◆25年前の開幕戦…昭和33年の開幕は4月5日(土)。後楽園球場の巨人対国鉄戦は4万5千人、川崎球場の大洋対阪神戦は1万人、広島市民球場の広島対中日戦は1万7千人とセ・リーグ3球場合計7万2千人が詰めかけた。一方のパ・リーグは小倉球場の西鉄対阪急戦は2万5千人、駒沢球場の東映対南海戦は1万8千人を集めたが奈良球場の近鉄対大毎戦は3千人で合計4万6千人とセ・リーグと比べて寂しい開幕となった。この年の開幕戦の話題は長嶋の4打席4三振に注目が集まるが長嶋と同じ新人の森(中日)と森永(広島)がいきなりプロ初本塁打を放ち初陣を飾った。特に広島の森永は5打数3安打、古葉は6打数3安打と同じチーム2人の新人が揃って開幕戦で猛打賞を記録した。
◆初の25ホーマー打者…第二次世界大戦が終わり復活したプロ野球で昭和21年にセネタースの大下弘が20本塁打を放ち従来の記録であった昭和13年の中島治康(巨人)と翌14年の鶴岡一人(南海)の10本を大きく更新した。しかしこの記録も昭和23年には早くも青田昇・川上哲治(共に巨人)の2人に破られた。この2人の本塁打王争いは熾烈を極めた。青田が10月22日の大陽戦で新記録となる21号を放つと川上も2日後の同じ大陽戦で21号を放って並び、その後も両者のツバ競り合いが続いた。
10月27日の阪急戦で青田は立て続けに22・23号を放つと川上も11月1日の阪急戦の3回に22号を放ち追いすがる。するとこの試合の7回に青田が打った中前打がイレギュラーして中堅手が後逸する間にランニングホームランとなり再び2本差に。しかし川上も負けてない。11月3日の金星戦で23・24号を連発してまたもや青田に並ぶ。追いつかれた青田は11月11日の大陽戦で25号を放ち、同じ試合で川上は2安打するものの本塁打なし。残り試合が11月15日の南海戦1試合となり青田が逃げ切るかと思われたが川上は4回に広い甲子園の右翼席に放り込んで25本塁打としタイトルを分け合った。
◆幻の連続試合安打…戦後暫く連続試合安打の記録は金星スターズの坪内道則が持つ25試合とされていた。ところが昭和24年になると忽然と消えてしまった。2リーグ分裂を前に日本野球連盟が過去の記録を精査した所、阪急・野口二郎の「31試合」が見つかったからだ。坪内の記録が昭和23年、野口が昭和21年と年月も近く何故見過ごされていたのか?それは野口が投手と野手の二刀流だったからだ。昔の記録員は野口の本職は投手だった為に打撃の成績まで目が届いていなかった。野口は31試合中、24試合を右翼手或いは一塁手として先発出場する一方で試合途中に右翼や一塁からマウンドへ登った救援登板を含めて13試合に投手として登板しており、その間の成績は5勝5敗・防御率 2.60 、131打数48安打・打率.366 だった。
◆連続打席塁打…「連続塁打」即ち四死球を除いて途切れる事なく出塁し続ける事、それを「25」まで記録したのが後藤次男(阪神)だ。昭和25年3月29日、大洋戦の6回に放った本塁打が始まり。次の8回の打席では右前打して、この試合で5塁打。翌30日の同じく大洋戦で1回に先ず左中間二塁打、3回に左越え本塁打、4回にも再び左越え本塁打、6回には右中間二塁打、7回にこの日3本目の左越え本塁打しこの試合5安打の固め打ちで計16塁打。更に次の試合の4月2日松竹戦の1回にも本塁打を放ち、3試合通算し「連続打席25塁打」を記録した。
◆1イニング25塁打…一方、1イニングで25塁打を記録したのは昭和55年の西武。前年の球団創設1年目はブッチギリの最下位だったが2年目の後期になるとオールスター戦を挟んで7月15日から26日にかけて首位に立つなど躍進した。8月7日の近鉄戦は6回までは1対1の接戦だったが7回表の西武打線が火を噴いた。大石の右前打を皮切りに大原の犠牲バントは野選で一・二塁としタイロンの内野安打で無死満塁。続く山崎が本塁打を放ち計6塁打。スティーブの左飛でようやく一死となるが次の田淵は本塁打、続いて土井は二塁打、大田は右前打、立花は本塁打と連打して計11塁打。打順が一巡して大石は四球、大原の遊ゴロで二死となるがタイロン、山崎の連続本塁打で計8塁打。続くスティーブが捕邪飛に倒れて西武の攻撃は「25塁打・11点」でようやく終わった。
◆25ゲーム差…昭和40年の南海はとにかく強かった。開幕の阪急3連戦に3連勝した南海は、たまに負ける事はあっても連敗は一度のみ。開幕から43日目の5月23日には早くも2位と10ゲーム差、翌々日には他の5球団すべてを勝率4割台に突き落した。6月に入ると1日から15日にかけて10連勝、16日の阪急戦に敗れるも翌17日から7月14日にかけて17連勝。7月14日時点の成績は55勝9敗1分・勝率.859 で2位の東映に25ゲーム差をつけた。ただし、この日がピークだった。7月15日の東映戦に2対5で敗れて連勝がストップすると翌7月16日の西鉄戦も負けて開幕直後以来の久々二度目の連敗を喫した。更に8月29日から9月5日にかけて5連敗、また9月23日からシーズン最終戦までの23試合を7勝16敗と大きく負け越して一時は25ゲームもあった2位との差も終わってみれば12ゲームまで縮まっていたものの、独走と言えるリーグ優勝を果たした。
◆25三振…三振25と言うだけでは何の変哲もないが46打数25三振・三振率.543 となるとプロの世界では特異な数字である。その選手は今やゴルフ界の寵児、ジャンボこと尾崎将司である。徳島・南海高から昭和40年に西鉄入りした尾崎は前評判通りにオープン戦で好投したもののシーズンに入ると打ち込まれ1年目は17試合に登板し0勝1敗、2年目は僅か3試合に投げたのみで0勝0敗と低迷した。この年で投手に見切りをつけて打者に転向したが42打数2安打・24三振、打率.048 に終わった。打者転向1年目で球界を去るのだが投手時代の成績を含めると46打数2安打・25三振。ちなみに投手成績は20試合・41回1/3 を投げて0勝1敗・防御率 4.83 、四死球9、奪三振22 だった。
◆最後の25勝投手…最近では珍しくなった20勝投手もかつてはゴロゴロいた。昭和31年には両リーグ合わせて15人、昭和39年にも14人が20勝以上をあげていた。同じ「20勝投手」の肩書きでも最近では昭和56年の江川(巨人)や昭和57年の北別府(広島)は「20勝止まり」で20勝以上となると昭和54年の小林(阪神)と昭和55年の木田(日ハム)の22勝。それだけに30勝投手に至っては昭和43年の皆川(南海)の31勝を最後に現れておらず、25勝投手でも昭和53年の鈴木(近鉄)が最後だ。
◆待たれる25人目…セ・リーグにおけるノーヒット・ノーラン達成投手は過去24人、昭和51年4月18日に加藤初(巨人)が広島戦で達成して以来、もう6年も出ていない。そんな大記録も出る時は昭和27、31、32、40年と立て続けに出るもので昭和43年には二度も達成された。昭和45年5月18日に渡辺秀武(巨人)が広島戦で達成すると僅か22日後の6月9日に鬼頭洋(大洋)がヤクルト戦で達成した。惜しい場面は幾つかあった。昭和54年6月8日に三沢淳(中日)が巨人相手に9回二死まで無安打と達成目前まで行ったが柳田に右前打され逃した。昨年も鈴木正(ヤクルト)が6月18日の大洋戦で8回二死まで抑えていたが投手の野村に中前打され大記録は泡と消えた。ちなみにパ・リーグは19人で昭和53年8月31日に今井雄太郎(阪急)がロッテ戦で完全試合を達成して以来、4年間出ていない。