
加藤周一氏が死去 戦後を代表する知識人(共同通信) - goo ニュース
「戦後を代表する知識人」
この共同通信の仮見出しがいっさいを語っていると思う。
これほどまでに古今東西の文化に通じ、政治から社会まで幅広く批評を続けた人は、空前絶後ではないか。
加藤周一氏は、知のタコツボ化(良くいえば専門化)が進む現代にあって、該博な視野と知識から鋭く警鐘を鳴らし続けた、真の意味での「知識人」であったと思う。
彼の業績をくわしくしのぶことは、とても筆者の能力に余るし、「日本文学史序説」がいかにすごい本かを力説してもこのブログの趣旨には合わないと思うから、「日本美術の心とかたち」(平凡社ライブラリー)について述べる。
2005年末に辻惟雄著「日本美術の歴史」(東京大学出版会)が出版されるまでは、ひとりの筆になる日本美術の通史は、この加藤周一の本しかないといっても過言ではなかったのだ。ふつう、専門について知れば知るほど、専門外の時代までを網羅する歴史を書こうとするには勇気がいるだろうから、いわゆる「専門家」ではない加藤氏であったからこそ書けた本なのかもしれない。
(文芸批評的なアプローチの本であれば、保田與重郎著「日本の美術史」が近年入手しやすくなった)
しかし、この本は、単に教科書的に、通説を要領よくまとめている書物では、まったくない。
取り上げられている作品は、東博(国立東京博物館)などの所蔵品が多く、それほど奇をてらったことはしていないが、縄文土器を語ったかと思えば中米の先住民文化との比較に話が展開し、水墨画を論じて抽象画にまで説きおよぶ。
「16世紀の日本のように、高度に発達した製陶技術を知っていた文化が、故意に、意図して、複雑で、不規則な、歪んだ陶器をつくりだした例は、おそらくほかにない」(271ページ)
という断言を目にしても
「コノヤロー、そんなこと言い切れるかい」
と反撥はおぼえず
「なるほど、そうかもしれないなあ」
とナットクしてしまうのも、この人の視野があまりにも広いからだ。
とにかく、ただ日本の各時代を書きつらねるのではなく、つねに他の時代との共通点や相違点、他の文化との比較を考えているため、非常に複眼的な通史になっているのが、この本の特徴だろう。
まさに「巻を措くことあたわず」(=読み始めたら止まらない)という、知的興奮に満ちた1冊である。
あえて難をいえば、明治以降の記述が簡便にすぎる点かもしれない。
専門家ではない著者にあまり多くを期待すべきではないのだろうけど、しかし、それは加藤氏なりのポリシーに基づいているとも思われる。というのは…
辛辣だなあ。
でも正鵠を得ていると思う。
というわけで、惜しい知性を失った。
合掌。
「戦後を代表する知識人」
この共同通信の仮見出しがいっさいを語っていると思う。
これほどまでに古今東西の文化に通じ、政治から社会まで幅広く批評を続けた人は、空前絶後ではないか。
加藤周一氏は、知のタコツボ化(良くいえば専門化)が進む現代にあって、該博な視野と知識から鋭く警鐘を鳴らし続けた、真の意味での「知識人」であったと思う。
彼の業績をくわしくしのぶことは、とても筆者の能力に余るし、「日本文学史序説」がいかにすごい本かを力説してもこのブログの趣旨には合わないと思うから、「日本美術の心とかたち」(平凡社ライブラリー)について述べる。
2005年末に辻惟雄著「日本美術の歴史」(東京大学出版会)が出版されるまでは、ひとりの筆になる日本美術の通史は、この加藤周一の本しかないといっても過言ではなかったのだ。ふつう、専門について知れば知るほど、専門外の時代までを網羅する歴史を書こうとするには勇気がいるだろうから、いわゆる「専門家」ではない加藤氏であったからこそ書けた本なのかもしれない。
(文芸批評的なアプローチの本であれば、保田與重郎著「日本の美術史」が近年入手しやすくなった)
しかし、この本は、単に教科書的に、通説を要領よくまとめている書物では、まったくない。
取り上げられている作品は、東博(国立東京博物館)などの所蔵品が多く、それほど奇をてらったことはしていないが、縄文土器を語ったかと思えば中米の先住民文化との比較に話が展開し、水墨画を論じて抽象画にまで説きおよぶ。
「16世紀の日本のように、高度に発達した製陶技術を知っていた文化が、故意に、意図して、複雑で、不規則な、歪んだ陶器をつくりだした例は、おそらくほかにない」(271ページ)
という断言を目にしても
「コノヤロー、そんなこと言い切れるかい」
と反撥はおぼえず
「なるほど、そうかもしれないなあ」
とナットクしてしまうのも、この人の視野があまりにも広いからだ。
とにかく、ただ日本の各時代を書きつらねるのではなく、つねに他の時代との共通点や相違点、他の文化との比較を考えているため、非常に複眼的な通史になっているのが、この本の特徴だろう。
まさに「巻を措くことあたわず」(=読み始めたら止まらない)という、知的興奮に満ちた1冊である。
あえて難をいえば、明治以降の記述が簡便にすぎる点かもしれない。
専門家ではない著者にあまり多くを期待すべきではないのだろうけど、しかし、それは加藤氏なりのポリシーに基づいているとも思われる。というのは…
結論から先にいえば、彼ら(黒田清輝ら日本の画家=ヤナイ註)は絵画を技術とみなした。絵画を生活から切り離し、自己の胸の一番深いところにあってどうしても描かなければならないものは何か、という問題を括弧に入れて、「どう描くか」ということだけに注意を集中すれば、「何を描くか」は、「今、パリで何が流行っているか」に置き換えられる。新しい技術と様式を採り入れることに熱心な一般的で圧倒的な傾向は、かくして生じた。 (496ページ)
辛辣だなあ。
でも正鵠を得ていると思う。
というわけで、惜しい知性を失った。
合掌。
そのとおりとおもいます。
私はこの本に載っている美術工芸品、本物はドレ一つとしてみたことがありません。
この書物は、文章が抜群によい、とおもいます。まるで、散文詩。
コメントありがとうございます。
どういうわけかこのエントリは、goo検索で「加藤周一」と入れてもひっかからないので、読みに来てくださってうれしいです。
古井戸さんがどこにお住まいかわかりませんが、「日本美術の…」では、美術品の選択について加藤氏はきわめて穏当です。あまり知られていない作品や美術家を持ち出して、美術史の書き換えをせまるようなことはしていません。だから、一度、東博(国立東京博物館)で常設展をじっくりごらんになることをオススメします。
作品の選択は常識的なのに、文章の結論がすぐれて個性的で、パースペクティブが広いのが、加藤周一のすごいところだと思います。
しかも、古井戸さんのおっしゃるとおり、文章が論理的で、間然するところがありません。