また一人、球界は功労者を失った。アマチュア、プロ球界に大きな足跡を残した森茂雄氏である。今年のオールスター戦前に殿堂入りの表彰を受ける予定だったが、その日を待たず逝かれてしまった。
一世一代の大仕事
森茂雄氏が6月24日午後10時8分に脳血栓のため原生中央病院で亡くなった。愛媛県出身で松山商から早大に進み内野手として活躍。昭和10年には大阪タイガースの初代監督を務めた後にイーグルスの選手兼監督としても活躍。戦後には母校の早大監督にも就任して9回のリーグ優勝を果たした。昭和33年には大洋球団社長、翌年には監督を務めるなど自身の半生を監督の座に就いた。今年7月に開催されるオールスター戦の前に野球殿堂入りの表彰が行われる予定だったが、晴れの日を待たず無念の死となってしまった。その森氏が手掛けた一世一代の離れ業が球団社長だった三原脩氏の大洋監督就任だ。
西鉄を日本一に導いた三原氏を大洋の監督にという動きは昭和34年に隠密裏に進められたが直前にマスコミに漏れて一度ご破算に。翌35年に1年遅れで実現した。巨人を追われた三原氏は投打にサムライ揃いの西鉄を率いて日本シリーズで水原監督の巨人を昭和31年から三度返り討ちにした。同じ四国出身で学生時代から宿命のライバルだった巨人・水原監督との対決は注目を集めた。三原・水原の2枚看板をリーグ戦で戦わせようと大洋の監督にしようと計ったのが森氏だった。この目論見は当たり、折からの長嶋選手人気と相まってプロ野球人気は空前のブームとなった。しかも三原大洋は前年の最下位から奇跡の優勝を遂げた。
タイガース退団と稲門クラブの怒り
森氏は昭和10年に大阪タイガースの初代監督としてチーム結成に参加すると、松山商の後輩である景浦将選手を立教大学を中退させてタイガース入りさせた。また松山商から伊賀上良平選手、早大出身の小島利男選手を入団させるなどタイガースの骨格作りに携わった。昭和11年のチーム結成披露トーナメント大会では敗退したが、7月の名古屋大会では優勝した。だが直後に球団は森氏を解任し石本秀一氏の監督就任を発表した。森氏が僅か半年ほどでクビになった理由は諸説あるがタイガースは阪急に強烈なライバル意識があり、その阪急にオープン戦で負けたことが球団側の不評を買ったのが原因ではないかと巷間伝えられている。
森氏がタイガースから監督就任を要請された時、当時早稲田大学の野球部長だった安部磯雄氏を訪ね相談したところ「やってみなさい」という激励を受け、稲門クラブの全面支援の約束を取り付けた。元々タイガースは関西大学の影響が強く早稲田色を良しとしない勢力もあり、稲門クラブ内には危惧する雰囲気があった。それだけに森氏の監督解任をきっかけに稲門クラブとの間に対立が表面化し、小島選手は不満を露わにし景浦選手や伊賀上選手らも同調した。森氏は後年「すぐ辞めることになって安部先生に申し訳なく困った。直接お会いして事情を説明すると『そうですか』と言われただけでお叱りもなかったのでホッとしました」と述懐した。
選手集めに奔走しタイガースのチーム骨格を作り上げたが志半ばでチームを去った森氏だったが翌年には早稲田大学の先輩である河野安通志氏が結成した職業野球部の " 後楽園イーグルス " の監督に就任した。イーグルスは決して強いチームではなかったが、タイガースには昭和12年秋のシーズンで5勝2敗と勝ち越した。景浦選手らを擁する当時のタイガースは沢村投手がいた巨人に全勝するなど強豪だったが、因縁の森氏相手だと本領発揮とはいかなかった。
選手を育成した早大監督の11年
森氏は昭和22年から11年間母校の早大の監督を務めた。春秋の計21シーズン中、9回優勝した。昭和25年は春秋連続優勝、翌26年春も優勝し3連覇したが秋は慶大に優勝をさらわれた。「昭和32年春から長嶋君がいた立大が4連覇しましたが、それ以前に早大が昭和25年春から4連覇のチャンスがあった。試合途中から雨が降ってきてノーゲームになった。その試合に勝てていたら4連覇できたと今でも思っている」と晩年の森氏は語った。「あの頃はグラウンドの外に並ばされて大声を出すのが役目だった。とてもレギュラーになれるとは思えなかった」とヤクルトの広岡監督は早大入学当時のことを懐かしそうに振り返る。
そんな広岡選手を森氏はノックバット1本で鍛えて才能を引き出して育て上げた。ノックは抜群に上手かった。強弱合わせたゴロを打ち、選手が捕球できる幅を徐々に広げていく。秋のシーズン前には広岡選手の守備範囲は入学時より格段に広くなっていた。広岡選手だけではない。早大監督在任中に蔭山和夫、荒川博、沼澤康一郎、末吉俊信、岩本堯、近藤昭仁、小森光生、森徹、木村保、松岡雅俊、島田吉郎など現在も監督・コーチ・評論家として活躍する人材を育てた。アマ球界でも石井連蔵、石井藤吉郎、荒川宗一など指導者として重きを成している人が多い。森氏が育てた野球人の幅は広く厚い。謹んで哀悼の意を表します。