東京五輪が終わり世の中が一息ついた昭和40年・37回大会は岡山東商・平松政次投手(大洋)の独り舞台だった。沖縄のコザ高、明治高、静岡高、徳島商を史上4人目の4試合連続完封して決勝進出。市立和歌山商戦では1点を取られて39イニング連続無失点でストップしたものの、延長13回を投げ切る力投で優勝へと導いた。この平松と決勝戦で対戦したのが藤田平(阪神)内野手。藤田は2回戦の中京商戦で2本塁打の大会記録をマークし当時の南海・蔭山ヘッドコーチがテレビ中継を見て「こんな高校生がいるとは…間違いなく本物で即戦力だ」と感心した。
NHKのテレビ中継がカラー化された昭和41年の優勝校は中京商。準決勝で宇部商と延長15回、試合時間4時間35分の大会最長記録となった熱闘を制し、決勝戦は土佐高に1対0で勝ち4回目の優勝を遂げた。決勝戦における高知県勢の不運は続く事となる。翌年の39回大会でも高知高が津久見高と延長12回まで死闘を繰り広げるが1対2で敗退。勝ち運が無いと言う事では尾道商も同じで昭和39年にジャンボ尾崎がいた徳島・海南高に決勝戦で敗れたのに続いて昭和43年も決勝まで勝ち進むも初出場の埼玉・大宮工に再び1点差負け。ちなみに大宮工に敗れた学校の中には東尾修(西武)を擁した和歌山・箕島高もあった。
この昭和43年から44年にかけて日本中で全学連が活動を激化させ世の中は高校野球どころではなくなる。昭和43年2月、新空港建設に反対する成田市の農民が市役所に押しかけて抗議を行ったがそこに全学連が同調した事で大騒ぎになり警官隊と衝突。3月には東京大学の卒業式に全学連が乱入して式典は中止に追い込まれた。全学連運動はその後も収まる気配はなく翌年の国立大学一期校の入学試験が機動隊の警備の下で行われる異常事態に。そんな昭和44年の大会に青森・三沢高の太田幸司投手の姿があった。太田が注目されるのはこの年の夏の大会になるのだが既に前年の夏と今センバツに出場していた。夏の大会で「コーちゃん人気」で一気に増えた女性ファンは昭和45年の大会を制した和歌山・箕島高の「二代目コーちゃん」こと島本講平投手に熱狂する事になる。
昭和46年は沖縄返還協定調印の年。それに合わすかのように沖縄代表・普天間高が1回戦で青森・弘前工を破って悲願のセンバツ初勝利をあげた。優勝争いは東京・日大三と大阪・大鉄の東西対決となったが日大三が制した。東日本勢の躍進は翌年も続きベスト4を東北高・銚子商・日大三・日大桜丘が独占した。決勝戦は日大三と日大桜丘の兄弟校対決となり初出場の日大桜丘が優勝した。さらに翌年も横浜高が優勝し東日本勢が目立ったがこの大会の話題を独り占めにしたのは作新学院の怪物・江川卓投手だった。
開会式直後の試合で江川は大阪・北陽高と対戦し前評判通りの投球を見せ19奪三振で完封勝利、2回戦の福岡・小倉南を7回を零封。続く今治西も20奪三振で完封して準決勝進出を決めると世間には「高校生で江川を打つのは無理」「今プロ入りしても10勝する」との声が高まり一躍優勝候補筆頭になった。しかし準決勝で対戦した広島商は「肉を斬らせて骨を断つ」戦法、つまり打者が死球覚悟でホームベース上に被さるように立つ作戦を敢行した。結果は2対1で広島商の勝利。江川は43年前に第一神港商・岸本投手が記録した54奪三振(38イニング)を更新する60奪三振(35イニング)の大会記録を残して甲子園を去った。
昭和40年代の最後、49年に蔦文也監督率いる徳島・池田高が甲子園に登場する。部員数僅か11人ながら「イレブン旋風」を巻き起こして決勝まで勝ち進み地元の報徳学園と対戦した。善戦するも1対3で敗れたが「そりゃ勝ちたかったワイ。でも見てみい、ワシには報徳の金メダルよりもウチの生徒の銀メダルの方がピカピカに光って見える」と蔦監督は胸を張った。またこの大会で木製バットの使用が最後となったが本塁打がランニングホームランが1本だけという珍しい年だった。
昭和50年から高校野球は金属バット時代を迎え、開会式直後の第1試合・中京-倉敷商戦は16対15の乱打戦となりこれまでの守りを中心とした野球から打撃が中心の攻撃野球へと変貌を遂げた。前大会の本塁打はランニングホームランが1本だけだったがこの大会は8本に増えた。優勝した高知高以上に目立ったのは神奈川・東海大相模だった。打線の中心の原辰徳は快打を連発し決勝戦でも左中間に本塁打を放ったが優勝には手が届かなかった。「僕たちは優勝する為にやって来た。その夢は叶わなかったがここは勇気を与えてくれた青春の場です」と語り爽やかに甲子園を去った。
昭和51年の大会は出場30校中13校が初出場というフレッシュな大会だった。その中で初出場ながら優勝候補に上げられていたのが広島・崇徳高。1回戦の高松商を11対8の打撃戦で倒し2回戦では1回戦の対糸魚川商工相手にノーヒット・ノーランを達成した戸田投手擁する鉾田一に勝つと波に乗った。準々決勝、準決勝を危なげなく勝ち決勝戦で栃木・小山高も倒して初出場&初優勝の快挙を遂げた。初出場の躍進は翌年も続き、部員数12人の高知・中村高が準優勝に輝いた。エース・山沖之彦投手(阪急)を中心に爽やかに戦い続け決勝戦で箕島高に敗れはしたが日本中に「二十四の瞳」旋風を巻き起こした。
第50回の記念大会となった昭和53年に群馬・前橋高の松本稔投手が春・夏通じて史上初の完全試合を達成した。冷静に打者を観察して打たせて取る投球に野手陣も随所に好守を見せ滋賀・比叡山高は凡打の山。優勝したのは静岡・浜松商で準優勝は福井商だった。センバツ不毛の地と言われていた北陸路に準優勝旗が翻った大会だった。この大会で人気を独り占めしたのが大阪・浪商の香川伸行(南海)だった。巨体から繰り出される豪打は目を見張るものがあったが浪商は香川・高松商に敗れた。翌昭和54年に再び甲子園にやって来た香川の身体はさらに一回り大きくなっていた。エース・牛島和彦投手(中日)の力投もあり浪商は決勝まで進むが和歌山・箕島高に7対8で敗れ悲願達成はならなかった。
昭和50年代後半になると群雄割拠の時代を迎えるようになる。そんな昭和55年・52大会を制したのは高知商。決勝戦で東京・帝京高を破って10回目の出場にして悲願の初優勝を遂げた。翌56年からは「逆転のPL」の時代。第53・54回大会を連覇したが、これは実に52年ぶりの快挙だった。特に54回大会決勝は東京・二松學舍相手に猛打が爆発して決勝戦での史上初となる先頭打者本塁打など15点を上げて圧勝した。高校野球は技術からパワー時代への幕開けを迎える事となる。
NHKのテレビ中継がカラー化された昭和41年の優勝校は中京商。準決勝で宇部商と延長15回、試合時間4時間35分の大会最長記録となった熱闘を制し、決勝戦は土佐高に1対0で勝ち4回目の優勝を遂げた。決勝戦における高知県勢の不運は続く事となる。翌年の39回大会でも高知高が津久見高と延長12回まで死闘を繰り広げるが1対2で敗退。勝ち運が無いと言う事では尾道商も同じで昭和39年にジャンボ尾崎がいた徳島・海南高に決勝戦で敗れたのに続いて昭和43年も決勝まで勝ち進むも初出場の埼玉・大宮工に再び1点差負け。ちなみに大宮工に敗れた学校の中には東尾修(西武)を擁した和歌山・箕島高もあった。
この昭和43年から44年にかけて日本中で全学連が活動を激化させ世の中は高校野球どころではなくなる。昭和43年2月、新空港建設に反対する成田市の農民が市役所に押しかけて抗議を行ったがそこに全学連が同調した事で大騒ぎになり警官隊と衝突。3月には東京大学の卒業式に全学連が乱入して式典は中止に追い込まれた。全学連運動はその後も収まる気配はなく翌年の国立大学一期校の入学試験が機動隊の警備の下で行われる異常事態に。そんな昭和44年の大会に青森・三沢高の太田幸司投手の姿があった。太田が注目されるのはこの年の夏の大会になるのだが既に前年の夏と今センバツに出場していた。夏の大会で「コーちゃん人気」で一気に増えた女性ファンは昭和45年の大会を制した和歌山・箕島高の「二代目コーちゃん」こと島本講平投手に熱狂する事になる。
昭和46年は沖縄返還協定調印の年。それに合わすかのように沖縄代表・普天間高が1回戦で青森・弘前工を破って悲願のセンバツ初勝利をあげた。優勝争いは東京・日大三と大阪・大鉄の東西対決となったが日大三が制した。東日本勢の躍進は翌年も続きベスト4を東北高・銚子商・日大三・日大桜丘が独占した。決勝戦は日大三と日大桜丘の兄弟校対決となり初出場の日大桜丘が優勝した。さらに翌年も横浜高が優勝し東日本勢が目立ったがこの大会の話題を独り占めにしたのは作新学院の怪物・江川卓投手だった。
開会式直後の試合で江川は大阪・北陽高と対戦し前評判通りの投球を見せ19奪三振で完封勝利、2回戦の福岡・小倉南を7回を零封。続く今治西も20奪三振で完封して準決勝進出を決めると世間には「高校生で江川を打つのは無理」「今プロ入りしても10勝する」との声が高まり一躍優勝候補筆頭になった。しかし準決勝で対戦した広島商は「肉を斬らせて骨を断つ」戦法、つまり打者が死球覚悟でホームベース上に被さるように立つ作戦を敢行した。結果は2対1で広島商の勝利。江川は43年前に第一神港商・岸本投手が記録した54奪三振(38イニング)を更新する60奪三振(35イニング)の大会記録を残して甲子園を去った。
昭和40年代の最後、49年に蔦文也監督率いる徳島・池田高が甲子園に登場する。部員数僅か11人ながら「イレブン旋風」を巻き起こして決勝まで勝ち進み地元の報徳学園と対戦した。善戦するも1対3で敗れたが「そりゃ勝ちたかったワイ。でも見てみい、ワシには報徳の金メダルよりもウチの生徒の銀メダルの方がピカピカに光って見える」と蔦監督は胸を張った。またこの大会で木製バットの使用が最後となったが本塁打がランニングホームランが1本だけという珍しい年だった。
昭和50年から高校野球は金属バット時代を迎え、開会式直後の第1試合・中京-倉敷商戦は16対15の乱打戦となりこれまでの守りを中心とした野球から打撃が中心の攻撃野球へと変貌を遂げた。前大会の本塁打はランニングホームランが1本だけだったがこの大会は8本に増えた。優勝した高知高以上に目立ったのは神奈川・東海大相模だった。打線の中心の原辰徳は快打を連発し決勝戦でも左中間に本塁打を放ったが優勝には手が届かなかった。「僕たちは優勝する為にやって来た。その夢は叶わなかったがここは勇気を与えてくれた青春の場です」と語り爽やかに甲子園を去った。
昭和51年の大会は出場30校中13校が初出場というフレッシュな大会だった。その中で初出場ながら優勝候補に上げられていたのが広島・崇徳高。1回戦の高松商を11対8の打撃戦で倒し2回戦では1回戦の対糸魚川商工相手にノーヒット・ノーランを達成した戸田投手擁する鉾田一に勝つと波に乗った。準々決勝、準決勝を危なげなく勝ち決勝戦で栃木・小山高も倒して初出場&初優勝の快挙を遂げた。初出場の躍進は翌年も続き、部員数12人の高知・中村高が準優勝に輝いた。エース・山沖之彦投手(阪急)を中心に爽やかに戦い続け決勝戦で箕島高に敗れはしたが日本中に「二十四の瞳」旋風を巻き起こした。
第50回の記念大会となった昭和53年に群馬・前橋高の松本稔投手が春・夏通じて史上初の完全試合を達成した。冷静に打者を観察して打たせて取る投球に野手陣も随所に好守を見せ滋賀・比叡山高は凡打の山。優勝したのは静岡・浜松商で準優勝は福井商だった。センバツ不毛の地と言われていた北陸路に準優勝旗が翻った大会だった。この大会で人気を独り占めしたのが大阪・浪商の香川伸行(南海)だった。巨体から繰り出される豪打は目を見張るものがあったが浪商は香川・高松商に敗れた。翌昭和54年に再び甲子園にやって来た香川の身体はさらに一回り大きくなっていた。エース・牛島和彦投手(中日)の力投もあり浪商は決勝まで進むが和歌山・箕島高に7対8で敗れ悲願達成はならなかった。
昭和50年代後半になると群雄割拠の時代を迎えるようになる。そんな昭和55年・52大会を制したのは高知商。決勝戦で東京・帝京高を破って10回目の出場にして悲願の初優勝を遂げた。翌56年からは「逆転のPL」の時代。第53・54回大会を連覇したが、これは実に52年ぶりの快挙だった。特に54回大会決勝は東京・二松學舍相手に猛打が爆発して決勝戦での史上初となる先頭打者本塁打など15点を上げて圧勝した。高校野球は技術からパワー時代への幕開けを迎える事となる。