Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 666 スター選手の横顔

2020年12月16日 | 1977 年 



やればできるんだ
「プロの選手として一人前になれたのは親父と元監督の村山さんのお蔭」と阪神・古沢憲司投手は言う。「確か昭和45年、プロ入りして7年目だったと思う」と語り始めた。・・・もうダメだ。古沢は思った。ヤケになり合宿所にも戻らない日々が続いた。連絡を受けた父親が球団事務所に赴き古沢の今後について話し合いをした。「たぶん親父は球団からクビの宣告をされたんじゃないかな。はっきりと聞いたわけではないけどクビになっても言い訳の出来ない状況だった」と古沢は述懐する。その古沢を当時の村山監督が引き止め「もう一度性根を入れ替えて死んだつもりでやり直せ」と諫めた。父親からも同じことを言われた古沢は改心し、真面目に練習に励んだ。

すると翌年は12勝9敗と覚醒した。古沢にとってこの12勝は大きかった。千金の重みがあった。それまで絶望しヤケ気味なっていた古沢の人生に大きな希望投げかけ自信を植え付けた。自分はやれば出来るんだ。そんな男気がムラムラと湧き上がってきた。古沢は昭和39年、新居浜東高1年生の時に高校を中退して阪神に入団した。「とにかく子供の頃から体を動かすのが無性に好きだった。体を動かしていればご機嫌で野球に限らず水泳やバレーボールなどをやっていた。運動好きというより勉強が嫌いで机に向かっているのが苦痛だったんだよね」 高校に入学したものの登校しない日が多くなっていった。

「その頃、親父は家の裏の路地で学校を休んでいた俺のキャッチボール相手をしてくれた。今から思うと親父はキャッチボールなんかする暇なんて無かった筈だけど俺につきあってくれた。何とか俺を立ち直らせようとしてくれたと思うんだ。ありがたいよね」と。古沢は1年生でベンチ入りして夏の甲子園大会予選に出場し、名門・西条高に敗れたものの好投した。この時の好投が阪神の目に留まり学校を中退して15歳でプロ入りすることになる。「確かに早すぎたかもしれないけど勉強も苦手だし、プロでやるなら早い方がいいと判断して阪神入りを決めた(古沢)」 しかし当然ながらプロの世界は厳しかった。

「弟が阪神に入団して翌年、まだ16か17歳の時に一軍に上がって大洋打線を完封したことがあった。やったぁ!と家族一同大喜びしたが、後で考えるとこの勝利が弟をかえって長い下積み生活に追いやったのではないかという気がする。あの完封でプロの世界を甘く見たのかもしれない。その後は勝ち星に恵まれず弟はヤケ気味になり、合宿所でも規律を乱して問題視されるようになった」と実兄・満さんは言う。過去にも古沢と同じように一時期にチヤホヤされて道を踏み外した選手はいた。古沢は7年間、のたうち回った後に栄光の舞台に戻って来た。「見かけによらず弟は意外とデリケートなんです(満さん)」


村山さんに感謝を
古沢も今では2児の父親だ。「子供は可愛い。遠征先から毎日のように家に電話して子供たちの声を聞くのが楽しみ」と話す古沢はすっかり親の顔だ。かつて道を踏み外さないようにキャッチボールに付き合ってくれた父親は病床にある。「阪神の試合が中継される時は必ずテレビを見ているそうだ。僕が投げた時は電話でああだ、こうだと解説めいた話をする。まぁテレビの解説者の受け売りだけどね」と苦笑するが嬉しさは隠せない。「僕の勝ち星が病気に負けない薬になってくれたら嬉しいね」と、しみじみと野球というものが人間をここまで鍛え上げ、一人前にするものなのかと思わざるを得ない。

あの昭和46年にあげた12勝の糧となった父親や村山監督の叱咤激励が道を踏み外しそうになった古沢を立ち直らせたのであろう。「そうかもしれない。練習という裏付けが大事だと分かった。あれ以降やる気が出たし欲も湧いてきた(古沢)」。ひとつ勝てばもうひとつ勝ちたいと思うようになり、勝ち星が増えれば年俸も比例して上がった。「あの時に野球を辞めていたら自分は今ごろ何をしていたのか。考えるだけで怖くなる」と古沢は宙を見るような眼差しになって「今でも村山さんに『お前ほど手こずらせたヤツはいなかった』と言われるけど本当に感謝しかない。あの人には一生頭が上がらない」と話す。
コメント (1)
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