はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

モノ語り…

2016年04月21日 | 文化・芸術(展覧会&講演会)

 松田権六さん(1896-1986)は大正から昭和にかけて活躍された漆工芸家で、名工であるのは言うに及ばず、日本工芸史上にその名が燦然と輝く人間国宝の一人だ。

 この人の何が凄いかと言えば、最高の漆工芸品作りを目指して、生涯を通じて弛まぬ努力を続けた点にある。その求道的とも言える制作への姿勢は、モノ作りに携わるすべての人間の鑑である。

 その松田権六さんの作品を展覧会で何度か間近に見る機会があったが、そのあまりの精緻な作りと美しさに圧倒されて、暫く立ち尽くしたのを覚えている。これまで国内外で古今東西の有名な作家の作品をいろいろと見て来たけれど、松田権六さんの作品を見た時の衝撃と感動は、私にとって生涯でも一二を争うものであったと思う。

 後で調べたら、その漆工芸に対する高い知見と卓越した匠の技から「漆聖」と称えられた人であったと知った。

 実物を間近に見ないことには、その凄さは到底伝わらないとは思うが、代表作のひとつを写真でご紹介したい。『蓬莱之棚』(1944年作、石川県立美術館蔵)である。




 実物を間近に肉眼で見ると、漆工芸品独特の艶も相俟って、その端正な意匠と精緻な描線はより一層輝きを増し、ひとりの人間の手によって作り出された至高の美を目の当たりにした喜びで、心が震えるような感動を覚える。是非、出来るだけ多くの人に、この作品を肉眼で見ていただければと思う。


 1896年(明治29年)現・石川県金沢市大桑町の農家に生まれた松田権六さんは、7歳で兄孝作(仏壇職人)について蒔絵漆芸の習得を始めたと言う。1914年(大正3年)(18歳)3月、石川県立工業学校を卒業すると、同年4月、東京美術学校漆工科に入学。ここで彼は漆工芸を極める為、自らの表現技術を高めようと、ジャンルを超えて日本画を川合玉堂、洋画を藤島武二、そして彫刻を高村光雲から学んだらしい。

 彼の漆工芸に対する探究心は留まることを知らず、1919年(大正8年)(23歳)3月、東京美術学校漆工科を優秀な成績で卒業後は、引く手数多だった就職口を断って、東洋文庫で朝鮮楽浪遺跡の出土漆遺品の修理に従事し、朝鮮漆工芸の技法にも触れている。

 1925年(大正14年)(29歳)には、恩師である六角紫水教授らの推薦で株式会社並木製作所に入社。万年筆や喫煙具関係などの漆工加飾品を手がけると、その美しさと完成度の高さで、これまた世界的な評判を呼んだと言う。

 1927年(昭和2年)、31歳で並木製作所を退職し、顧問となった後は、母校、東京美術学校の助教授に就任。35歳の時には、帝国議会議事堂御便殿(現、御休所)の漆工事の監督を務め、御便殿のほか、皇族室、議長室の漆芸装飾も行った。

 他にも日本初の豪華客船の室内装飾を手掛け、その美しさと共に塩害をものともしない日本の漆工芸技術の高さを世に知らしめた。1943年(昭和18年)47歳で東京美術学校教授に就任すると、翌年8月には写真の代表作「蓬莱之棚」を完成させている。

 その後1986年に90歳でこの世を去るまで、松田権六さんは漆工芸の第一線で活躍を続け、その歴史に大きな足跡を残したのだ。

 そんな松田権六さんは一時期、茶道具の制作にも熱心であったらしく、そのうちの一品である個人蔵の平棗が、先日の『開運!なんでも鑑定団』に出品されていた。

 兵庫県在住の女性が4年前、結婚祝いに茶道家であった祖父から譲り受けた物らしく、夫婦共に茶道を嗜まない為、その価値を測りかねていると言う。3年前に祖父は他界したが、生前、孫娘の婿には「貴重な物だから絶対に手を触れるな」と釘を刺していたらしい。

 その価値を知らない女性の夫、つまり孫娘の婿は冗談めかして、「ハンバーグの型取りをしたり…」と言っていたが、鑑定結果は「名品中の名品で1,300万円」(鑑定人も大学時代に展覧会で見たきりの名品。つまり40数年ぶりに目にした名品)。鑑定結果が出る前、もし高価なら、愛娘の将来の教育資金の為にすぐにでも売りたいと言っていた彼は、その金額に一瞬驚くも、ニンマリ。

 しかし、その一部始終を画面越しに見ていた私は思ったのだ。「この平棗は、あなたの奥様がおじい様からいただいた物で、あなたの物ではないでしょう?」(まあ、一粒種の娘さんに対する溺愛ぶりから、強面な印象とは違って子煩悩な父親ではあるようですが…さらに今回の出品者が彼と言うことは、奥様も夫婦共有の財産と認めているのでしょうね。だから外野がどうこう言う話でもないのかもしれない。でもね、でもね、松田権六さんの作品に生涯で一、二の感動を覚えた者としては、もう少し作品に対してのリスペクトがあって欲しい…)

 3人いた孫娘の中で、祖父の最期まで唯一人傍に付き添ってくれたことへの感謝の印か、彼女だけに祖父が贈った、茶道家の祖父にとっても宝物であったろう、松田権六作の平棗。そんなにあっさり手放して良いものなのか?祖父の価値観が孫娘に継承されるとは限らないのは理解しつつも、他人事ながら残念な気がする。

 【鑑定人の総評】
 これは世に知られた名品。昭和44年の作品で、東京国立近代美術館の展覧会にも出品されている。松田権六は一時期茶道具、とりわけ棗を作ったが、そのいずれもが名品として知られ、現在はそのほとんどが然るべき美術館に収まっている。松田権六は漆の技、塗りの技というものを極めない限りはその先の蒔絵はできないと語り、特に“角丸め”に熱意を注いだ。角の部分は漆が硬くなりがちだが、それを塗りながらうまい具合に按配をつけて丸めていく、しかもがたがたにならないという塗り。その上で蒔絵と平文(ひょうもん)を施しているのだが、同じ金の粉でも赤金と青金が併用されており、細かさも色々と変えている。塗り立て・仕上げ・蒔絵、どれも最高の技。
(テレビ東京『開運!なんでも鑑定団』公式サイトより)


 とは言え、ものは考えよう。モノは、そのモノの価値が判る人のもとにあればこそ生かされる。そのモノの価値相応に大事に扱われ、そのモノ本来の輝きが保てる。

 松田権六さんが人生を賭して作り続けた作品の中の紛れもない名品のひとつを、ハンバーグの型取りなんぞに使われてはかなわない。まさに「猫に小判」。そのモノの価値の判らない人は、早く手放してください。平棗の為にも一刻も早く手放してあげてください。

 一説には、モノは自分の居場所を求めて動くことがあると言う。自分の価値を認めてくれる人、自分を大切にしてくれる人のもとへと、不思議な道筋で辿りつくと言う。

 この松田権六さん渾身の平棗も、その本来の使い方をしてくださる、いつまでも大切にしてくださり、後世に伝えてくださる方のもとへと行けますように。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今、改めて災害対策について... | トップ | 時の流れ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。