Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#278 伝統の一戦 ①

2013年07月10日 | 1982 年 



昭和11年7月15日、名古屋の山本球場で行なわれた「連盟結成記念日本選手権試合・名古屋大会」の大会初日の第2試合の初対戦から間もなくあと3試合で巨人と阪神の対戦は1000試合を迎える。内訳は 『 巨人:536勝、阪神:419勝、引き分け:42 』 となっている。



創立日:昭和9年12月26日                  創立日:昭和10年12月10日  
商 号:株式会社大日本東京野球倶楽部          商 号:株式会社大阪野球倶楽部
資本金:50万円                          資本金:20万円
所在地:東京市京橋区銀座西 3-1 菊正ビル      所在地:大阪市北区中ノ島2-25 江商ビル
取締役会長:大隈信常                      取締役会長:松方正雄
専務取締役:市岡忠雄                      専務取締役:富樫興一



「東京巨人軍」「大阪タイガース」と両チームは都市名をつけて出発した。東京の大隈会長は早稲田大学の創始者・大隈重信侯爵の養子で当時の華族である。一方の大阪の松方会長は明治維新の元勲の一人である松方正義公爵の三男でBK(現在のNHK大阪放送局)の役員をしていた関西財界の有力者であった。東京が侯爵なら大阪は階位が上の公爵を持ってきたわけである。まだ社会的にはプロスポーツとは認知されず警察などからは「遊芸稼ぎ人集団」扱いをされていたプロ野球界はトップに上流階級の名士を据えて重みを加える陣容を構えるのに懸命だったのだ。

東と西の大都市を本拠地とした両球団はやがて人気を博すようになったが両者が直接対戦する機会はなかなか巡って来なかった。昭和11年には巨人軍は二度に渡って米国へ遠征を行ない春季大会が開催されていた頃は不在だった。6月5日の帰国を待って7月1日から早稲田の戸塚球場で東京大会が開催されたが巨人軍は早々に敗退。7月10日からは甲子園球場に場所を変えて大阪大会が開催されたがここでも巨人軍はタイガースと対戦する前に敗退してしまい両者の対戦はこの時も実現しなかった。当時はトーナメント方式だったので1つ負ければ即終了であった。

ようやく7月15日の名古屋大会で対戦が実現。巨人軍が6対3とリードしたが終盤にタイガースが5点を奪い逆転勝利を収め、タイガースはこの名古屋大会で初優勝を成し遂げた。一方この無様な敗戦に業を煮やした巨人・藤本監督が群馬県茂林寺で伝説となった猛練習をする事となる。今でも語り草になっている巨人の存亡を賭けたキャンプはまだ残暑厳しい9月5日から12日まで行なわれた。藤本は生前に「あの時は早稲田の後輩の三原(脩)が助監督の肩書きで先頭に立ってやってくれた。俺なんかより彼がその後の巨人軍を創り上げた功労者だよ」と語っていた。まさに血ヘドを吐くようなシゴキに耐えた選手達は蘇えった。

秋季大会は4つのリーグ戦と2つのトーナメント戦の混合ポイント方式でそれぞれの勝者に勝ち点が与えられ年度優勝を決めるシステムになっていたが巨人軍とタイガースが同点となり優勝決定戦が行なわれる事となった。その対決が日本プロ野球史に残る名勝負のひとつに数えられている「洲崎の決戦」である。



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