亡き義父母がお世話になっているお寺のご住職は、法話が面白く、分かり易い。幼稚園を経営されているので、普段から園児やその保護者に対しても、分かり易いお話を心がけておられるからなのかもしれない。
その風貌は、例えば髪型はトップのみ艶やかな髪をなびかせ、サイドやバックは刈り上げている、イマドキな人である。よくよく見れば、僧衣姿も色使いが洒落ている。
仏教の伝え手も、時代の変化と共に変わっていると言うことか。
そのご住職が、義父が亡くなった時は、こんなことをお話しされた。
「人は生まれた時から、誰でも死ぬことは決まっています。生まれた瞬間から死に向かって生きています。
病死や事故死と言うのは“きっかけ”に過ぎません。人が死ぬのは、最初から決まっていたことが起こっただけで、悲しむことはないのです。」
仏教では昔から言い古された普遍的な教えではあるが、身内を失ったばかりの悲しみにくれる遺族にとっては慰めになる。
煩悩多き今を生きている人にとっても、現生の肩の荷が下りるような教えだと思う。「死」と言う終わりがあるからこそ、生きることにも耐えられると言うものだ。
秦の始皇帝は晩年、不老不死の妙薬を求めて、その臣下を日本にまで遣わせたと言うが、そこまで生に執着したのは、天下統一と言う大願を成就させたかったからなのか?
歴史上、「天下統一は成された」となっているが、地方ではその後も小さな反乱が絶えなかったようなので、年々衰弱する始皇帝には焦りがあったのかもしれない。
「不老不死」なんて発想は、人並み外れた生への執着がなければ出来ないものだと思う。