(承前)
網走市内の野外彫刻については、昨年5月に
「網走新聞のシリーズ記事「まちの彫刻」」
という項目をまとめた時点で一区切り着いたと考えていましたが、その後も
「小川研「屯田兵上陸の地」碑」
が見つかるなど、なかなかコンプリートにはいたりません。
8月8日、網走市内で3点の野外彫刻を見てきたので、追加していきたいと思います。
ただし、いずれも胸像なので、見る楽しさはそれほどありません。
まずは、網走南ケ丘高校の正門のすぐ横に立つ胸像です。
これについては、先述の網走新聞の企画「まちの彫刻」にも取り上げられています。そこにある作者名「盛岡勇夫」というのは、写真から胸像を作る富山県高岡市の会社の代表者の名です。
背面にある「顕彰」を書き写しておきます。
1983年なので、特に読みづらい箇所、意味の通りにくい古めかしい文章などはありません。
網走市内の野外彫刻については、昨年5月に
「網走新聞のシリーズ記事「まちの彫刻」」
という項目をまとめた時点で一区切り着いたと考えていましたが、その後も
「小川研「屯田兵上陸の地」碑」
が見つかるなど、なかなかコンプリートにはいたりません。
8月8日、網走市内で3点の野外彫刻を見てきたので、追加していきたいと思います。
ただし、いずれも胸像なので、見る楽しさはそれほどありません。
まずは、網走南ケ丘高校の正門のすぐ横に立つ胸像です。
これについては、先述の網走新聞の企画「まちの彫刻」にも取り上げられています。そこにある作者名「盛岡勇夫」というのは、写真から胸像を作る富山県高岡市の会社の代表者の名です。
背面にある「顕彰」を書き写しておきます。
1983年なので、特に読みづらい箇所、意味の通りにくい古めかしい文章などはありません。
克勤克倹、後世諸人の師とたたえられる翁は、安政三年新潟に生れ、青雲の大志固く、明治十七年網走に来住、一代で殖産業を成し地域発展につくした立志の人、その人となりは厚信で辺幅をかざることなく晩年好々爺と親しまれる。大正十年、全道の中等学校拡充の議起ると共に地方教育と網走管内の文化向上のため巨万の私財を投じ「かくの如き美しい篤志家」の美挙として、道議会、当局を動かし、全道に先がけて当地域の向学心に燃える若人の学び舎、又、六十年の歴史の中で全国に有為の人材を輩出させ、その伝統と校風をつくりあげた本校の前身北海道庁立網走中学校の開校を実現される。
今日、創立六十周年を迎え、ここに翁の偉徳をしのび、本校生みの親として、その功をたたえ、ゆかりの地に胸像を建立し、永久にこれを顕彰するものである。
昭和五十八年五月二十八日 清涼光男 撰文 松橋久勝敬書
(この項続く)