たいがいどんなことがあっても酒を飲むという「不埒」な日々で、これはもうずっと続いている。
一日も休まずだ。
しばしも休まずサケ飲む男。
堕落している。
毎日欠かさず、というのはラジオ体操なら偉いかもしれないが、一般的日常の毎日ではちょっとまずいんじゃないかな。
と思いつつ、しかし夜になるとどこかしらで飲んでいる。
たまには肝臓を休めるために飲まない日をつくれ、といろんなヒトに再三言われるのだが、もうこの歳になったら自分の肝臓の責任は自分でとるしかない。
ある日肝臓が「毎日毎日働き続けてきましたがもう疲れました」
「このへんで働くのやめます、サヨナラ」
と言って辞表をつきつけたとき、いさぎよくそれを受理するつもりだ。
「わしらはまだもう少し何とか働けますが」とけなげに申し出てくれる熟練の心臓や腎臓などに感謝しつつ会社解散。
「サヨナラだけが人生だ」と言って人生を終えたい。
そういう確固たる方針をもったので、日常における突発的出来事にイチャモンをつける。
いつの間にか時代がかわってしまい、街を歩いていても電器屋さんや魚屋さんがなくなってしまった。
食料品店や衣料品店もほぼ消滅し、シャッターを降ろして何年経ったのやら。
我々のあいだから、モノづくりの店や修理してくれる店がどんどん減ってきている。
アジアの貧しい国の人々はやたらにモノを捨てない。
直せるものはとことん直すという庶民文化を持続してると聞く。
粗大ゴミ置き場に、まだ全く壊れていないテレビやスピーカーや楽器などを簡単に投げ捨てる文化の国(日本のような)より、修理して使い込む、というアジアの小国のほうがずっと高度な文化の国という気がする。
手拭いや風呂敷という繰り返し使える万能布があったけど廃れ気味で、手拭いなどはセンスのないデザインとサイズが小ぶりすぎて効用と親しみがなく、今はもっぱら開店セールのお土産や村祭り用品だ。
風呂敷は弁護士や検事が法廷に持ち込む資料を包んだり、泥棒が頬かぶりするのに使われる程度になってしまった。
いや今は泥棒さえも使っていないか。
電気製品やカメラ機能などの電池入れるところの(+)と(-)の表示がどれも非常に見にくくしてあるのは何故だろうか。
秘密の記号のような、非常に見えにくい場所に小さな印があってやっとわかる。
作ってる側が、できるだけわからないようにしているとしか思えない。
薬の「効能効果」「用途用法」「成分」「注意」などの重要な説明文字も絶望的に小さい。
よほど若くて元気で視力のいいヒトでないと裸眼では読めないことが多い。
でも若くて元気で視力のいいヒトは、薬など必要としないんだよなぁ。
カップ麺などの成分表示は、わざわざ黒い地に読みにくい銀色の小さな文字がぎっしり詰まってたりしてる。
これはデザインなどということより、明らかに「読ませまい」としている意図がみえる。
今の時代、何でも「地球にやさしい」
だけど「人間にやさしくない」のがメーカーのエンドユーザーに対する説明か。
どうしてこんなに必要か、と思えるくらいの多機能満載の機械複雑すぎて使いこなせないうちに、新機種が次々と登場して使い捨てられてしまう今の日本。
う~ん困った。
メカの進歩が早すぎて、ついていけないオッサンの戯言でした。