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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 529 電撃退団 ①

2018年05月02日 | 1985 年 



胸騒ぎが全く無かった、と言うと嘘になる。しかしそれは突然の出来事だった。東京・東池袋のサンシャインシティビル・54階にある球団事務所で戸田球団社長・坂井球団代表・根本管理部長らとの会談を終えた広岡達朗氏はサッパリした表情で会見に臨んだ

11月8日、西武・広岡監督が契約期間を1年残して退団を表明した。昭和56年の秋に監督に就任して以来、4年間でリーグ優勝が三度そのうち日本一が二度という名将のまさかの退団劇。表向きは健康上の理由で持病の痛風が原因とか。確かにシーズン前から広岡監督は痛風を悪化させ、10月9日にリーグ優勝を決めた藤井寺球場での近鉄戦も痛みの為に欠場し胴上げが行われなかったという珍事も。「医師に相談したら治療に専念しても治るのには半年以上かかると言われ、それだとチームに迷惑がかかるので辞めることにした(広岡監督)」となったのだが実は辞意発表の前日には広岡監督と根本管理部長が球団事務所で会談し広岡監督は「実りある話し合いだった。足の具合も根気よく治していきたい。頭の中は秋季キャンプの事で一杯」と日本一奪回に向けて気持ちを入れ替えていただけに突然の辞意発表には違和感が残る。

僅か1日で事態が急変したかに思えるが広岡監督と球団関係者との話し合いは幾度かあった。辞意表明の2日前には極秘裏に戸田球団社長と、1日前には前述の根本管理部長との差しの話し合いの前に坂井球団代表を交えた3者で話し合いの場も設けていた。広岡監督が球団側に繰り返し要請したのは監督の権限を拡大してチーム編成に関してゼネラルマネジャー的なポジションを求めたが認められなかったと言われている。広岡監督と球団フロント陣との対立はここ1~2年だけでも表面化した事案は多い。例えば江夏元投手(現評論家)の場合は現場に相談なくフロント陣の独断で進んだ獲得の経緯に反発。また今季では郭投手の起用法を巡り対立。大事に使ってほしい、というフロント陣の要請に対して「過保護だ。中5日で投げられなければプロでは使い物にならない(広岡監督)」と要請を無視した結果、郭投手は故障してしまい両者の対立は最高潮に。

阪神に敗れた日本シリーズでも度重なる大砲獲得の希望を受け入れないフロントに対して「(阪神に)負けた方がいい」と言い放ったのも大砲不在を再認識させる為だった。こうした事例を踏まえた上で11月5日・6日の戸田球団社長と根本管理部長との会談で監督権限の拡大が受け入れられず退団に至った模様だ。「健康上の理由なら致し方ない。堤オーナーも監督の意向を尊重し退団を了承し、これまでの4年間の功績を高く評価し感謝していた」と戸田球団社長は円満退団を強調する。こうした顛末を引き起こした一因は広岡監督自身にもあるのではないか。広岡監督は余りにも度々、グラウンドの内外でフロント陣をチクリチクリと批判する事が多々あった。監督という立場の人間ならそうした事は外部に漏らす前に内々でとことん話し合い処理すべきではなかったのか。色々な面で筋を通す人物であっただけに、その点は惜しまれる。

広岡監督が去る事が決まると周囲は早速、後任人事の話で盛り上がっている。三度のリーグ優勝も二度の日本一も残念ながら観客動員増加には結び付かなかった。広岡 " 前 " 監督は退団発表翌日のコーチ陣とのお別れゴルフ会の席で「後任監督はただ勝つだけじゃダメ。パ・リーグ全体の為にも人気のある人が望ましい。その点では長嶋君は適任」と語ったと伝えられている。また長嶋氏の他にも広島の監督を退いたばかりの古葉竹織氏や現役引退の際に堤オーナーから将来の監督就任を求められた田淵幸一氏などの名前も浮上している。 " 人気 " 重視なら最有力候補は長嶋氏だが、11月9日に前横浜大洋監督の関根氏の長男の結婚式が行われ、披露宴に根本管理部長と席を並べた長嶋氏は報道陣にコメントを求められると「西武の監督?田淵君が適任じゃないですか。明るい性格でチームに好影響を与えられるし、この1年ネット裏でよく勉強してましたし」とやんわりと逃げた。

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