昭和55年のドラフト会議で原(東海大)に続き2位で指名された駒田。奈良・桜井商時代は投手兼一塁手だったが投手よりも打者として注目を集めた。高校3年間の通算本塁打は43本、特に2年生だった昭和54年秋の県大会では4試合連続の5本塁打を放ったが、そのうち4本は橿原球場の場外に飛ばす特大弾だった。3年生になると対戦相手校が勝負を避けて徹底的に歩かされ満塁の場面でも敬遠されたのは有名な話だ。この話にはオマケが付いている。次の打席も再び満塁の場面だったが今度は相手も勝負してきた。結果は見事に満塁本塁打を放った。これだけを聞くと桜井商が試合に勝ったと思われがちだが実は「駒田投手」が13四死球と大乱調で大敗したのだ。それほど規格外だった駒田もプロの世界では壁にぶち当たった。1年目は二軍で62試合に出場し179打数34安打・打率.190 ・3本塁打、2年目は77試合に出場して268打数69安打・打率.257 ・7本塁打と成績は向上したが一軍レベルには程遠く、二軍暮らしが続いた。
3年目の今年、グアムキャンプに抜擢されその後の宮崎キャンプも何とか一軍に生き残りオープン戦も帯同した。暫くは代打出場のみだったが3月20日の阪急戦で左手甲を痛めた原の代わりに中畑が三塁に回り、空いた一塁に駒田が起用された。第1打席こそ凡退したが2打席目に山沖から左翼線二塁打、続く打席も右前打し結局4打数3安打と結果を出した。終わってみればオープン戦で15打数7安打・打率.467 と結果を残して3年目にして初の開幕一軍を手にした。開幕戦での出番はなかったが翌4月10日の対大洋2回戦の試合前に中畑が右手首を痛め欠場する事に。通常なら控えの山本功が出場するのが妥当だが藤田監督は七番・駒田の起用を決めた。
1回裏、巨人が2点先制した後なおも一死満塁の場面で駒田に回ってきた。先発の大洋・右田投手がカウント2-1から投じた4球目を右中間スタンドに叩き込んだ。これで波に乗った駒田は3回裏の一死二・三塁で右翼線二塁打で2打点。5回裏の二死三塁では三振を喫したが何と振り逃げで一塁に生きるなどツキまくっていた。仕上げは7回裏の最終打席に右安打してデビュー戦を4打数3安打6打点で飾った。初打席満塁本塁打も凄いがデビュー戦で3安打固め打ちも滅多に出来るものではない。現役選手では南海・新井(昭和50年7月26日・対太平洋ク)、西武・石毛(昭和56年4月4日・対ロッテ)、阪神・田中(昭和57年8月15日・対巨人)の3人がいるが6打点をあげた打者は見当たらない。
衝撃のデビュー以降も駒田は活躍している。4月12日のヤクルト戦では5回表一死後、中前打で出塁すると一塁牽制球が悪送球となり三進し先制点の足掛かりとなり翌13日は5回表二死二・三塁で左前に適時打。4月13日現在、11打数5安打・打率.455・7打点で中畑から正一塁手の座を奪いかねない勢い。張本勲氏曰く「これまで巨人は川上さん、王助監督と2人で40年間も一塁を賄って来た。駒田が順調に成長すればこの先20年、つごう60年間を3人だけで一塁を守るという事になる、またその可能性は高い」と語る。
昭和13年に入団した川上は春のシーズンこそ投手が主で一塁には1試合しか就かなかったが秋からは一塁に定着して打率.263 で早くもベストテン入りした。その後、昭和17年に入隊するまで不動の一塁手として活躍し戦後に復帰以降は打撃ベストテンの常連だった。しかし、昭和32年に打率.284 、翌33年は.246 と3割を打てなくなると「3割打者として契約している自分はこれ以上プレー出来ない」として引退した。川上が去った昭和34年は新人の王が主に一塁を守ったが打率.161 と冴えず与那嶺との併用が多かった。王は2年目から正一塁手となったが、その後の活躍は敢えて説明する必要はないだろう。
王にも現役を去る時が来る。昭和56年の開幕、巨人の一塁には大洋から移籍して来た松原がいた。巨人の一塁手は長らく球界を代表する2人が当たり前のように四番を務めていたが松原は七番打者で「四番・ファースト…」の場内アナウンスに慣れ親しんだ多くのファンは改めて王の引退を実感する事になる。その松原も開幕から7試合目には山本功にレギュラーの座を取って代わられた。この年、一塁を守ったのは中畑と山本功が各75試合、松原が27試合、平田が1試合と誰一人として規定試合数の「86」に達した選手はいなかった。翌57年は中畑が定着したが打率.267 と打撃ランク 28位では巨人の一塁手としては物足りない。果たして駒田が「巨人の一塁手」に相応しい選手となれるか注目だ。