プロ初勝利…中継ぎで8勝して一躍新人王レースの先頭に躍り出た住友投手のプロ初勝利は4月24日の南海戦だった。谷崎投手の後を継ぎ二番手で登板して4回 2/3 イニングを2失点で降板した。勝利の瞬間マウンドにいたのは久保投手だったが勝ち投手は住友だった。久保は初勝利のウィニングボールを渡そうと住友を探したが自分は勝ち投手ではないと思い込んだ住友はそそくさとベンチ裏へ引き揚げていた。報道陣から勝利投手だと告げられると「エッ、僕がですか?本当に?」と何度も念を押すが半信半疑。小川に「お前が勝利投手だ、胸を張れ」と言われてセーブを挙げた久保から記念のウィニングボールを大事そうに受け取った。
とここまでは笑い話で済んだがもう一つの初勝利は笑えなかった。6月11日、日生球場での阪急戦でプロ6年目の良川投手が念願の初勝利を挙げた。先発の谷投手が5回途中で降板し二番手で良川が中継ぎ最後の2イニングを住友が投げて勝利した。西武をクビになり苦労した良川にとって待ちに待った初勝利だった。が、なんと住友は自分が勝利投手だと思い込みウィニングボールををスタンドへ投げ入れてしまった。直ぐに良川が勝利投手だと知らされるが後の祭り。急いでボールを探したが見つかる筈もない。「申し訳ない!」と平身低頭する住友であった。
いつも追っ手の足音を感じていた大石…大石が遂に世界の盗塁王・福本の牙城を崩し見事に盗塁王のタイトルを奪取した。昨季はシーズン終盤まで大石は福本をリードしていたが最後の最後で福本が1試合4盗塁の離れ業で逆転しタイトルを死守した。それだけに「5~6個はリードしてないと安心できません」の言葉通り5個差の60個で盗塁王のタイトルを手にした。しかし最終試合直前、得意の人工芝球場で荒稼ぎするまでは福本の足音が気が気ではなかった。来季は一転、最初から追われる立場となる。福本がいる限りゆっくり前だけを見つめて走り回れる事は無さそうだ。
珍プレーで名を上げた羽田耕一…羽田は決して守備が下手な訳ではない。昭和55年にパ・リーグを制覇した頃は大リーグの名手・ネトルズ(ヤ軍)になぞらえて「和製ネトルズ」と呼ばれていた程だ。ところが近頃フジテレビのプロ野球ニュース内の珍プレーのコーナーで羽田がゴロをトンネルする場面が繰り返し放送されると一躍全国区の人気者に。シーズンが終了しても特番に呼ばれ改めて特集を組まれると「羽田=珍プレー」がすっかりお茶の間に定着してしまった。本人は「皆さんに名前を憶えてもらえるのは嬉しいですけど、さすがにもういいですわ」と少々困惑顔の羽田であった。
妻の誕生日に「額の傷」を増やした鈴木啓…7月8日の平和台球場。マウンド上には通算 500被本塁打にあと1本となった鈴木投手がいた。「ワシは打者に真っ向勝負を挑むから一発を喰らう事が多いんや。並みの投手ならここまで打たれる前にクビになっとるで」と常々言っていた。そしてこの日、相手にとって不足はない門田(南海)に右中間席に運ばれ遂に500本目を献上した。試合もこの一発が効いて3対4で敗れた。鈴木は試合終了後「今朝、何気なく新聞の日付を見たら女房の誕生日だった。すっかり忘れてて…」と明かした。誕生日プレゼントは用意しておらず勝ち星で勘弁してもらおうとしたが門田の本塁打でフイに。宿舎に帰り恵子夫人に「大阪に戻ったら食事でも」と詫びの電話を入れた。「ワシにとって被本塁打は男の向う傷や」と胸を張っていた鈴木もこの日ばかりは打たれてガックリ気を落とした。
最後まで口下手だった関口監督…10月21日、藤井寺球場内で辞任の記者会見に臨んだ関口監督。 " 仏のセキさん " と呼ばれているが実は物凄い熱血漢だが口数は決して多くはなく常々「ワシは口下手だから人前で話すのが苦手で…」と言っていた。そんな関口監督がかしこまった場で話す事に。「チーム管理が上手くいかず西武に独走を許した責任は…やはり監督である自分にあり…」と身体の中のたぎる血を抑えながら慎重に " 仏 " を最後まで貫き、静かに35年間も着続けたユニフォームを脱いだ。
とここまでは笑い話で済んだがもう一つの初勝利は笑えなかった。6月11日、日生球場での阪急戦でプロ6年目の良川投手が念願の初勝利を挙げた。先発の谷投手が5回途中で降板し二番手で良川が中継ぎ最後の2イニングを住友が投げて勝利した。西武をクビになり苦労した良川にとって待ちに待った初勝利だった。が、なんと住友は自分が勝利投手だと思い込みウィニングボールををスタンドへ投げ入れてしまった。直ぐに良川が勝利投手だと知らされるが後の祭り。急いでボールを探したが見つかる筈もない。「申し訳ない!」と平身低頭する住友であった。
いつも追っ手の足音を感じていた大石…大石が遂に世界の盗塁王・福本の牙城を崩し見事に盗塁王のタイトルを奪取した。昨季はシーズン終盤まで大石は福本をリードしていたが最後の最後で福本が1試合4盗塁の離れ業で逆転しタイトルを死守した。それだけに「5~6個はリードしてないと安心できません」の言葉通り5個差の60個で盗塁王のタイトルを手にした。しかし最終試合直前、得意の人工芝球場で荒稼ぎするまでは福本の足音が気が気ではなかった。来季は一転、最初から追われる立場となる。福本がいる限りゆっくり前だけを見つめて走り回れる事は無さそうだ。
珍プレーで名を上げた羽田耕一…羽田は決して守備が下手な訳ではない。昭和55年にパ・リーグを制覇した頃は大リーグの名手・ネトルズ(ヤ軍)になぞらえて「和製ネトルズ」と呼ばれていた程だ。ところが近頃フジテレビのプロ野球ニュース内の珍プレーのコーナーで羽田がゴロをトンネルする場面が繰り返し放送されると一躍全国区の人気者に。シーズンが終了しても特番に呼ばれ改めて特集を組まれると「羽田=珍プレー」がすっかりお茶の間に定着してしまった。本人は「皆さんに名前を憶えてもらえるのは嬉しいですけど、さすがにもういいですわ」と少々困惑顔の羽田であった。
妻の誕生日に「額の傷」を増やした鈴木啓…7月8日の平和台球場。マウンド上には通算 500被本塁打にあと1本となった鈴木投手がいた。「ワシは打者に真っ向勝負を挑むから一発を喰らう事が多いんや。並みの投手ならここまで打たれる前にクビになっとるで」と常々言っていた。そしてこの日、相手にとって不足はない門田(南海)に右中間席に運ばれ遂に500本目を献上した。試合もこの一発が効いて3対4で敗れた。鈴木は試合終了後「今朝、何気なく新聞の日付を見たら女房の誕生日だった。すっかり忘れてて…」と明かした。誕生日プレゼントは用意しておらず勝ち星で勘弁してもらおうとしたが門田の本塁打でフイに。宿舎に帰り恵子夫人に「大阪に戻ったら食事でも」と詫びの電話を入れた。「ワシにとって被本塁打は男の向う傷や」と胸を張っていた鈴木もこの日ばかりは打たれてガックリ気を落とした。
最後まで口下手だった関口監督…10月21日、藤井寺球場内で辞任の記者会見に臨んだ関口監督。 " 仏のセキさん " と呼ばれているが実は物凄い熱血漢だが口数は決して多くはなく常々「ワシは口下手だから人前で話すのが苦手で…」と言っていた。そんな関口監督がかしこまった場で話す事に。「チーム管理が上手くいかず西武に独走を許した責任は…やはり監督である自分にあり…」と身体の中のたぎる血を抑えながら慎重に " 仏 " を最後まで貫き、静かに35年間も着続けたユニフォームを脱いだ。