線翔庵日記



おまつり、民謡、三絃、名水、温泉、酒、そして音楽のこと…日々感じたことを綴ります。

消えていくまつり

2007年09月27日 23時09分36秒 | おまつり
今朝、地元紙の社会面の、この記事が目に入った!

「くれ木踊り」苦渋の休止(2007年9月27日)

国選択無形民俗文化財「下伊那のかけ踊(おどり)」のうち、下伊那郡泰阜村梨久保地区で江戸時代初期から続くとされ、毎年10月上旬に地区の池野神社で行われてきた「くれ木踊り」が、高齢化や人口減などによる担い手の不足から休止に追い込まれた。長年携わってきた地区の住民は「涙が出る思いだが、気力がわかない」と決断した苦渋の思いを打ち明ける。来年以降の再開の見通しは立っていない。
 同村の南部地域は、慶長年間、米の代わりに材木を意味する「くれ木」で年貢を納める地域に指定されていた。踊りはそのころ、年貢の完納を祝した祭礼踊りとして始まったとされる。柳と呼ばれる飾りを中心に、笛の奏者と唄(うた)い手が囲み、その外側を太鼓と鐘を打ち鳴らして踊る。
 梨久保、温田の両地区の有志らでつくる「泰阜村くれ木踊り保存会」によると、終戦間もなくまでは南部地域6地区で行われていたが、昭和43年には両地区のみになっていた。ことしは温田地区だけになる。
 保存会は、両地区の踊りの伝承に努めてきた。また、泰阜中学校の生徒が20年ほど前から踊りに加わり、昨年は泰阜南小学校の児童も保存会の指導で参加した。
 だが、山あいの梨久保は、かつて百人ほどあった人口が現在28人。高齢化率(65歳以上の人口割合)は約68%に達し、20歳-39歳までの住民はゼロだ。保存会副会長で池野神社氏子総代長の柿下武さん(77)は「いくら協力してくれても、実際に準備する地区の住民が続けられない」と言う。
 踊りに使う「切り子灯籠(とうろう)」や柳といった手作りの飾り物の準備は、担い手が十分いたころでも1日がかりだったといい、70歳代が中心の現状では「もう気力がない」。高齢で満足に舞うことができなくなった住民も多く、このまま続けて「みじめな踊りにしたくない」と、8月に開いた地区の総会で休止を決めた。
 柿下さんには、切なさとともに「よくここまでやってきたなあ」という思いもある。「地元でできんようになったら仕方ない」とも語った。
 保存会事務局の村教委は「復活できればと思うが手だてが浮かばない。保存会と相談して対応を考えたい」。ここ数年は唄い手として夫婦で参加した松島貞治村長も「何とも言えない寂しさ。戦後の山村が衰退していく様を象徴した出来事だが、1つの現実として受け入れざるをえない」と嘆いている。
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長野県下伊那郡泰阜村(田中康夫長野県前知事が、一時住民票をうつしていた、あの村!)には温田と梨久保の2ヶ所の「榑木踊り」が伝承されてきた。わたくしも、HP上にはアップしていないが、温田の踊りへは行ったことがある。梨久保は行くこともなく休止になってしまった。おまつりファンとしてはとても残念なのだが、この深刻な状況の梨久保の人々にとっては、「切ない」の一言だろう。地元で出来なければ仕方がないのは、まさにその通り。本来、まつりなどというものは見せるものではなく、地区の人々の四季を通じての暮らしのなかの、祈りの場であったはずだ。もちろん観光と結びつけざるを得ない過疎の山村の現実もあるが、この梨久保も、まさに苦渋の決断。

近くでは、同県飯田市南信濃の遠山霜月祭のなかで、1998年の地滑りにより避難生活を送るようになり、舞なしでまつりのみ執行される須沢地区。

2007年1月から愛知県の奥三河の花祭のなかで、豊根村の間黒の花祭が休止。やはり過疎の山村の、高齢化によるところだ。

現在民俗芸能は、保存会を組織して保存につとめているところがほとんどだろう。青年団や若連等によって運営される芸能もある。高齢化の過疎の村々では、とにかく「人」がいないのだ。

わたくしが学生時代、「民族音楽」の講義の時間に、担当の教授が「保存会が組織されるというのは不幸な話だ」とおっしゃった。それは、本来人々の口から口へ伝わり、人々の暮らしの中にあったはずの民族音楽・民俗音楽が、保存会を組織しなければ伝承されないという現状を憂えてのことばだが、この「人」のいない現状を考えると、そんなことを言ってられない。他地区の人に手伝ってもらうくらいなら、止めてしまおうという気持ちも理解できないことはない。

梨久保の「榑木踊り」も、永遠に消えてしまうのか…。
コメント
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