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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 413 復活を期す ①

2016年02月10日 | 1984 年 



チームの柱となるべき投手たち。しかし定岡(巨人)7勝7敗、北別府(広島)12勝13敗、小松(中日)7勝14敗、工藤(日ハム)8勝8敗…なんとも情けない成績である。思いかけない転落、或いは予期された数字だったのか?どちらにせよ彼らは低迷の原因を追及し何をすべきなのかを考えた筈である。今年は彼らにとって野球人生の一つの節目となるに違いない。


定岡正二(巨人)去年は自分本来を見失って失敗。今年は「原点」に戻ってスタートした。やっぱり投手は制球力
常夏の島・グアムで早々に真っ黒に日焼けした定岡はランニングでも筋トレでも常に先頭を切っている。「動きが軽いでしょ。何たって今年はやらなくちゃ、去年みたいな思いはしたくないですから」 出ると負け・・昨季はマウンドに上る度に打ち込まれた。今年の正月元旦、いつもの年より始動は早かった。故郷の鹿児島で兄・智秋(南海)、弟・徹久(広島)と共に走り出し、1月中旬には静岡・日本平で鹿取投手と一緒に山籠もりを敢行した。その早い出足が今のグアムキャンプでの疾走に繋がっている。「ウン、いいんじゃないの。今年の定岡は無我夢中と言うか良い意味で追い込まれているね」と王監督の目にも危機感が映っている。昨年の日本シリーズ終了後の秋季キャンプでの事、引退し専任したばかりの堀内投手コーチと一晩じっくり話し合い一つの結論に達した。それは「原点に戻る」だった。

原点とは意識改革である。一昨年まで二桁勝利を続けていた当時の定岡の身上は制球力だった。江川のような豪速球や西本のようなカミソリシュートは無い。有るのは低目を丁寧に突く制球力、それが唯一にして最大の武器だった。しかし勝つだけで満足していた時期を過ぎると投手としての本能がムクムクと頭をもたげてくる。江川のように空振りを取りたい。西本のように打者のバットをへし折ってやりたいと。昨年の宮崎キャンプで定岡は間違った方向転換を試みた。当時の定岡はそれを「覚醒」だと思っていた。「ねぇねぇ、僕の球、速くなったと思いません?僕も一皮剥けたかなぁ」と報道陣に問いかけた。変化球投手から本格派投手への変身を図っていたのだ。投手なら誰だって変化球でかわすよりも直球一本で押しまくる方が気持ち良いに決まっている。顔に似合わず負けん気が強い定岡なら尚更である。拙い事にこの意識改革で一時的に好成績を残してしまった。開幕からポンポンと勝ち5月終了時点で7勝(1敗)、ハーラーダービーの首位を走り自身初の20勝も狙える程だった。

それがある日を境にパタッと勝てなくなる。きっかけは5月下旬に右膝を痛めた事。当初は軽傷と見られていたが痛みが引かず結局二軍落ち。痛みが消え一軍に復帰しても強気の投球パターンに固執したが勝てず結局7勝(7敗)のままシーズンを終え、西武との日本シリーズでも出番は敗戦処理登板だった。実は定岡自身も力の投球には限界を感じていた。しかしキャンプ中ならまだしもシーズン中に投球パターンを変えるのは危険過ぎた。制球力重視と頭では分かっていても直ぐに切り替える事は出来なかった。宮崎での秋季キャンプでは若手中心の合宿練習に定岡も加わった。「エへへ、何か変な感じですね。若手連中の中に入ると僕なんかオッサンですから」と定岡本人は例によって明るく笑顔を振りまいていたが、この時から定岡の「10年目の逆襲」が始まっていた。新たな決意を胸に迎えた2月2日のグアムキャンプ第2クール初日、ブルペンでの投球が解禁された。定岡はゆっくり確かめるように投げ始めた。丁寧にそして丹念に力む事なく外角低目を狙って投げ続けた。「スピード?いやいや僕の生命線はコントロールですよ」・・・原点に立ち戻った定岡、昨年とは一味違う。



北別府 学(広島)体調万全、走り込み十分。既に身上のコントロールもバッチリで自信も回復。再び20勝を目指す
沖縄市営球場から歩いて15分の所にある宿舎『京都観光ホテル』の最上階1人部屋の505号室で北別府は毎朝さわやかに目を覚ます。しかし昨年は目覚める度に憂鬱になった。「朝起きると前の日の疲れが残っているんです。あぁ、また練習か…としんどくてね」と。思えば一昨年はセ・リーグで唯一の20勝投手となり沢村賞も受賞しバラ色の毎日を送っていた。加えてオフには結婚式も挙げて " 我が世の春 " を謳歌していた。ただ多くの表彰式に出席する事が続き身体をしっかり休める事が出来なかった。「俺はまだ若いから」と心配はしなかったが不摂生のツケはキャンプで早くも現れた。「走り込まなくちゃ、と分かっていたけど皆のペースに付いて行けない。無理をしてペースを上げると翌日に影響が残った。こりゃヤバイなと思いながらキャンプ・オープン戦を過ごした」

思えば昨年の今頃は " 連続20勝宣言 " の見出しが欲しい記者から抱負を求められても「目標は17勝です。20勝はそんな簡単に達成出来ない」と予防線を張っていたのも自らの不調を感じ取っていたからかも知れない。しかし結果はもっと悪かった。12勝13敗と負け越し完封は1試合のみ、自身の代名詞でもある制球力も落ちて無四球試合はゼロだった。「ようけい給料を貰って何をしとんのじゃ」と地元広島のファンは遠慮なく罵声を浴びせた。特にタクシーの中が堪えた。狭い車内で見ず知らずの運転手から投球術の説教までされる始末。だからと言って目的地に着くまで降りる訳もいかず、広美夫人同伴の時は北別府の代わりに夫人が責められた。新婚を不振の理由にするのは野球界の定説だからだ。「弁解のしようもない。自分の予想通り、いやそれ以下でした。何を言われても言い返せない」とまさに屈辱のシーズンだった。

どんな非難にもジッと耐えていた北別府が、どうにも我慢出来なかったのが若い津田や川口が赤ヘルのエースだと言われ始めた事。「冗談じゃない。カープのエースは北別府ですよ。たった1~2年の実績しかない投手と比較されるのは心外。彼らと僕を一緒に扱わないで下さい」と普段は温厚な北別府にしては珍しく語気を荒げた。高校から入団して2勝、5勝、10勝、17勝と順調に勝ち星を重ね8年間で94勝を挙げたプライドが北別府を黙らせていなかった。「確かに去年は川口に勝ち星で負けましたけど力関係まで逆転した訳ではない。今年は再び20勝を狙います。必ず20勝して力の差を見せつけます」と昨年とは雲泥の差がある体調の良さが元来無口な北別府を雄弁にさせている。キャンプでは新任の迫丸コーチの指導でランニング量は例年の5割増しだが今年は問題なくこなしている。

「今年は疲れが翌日まで残らない。朝起きると体が軽く感じて、回復力がまるで昨年とは違います」と。肩の仕上がりも順調でキャンプ初日から捕手を座らせ六分の力で50球余りを投げ込み、投球の最後に投げる「外角低目」も一発で決めるほど好調をキープしている。ただ本人は「僕からコントロールを取ったら何も残らない」と涼しい顔。この自分の調子のバロメーターでもある外角低目への制球力は下半身が安定していないと定まらない。事実、昨年のキャンプでは「ラスト1球」と宣言してから10球前後の球数を要していた。今年はここまでは思い通りの調整が出来ており早々と20勝宣言をした。「昨年は走れなかったけど今年は大丈夫。下半身さえしっかりしていればコントロールは安定する。新しい球種を増やすとか必要ありません」と自信たっぷりだ。
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