goo blog サービス終了のお知らせ 

Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 697 序幕のヒーロー ①

2021年07月21日 | 1977 年 



王か田淵と決まっていたセ・リーグのホームランダービーに大異変が起きている。突然飛び出してきたダークホースは " オバQ " こと大洋・田代富雄。とにかく当たれば入る凄いヤツ。西の掛布に次ぐ愉しくも新しいヒーローの出現である。

天性のホームラン打者のセンス
王か田淵と相場が決まっていたセ・リーグのホームランダービーに異変が起きている。突然飛び出してきたダークホースは " オバQ " こと大洋の田代富雄。とにかく当たればホームランの凄いヤツ。楽しく愉快な新しいヒーローの出現である。開幕早々の5試合連続アーチは見事だった。出会い頭の一発とかマグレ当たりなら1~2発はあるだろうが、こうも続けばもはやフロックではない。広島との開幕戦で榎本からバックスクリーンに放ったのを皮切りに巨人戦で新浦・小林・堀内から3連発、5本目はヤクルトの松岡から放つなどセ・リーグを代表する投手から打っただけに価値は高い。

「あんまり騒ぎ立てないでください。緊張してしまいますから」と田代は純情にも顔を赤める。だが別当監督は「田代の素質は王や田淵に匹敵する。天性のホームラン打者のセンスを持っている」と断言する。昨年オフに5年ぶりに大洋の監督に復帰した別当監督は中部オーナー(故人)の熱心な就任要請もさることながら有望な若手の育成をしたいという気持ちも監督を引き受けた理由の一つだった。早速、秋季練習で別当監督の目に留まったのが田代だった。183㌢・80㌔の堂々とした体格に別当監督は「ホームラン王になれる素材。コイツを育てられなかったら俺の責任」とまで言い切るほど惚れ込んだ。

" 監督生命 " を賭けたマンツーマン指導が始まったのは秋風から木枯らしに変わった頃の多摩川グラウンドだった。「腰で打つんだ」「脇が甘い」「バットのヘッドを出すのを少し遅らせろ」と絶え間なく叱咤が飛んだ。春のキャンプでもそれは変わらず、否それ以上だった。他の選手がフリーバッティングしていたのを押しのけて田代に打たせて、周囲に「これじゃ田代の為のキャンプだ」と言われるほどだった。全体練習の後に毎日1時間の特打ち。夕食後は別当監督の部屋で素振りを繰り返した。打者の育成にかけては定評のある別当監督。大毎時代には葛城、近鉄時代には土井などを一流打者に育て上げた。

大洋の松原も別当監督の門下生と言える。7~8年前にみっちり仕込まれて、今ではオールスター戦の常連となった松原は「僕も田代みたいに徹底的に打つ練習を繰り返し反復させられた。技術もさることながら、何だか監督の執念が乗り移る感覚でしたね」と懐かしむ。元々田代のパンチ力に関しては誰もが認めていた。多摩川グラウンドの左翼フェンスまでは93㍍あり、その約10㍍後方に雨天練習場がある。田代の打球はその雨天練習場の屋根に当たることも珍しくなかった。およそ140㍍。現在の大洋でそこまで飛ばせる選手はいない。「俺が知る限りかつてのディック・スチュアートくらいかな」と近藤昭コーチは言う。

昭和35年に日本一となった頃の大洋打線は " メガトン打線 " と呼ばれていた。黒木、スチュアート、桑田などなど誰もが大物打ちだった。そんな長距離砲揃いの時代でも田代クラスの飛ばし屋はいなかった。だから山下が顔をしかめて「アイツ(田代)の打球を見せられると自分の非力さが情けなく嫌になる。本当に同じ球を打っているのかと疑ってしまうよ。アイツだけ違う飛ぶゴムボールでも打っているんじゃないかと。それくらいアイツの打球は桁違い」と嘆くのも無理はない。


" アジのひらき " 返上したオバQ
田代は別当監督が成績不振を理由にシーズン途中で監督を辞任し退団した昭和47年のドラフト会議で3位指名されて大洋に入団した。甲子園出場の経験はないが高校時代(藤沢商)から一部のスカウトに評価を受けていた。「一部」に限定されたのには理由がある。高校3年最後の県予選、藤沢商は準々決勝で敗退してしまった。その試合で田代は快打連発の活躍を見せたがその場に居合わせたのは大洋のスカウトだけだった。試合終盤に駆けつけた巨人のスカウトは田代の快打を見逃してしまった。その為、巨人はスカウト会議で田代をリストアップしなかった。もしも巨人のスカウトが試合開始から見ていたら状況は変わっていたのかもしれない。

田代が野球に興味を抱いたのは酒匂川小5年生の時。初めは投手、中学校進学後も投手で四番。内野手に転向したのは藤沢商に入学して半年ほど経ってからだ。長身の割に動きがシャープな田代を見て金子監督が当初は一塁手か外野手の予定だったが、「抜群の野球センスの持ち主で将来プロへ行ける素材。だったら大型内野手に育てよう(金子監督)」と三塁コンバートを決断した。大洋入りの契約金は800万円。引地二軍監督は当時の思い出を話す。「打つ方は確かに非凡なモノを持っていたが守りはまるっきしダメ。真正面のゴロでもオタオタするくらい下手くそだった。先ずは打つ方を伸ばそうと決めた」と。

一昨年に二軍で打率・打点の二冠を手にしたが同じポジションにボイヤーという名手がいた為に一軍デビューは昨年まで見送られた。期待された打撃もツボにくれば長打を放つが変化球にはついていけず、89試合・135打席で8本塁打とまだまだ粗削りだった。そんな振り回すだけの扇風機が開眼したのは「グリップの位置を少し下げてヒザでタイミングを取れ」という別当監督からのアドバイスのお蔭だった。オバQの他にアジのひらきと呼ばれることがあるが、それはちょっとタイミングを外されるとたちまち体が開いてしまう悪癖に由来している。そんな欠点も別当監督の助言で矯正されたのだ。


大洋本社も元気づけた人気者
素顔の田代は控え目で大人しい。報道陣との応対もはにかみながら聞き取りにくいくらい小声でボソボソと話す。「いまどき珍しい好青年だよ」と松原は田代を弟のように可愛がっている。年俸は330万円(推定)で一軍最低保障ギリギリ。月額27万円は王や田淵の1/20 以下の安月給ながらホームランダービーでその王や田淵に真っ向勝負を挑んでいるのだから天晴れである。しかも安月給の内から母親・キンさんに毎月10万円を仕送りしている孝行息子。今も日立小田原工場の食堂で働く母親を助ける心優しい息子でもある。「親父が生きているうちにユニフォーム姿を見せたかった。今こうして頑張っている姿をお袋が親父の墓前で報告してくれているはず」と。

ポスト王・田淵の担い手として彗星の如く現れた田代は球団関係者だけでなく本社の大洋漁業までも活気づけている。本社社長であり球団オーナーだった中部謙吉氏の急死、国際捕鯨会議での頭数制限、専管水域200カイリ、難航する日ソ漁業協定など暗い話題が続く大洋漁業。そんな時にグループの中でも " お荷物 " と揶揄されていた大洋ホエールズから降ってわいた明るいニュースに本社社員の表情にも変化が。「田代に負けるな」が社内での合言葉になっているそうだ。田代はどんなに打ちまくった夜でも就寝前の素振りは欠かさない。「今はまだ勢いだけで突っ走っているが、そのうち貫禄が出てくるよ」と別当監督は細い目を更に細める。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« # 696 野村・森対談 | トップ | # 698 序幕のヒーロー ② »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

1977 年 」カテゴリの最新記事