絶妙なチームワークを見せるハッサンとアミール
今月は『アメリカン・ギャングスター(American Gangster)』、『ラスト、コーション(Lust,Caution)/色・戒』、そして表題の『君のためなら千回でも』と、立て続けに見応えのある作品に出会い、映画ファン冥利に尽きる。
どの作品もそれぞれに印象深く、自分なりに思うところがあるが、今日は録画で見たペドロ・アルモドバル脚本・監督、ガエル・ガルシア・ベルナル(『モーターサイクル・ダイアリーズ』)主演の『バッド・エデュケーション(原題:LA MALA EDUCACION、英題:BAD EDUCATION、2004、スペイン)』と絡めて、表題作品について感じたことを書こうと思う。
まず表題作でアフガニスタンのここ30年の歴史を、私は作品に登場する少年達の辿った運命を通して見ることになったのだが、見終わると悲しくてやり切れない気持ちでいっぱいになった。冒頭、大空を舞う無数の凧(互いの凧の糸を絡ませ、相手の糸が切れるまで戦う勇壮な凧揚げのシーンは見もの!”ケンカ凧”と言うそうな。二人一組で戦うこの”ケンカ凧”。ひとりは巧みにたこ糸を操り、もうひとりは敗者の切れて落ちて行った凧を走って取りに行く。後者を”カイトランナー”と呼ぶらしい。)に、30年前のアフガニスタンの自由の伊吹を感じるのだが、それも長くは続かない。ソビエトの侵攻、イスラム原理主義グループ、タリバンの台頭は、かつて「中央アジアの真珠」と呼ばれたアフガニスタンの様相を一変させたのだ。
主人公アミールは裕福な家庭の子で、使用人の子ハッサンとは身分差を越えて友情を育んでいた。しかし、異なる民族(パシュトゥーン人とハザラ人)でもある二人の仲睦まじい関係をやっかむ者も中にはいて、そうした者達は民族の優劣を言い立てては、特にハザラ人であるハッサンに辛く当たるのだった。そしてある日、二人の間に決定的な亀裂をもたらす事件が起きる。その後関係修復の機会もないまま、アミールは父と共にソ連軍侵攻のアフガニスタンから米国へと脱出する。
それから20年以上の歳月が流れ、亡命先の米国で作家としての一歩を踏み出したアミールの元へ、アフガニスタンの隣国パキスタンから一本の電話が入る。「アフガニスタンに戻って来い」…20年ぶりの故国への旅は、アミールにとって懺悔と償いの旅である。故国に残して来た”大切なもの”を取り戻す旅。かつてのひ弱で卑怯な自分と対峙し、決別する旅でもあった。
さて、『バッド・エデュケーション』は現代スペイン映画界を代表する映画監督ペドロ・アルモドバルの自伝的作品らしく、彼が少年時代に過ごしたミッションスクールが舞台のひとつとなっている。何年か前に米国でカトリックの神父による少年への性的虐待が問題となったが、本作でもそれが重要なモチーフとなっている。監督の実体験をベースに虚実入り交じった物語なのだろうが、登場人物の痛々しさに心苦しくなることがしばしばだった(もちろん人によって、見方、感じ方はさまざまだろうけど) 。
神の御名において人間の正しい生き方を説く立場にある聖職者の、人道にもとる行為。それだけに衝撃的で倫理的に許し難い。それは『君のためなら千回でも』に登場するイスラム原理主義グループ、タリバンとて例外ではない。劇中、サッカー・スタジアムで衆人環視の中、姦通の罪に問われた男女の内、女性だけが石打ちの刑に遭い殺害されるシーンがある。ことさらイスラムの戒律に厳しいタリバンが、一方で少年少女に性的虐待を加える。彼らの中でこのふたつは矛盾しないのか?神の前に恥じることはないのか?考えるだけで腹が立つ。
人はなぜ信仰を持つのか?より良く生きたい、人として正しく生きたいと思うからではないか?生き方の規範として神仏の教えを信じ、それに則って日々を過ごすことで精神的充足を得られるはずが、現実には、教義は宗派によりいかようにも解釈され、それが原因で宗派間の対立を招くことがある。行き過ぎた原理主義は人々を教義でがんじがらめにし、人々からあらゆる自由を奪う。世界各地の紛争原因の中にも宗教的対立が見え隠れしている。人々は信仰によって心の平安を得るどころか、苦しみ苛まれることも少なくない。でもこんなことを書くと、信仰の目的は現世的幸福の追求ではないと指摘されるのだろうか?
『バッド・エデュケーション』、『君のためなら千回でも』のニ作品を見て、どうしても宗教に対して懐疑的になってしまう自分がいる。宗教そのものより、それを信仰する人間の問題ではあるのだが、神により近いはずの人間がなぜ堕落するのか?神はなぜそれを止められないのか?
邦題は劇中に二度登場する台詞。アミールとハッサンの固い絆を物語る言葉だ。「君のためなら千回でも」と叫んで、敗者の凧を取りに行く”カイトランナー”のハッサン。その後の”過酷な運命”を受け入れるしかなかった彼の生い立ちが哀しい。おそらく今も世界のどこかで、無数の”ハッサン”が苦難の人生を強いられているのだ。本作は”彼ら”の物語と言えるのかもしれない。
報道によれば、本作はアフガニスタン本国では上映禁止となったらしい。出演した少年達も、描かれた内容が内容だけにアフガニスタンにいづらくなり、米配給会社の保護の下(彼らが18歳になるまでの生活費を全額補助)、家族帯同でUAEへの移住を余儀なくされたと言う。映画出演によって結果的に故国を追われることになった少年達の行く末を思うと心が痛む。それともこの展開は彼らに幸運をもたらすのだろうか?
◆『君のためなら千回でも』公式サイト
◆eiga.com
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今月は『アメリカン・ギャングスター(American Gangster)』、『ラスト、コーション(Lust,Caution)/色・戒』、そして表題の『君のためなら千回でも』と、立て続けに見応えのある作品に出会い、映画ファン冥利に尽きる。
どの作品もそれぞれに印象深く、自分なりに思うところがあるが、今日は録画で見たペドロ・アルモドバル脚本・監督、ガエル・ガルシア・ベルナル(『モーターサイクル・ダイアリーズ』)主演の『バッド・エデュケーション(原題:LA MALA EDUCACION、英題:BAD EDUCATION、2004、スペイン)』と絡めて、表題作品について感じたことを書こうと思う。
まず表題作でアフガニスタンのここ30年の歴史を、私は作品に登場する少年達の辿った運命を通して見ることになったのだが、見終わると悲しくてやり切れない気持ちでいっぱいになった。冒頭、大空を舞う無数の凧(互いの凧の糸を絡ませ、相手の糸が切れるまで戦う勇壮な凧揚げのシーンは見もの!”ケンカ凧”と言うそうな。二人一組で戦うこの”ケンカ凧”。ひとりは巧みにたこ糸を操り、もうひとりは敗者の切れて落ちて行った凧を走って取りに行く。後者を”カイトランナー”と呼ぶらしい。)に、30年前のアフガニスタンの自由の伊吹を感じるのだが、それも長くは続かない。ソビエトの侵攻、イスラム原理主義グループ、タリバンの台頭は、かつて「中央アジアの真珠」と呼ばれたアフガニスタンの様相を一変させたのだ。
主人公アミールは裕福な家庭の子で、使用人の子ハッサンとは身分差を越えて友情を育んでいた。しかし、異なる民族(パシュトゥーン人とハザラ人)でもある二人の仲睦まじい関係をやっかむ者も中にはいて、そうした者達は民族の優劣を言い立てては、特にハザラ人であるハッサンに辛く当たるのだった。そしてある日、二人の間に決定的な亀裂をもたらす事件が起きる。その後関係修復の機会もないまま、アミールは父と共にソ連軍侵攻のアフガニスタンから米国へと脱出する。
それから20年以上の歳月が流れ、亡命先の米国で作家としての一歩を踏み出したアミールの元へ、アフガニスタンの隣国パキスタンから一本の電話が入る。「アフガニスタンに戻って来い」…20年ぶりの故国への旅は、アミールにとって懺悔と償いの旅である。故国に残して来た”大切なもの”を取り戻す旅。かつてのひ弱で卑怯な自分と対峙し、決別する旅でもあった。
さて、『バッド・エデュケーション』は現代スペイン映画界を代表する映画監督ペドロ・アルモドバルの自伝的作品らしく、彼が少年時代に過ごしたミッションスクールが舞台のひとつとなっている。何年か前に米国でカトリックの神父による少年への性的虐待が問題となったが、本作でもそれが重要なモチーフとなっている。監督の実体験をベースに虚実入り交じった物語なのだろうが、登場人物の痛々しさに心苦しくなることがしばしばだった(もちろん人によって、見方、感じ方はさまざまだろうけど) 。
神の御名において人間の正しい生き方を説く立場にある聖職者の、人道にもとる行為。それだけに衝撃的で倫理的に許し難い。それは『君のためなら千回でも』に登場するイスラム原理主義グループ、タリバンとて例外ではない。劇中、サッカー・スタジアムで衆人環視の中、姦通の罪に問われた男女の内、女性だけが石打ちの刑に遭い殺害されるシーンがある。ことさらイスラムの戒律に厳しいタリバンが、一方で少年少女に性的虐待を加える。彼らの中でこのふたつは矛盾しないのか?神の前に恥じることはないのか?考えるだけで腹が立つ。
人はなぜ信仰を持つのか?より良く生きたい、人として正しく生きたいと思うからではないか?生き方の規範として神仏の教えを信じ、それに則って日々を過ごすことで精神的充足を得られるはずが、現実には、教義は宗派によりいかようにも解釈され、それが原因で宗派間の対立を招くことがある。行き過ぎた原理主義は人々を教義でがんじがらめにし、人々からあらゆる自由を奪う。世界各地の紛争原因の中にも宗教的対立が見え隠れしている。人々は信仰によって心の平安を得るどころか、苦しみ苛まれることも少なくない。でもこんなことを書くと、信仰の目的は現世的幸福の追求ではないと指摘されるのだろうか?
『バッド・エデュケーション』、『君のためなら千回でも』のニ作品を見て、どうしても宗教に対して懐疑的になってしまう自分がいる。宗教そのものより、それを信仰する人間の問題ではあるのだが、神により近いはずの人間がなぜ堕落するのか?神はなぜそれを止められないのか?
邦題は劇中に二度登場する台詞。アミールとハッサンの固い絆を物語る言葉だ。「君のためなら千回でも」と叫んで、敗者の凧を取りに行く”カイトランナー”のハッサン。その後の”過酷な運命”を受け入れるしかなかった彼の生い立ちが哀しい。おそらく今も世界のどこかで、無数の”ハッサン”が苦難の人生を強いられているのだ。本作は”彼ら”の物語と言えるのかもしれない。
報道によれば、本作はアフガニスタン本国では上映禁止となったらしい。出演した少年達も、描かれた内容が内容だけにアフガニスタンにいづらくなり、米配給会社の保護の下(彼らが18歳になるまでの生活費を全額補助)、家族帯同でUAEへの移住を余儀なくされたと言う。映画出演によって結果的に故国を追われることになった少年達の行く末を思うと心が痛む。それともこの展開は彼らに幸運をもたらすのだろうか?
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