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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 567 ペナントレース総括・広島東洋カープ

2019年01月23日 | 1985 年 



9月の7連敗で連続Vの夢破れる
内弁慶になりきれなかった赤ヘル軍団
昨季は日本一になった広島は地の利を十二分に生かしていた。ロードゲームでも勝率.576 と決して弱くなかったが、ホームゲームは41勝20敗1分けで勝率.672 と圧倒的に強かった。ところが今季の広島からは本拠地における強さが失われてしまった。ロードでは36勝27敗2分けで昨季とほぼ同じ勝率.571 だったがホームでは32勝30敗3分けの勝率.516 と昨季とは逆に本拠地で勝てなくなり、いつの間にか地元のファンにも見放されてしまい、今季の観客動員数は65試合で105万6千人でセ・リーグ最低だった。

高木・金石ら若手の失速もV逸の要因
ペナントレース佳境の9月3日の時点で広島は首位・阪神と0.5ゲーム差の2位だった。何度も修羅場を潜り抜けて来た選手が多い広島だけに、その実力を発揮するのはこれからだと思われた矢先に7連敗を喫し優勝戦線から脱落してしまった。原因は若手投手陣の失速。6月末までに4年目の高木投手は9勝、また4月18日のヤクルト戦でプロ7年目にして初勝利し、高木と同様に6月末までに9勝をあげた金石投手の2人が7月の声を聞くとパタッと勝てなくなり、7月以降は何と2人合わせて0勝9敗と浮上する事なくシーズンを終えた。

川端投手が " 首位打者 " 打つ方でも活躍した投手陣

      【 各球団投手陣の打撃成績 】
   

投げる方では失速した投手陣だが打つ方では9人目の打者として機能していた。新人王に輝いた川端投手は打っても46打数15安打・打率.326 と規定投球回数をクリアした投手の中でトップ。投手陣全体でも28打点、勝利打点も北別府「2」、高木・大野・金石が各「1」で合計「5」もあった。他の5球団は合わせても「4」であるから、広島投手陣の打撃力は傑出していた。

番記者が選ぶベストゲーム
7月17日・対阪神14回戦(広島)。チームの今日と明日を端的に表したゲームというとこの試合を置いて他にはない。当時の広島は首位で2ゲーム差の2位阪神を地元に迎えた一戦だった。1対4とリードを許した5回裏、五番・小早川選手が阪神先発の池田投手から左越え満塁本塁打を放って逆転。その後、同点に追いつかれたが7回裏一死一・三塁の場面で衣笠選手がセーフティーバントを決めて勝ち越した。この勝利で前半戦の首位ターンを決めた。大技・小技を絡めた試合で当時の古葉監督も「11年間の成果」と胸を張った。投げる方でも高木・小林・大野と繋ぎ最後は川端が締めた。投打共に若手とベテランが上手く絡み世代交代の成功をチーム内外に示した試合だった。

古葉監督はフロント人事に怒り、2月には辞任を決意していた
古葉監督は今年の2月に一度、球団側に辞意を伝えていた。日南キャンプ中に行われた球団役員会での人事異動を巡って辞意を固めたのだった。その異動は2月下旬に発表された。マネジャー兼球団部長代理に就任していた雑賀幸雄氏が突然、販売部長に移された。人事上は部長代理から部長職への栄転だが現場の人間は誰一人としてそうとは受け取らなかった。雑賀氏は古葉監督の腹心中の腹心人物で昭和50年に球団初のリーグ優勝した当時からマネジャーとして才能を発揮。選手の間でも「確かに雑賀さんは " 個性 " が強いけどチームマネージメントは12球団の中でもトップクラス」と評されており、古葉監督の公私に渡るスケジュール管理をするなど2人は一心同体の関係でもあった。

組織上は雑賀氏はフロント陣の一員だが現場との密着度が深いだけに士気にも影響する。古葉監督は現場に対する介入と受け取った。コーチミーティングの席上で古葉監督は「いきなりこうした事をやられると冷静に指揮を執る自信はない」と発言した。静まり返った席上で長い沈黙を破ったのが阿南コーチ(現監督)だった。「監督がそこまで言うのなら我々も一緒に辞めますよ。ここまで皆で力を合わせてやってきたんです。辞めるのも一緒ですよ」と言うと一同は賛同した。この発言にはさすがの古葉監督も驚いた。各自の生活を投げ捨ててまで一緒に球団側と戦うという。それを考えると自分一人の感情で迂闊に行動を起こすことは出来ないと辞任を思い留まった。

結局、雑賀氏は辞令を受け入れ販売部長に就任した。代わって球団部長に就いたのは上土井販売部長。マネジャーには衛藤サブマネジャーが昇格した。上土井氏は松田オーナーの子息で松田球団常務とも近い人物。現場は未経験だけにチーム内の評判も芳しくない。遠征中の移動は選手達のバスに同乗して球場入りするのがこれまでの慣例だったが、周りの気まずい雰囲気を察したのか上土井氏は道具を運ぶ荷物車の助手席に乗って移動していた。球場入りしてもベンチには近づかず外野で球拾いをする姿がよく見られた。仮に優勝すれば一気に雰囲気も変わったかもしれないがチームは優勝を逃して球団と現場との溝は埋まらず、シーズンが終了すると間もなく古葉監督は11年間の監督生活に別れを告げた。
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