昨年揃って美術館ボランティアを卒業した同期の面々は、その後も他の美術館や自らの地元で精力的にボランティア活動をしたり、大学で興味のある科目を聴講したり、華道、茶道、フラワーアレンジメント、ボタニカルアートと言った習い事に精を出したり、得意の英語を生かして国際交流活動を行ったり、はたまた仕事に邁進したりと、皆それぞれに活動的な日々を送っているようだ。
私はと言うと、恥ずかしながらこれといって目立った活動は何もしていない。特に向上心を持って何かに取り組んでいることがない。
実は前々から「脳の老化防止」に英検と漢検の準一級を受験しようかと考えているのだが、全然受験勉強へのやる気が出ない。
日々、家事をどうにかこなし、空いた時間に映画を見に行ったり、展覧会に行ったり、たまに生協で割引チケットを買い求めて、劇場で舞台劇を見たり、コンサートホールでクラシック音楽の演奏を聴いたりするのがせいぜいだ。
創造的なことなんて何一つしていない。他人の創造の産物を楽しませて貰っているだけだ。
たまに同期の中でも親しかった人と電話で話したりすると、その生き生きとした暮らしぶりを聞くにつけ、自分のふがいなさがちょっと恥ずかしくなる。
ただ、脱力感と言うか、無気力感で、どうにもこうにも能動的になれないのだ。化粧して外出することさえ億劫だったりする。最近は外出時に何を着ようか考えるのも面倒くさい。
今年は年頭からなんか疲れて気持ちが晴れないなあと思っていたら、たまたま見た番組で追い打ちをかけるように、西洋占星術と血液型を掛け合わせてこの一年の運勢を占うと言う企画で、私はあろうことか最下位の48位となってしまった。
曰く、今年はいくら頑張っても成果が出ず、努力は報われないそうだ。
しかし、雑誌の日々の運勢占いで「○○日が要注意」とあっても、これまでのところ特に悪いことは起きていない。一度知ってしまったら、頭の片隅に「要注意」と言う言葉がこびりついて離れないから、自制心が働くと言うか、何かと用心することで、難を逃れているのか?
そもそも占いを信じること自体、何かをするにあたっての自分の判断に自信が持てない(=自分の判断や行動に責任を持てない=未成熟)と言うことだろうから、それなりに長く生きて来た人間としては恥ずかしいことなのかもしれない。
とまれ、どうも人間として些かガス欠状態のようなので、今年は「テンション低め安定」でやり過ごそうかなと思っている。
今はエネルギーを取り込んで溜めると言うか、インプットの時期なのかもね。
私はと言うと、恥ずかしながらこれといって目立った活動は何もしていない。特に向上心を持って何かに取り組んでいることがない。
実は前々から「脳の老化防止」に英検と漢検の準一級を受験しようかと考えているのだが、全然受験勉強へのやる気が出ない。
日々、家事をどうにかこなし、空いた時間に映画を見に行ったり、展覧会に行ったり、たまに生協で割引チケットを買い求めて、劇場で舞台劇を見たり、コンサートホールでクラシック音楽の演奏を聴いたりするのがせいぜいだ。
創造的なことなんて何一つしていない。他人の創造の産物を楽しませて貰っているだけだ。
たまに同期の中でも親しかった人と電話で話したりすると、その生き生きとした暮らしぶりを聞くにつけ、自分のふがいなさがちょっと恥ずかしくなる。
ただ、脱力感と言うか、無気力感で、どうにもこうにも能動的になれないのだ。化粧して外出することさえ億劫だったりする。最近は外出時に何を着ようか考えるのも面倒くさい。
今年は年頭からなんか疲れて気持ちが晴れないなあと思っていたら、たまたま見た番組で追い打ちをかけるように、西洋占星術と血液型を掛け合わせてこの一年の運勢を占うと言う企画で、私はあろうことか最下位の48位となってしまった。
曰く、今年はいくら頑張っても成果が出ず、努力は報われないそうだ。
しかし、雑誌の日々の運勢占いで「○○日が要注意」とあっても、これまでのところ特に悪いことは起きていない。一度知ってしまったら、頭の片隅に「要注意」と言う言葉がこびりついて離れないから、自制心が働くと言うか、何かと用心することで、難を逃れているのか?
そもそも占いを信じること自体、何かをするにあたっての自分の判断に自信が持てない(=自分の判断や行動に責任を持てない=未成熟)と言うことだろうから、それなりに長く生きて来た人間としては恥ずかしいことなのかもしれない。
とまれ、どうも人間として些かガス欠状態のようなので、今年は「テンション低め安定」でやり過ごそうかなと思っている。
今はエネルギーを取り込んで溜めると言うか、インプットの時期なのかもね。