスコミは急きょ東海大学周辺を張る記者と原家をマークする記者の分担制を整えた。
「原君は巨人のユニフォームがよく似合う。中日でも阪急でもないんだ。僕の後を継いでもらう選手なんだ。僕は君を待っている」という長嶋監督の " ラブレター " に対して両親共ども感激に浸って「大変名誉なことです」とコメントを発表したが、世間に対して嘘はつけない。11月16日に各マスコミを前にして「どんなことがあってもプロへは行きません。東海大学に進学します」と宣言した手前、長嶋監督のラブコールを原家として受けることは出来ない。巨人からの誘いは嬉しいが前言を翻したら原家の信用も東海大学のメンツも失うことになる。巨人には行きたいが記者会見で発表した以上、それは出来ないという結論を23日に出した。
結論が出るまでの間、記者には上司からの矢のような催促が止まらない。「本当に大学進学なんだな?巨人入りは100%、いや1000%ないんだな!」というしつこい詰問に「そんなに疑うのなら自分で調べろよ」と記者達は辟易としていた。東海大・松前総長も「何故巨人は進路が決まった者を獲得したいんだろうか?誰が来ようがダメものはダメです」と巨人の対応に不快感を表した。25日には松前総長と貢氏が会談し原選手の東海大学進学を再確認して事態の収拾に努めた。だが一方の巨人は相変わらず「何としても欲しい。(12月5日の)総選挙の後に松前氏に会いたい(正力オーナー)」と諦めきれない様子。しばらくは巨人・原家・東海大学を巡る神経戦が続きそうだ。
高校球界最大のスター・原辰徳選手の名がドラフトでは除かれた。しかしその後、巨人軍が密かにアタックして大騒ぎ、東海大学松前総長の記者会見にまで及んだこのミステリーじみた騒動は果たして落着したのだろうか?
宣言し続けたプロ入り拒否
プロ入り拒否、東海大学進学を決意
4日後にドラフト会議を控えた11月15日、相模原市東林間の原家で家族会議が開かれた。これは翌16日に予定されていた父親・貢氏の東海大学野球部監督就任発表までに原選手の進路をハッキリさせる為の家族会議だった。実は東海大学の松前総長から「原選手の態度が曖昧ではプロ球団に迷惑をかけるので監督就任発表までに進路を決めておくように」と事前に言われていた。結論は大学進学だった。「現状では二軍で2~3年は鍛える必要がある。ならば私が自分で鍛えるのが賢明なのではないか(貢氏)」という理由の他に「希望する巨人以外の球団に指名されて拒否した場合、世間を騒がすだけだ」という配慮もあった。
東海大学進学を正式表明
11月16日、東京・霞が関ビルにある東海大学校友会本部で原貢氏の大学野球部監督就任が発表された。発表自体は早々に終了し、集まったマスコミの関心は原選手の動向に。記者からの質問に貢氏は「息子の辰徳、津末・村中の両君の進学も決まりました」「彼らのプロ入りは100%ありません。この場に相応しい話ではありませんが、プロ球団の方々に迷惑をかけてはいけないと思い発表させて頂きました」と語った。この発言を受けて原選手を上位指名にランク付していた巨人、中日、阪急、日ハム、ヤクルト、大洋などが東海大相模高に確認を取った。これで今回の原選手のプロ入り騒動は一件落着したと思われた。
ドラフト会議で原選手は指名されず
11月19日、東京・九段のホテルグランドパレスでドラフト会議が行われた。5巡目終了時点で原選手は指名されず、残すは6巡目のみ。「どこかの球団がダメ元で指名するかも。巨人が黙って見逃すはずはない」という予想は外れ原選手は指名されなかった。これにより原選手はドラフト外の自由獲得対象となった。ドラフト会議終了後、記者に囲まれた長嶋監督は原選手の話題になると「オーナーにお願いして原選手と交渉してもらう。あれだけの選手を放っておく手はないでしょう」と発言。大手町の球団事務所では「長嶋君がもう喋ってしまったのかね。獲得交渉に乗り出しますよ。自信は半々だが既に手は打ってあるんですよ(正力オーナー)」と。
正力オーナーの「手は打ってある」発言で原騒動は一気に火が点いた。密約説や大芝居説が流布しマスコミは大騒ぎに。これを受けて原親子が東海大相模高で会見し「4年後にお願いします。大学へ進学すると決めたのですから、例え巨人でも絶対に行きません」と密約説を否定した。19日午後8時過ぎ、巨人軍の中尾スカウトが電話で原家に挨拶をし、入団交渉をしたい旨を申し入れたが貢氏は断った。11月22日のスポーツ紙で前夜に長島監督から原家に親書が届けられたと報じられた。
巨人軍が大物X氏に仲介を依頼したという報道が
同じ日の別のスポーツ紙に巨人がアマチュア球界で影響力を持ち、東海大学・松前重義総長とも近い人物のX氏に仲介を依頼したと報じられた。先ずは松前氏と接触し交渉の突破口を開く戦術だ。取材に対してX氏は「2~3日後には原君の巨人入りが決まるだろう」と自信満々に語ったという。これら巨人サイドの動きに関して原家は終始一貫して「進学に決めました。プロへは行きません」と強調。11月23日、松前氏は関西講演からの帰路中に記者の質問に対して「原選手は東海大学進学が決まってる。誰に頼まれても巨人に入れることはしない。世間に公表した進路を今になって変えるなんて有りえない」と松前-正力会談を否定した。
松前総長が重ねて記者会見
11月24日、東京・霞が関ビル33階の東海大学校友会で松前総長が会見を開く。「東海大は高校と大学を一貫教育する為の学校で、原選手・津末選手・村中選手は学校推薦で進学が決まっていてプロ入り、巨人入りはありません」更に「もし仮に原選手がプロ入りしたら一体あの会見は何だったのか。前言を翻したら大変なことで大問題ですよ」と。そして今現在、巨人サイドからのアプローチはないと明言した。ここで記者から巨人から接触を求められたらどうするのか、と問われると「申し込みには礼儀として応じます。でも今、私が申し上げた内容を繰り返すだけです」と言い切った。
あくまでも原選手の巨人入りは有りえないと強調した。再度、記者が確認をすると「もし原選手を巨人入りさせたいなら私を殺さなければダメです。仮に天皇陛下が来られてもダメです(松前)」と。その夜の原家ではまだ記者が詰めかけていたが「松前総長もハッキリおっしゃっていたでしょう、私どもは最初から進学でプロ入りはしないと申し上げていました。これで今回の騒動から解放される事を望みます(原貢)」と安堵の表情。しかし巨人サイドは未だ諦めきれないようで、同日に東京・池袋の西武百貨店で開催されている『ジャイアンツ展』に出席した長嶋監督は「原君は僕の高校時代より優れた逸材です。まだ諦めませんよ」と語った。
「男は黙って」かそれとも…
兄弟分・新浦と堀内が好対照の男の勝負
「オレとしたことがこう何時までもモタモタしていたらカッパ(新浦)を肴に出来なくなるよ。トホホ」堀内投手は弟分の新浦投手が好投してもKOされても話のネタにする。先日、広島戦で新浦が完投勝ちした時も「この冷え込みが好投の原因だな。だってカッパの頭が熱くなって頭の皿の水が蒸発しなくてすむから」「いいピッチャーだよ。まぁ年に一回こっきりの事だけどな」「これで明日は雨だな」など色々言うが、とにかく堀内は新浦が可愛くて仕方ないのだ。舎弟分として昨秋から自主トレで面倒をみた間柄だ。だからこそ歯の浮くような言葉はかけられない。悪口にかこつけて大いに祝福しているのである。
新浦が不調でも言いたい事を言って口の体操をする。ただ思いっきり言えないことが難点で、ついでに自分の好不調が気にかかってくる。「自分の調子が良い時は何でも言えるけど悪い時はダメだよな。口の調子も狂ってしまうよ」と。で、阪神戦で2人が仲良くKOされた翌日、堀内は「あの野郎なんでもかんでもオレの真似をする。そのへんが頭悪いんだよな。まだまだオレの域には達していない」と自分も負けた事は棚に上げて言いたい放題。一方の新浦はまんじりともしない夜を過ごしたが杉下投手コーチに「今日もう一度投げさせて下さい。気分をスッキリさせないとことにはどうにもなりません」と再登板を申し出た。
直訴された杉下コーチは「おっ、欲が出てきたな」と喜んだが、投げさせてはみたが結果によっては逆に気分を落ち込ませることにならないかと思案中だ。新浦は堀内とは違ってマスコミ受けするような対応はしない。「今年はKOされたら何も喋らないようにしたんです(新浦)」と。それだけ今季に期すところが大きい。一方の堀内は喋ることで自分にも敢えてプレッシャーをかける。好対照の2人。「方法は違っても自分をコントロールして気分転換を図るのは大事。それが一流投手の一つの条件なんだよ」と杉下コーチ。男は黙って黙々と投げるか、軽口を叩いて自らを鼓舞するか、行程に違いはあれど勝負に勝つという最終目的は同じだ。
ナヌ!皿を洗って指切った?
ああ、またも失態やらかした問題児・ライト
「本当にアイツは手を焼かせるよ」と杉下投手コーチは怒ったり嘆いたり。ライト投手がまたも問題を起こした。今度は我がままではなく怪我だから仕方のない部分もあるが、大事な左手人差し指を切ってしまった。登板予定だった9月14日の阪神戦の試合前に「ゆうべ皿を洗っていたら切ってしまった。今日は投げられない」と申し出た。なんで皿洗いなんか、と言っても後の祭り。仕方なく加藤投手を1日繰り上げて先発させて急場をしのいだ。某コーチが発した「ジョンソン選手みたいに食器洗い機を球団が支給すればよかったのに」の発言が思わぬ方向に。実は食器洗い機はジョンソンが自腹で購入したのだが、それを聞いたライトが「オレも欲しい」と言い出して一悶着に。
ライトの問題行動には前科が。7月には川崎球場で大暴れ、8月には税金問題でゴネて、9月の初旬には「背筋が痛い」と試合直前に言い出してヤクルト戦の先発を回避とあるわあるわ。なので指の怪我も嘘じゃないかと疑う者もいたが確かに指先は切れていた。「怪我は仕方ないですよ。当分の間はライトを外して8人の投手陣でやり繰りしますよ」と長嶋監督。二軍から期待の若手・西本投手を昇格させる案も出たが次期一軍昇格登録日は19日でそれまでは8人で乗り切らなければならない。「台風で雨天中止を予想して阪神戦の為に早めに遠征先から東京に帰したのに…」と杉下コーチもガックリと肩を落とした。
ライトは家族が5日に帰国して今は1人暮らし。皿洗いをする必要もあっただろうが「投手なんだから何をするにも商売道具は細心の注意を払ってくれなきゃ困るよ。国民性の違いかね、本人はケロッとしているんだから」と杉下コーチは不満顔。加藤が繰り上げで先発した影響で2戦目も小林投手が1日繰り上げ登板とローテーションも狂ってしまった。これにはライトも「チームに迷惑をかけて申し訳ない」と長嶋監督に謝罪したが影響はしばらく残りそうだ。王選手や吉田選手が怪我から復帰し、さぁこれから優勝へ最後の仕上げにチーム一丸になる必要があるのに水を差された感は否めない。
柴田は出しませんからご安心
ホント?長嶋監督がファンと交歓会で宣言
今季も秋季練習、ファン感謝デーも終了し11月26日には納会も済んでオフシーズンに入った。今オフの目玉企画が『ジャイアンツ展』だ。東京・池袋の西武デパートで6日間催され10万人の入場者を記録し大盛況だった。「催し物は色々と開催しますがスポーツ関連では飛び抜けています。子供さんは勿論、スポーツ関連では珍しく女性の方も来場いただきましてファン層の広さを実感しました。選挙で言えば全国区的人気でした」と西武デパートPR担当者も驚いた。その最終日には長嶋監督も駆けつけて野球教室に飛び入り参加し、舞台上で現役時代さながらのバットスィングを披露するとチビッ子は大興奮。
野球教室の後にはファンとの質疑応答が行われた。
Q:スポーツ紙では柴田選手がトレードされると書かれていますが本当ですか?
A:色々と書かれていますが出しません。私は嘘はつきませんから安心して下さい。
Q:東海大相模の原くんは巨人に入るのですか?
A:是非巨人に来て欲しいですね。原くんは僕の高校時代より凄い選手です。
Q:来年も優勝しますか?
A:来年の事を言うと鬼が笑うかもしれませんが頑張りますので応援して下さい。
長嶋監督は行く先々で同じような質問を受けて同じように答えている。今オフはもっぱら巨人のPR係りだ。球団初の最下位に沈み " 謹慎 " を余儀なくされた昨年とは大違いで、明るい表情で全国を飛び回っている。この展覧会には優勝トロフィーや王選手の715号のホームランボールや数々の決定的写真が展示され、王選手・張本選手ら多くの選手が交代で顔を出している。「やっぱり勝負事は勝たないとダメだね。来年も頑張らないと(王)」と巨人ナインは改めて優勝の良さを実感している。この展覧会は年が明けると関東地区の西武デパートで開催された後は全国13ヶ所で行われる予定だ。
大洋丸、到着寸前でアッと沈没
2試合連続で土壇場の逆転負けに秋山船長カッカ
シーズン130試合の内には9回二死から逆転負けを喰らうこともあるが、そう滅多にあるものではない。それが同じチームが連夜に渡って憂き目に遭ったらたまったものではないだろう。それが現実に起こった。4月10日、川崎球場での対中日戦は大洋が中日先発の三沢投手以下5人の投手をシピン選手の2ラン、長崎選手のソロなどで圧倒し7回終了時で7対3とリードしていた。ところが大洋先発の奥江投手をリリーフした平松投手が8回表に高木選手のソロに続き井上選手に投手強襲安打、マーチン選手に2ランを打たれて3失点の1点差となり、たちまち楽勝ムードが怪しくなってきた。
だが9回表は平松も立ち直り、代打・末永選手を三振。ローン選手を捕ゴロに打ち取り二死となり勝利は目前だった。8回表に本塁打を打たれた高木に中堅前に安打されたが続く谷沢選手は二ゴロ。試合終了と思った直後、二塁手のシピンが見事なトンネルで一・三塁と一転して同点のピンチに。ここで平松は踏ん張れず井上に左前に運ばれ同点となり一・二塁とピンチは続く。マーチンの打席で辻捕手が立て続けに捕逸し二塁走者の谷沢が生還し逆転。マーチンは四球で尚も一・三塁で島谷選手、梅田選手が連打し、この回4失点で7対10で逆転負けした。「抑えてくれる思った平松が打たれて続いてミスを連発じゃ勝てんわな」と秋山監督は怒りをグッと押し殺した。
しかし悲劇は翌10日も続く。試合は渡辺投手が踏ん張り8回まで2対1とリード。9回表も安打と四球で一死一・二塁の場面で谷木選手は遊飛で二死。続く高木は平凡な遊ゴロ。ところが名手・山下選手の二塁送球がまさかの野選となり試合終了の筈が二死満塁の大ピンチに。ここで谷沢に右前2点打。続く新宅選手には投手強襲安打で更に1失点。代わった宮本投手がマーチン、梅田に長短打され計6失点で万事休す。「やった、やった」と大騒ぎの中日ベンチに対して大洋ベンチ内はお通夜状態。9回裏の攻撃もあっさり終了して悪夢の連続逆転負けに選手達は茫然自失。
ロッカールームは火の気が消えた静けさで誰一人として喋らない。やはり一番ショックを受けたのは秋山監督だ。今年は勝負の年としてキャンプ・オープン戦から昨年までとは比べようもないくらい厳しい姿勢で選手に接してきた。そうした動きが徐々にだが実を結びつつあった。開幕して5試合を3勝2敗と勝ち越し、負けた2試合の内容も昨年までの無様な負け方ではなかった。今年の大洋は違うと周囲が思い始めた矢先の今回の連敗である。「私が弱気になっちゃいかんのだが、それにしても参った」と秋山監督は苦笑しながらも「また明日からやり直しだ」と前向きだ。やはり今年の大洋は一味違う。
オレの女房は大学3年生です
平松が独身に終止符。大上洋子さんと結婚
球界のプリンスと呼ばれている平松投手がとうとう独身生活に終止符を打った。11月23日にかねてから婚約中の大上洋子さん(20歳・フェリス女学院3年)と東京・芝の高輪カトリック教会で挙式した。品川パシフィックホテルでの披露宴には横田球団社長、別当監督をはじめ大洋ナインら多くの球界関係者や、歌手・橋幸夫さんら著名人も参列した。「最下位脱出の為またエースとしても是非とも20勝を」という言葉が祝辞として寄せられたが、これも最近の平松の成績から見れば致し方ない。
高さ10㍍・150万円という豪華なウェディングケーキにナイフを入れた後に11月20日に出来上がったばかりの大洋球団歌を選手らが高らかに唄って会場を大いに盛り上げた。平松は翌24日から12月1日までハワイへ新婚旅行。「子供は2人か3人欲しいね。もちろん亭主関白だよ(平松)」「学業と主婦を両立させ幸せな家庭を作りたい。体調管理の面でもバランスの良い食事を心がけていきたい(洋子夫人)」と2人。来季はガラスのエースを返上して家庭だけでなくチームの関白になってもらいたい。
幸せいっぱいのムードが漂う披露宴会場で一人浮かぬ表情だったのが横田球団社長。クラウンライターライオンズとの交換トレードでライオンズへ移籍する山下律投手へのトレード通達を披露宴翌日の24日に控えていたのだが、一昨年に山下が結婚した時の仲人が横田社長だった。「いくら仕事とはいえ仲人をした選手にトレードを伝えるのは嫌なもんだねぇ。もう二度と選手の仲人はしたくないね」と。日頃からチームの勝敗に共に一喜一憂する選手にトレードを通達したり解雇を宣告したり、社長さんの気苦労は多い。
投げて投げて投げまくります
ドラフト1位の斉藤(大商大)たくましく入団
11月19日、ドラフト会議が開始される午前11時を前に会場の外では球団職員が慌てていた。というのもクジを引く役目の横田球団社長が一向に現れないのだ。開始10分前に悠然と姿を見せた横田社長は「慌てたってしょうがない。早く来たら良い番号を引けるわけでもないし。今年は最下位だから、せめてドラフトは良い結果になるよう祈っている」と。結果は六番目。前日のスカウト会議では何が何でもサッシー(酒井投手)あるのみ!だったが酒井は一番クジを引いたヤクルトが指名し獲得ならず。大洋の1位指名は大学ナンバーワン右腕の斉藤明雄投手(大商大)だった。斉藤は「希望はセ・リーグ」と明言しており入団に支障はない。
12月1日、平山スカウト部長が大阪を訪れ契約金2600万円・年俸240万円を提示したが斉藤は「僕が考えていた額より少ない」と合意には至らなかった。一週間後の7日、今度は横田社長が自ら大洋漁業大阪支社に足を運び斉藤本人、両親、村上監督(大商大)と会って契約金3000万円・年俸240万円を提示すると今度はすんなり合意し入団が内定した。ちょうどこの日のスポーツ紙にはヤクルトが指名した酒井投手が契約金3000万円でも合意に至らずヤクルト球団の苦悩が記事になっていただけに大洋側も「果たして斉藤君が納得してくれるか不安です」と平山部長は心配顔だったが杞憂に終わった。
入団内定に大喜びの横田社長は「斉藤君の通算1.64 の素晴らしい防御率は何とも心強い。ウチは投手力が弱いのでこんなに嬉しいことはない。来年は巨人の王君、張本君、阪神の田淵君らを向こうに回して大いに投げまくって欲しい」と大絶賛。大学ナンバーワン右腕と期待される斉藤は最初の条件提示の時に「プライド料としてもう少し…」と粘った甲斐があったわけだが「大洋に骨を埋めるつもりで肩が上がらんようになるまで投げて投げて投げまくります」と期待する方、される方の両方がニコニコ顔の一日だった。何はともあれ今から開幕が待ちどうしい。