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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 654 十大ニュース ➍

2020年09月23日 | 1976 年 



❼ アッと驚くセ・パ首位打者戦線の怪
ノーマークと言ったら失礼かもしれないが、張本(巨人)を最終戦で抜き去った谷沢(中日)。片やパ・リーグでは全くのダークホースだった吉岡(太平洋クラブ)と両リーグ共に首位打者は大穴が制した。「もし張本さんが僕と同じくらい残り試合があってギリギリまで競っていたら、たぶんタイトルは獲れなかったでしょうね」と谷沢は笑うのだが、それはペナントレースが終了してかなり時間が経過した後になって気楽に笑っているが当時のプレッシャーは相当のものだった筈だ。10月19日の広島との今季最終戦で4打数3安打の固め打ちをして首位打者のタイトルを奪取した。

試合後、昨季の首位打者・山本浩(広島)は「立派なもんだ。とにかくおめでとう。大変なプレッシャーの中でタイトルを掴むとは完全に脱帽です」と褒めた。3本目の安打を打たれた高橋里投手は「僕が絶対の自信を持って投げたフォークボールを完璧に打たれた。谷沢さんが一枚上手だった」と完敗を認めた。広島の選手達がケチの付けようがないくらい、この日の谷沢の当たりは完璧だった。だから敵味方を問わず「よくやった!」という爽やかなムードが漂った。タイトル狙いで四球合戦が当たり前の昨今では久々に清々しい試合だった。

パ・リーグのバットマンレースを制した吉岡選手はもうじきプロ10年目を迎える27歳。そろそろ中堅クラスの選手だが無名と言って差し支えない。「普通の場合だとまぁコイツはひょっとしたら…なんて予感があるもの。去年の白選手は移籍直後で精神力が充実してる上に前期で既に3割を優に越える成績だったので首位打者のタイトルを獲得しても不思議じゃなかった。ところが吉岡の場合は前期は一軍と二軍を行ったり来たりで活躍を期待する方がどうかしている。それが後期も終わり近くなると、あれよあれよで首位打者になるなんて思いもしなかったよ」と鬼頭監督は自分で起用しておいて呆れ返っているのだから外部の人間が驚くのも無理はない。

青木渉外担当重役がロッテのスカウト部長だった時に吉岡をロッテに入団させたのだが、選手を見る目に定評がある青木も「上手くいって2割6~7分のバッター。でも足が速いので取り敢えず獲った」程度だった。一昨年のオフにベテランの菊川選手との交換トレードを申し込んだ時も、ロッテ側があっさりOKしたので「ひょっとしたらプロの力量が無いと見限られた選手なのか」と思ったくらいだった。そんな吉岡が今年レギュラーとして試合に出られた要因は開幕から続いたの基選手の不振だった。吉岡も打てなかったが基よりはマシと判断した鬼頭監督が仕方なく二軍から昇格させて二塁手として起用し続けるとヒットを量産するようになった。

活躍のきっかけは基の不振だったが後期になって復調した基を押しのけてレギュラーを死守したのだからその充実ぶりが群を抜いていたのも事実。しかし愉快なのはまだ門田選手(南海)らとの首位打者争いがたけなわだった頃、吉岡は「これで万が一、タイトルを獲れなかったとしても僕の給料からしたらよくやった、大健闘だと球団は褒めてくれるでしょうね」と言ったことがあった。それもそのはず、今季から一軍選手の最低年俸が240万円となったが、吉岡の稼ぎはその最低年俸に毛が生えた程度の260万円。プロ生活9年目とはいえ昨年までの実績は一軍では殆どない。それを考えると今季の大活躍はお見事だった。



❽ ドローチャーに振られるやライターに買われたライオンズ
ペナントレースは別として大きな話題を提供してくれたのは太平洋クラブ、否、現クラウンライターライオンズだろう。何しろ開幕前には世界的超一流監督のレオ・ドローチャー氏を監督に迎えるとアドバルーンを揚げて世間をアッと言わせた。結局は逃げられた挙句にシーズンが終わるや否やクラウンに身売りの憂き目に遭った。恐らくドローチャー監督が実現していたら今季十大ニュースのトップの座に輝いていたであろう。何しろドローチャーといえば大リーグでも屈指の名監督でカージナルス、ドジャース、ジャイアンツなどで辣腕を揮う一方で喧嘩っ早い " 魅せる " 監督でもあり日本でも大人気を得たであろう。

それが土壇場まで「きっと来る」と球団はPRに努めたが最後は病気で来日できず、マスコミは『ドローチャーがドロンした』と揶揄した。ドローチャー氏の為に球場内の監督部屋や住まいとなるホテルの最高級部屋を更にデラックスに改装するなど用意万端だっただけに、さすがの強気一辺倒の中村オーナーもガックリ。あのドローチャーが来るなら、と年間予約席を購入したファンは「ペテンにかけられた」と怒り、中村オーナーは平謝り。何しろこの決定が開幕直前の3月15日だったので球団内はてんやわんや状態となった。そもそもキャンプ・オープン戦は監督不在でアメリカから練習内容を記した手紙が送られて来たのみで日本のプロ野球史上前代未聞だった。

後を託された鬼頭ヘッドコーチが監督に就任し懸命に指揮を執ったが、チームの士気は上がらず大方の予想通り最下位に沈んだ。あれほど熱狂的だった平和台のファンもシラケた感じで盛り上がりも何もあったもんじゃない。吉岡の首位打者くらいしか話題はなく、このまま年を越すかと思われたが来季から球団名が変わるというビッグニュースが待っていた。すわ、身売りか!? とファンは大騒ぎとなったが実は業務提携先のスポンサーが太平洋クラブからクラウンライターへ変更によるもので本拠地も移動せず博多のファンも一安心。とにかく今年のライオンズはグラウンドの外で世間を騒がせた1年だった。



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