青木が手がけたトレードの中で最も大型で世間をアッと言わせたのは小山正明 ⇔ 山内一弘(当時は和弘)の「世紀の大トレード」だろう。昭和38年オフに実現したこのトレードは両リーグを代表するエースと四番打者の交換で、トレードとは不要な選手を放出するものという従来の固定観念を根底から覆す前代未聞の出来事だった。
山内選手(大毎)は怪我に泣いた昭和33年を除くと昭和29年から37年の9年間で8度も打率3割をマークし、首位打者・本塁打王・打点王のタイトルも手にした押しも押されぬ強打者。一方の小山投手(阪神)は昭和33年から24勝、20勝、25勝と3年連続20勝以上をあげ昭和36年こそ11勝と振るわなかったが翌37年は27勝で阪神の15年ぶりの優勝に貢献した。しかし阪神は日本シリーズでは水原監督率いる東映に敗れ念願の日本一には手が届かず球団内の喜びも半減といった具合だった。そんな状況をジッと見つめていたのが青木だった。「藤本監督はリーグ優勝だけでは満足していない、必ず血の入れ替えを模索している筈」…理屈ではない、長年この仕事に携わって来ているうちに自然と培われた「勘」であった。
シーズン中から青木の耳には阪神球団関係者から幾度となく小山投手と「もう一人のエース」村山投手の確執話が入っていた。昭和34年に入団して力感溢れる情熱的な投球で一躍人気者になった村山と既に確固たる地位を築いていた小山は典型的なライバル関係にあった。年齢は2歳違いだが高校卒業後テストを受けて入団した小山と関西大学を全日本大学野球選手権で初の優勝に導くなどの活躍を評価されて巨人からの誘いを蹴って阪神入りした村山とは入団当初からソリが合わなかった。村山の1年目は18勝、その年の小山は20勝。翌年、村山が "2年目のジンクス" に陥り8勝と成績を落とすと小山は25勝と貫禄を見せつける。さらに翌年は村山が捲土重来で24勝と盛り返すと逆に小山は11勝と精彩を欠いた。
ここまでは一方の成績が良ければ片方は悪いといった具合に微妙な関係を保っていたが阪神がリーグ優勝した昭和37年は小山が27勝11敗・防御率1.66、村山は25勝14敗・防御率1.20 と2人ともに活躍した。その年のMVPに選ばれたのは勝ち星では劣る村山だった。「両雄並び立たず」の格言通り2人の仲の緊張関係がピークだったのがこの時期だった。チーム内はもとより球団フロントや担当記者までもが小山派と村山派に別れ反目し合った。青木は小山が新人だった頃からの付き合いで小山の人と成りについては熟知していた。小山は人見知りで人付き合いが苦手、正義感が強く好き・嫌いがハッキリしていて決して愛想は良くなく大衆受けは悪い。一方の村山はザトベック投法と呼ばれる髪を振り乱して力投する姿でファンを熱狂させ阪神では断トツの一番人気、球団が今後は村山を前面に推していく事は明白だった。